ちわきの俳句の部屋

メカ音痴おばさんの一念発起のブログです。
人生の後半を俳句にどっぷりと浸かって、…今がある。

横瀬八幡宮〝縁起絵巻〟の鑑賞

2020年02月29日 | 俳句

 石垣島へ行く前の22日(土)、「八幡宮縁起絵巻鑑賞・和紙の紙すき体験」に俳句仲間5人で参加しました。いつも私が出かける時は、晴れるのが定例になっているのですが、この日は珍しく朝から小雨…。まあ、たまにはこういう日もなくっちゃあお天道さまに申し分けないわよねなどと言いながら、宇部市上小野集会所へ。9時30分集合でした。

 しかし、会場に着く頃にはもう殆ど傘も入らないくらいになり、ああ、やっぱりと納得!エヘッ…

 受付の後開会行事が済んでまず案内されたのが、上小野ほたる朝市。ここは5月末から6月にかけて、ほたるが有名なんですって。それで、〝ほたる朝市〟と。採れたての新鮮な野菜類にみんな飛びついて、まずはお買い物から。その後、案内されたのが「横瀬八幡宮」。そこに保存されている〝縁起絵巻〟の鑑賞です。

 この絵巻は、上巻18.6m、下巻13,73mの巻子(かんす)仕立。外箱の蓋の裏と内箱の入れ物の方に「長州厚東郡末延郷四ヶ小野横瀬八幡宮永々流通者也、八幡大菩薩御縁起 二巻、永正十三年丙子五月十一日、勧進沙門徳在 敬白」との墨書きがあり、製作もその頃と思われます。永正十三年は1516年です。その時のパンフによりますと、下記のように説明がありました。

 ・沙門徳在の履歴ははっきりしないが、おそらく社坊の上位の僧で、その勧進によって書写され、収めらものと推測される。・絵は土佐派の様式で、作者はかなり熟達した画工と思われる。・内容は一般の八幡縁起と同様で上巻には神功皇后の三韓征伐、下巻には八幡宮の創立記・利生記を描いている。・宇部市内の八幡宮絵巻の中では唯一山口県指定の有形文化財に、昭和44年指定されている。(宇部市HP,『宇部市史 通史篇 上巻』参照 )

 また、明治時代の一村一社令により横瀬八幡宮が所蔵しているという刀も拝見しました。

 これは、小野の代官であった財満忠久が永禄11年(1568年)、筑前の戦い(立花城の争奪戦)に出兵する際に阿武瀬天満宮に必勝祈願をし奉納したという日本刀です。長さ約65センチ、反り約1.2センチ、目くぎ穴3個、銘文表備州長船祐光(すけみつ)裏なし。なお、備州長船祐光は、室町初期から中期の備前刀工で、名を六郎左衛門尉、盛光・康光の後を受けて鎚を振るい、守護大名赤松政則に仕えたそうです。

 今日はここまでにして、このつづきはまた後日…

 写真は、絵巻と刀の説明をする横瀬八幡宮の宮司。小野には何度も来ていますが、上小野には今回が初めてでした。同じ宇部市なのに、この八幡宮のことを全く知りませんでしたし、ましてこんな絵巻が残されていたなんて、ビックリ!600年以上前のものがこんなにキレイな状態で保存されていたことに。刀も、宮司さんが磨いでいないから錆びていますが…と言いながら鞘を抜いて見せてくださり、よい勉強になりました。感謝です。アリガトウございました。

 外に出ると、しっかりと晴れ上がって、気持ちのよいお天気になっていました。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八代の〝つるの里〟への吟行・番外編

2020年02月28日 | 俳句

 今日の9時過ぎ、サアッと日が照ってきて、これはいい天気だこと!さあ、洗濯でもしましょうかと…、念のため天気予報を調べてみると午後からは雨マークになっていました。ホントかしらと思いながらも取りやめると、本当に午後からは曇ってきて3時過ぎには雨になりました。風もビュービュー吹いて、最高気温9度と寒い1日でした。

 相変わらずどこもかしこも新型コロナウイルスの話ばかり…。とうとう昨日発表の小・中・高校の臨時休校の国の要請を受けて、本日宇部市も3月2日午後からの長期休校を決めました。では卒業式や高校入試はどうなるのかしらと、心配して新聞を見ると、中学校は7日、小学校は19日に規模を縮小した上で卒業式を実施する予定。高校は1日に、在校生は出席させずに実施予定。入学試験は公立高校の場合は通常通り実施予定とのこと。

 他に宇部市では、「第34回うべ福祉まつり」、「ヤングアメリカンズ・ジャパンツアー2020春in宇部」、宇部吹奏楽団の結成45周年記念「第43回定期演奏会」など、いろいろなイベントが軒並み中止を決定。

 私にも俳句教室の幹事さんから〝先生、どうしましょうか〟と、電話が掛かってくるし、文化講座では3月の中止を連絡網で回ってくるし…。まあ、本当にこの先どうなるんでしょうかね。ただ黙って見てるしかしょうがないのかしら。落ち着いてなにもできません。困ったものです。

 ところで、先日八代の「つるの里」への吟行の時、ついでにと回ったお寺の写真があります。せっかくですのでどうぞ。

 この寺は、八代の「つるの里」近くにあって、曹洞宗水上山「大陽寺」といいます。地上に落ちた雷が和尚に親切にしてもらったお礼に絶えることのない清水が出るようにして天に帰っていったという雷伝説で有名。境内の裏庭には心の字の形をした池があり、岩間からは伝説の通り清水が湧き出ています。以前はその綺麗な清水を使って夏にはそうめん流しが行われていたこともあったとか。その他に七不思議伝説というものもあり、もし心の字の池が赤くなったらお寺に何か異変が起こると言われています。

 この日はとてもいいお天気でしたが、気温は低く、ここでは氷が張っていましたし、霜柱も…。水がきれいなので芹もこんなに…でも今は無住寺になっていて、庭園も荒れ放題でした。大念珠を繰ったり鐘を撞いたりすると、その音が静かな山々に響き渡りました。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なんと〝天国と地獄〟の誕生日でした!

2020年02月27日 | 俳句

 今日は風の強い日で、体感温度が低く感じましたが、実際に気温も低かったのかな。とにかく昨日は17時半頃山口宇部空港に着きましたが、外に出た途端〝ワアッ、寒い!〟と、震え上がってしまいました。だって3日間の石垣島は最高気温が26度だったんですから当然ですが。

 ところで、24日から26日までの2泊3日、「八重山諸島5島めぐり」へ行って来たんですよ。昨日帰って来たのはいいのですが、まあ、大変なことになったんで、ブログ書くどころではありませんでした。

 天気は案の定予報を外れてバッチリ!3日間とも殆ど快晴でしたし、景色はいい、海もきれい。食べ物もホテルも上等と…では何が大変だったのかというと…、お恥ずかしい話です。

 実は初日の夕食のとき、夕日が余りにも美しくて、ついレストランの庭に出て写真を撮っていたところ、気が付かずに側溝に落ちてしまったんです。

 主人や連れのS夫妻は食べるのに夢中で気が付かなかったようで、右足が痛かったのですがそのまま私も食事をして、さあ、レストランを出ようとしたところ、余りの痛さで足を踏みつけることができませんでした。主人が最初は冗談かと思ったようですが、本当に歩けないと分かってビックリ。ロービーへ行って車椅子を借りてくれましたが、ではこれからどうしようかと…S夫妻も心配してくれて…。

 捻挫はよくするので分かるんですが、こん回のは今までに経験したことのない異状な痛みでした。明日からが本番の観光ツアーなのに、これはヤバイなと思って、とにかく病院へ行くことに。大袈裟かも知れないけど、〝万が一骨にヒビでも…〟という、悪い予感が何となくしたからなんですよ。

 歩くのが無理なので車椅子ごとタクシーで運んで貰いました。沖縄県立八重山病院の救急夜間外来で診て貰って、その結果、〝骨にヒビが入ったんですか?〟と聞くと、〝いいえ、完全なる骨折ですよ〟と言って、レントゲン写真を見せてくれました。私も主人もビックリ…まるで小枝がポキッと裂けるように小指の骨が折れていました。なんとも言いようがありません。全て自分の不注意なんですから…ゴメンナサイ!

 さて、さて、どうする…明日から観光して廻るのに歩けないということは …。主人がホテルで留守番を…なんて言い出すものだから、何とか歩けるようにとギブスをしてもらいました。もう一つの問題は靴が履けないということ。帰りにタクシーの運転手さんにスーパーに寄って貰い、男物の一番大きなサンダルを、主人に買って来てもらいました。この日は部屋に戻ってももう何もする気力がないのと痛いのとで、薬を飲むとすぐに寝てしまいました。

 これは余りにも調子に乗って、出かけてばかり居ましたので、きっと天罰が下ったんだわと…。だってこの日は私の誕生日なんですよ。もしかしたら天から父や母が〝いいかげんにしなさいよ!〟と、諫めてくれたんでしょうか。確かに昨年から今年にかけては動きすぎでしたもの。

 このことを添乗員のIさんに報告したとき、真っ先に旅行の傷害保険に入っていますか?と聞かれて、はいと。今までも安心料と思っていつも入っていましたが、使ったことはありませんでしたので、今回初めて、ああ、よかった! なんて…。これもヘンな話ですよね。(笑)

 だから、今日は月一回の通院と整形外科へのダブル診察。おまけに主人の風邪を貰ったのか、喉が痛く鼻水まで出るのでかかりつけの病院で薬を。その後八重山病院の紹介状を持って、いつもの整形で診察して貰うと、先生曰く〝物好きだね。旅行へ行ってまで骨折せんでも…全治3ヶ月だよ!〟と。〝エエツ、八重山の先生は1ヶ月だと…〟というと、〝そりゃ、何も分かっとらんのじゃ。外科じゃからの~〟と。手術すれば早いが嫌なら仕方がないでよとも。ウエ~ン…もう観念するしかありません。

 というわけで、いろいろ書きたいことは山ほどあるのですが、そのうち様子を見ながらボチボチと…

 ああ、アリガタイことに皆さんに助けられながらも、島の観光は一応車椅子で何とか一緒に巡ることが出来ました。ホントに天国と地獄を一遍に味わった誕生日でしたよ。ハイ、もう歳なんだからと、しっかり肝に銘じておきます。

 写真は、骨折したホテルの溝とギブスの足。なんと大きな足!さらに大きな大根になりました。恥ずかしい!

       

コメント (12)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八代の〝つるの里〟へ吟行(その3)

2020年02月23日 | 俳句

 相変わらず新型肺炎の感染が広がっているニュースばかり…死者も3人目が出たという。現在クルーズ船には634人、それ以外では135人と発表されていますが、その700人以上の感染者で快復しているのは一体何人ぐらいいるのでしょうか?それを考えると怖ろしい…。なのに24日が私の○○回目の誕生日なので、明日から3日間ほど八重山諸島めぐりのツアーへ主人と出かけます。これは山口宇部空港からのチャーター便で、石垣空港へ直行しますので、大丈夫かと…それでも、義母は心配して辞めてはと言っているんですが…。もうダメです。行くしかありません!帰って来たらまた、報告しますね。

 さて、八代の〝つるの里〟のつづきがまだありますので、よろしかったらどうぞ… 

 今年は特に異常気象がひどっかったので、人間だけでなく自然界のリズムも壊されたようでした。そのせいで鶴の渡来にも影響が及んだんでしょう。今年の飛来が例年より大幅に遅れて、まさか来ないのではと危惧されましたが、やっとその第1陣が11月29日に来たと。例年では早くて10月中旬、遅くても11月始めには来ていたんですから、今年のようなことは初めてだったんですよ。その喜びを子供たちが〝つる日記〟に伝えていました。この日記は、毎年渡って来る鶴たちを観察して八代小学校の5・6年生たちが作成したもので、野鶴観察所にいつも貼ってあります。(その1に写真あり)

 以前観に来たときに、この〝つる日記〟を読んで、次のような句を詠んだんです。

  まづ来る鶴に名付けて力太郎まづきたるつるになづけてりきたろう・平成17年作・句集『甘雨』所収)

 これを俳人協会の「俳句大賞」に応募し入選した句ですから、懐かしい思い出なんです。

 この鶴のねぐらの環境を維持するため、毎年「八代のツルを愛する会」を中心に、ねぐらの整備や維持作業が実施されていますが、地域内外の人たちに加え、この子供たちも協力しています。私も、以前ねぐら整備に来たり子供たちと一緒に餌撒きを手伝ったりしたことがあるんですよ。

 かつてナベ鶴は身近な鳥として、日本各地で見ることができましたが、戦中戦後の食料難による捕獲によって、その数は激減し、今では八代が本州で唯一のナベ鶴の飛来地となってしまいました。
 元来、海や川の沿岸など湿地帯を好むナベ鶴が、なぜ山里の八代だけに飛来するのでしょうか?不思議だと思いませんか?それは明治時代から続く、八代の人たちの取り組みにあったのです。

 明治20年、日本各地で鳥が乱獲され、その数が減少したことから、密かに猟師がナベ鶴を捕獲しようと、八代に来るようになりました。しかし八代の人々は、半鐘を打ち鳴らし、手に鋤や鍬を持って猟師からナベ鶴を守りました。そして『八代村のツルの捕獲を禁じる県令』をつくったんだそうです。これが日本初の自然保護条例であると言われています。その後、明治24年には県下の鶴捕獲禁止、明治37年は山口県令を以て八代村猟銃禁止区域となりました。ヘエッ、そこまで知らなかった!このようにして大正10年3月3日、八代地区は「八代村鶴渡来地」として天然記念物指定を受けたんですね。

 江戸時代には日本全国に鶴が飛来していた記録があり、ここ周南市でも広い範囲で鶴が見られていたようです。しかし、八代地区については、江戸期の山口県内の様子を記録した『防長風土注進案』に鶴の記述がなく、いつごろから鶴がやってくるようになったかはっきりとわかっていませんが、その鶴がいたことを示すものとして、今も〝つる塚〟というものが残っています。

 この”つる塚”にまつわる話とは、文政3年(1820)、魚切地区の林此面(はやしこのも)という人が村人2人とともに傷ついた鶴を保護・看病したものの死んでしまったので、供養のための塚を作ったというものです。

 また、明治28年(1895)頃、他所者の猟師に撃たれた鶴が飛べなくなったとき、八代の農民・瀬来幸蔵さんがその鶴を自宅につれて帰り看病しましたが、死んでしまったので手厚く葬り、自分で墓を刻み裏山に建てたそうです。その後、市に改葬されて、それからも八代で死んだ鶴を葬って、毎年12月の初めにここで慰霊祭が行われているんですって。

 八代へ来ると、地元の人々の鶴への思いがいろいろなところに見かけられます。どこを歩いても懐かしい昔の田舎の匂いがして、心がほっこりしますよ。機会があれば、是非一度は〝おいでませ〟!

 この日はちょうど〝雨水〟でしたが、よく晴れた日でクロガネモチの実がまるで花が咲いたようでした。八代の鶴はこれでオシマイですが、ついでに吟行に行った寺がありますので、それはまた次に…

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八代の〝つるの里〟へ吟行(その2)

2020年02月22日 | 俳句

 一昨日の朝のラジオ体操ではもう日が差していて、見上げた空は雲一つない快晴でした。珍しくこんなに晴れた青空なのに、この一日で新型コロナウイルスが全国的にどんどん広がっているニュースばかりで、不安がますます募りました。が、どうしていのか…結局マスクと手洗いだけしかないのでしょうか?

 20日は義母の99歳の誕生日でしたが、主人がまだ風邪が抜けず咳ばかりしていますので、恒例の食事会も取りやめました。このように大したことでなくても私たちの生活に徐々に影響を及ぼしてきています。このようなことがいつまで続くのか、先の見えないということがどんなに人の不安をかき立てるのかと…つらいですね。

 さて、八代の「つるの里」への吟行のつづきです。

 昔から鶴は容姿の美しから、また〝鶴は千年、亀は万年〟と、おめでたい鳥としてその飛来が待たれるものでした。歳時記を見ると、「鶴」だけで冬の季語になっています。丹頂鶴などは留鳥として北海道に生息していますが、他の鶴たちは秋に渡ってきて春には帰るという渡り鳥だから、冬。でも、「鶴来る」は秋、「鶴帰る」ならば春になりますからね。

  鶴の来るために大空あけて待つ        後藤比奈夫

  ころろころろ田鶴鳴きけふの日も暮るる    山口青邨

  鶴は引き雀は巣藁にぎり飛び         阿波野青畝

 ところが、歳時記の例句を見ると不思議なことに江戸時代などの古い句が一つも載ってないんです。どうしたことなんでしょう?句材としてはとても魅力のあるものなのに…。もし詠まれなかったということでなければ、ろくな句がなかったということ? エエッ、そんなことありえないでしょう…

 そういえば初学の頃教わったことがあります。「田鶴」と詠まないと「鶴」だけでは季語にならないと。あの石田波郷の有名な〈吹きおこる秋風鶴をあゆましむ〉という句がありますが、この句の季語は「秋風」で、この鶴は動物園にいるものだから季語ではないと。要するに、渡りをした鶴だけが季語ならば、そういう自然の中にいる鶴を観られるのは、現在は鹿児島県出水市とこの八代だけなんですものね。

 鶴は、昔話に出てきたりや銅鐸に彫られたりと、大昔からいたのでしょうし、こちらの民話でも〝病気の母へ鶴の肉を食べさせた…〟というような話が残っていたりしますから、それほど珍しい鳥ではなかったのです。だとすると、詠まなかったのではなく、季語としての認識がないため他の季語と一緒に詠まれていたのではないかと、私は思いました。

 調べてみますと確かに、〈凩の空見なをすや鶴の声  去来〉や〈鷺ぬれて鶴に日のさすしぐれかな  蕪村〉などがありました。前句は「凩(こがらし)」、後句は「しぐれ」が冬の季語ですから。

 さて、八代地区には、「つるの里」だけあって様々な句碑がありました。八代のナベヅル は国の特別天然記念物に指定されており、地域 で守り続けてきた鶴は、ま さしく八代の象徴となっています。その句碑は全部で9あるそうですが、見てきたものだけを紹介しますね。

 ① 藪道を出て田の鶴と顔合はす  寒た

 作者・亘理(わたり)寒太(明治28年12月5日生)は、本名は正、八代の旧家に生まれ京都帝国大学を卒業し、戦後ふるさとに帰り八代中の校 長や教育長を歴任。教育面でその指導力を遺憾なく発揮し、鶴の保護活動にも多大の関心と指導力を持ち、広く村外の人々に鶴を知ってもらう ことに努力した。内外の俳人や文化人を招いて交流を深めたり、『群鶴句会』を創 設し村の青年たちに俳句を指導したことで、寒太は『鶴の聖人』と言われる。

 ② 星消えて朝鶴に空放たれし  稲畑汀子  

 

 この句意は、八代の朝の大自然の動きを鶴を主人公に して捉えたもので、星がまだ消えるか消えないうちに突然鶴の鳴き声が響き、その声に大空が従うが如くに感じ られるという、清々しい挨拶句となっている。仙境庵のかっての女将、田中和女が「ホトトギス」同人で、平成2年、同旅館で中国地区ホトト ギス俳句大会が開催されたとき、この句を披露。それを平成13年田中和女の尽力により建立された。

 作者・稲畑汀子は昭和6年生れ。高浜虚子の孫に当たり、つい最近まで日本最大の俳句雑誌「ホトトギ ス」を主宰。現在日本伝統俳句協会の会長。朝 日新聞俳壇の全国版選者。

 ③ 鶴唳(かくれい)に覚めて今日の日確かにす  田中和女


 ④ 鶴戻り来るやしみじみ夕ごころ  のぶを

 ⑤ 晴れ渡る八代の里は鶴のもの   千代子

この④と⑤の句碑は、野鶴監視所の敷地内に鶴の餌場を背にして 並んで建っている。のぶを没(昭和38年)後、昭和42年に遺族が中 心となって建立したもの。

 八代の鶴は里の風景や里人の心情と一体となった趣が あり、朝、ねぐらから八代の中心地である餌場付近 にいったん集まって、方々に散って遊びまわる。夕刻にな ると、どこからともなく又餌場辺りに戻り、その後飛び 立ちねぐらに向けて帰って行くのだが、その様子は八 代の人にとっては、自分たちの子どもが家に帰ってくる ように思えるのだろう。その鶴に寄せる気持ちを表現 したのがこれらの句。

 作者・水田のぶをは本名信夫で、田布施町出身。大正12 年京都大学入学、昭和14年京都大学助教授就任。後、山大医学部付属病院長。俳句で は山口県の戦後俳壇の指導的位置を占めた存 在。ホトトギス同人に推された人。同じく水田千代子は、俳誌「玉藻」に所属し、主に地域の 玉藻句会等で指導者として活動。のぶをは夫。 2人は八代の鶴をこよなく愛し数多くの鶴に 関する俳句を中央俳句誌に発表した。 

 ⑥ 碧落に微塵湧きいで鶴となる  赤富士

 この句が作られた昭和30年頃は鶴の飛来数約 150 羽おり、真っ 青な空の果てに塵のような物が現れ、何だろうかと思っていると、やがてそれが鶴の群となって現れるときの感激のようなものを詠んだものだろう。誠に野鶴を愛する作者らしい句。作者・杉山赤富士については詳しいことは、分からなかったのだが、広島で昭和21年創刊された俳誌「廻廊」の主宰で、現主宰の八染藍子の義父。

コメント (11)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八代の〝つるの里〟へ吟行(その1)

2020年02月20日 | 俳句

 今日はお天気もよく、最高気温も13度と先日来の寒気が緩んで、過ごしやすい気候になりましたのに、今週は火曜日から毎日俳句づけで、いささか疲れぎみになっています。主人の風邪も相変わらずの…。だからか、私まで何だか頭が痛くなり喉の調子が今一つなんです。肝心なときになって…困るう~

 ところで、今日の夕方驚いたことがありました。この3月7~8日にかけてのフォーユー文化講座の学習発表会が完全中止になりましたという連絡が入ったのです。エエッ、こんな所にまで新型ウイルスの影響が…と正直ビックリ。そういえば、今朝福岡県で初の感染者が出たというニュースが流れて、主人が〝こりゃ、山口県も時間の問題だぞ〟と言っていたばかりでしたから。わあっ、これからどうなるんでしょ!そのうち日本中に広がったら…オリンピックは???と考えると、オソロシイ!でも私の頭じゃどうにもならないし…

 こんな時に…何ですが、先日の〝つるの里〟への吟行会のことを忘れないうちに書いておこうと思います。 

 この鶴のいる八代(やしろ)までは、宇部から高速道を通っても一時間半ほどかかりますから、この日は朝早く出かけました。天気予報では前日より気温は低く、もしかしたら道路も雪が残っていたり、凍結したりしているかもと、心配していたのですが……。案の定朝から日が照っていい青空…ほら、やっぱりでしょう!誰かが〝先生、吟行のときはいつも晴れますね〟と、不思議がっていました。エヘッ…でも気温は低いから陰などに入るとやっぱり冷たかったのですが、全くの杞憂に終わりヨカッタ!だからとてもいい吟行会となりました。

 この八代は、山口県の東部、周南市の東にあって、海抜697mの烏帽子岳からなる山々のふところにたたずむ盆地です。この「つるの里・八代盆地」を目指して、毎年稲刈りが終わる頃、遠くシベリアからナベヅルたちが渡って来るのです。

 世界には15種類のツルがいますが、八代に渡って来るナベヅルは、灰黒色で首から上が白く、目の周りが黒くアイマスクをしているように見えます。身長は90~100㎝、左右翼を広げた長さが185㎝くらいで、嘴はわりと短く10㎝程度。体重は4㎏ほどです。10月下旬に3羽から4羽の家族で夜に渡ってきて、翌朝餌を食べに来たところを発見されます。冬の間をここで過ごし、3月となって野山に緑が見え始める頃、シベリアへ旅立ちます。穏やかな天候で、遠くまで視界が広がる日に、ツルたちは一ヶ所に集まって、一斉に飛び立ちます。旅立ちは午前8時から11時頃が多く、遅くても3月中旬までには八代を離れていなくなります。

 写真は、ナベヅルの剥製で、その下はマナヅルです。次が渡りのルート。一番下はツルが渡って来る頃の八代盆地。

 八代にナベヅルが来はじめたのは明治初年頃だと言われています。その後、年々数を増してきて、昭和15年(1940)には355羽も来ていましたが、生活環境や自然環境の変化で年々減っていき、このところはとうとうひとけたになってしまいました。一番少なかったのが、平成20年の4羽。この時は悲壮でしたね。こういう状態で絶滅を心配し、鹿児島県出水市の保護したツルを八代へ移送して治療・馴化の後放鳥するという〝ツル移送計画〟が実施され始めたのが平成18年のことでした。しかし、それもあまり効果があがらぬまま、ここ10年はずっとひとけたを低迷していました。

 私が始めて観に来たときは、それでも30羽近くいましたが、どんどん減って、でも去年はどうにかやっと10羽…。だから毎年鶴の飛来数が心配で心配で、今年は?と思っていましたら、何と18羽。これは久々のヒットで嬉しかったですね。

 私は八代には何度か来ていますし、鶴が渡って来る前の塒(ねぐら)整備にも野鳥の会から参加していました。だからビックリするほどの感動はないのですが、始めてだという人が何人かいて、それはもう興味シンシンで…。

 ところが、監視所に行く途中に人が立ち止まって見ていましたので、〝鶴がいるの?〟と。でもよく見るとそれは10羽ほどのデコイでした。監視所に行って双眼鏡で覗いてもどこにも鶴は見えませんでした。監視カメラで映像を流していましたが、それには8,9羽ほど動いていました。しかし、監視員さんに聞くと、ここからは見えないところにいるんだと。〝待ってたら見えるところに来ますか?〟と聞くと、〝さあ、それは分からん〟と。鶴を観に遠くから来て見ずに帰るなんてと悔しがっていると〝そりゃ、運が悪かったの~〟と、何ともつれない返事。

 時間がないので、仕方なく〝つるの墓〟でも見てから昼食と句会をするところへ行こうと監視所を後にしました。小さな〝つる塚〟、を見て、もう一つの〝鶴の墓〟へ行こうとしたとき、先程のデコイの回りへ鶴が飛んで来て次々と田へ降りました。〝わあ、見て、見て、鶴よ!〟と、喚声が上がったのはもちろんのこと。鶴は臆病ですから余り近寄っては観れません。通行止めのところまで行って観ていましたら、軽トラックが来て?…それは先程の監視員さんで、すぐ帰るようにと注意をしに来たのでした。私たちもしっかり監視されていたの? ヤダーッ!

 写真は、最初のデコイがあったところに来ていますので、混じって20羽ほどに見えますが、半分が本物です。

 後ろ髪を引かれる思いで次の〝鶴の墓〟へ行って、食事処へ行って食べていると、先程の鶴たちが移動したらしく、その飛んでゆく姿が窓からしっかりと見えて、今度は本当にラッキーでした。ツルさんたちアリガトウ!

 まだ他にも吟行したところがありますが、長くなりましたので、それはまたつづきで…

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

〝やみつき〟ということ。

2020年02月19日 | 俳句

 わあ、やっと雪が降りました!…これは昨日のこと。これを書いて写真を探していたら、またまたやっちゃいました。自分ながら〝アホや!〟と叫んでしまいましたよ。せっかく書いたのに、追加して書いた文はどこへと、消えて…もちろん今回は私が半分だけ下書きに登録して、書き足したものは下書きに登録をしていなかったというのがいけなかったんですが…。もしかしたら〝反映する〟をクリックしたらと……やっぱり出ませんでした。何遍やったらと…クヤシイ!

 それで、今日は朝早くから吟行会で周南市の八代へ鶴を観に行きましたので、遅くなってしまいました。この鶴の報告はまた後日に…

 昨日の朝は主人もやっとラジオ体操へ行く気になったらしく、〝さあ、行くぞ〟と、掛け声を掛けて外へ。出た途端、久々の…いや、今年初めての雪景色でした。ビックリです。例年一度や二度は雪がちらついてから二月になって積もるという感じでしたが、今年は一度も雪がちらつかないままですからね。

 雪国の人には申し分けないのですが、これっぽっちの雪で大喜びして写真をパチパチと撮りまくりました。バカみたいでしょ!でも俳句ではこれもやっぱり〝春の雪〟として詠むべきなんでしょうね。

 先日書いたことがありますが、要するにこの寒さは、〝寒戻り〟であって、〝余寒〟という感じではないと思いますし、ましてや〝春寒し〟なんていうのとは違うでしょう。まあ、〝冴返る〟という季語なら近いかも…

 こういう風に非常に近い似たような意味の季語であっても、感覚的には微妙に違うということが、今回のことでよく分かったのではないかしら?まして長い日本列島の北から南とではもっともっと違うでしょう。でも人は今自分の置かれた状況からしか俳句を詠むことが出来ませんよね。それも仕方がないこと。文学というものは自己表現なんですから。

 この日の句会ではとってもおもしろい句が出ました。ここに挙げることはできませんが、しかし、兼題の欠点がよく出ていました。それは何かというと、作句するとき季語から入るために、どうしても因果関係になりやすいということ。

 今回の兼題は〝寒明〟でしたから、今日から暦の上では春になるという気分的な喜びを詠もうとします。例えば、〝心が弾む〟とか〝鳥が羽ばたく〟とか〝身が軽くなる〟とか、そして、その理由が〝寒が明けたから〟ということになるんです。それが、よく言われる季語の〝即きすぎ〟であるし、因果関係にもなっているということ。

 では、なぜこの因果関係で詠むのはいけないのでしょうか。それは季語との関係が説明しなくても分かるということが殆どだからなんです。せっかくの俳句の余白を、言わずもがなで埋めてしまえば、俳句としての奥行きも余情もなくなって面白くも何ともありません。また、伝えるだけのものならわざわざ苦労して五七五に収めなくても、普通の文で書けばいいでしょう。それをなぜあえて窮屈な形にしなければいけないのかと、考えたことはありますか?

 この形を定型といいますが、俳句は一番短い十七文字。こんな窮屈な枠に縛られないで、好きなだけ思う存分書いた方がどれだけいいかと思いません?なぜこんな不自由なものにと…でも、そこが俳句の魅力なんですね。いったんその魅力に取り憑かれた人はもうそこからは抜けられませんよ。オオ、コワッ!(笑)でしょ。でも、この苦しさが〝やみつき〟になるんです。一度味わったら、あの〝やめられない、やめられない、かっぱえびせん……〟ですよ。(笑)

 この世で人が必死になれるものってなんでしょう。やはり〝形〟があるものではないかしら?ほら、華道に茶道、囲碁に将棋と…ああ、スポーツもみな〝形〟がありますよね。言い換えるなら約束事という枠があって、それがあるからこそ、苦しいけれど努力した甲斐があったと思えるのではないでしょうか。そして、その苦しさの後に味わう達成感が人に〝生きる喜び〟を与えてくれるのです。そして、それが〝生きがい〟にも。でも、ギャンブルや麻薬のようなよくない〝やみつき〟もありますから、それに〝生きがい〟などを感じてしまうと、これこそ身を滅ばしてしまいますからね。

 それはなんであろうといいのですが、自分が興味をもち自分にとってためになると思ってやれるもの。俳句もその一つなんですから、是非〝やみつき〟になって、どうぞ生きる喜びを感じて下さい。

 写真は、雪の降った朝の様子。もう咲いていた小さな〝ヒマラヤユキノシタ〟にも雪が…

 

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

季語の〝立春〟と〝寒明〟の違いは?

2020年02月17日 | 俳句

 今日はまるで今季始めての寒波が襲ってきたかのような寒さで、最高気温は?とみると7度…まあ、これぐらいなら以前にもあったかも。でも、外に出ると強い風が吹き荒れていて、体感温度がぐっと下がります。こんなに〝ああ、寒い、寒い~〟と、震え上がるのも久し振りのような気がしますが…。

 主人の風邪は多少よくなってきたようで、食欲もまあまあ…でも、今度は喉が痛くて声が出ないと。おまけに咳が一日中出てです。これが私に移ったら困る~と、言いながらも同じ空気で同じものを食べていますので…インフルエンザじゃないというから大丈夫かな。でも用心のため、主人に付き合って私も今朝のラジオ体操を始めてサボりました。悔しいけど!

 だって今週は句会が三つもありますし、来週初めの石垣島に出かける予定が近づいていますので、体大事にしなくっちゃ!せっかくの旅行に風邪引いて行ったんじゃどうしようもないでしょう。用心、用心です。

 ところで、明日の句会の兼題は「寒明」。もう過ぎてしまいましたが、節分までが寒ですから、意味も時期も「立春」と全く同じ季語なんです。でも気分的には違いますよ。それを歳時記では、〝立春という季語がもつ春の到来の喜びよりも、長く厳しい季節にひとまず区切りをつけるといった気分が強い〟と、解説しています。

  川波の手がひらひらと寒明くる

  立春の雨やむ群ら嶺雲を座に

 どちらも飯田蛇笏の句集『雪峡』( 創元社、1951年)に所収の句です。

 飯田 蛇笏(いいだ だこつ)は、1885年(明治18年)~ 1962年(昭和37年)の、山梨県出身の俳人。本名、飯田武治(いいだ たけはる)。別号に山廬(さんろ)。高浜虚子に師事、山梨の山村で暮らしつつ格調の高い句を作り、村上鬼城などとともに大正時代における「ホトトギス」隆盛期の代表作家として活躍。俳誌「雲母」を主宰。四男の飯田龍太も俳人で、飯田家を継ぎ蛇笏の没後に「雲母」主宰を継承しました。

 飯田家は山梨県東八代郡五成村(のち境川村、現笛吹市境川町小黒坂)の旧家で、名字帯刀を許された大地主。蛇笏は8人兄弟(四男四女)の長男として生れました。飯田家は母屋の背後に狐川が流れ、さらにその背後には「後山(ござん)」と呼ばれる山腹が続くので、蛇笏はこの家を「山盧(さんろ)」と称しました。それで、1932年(昭和7年)の処女句集も『山廬集』という書名で出版しています。だから、蛇笏忌(1962年10月3日)を「山廬忌」ともいいます。(Wikipedia参考)

 前句は、寒の時期が終わりいよいよ春が近づいてくるころの明るい陽光と、それを受けた川波の輝きが詠まれています。ここでの〈手〉は川の波を擬人化したものですが、まるで春を手招きしているかのよう。しかし、〈寒〉への別れを告げて手を振っているかのようにも感じます。中七までの陽気な軽さと下五の有無を言わさぬような語調とのギャップが魅力なのかも知れませんが、私には何かへの別れを奥に秘めているような気がしてなりません。この句を詠んだときの蛇笏の気持ちがどんなものだったのか知りたいものです。

 後句は、立春の朝の景でしょうか。雨が上がった後のアルプスの山々が雲を下にして晴れやかに浮かんで見えるのです。でも、きっとその雲は、今までの冷たさではなく、何とはなしに春めいた柔らかな雲なんでしょう。蛇笏は自分の生家を「山廬」と呼んで、俳号にもしていましたが、これは、山の粗末な庵(いおり)という意味なんです。今も多くの俳人が聖地と仰ぐ場所で、現在は見学も出来るようになったらしいので、機会があれば私も是非訪ねてみたい所なんです。

 調べてみると、2014年に山廬の維持保全や蛇笏、龍太の資料収集を目的に一般社団法人「山廬文化振興会」が設立され、17年には蛇笏が若い頃から句会を開き、歌人若山牧水らも滞在した山廬隣の蔵「俳諧堂」が復元されたんだそうです。山廬玄関には龍太と渓流釣りの趣味が同じで親しかった作家井伏鱒二筆の「飯田龍太」の表札が掛かり、囲炉裏のある書斎には当時のままに机が置かれ、奥座敷には蛇笏、龍太自筆の句が貼られた屏風も。裏山は「後山」と呼ばれる小高い丘で、南アルプスなどの山々を見渡せるそうですよ。わあ、行ってみた~い!

 ところで、「立春」にしても「寒明」にしても、冬の厳しい山国や雪国と暖かな南国とでは詠む感覚が随分違うように思われます。だとすればそういう作者の句を鑑賞するときには、その背景をも心して味わわないといけませんね。

 写真は、先日の「いぐらの館」の〝馬醉木〟(あしび)です。もうこんなに蕾をつけて…やっぱり春なんですね。これは薄紅色の馬醉木みたいですよ。

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

〝俳諧は三尺の童にさせよ〟って?

2020年02月16日 | 俳句

 昨日は午後から句会でしたので、午前中にブログ書きあげてから行こうと思って慌てていたせいもあったんでしょう。ミスってばかりいて、つい愚痴を書いてしまいましたらたくさんの方にご助言を頂き…恥ずかしいかぎりです。

 でもそうやって読んで頂き、何かの時には助けて頂けるなんて、本当にウレシイ!皆様のお顔は分かりませんけど、こうやって繋がっているお仲間がいると思うと、本当に心強いし励みにもなります。ありがとうございました。

 こんな機械音痴のPC音痴…おまけにドジな私ですけど、これからもどうぞよろしくお願い致しま~す。(笑)

 ブログのカテゴリーに確か〝聞いて、聞いて〟というのがあったような気がしますが、実はその〝聞いて、聞いて〟が15日にあったんです。主人の風邪騒動やPCトラブルでつい忘れていましたが…

 このブログ、昨日が開設から1095日目だったんですよ。そう、もう丸3年が経ったということ。だから今日からは4年目に入るんです。自分で言うのもナンですが、よく頑張りました。主人や娘からは書きすぎよ!と言われながらも…アハッ

 興にのってしまうと、書きたいことが芋づる式に出て来て、つい長くなってしまうんです。昔からよく言われていました。話がどんどん横道に逸れていって…つい本業の授業があさっての方へ。生徒達もその方が面白いから、いらぬ質問などしたりして、まるで誘導尋問にひっかかったようなもの。でも、それも楽しい思い出ですね。

 さて俳句…、俳句の話をしなくっちゃ…、ブログのタイトルが泣きますよね。

 この土曜日の句会には兼題がありませんが、〈クルクルと落葉は踊りが大好きだ〉という句が出ていてビックリしました。もうお分かりでしょう。これは大人の俳句ではありません。時々お孫さんの句を投句する方がいましたので、聞いてみるとやっぱりそうでした。立派なもんですよ。季語はちゃんと一つですし、中七が字余りでも気にはなりません。これが5歳の子の句ですってよ。このままでもいいけど、中八が気になれば「が」を省けばいいんですよと言ってあげましたら、喜んでおられました。

 この句をみると、芭蕉が〝俳諧は三尺の童にさせよ〟と言ったということ、頷けますよね。これは芭蕉が弟子に教えとして言った言葉を、服部土芳が書き残した『三冊子』にあるものです。次のように…

 巧者に病あり。師の詞にも、俳諧は三尺の童にさせよ、初心の句こそたのもしけれなどなど、たびたび云ひ出られしも、皆巧者の病を示されし也。 
 〝三尺の童〟とは、1メートル足らずの小学生ぐらいの子ども。大人になるとさも上手そうに詠もうとするが、それではよくないのだと教えたものです。上掲の句はまだ幼稚園ですよ。このような何の飾りもない素直な心で詠むということが、大人にとっても一番大切なことかも知れません。

 更に、その子の祖母の句もおもしろかったですね。〈預かりし髪切虫と三ヶ日〉という単純明快な句。参加者12人…あ、作者を除けるから11人ですね。この2句を採ったのは私だけで他の誰もいませんでした。こんないい句をなぜ採らないんでしょう。

 それは恐らくこの句は季重ねだからと思って採らなかったのでは?〝髪切虫〟は夏、〝三ヶ日〟は新年の季語ですものね。でも、ここで考えてみて下さい。三が日は決定的な季語ですから動かないでしょう。そうすると髪切虫は季語としての役目はここではないということなんです。でも、誰かが〝髪切虫がお正月まで本当に生きているの?〟と、言っていましたが、そこは私も自信はありませんでした。しかし、こんなことを嘘まで言って作りますか?やはり自身の体験から出来たものだとしか思えませんもの。作者曰く〝お正月に孫たちが旅行に行くから預かったんです〟と。〝そう、冬でも生きてるの?〟〝はい。でも先日死んだんですって…〟と。

 でもこの光景を想像してみて下さい。面白いと思いませんか。お正月の髪切虫と老婆(?)の取り合せ。でも、そのままの素直な句ですよね。だからあまり約束事に囚われすぎると、このような自由な発想の句が採れなくなるんです。気を付けましょう。

 これからは型にはまらないような…そう、子供のような楽しくておもしろい句を怖れずにどんどん作って下さい。悪けりゃ捨てればいいんですから…。ほら、みなさ~ん、ガンバリまっしょ!

 写真は、バレンタインチョコ。もう誰からも貰うことがなくなり、風邪で食欲のないカワイソウなわが旦那様に私が買ってきてあげたチョコです。モロゾフの三種類で1000円のチョコ。ウイスキーボンボンの袋はアッという間に食べてもう空ですが…。(笑)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋櫻子の〝立雛〟の句

2020年02月15日 | 俳句

 昨日は「バレンタインディー」でしたよね。我が家は実はそれどころではなかったんです。

 昨日の朝起きたらなんともう8時過ぎ…ビックリして〝エエッ、どうしたん?ラジオ体操は?〟……(無言)……〝雨が降ってるから起こしてくれなかったの?〟と聞くとやっとウンと。でも何だか元気がありません。〝どうしたの?〟と言うと、〝風邪引いたようだ〟〝熱は?〟〝ある〟と…まさか今話題の新型コロナウイルスでもないでしょうが。〝病院へ行って診てもらった方がいいわよ〟と言っても、体がだるいからか寝てるばかり。

 そういえば、私も一昨日から喉の様子がおかしくてうがいをしていたんだっけ。大抵は息子が風邪を貰って帰り、それが移るんだけれど、今回はそうではなさそう。

 あれだけ毎日ニュースで報道しているんですし、渡航歴も外国の人と接触する機会もないのに感染者が出ているという。山口県には結構外人の観光客も来るし、ましてや宇部には空港がある、100%あり得ないということもないわけだし、〝山口県で初めての感染者がでた!…なんて、ニュースにならないうちに早く病院へ行って来て〟と、冗談交じりに言うと、やっと腰を上げました。しばらくして戻って来た主人に聞くと、ただの風邪だろうって言われたと。ヨカッタ!

 いつも主人は元気なので私の方が先に何でも罹るんですが、今回はどうしたことなんでしょう。これぞまさに〝鬼の霍乱〟ですね。薬のせいかしら、あれだけ食べたがる人が食欲もなし…ちょっと同情してしまいます。普通の風邪でもこんなんですから、あの新型コロナウイルスで肺炎になっている方々はどんなに大変なことでしょうか…お察し致します。この騒ぎの1日も早い終息を心から願っています。

 ところで、昨日俳画で描いた「立雛」ですが、それを詠んだ句としてすぐに思い浮かぶのがあります。それは、水原秋櫻子の〈天平(てんぴょう)のをとめぞ立てる雛(ひいな)かな〉です。

 この句について、『秋櫻子俳句365日』の三月三日の項に渡邊千枝子氏が次のように鑑賞されていますので、どうぞ。

 絢爛豪華な景を好む秋櫻子はまた一方で、人の心の素朴さ、純真さに強く感受する人だった。「天平のをとめ」の中には前記、真間の手古奈の優しく純な面影をも重ねて見ていたに違いない。

 この雛は三越の、雛市というより雛を主とした木彫の会で見たもので「冠もなにもつけぬ、日常のままの天平時代の少女の立ち姿が、一尺くらいの柔らかい材に彫られ、それに淡彩を施してあった。雛というにはいささか似合わぬのであるが、その清楚な風情がなかなか良かった」と『霜鶴集』に書かれている。

 たぶん若手の彫刻家の会ででもあったのであろう。美術品に対しても優れた鑑識眼をもつ秋櫻子の目に叶った一点である。句の姿もまた「冠もなにもつけぬ」雛にふさわしく、すっきりと清楚だ。後にこの雛を買わなかったことを悔やんだ一文がある。( 昭和3年作・句集『葛飾』所収 )

 更に三月四日の項には、〈立雛は夜(よ)の真闇(まやみ)にも立ちつゞく〉の句もありましたので、どうぞ…

 前記の雛から四十三年経っている。雛への思い入れも、憧れから慈しみに変わってきているのに注目したい。

 二月の末から三月初めにかけて喜雨亭へうかがうと低い書棚の上に、木肌の美しい立雛が飾ってあった。やわらかな円みの中に何ともいえぬ気品があり、部屋の一隅に匂やかな空気が漂っているようだった。

 真夜、用を思いついて書斎の灯をつける。その瞬間壁の影とともに雛の姿が浮き立った。あ、そうか、お前は一晩中こうしてお行儀よく袖を揃えて立っていたんだね、と呼びかけているような響きがある。健康を誇った秋櫻子もこの年七十九歳、暖房を切った書斎の寒さを瞬時に感じる年になった。その中に一晩中立ち続ける雛へのいとおしみが、一息に口をついて出たようなこの句の裏ににじんでいる。

 調理を施さぬ句がそのまま心に叶う年輪を重ねたということか。 (昭和46年作・句集『緑雲』所収)

 昔、春郎先生に山口の大内雛を差し上げたことがありました。そのとき、〝僕も好きだけど、親父もお雛様が大好きだったんだよ〟と仰ったことがあります。この〝立雛〟はどんな雛人形だったのかしら? と、ネットで秋櫻子先生が好きそうな立雛を探してみました……。余り気に入ったものがなかったのですが、これなんかは近いかも。でももっとスラーッとしたもののような気がしますがね。

 この立雛は、トモル工房の木彫作品です。その説明を見ると、〝トモル工房の木彫作品はすべて天然木を一作品ずつ制作しています。全く同じものにはならず、それぞれの作品に個性が生まれます。〟と。

 また、〝歴史ある木彫の町、富山県南砺市井波。その一角の築大正15年の町屋古民家で木彫と漆の工房を営んでいます。〟とも。

 ところで余談ですが、今日は本当に悔しくって……なぜかというと、この記事何回書いたと思います?これで4回目ですよ。クヤシイ!1回目は朝方半分まで書いて下書きにしておき、2回目にそのつづきを書いて中断したら、それがない!仕方なく3回目同じものを書き仕上げ、後は写真を探してUPしようと…元の画面に戻ったら、また最初のだけでつづきの文がない!クヤシイ!なぜ? 

 以前は確か〝自動保存された記事データが存在します〟の〝反映する〟をクリックすると出て来たような気がしたんですが…どこに消えてしまったのか。そこで3回目を書いたらまた同じ目に…もう腹が立って…。4回目は書いたらすぐに下書きで〝投稿する〟をクリックして他の作業をしました…そうしないと恐怖です。どこがいけなかったんでしょう。みなさんにはそういうことはないですか?一遍で書きあげればいいのでしょうが、忙しくて合間を縫って書いているもんですから…何かいい方法があれば教えて下さ~い。お願いします。 

コメント (12)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

俳画と賛の俳句との関係は?

2020年02月14日 | 俳句

 天気予報によると、昨日は全国的に春本番の気温だったそうで、宇部も16度と…珍しく暖かでした。だから朝のラジオ体操も一枚減らして行ってもよかったくらい。ところが、今日はまた雨、まるで1日おきの晴と雨です。確かこのような天気を繰り返して春になっていくのだということを去年も書いたような…。でも、見てみると二三日おきのことで、今年のように日替わりではなかったですね。やっぱり異常気象のせい?

 昨日は午後から俳画教室。今年度はあと一回を残すのみとなり、3月始めの学習発表会にむけての最後の仕上げです。今回の画題は〝雛〟、こけしの立ち雛でした。こういう顔を描かないといけない絵は、目の描き方が一番難しいんですよ。細い1本の線だけですが、その引きようによっては顔の表情がみんな違ってきますから。花や草などだったら少しはごまかしがきくのですが、顔だけはダメですね。様々な表情のお雛様が次から次へと出てくるので、結構先生も楽しんで指導されているようでした。賛は〈ももは八重さくらハしだ連女の子   柳史〉(ももはやえさくらはしだれおんなのこ)でした。

 この賛の句の作者、柳史とは、本名を赤松正次(1901~1974)といいますが、むしろ赤松柳史の名の方で知られています。大正14年(1925)、中国遊学から帰国後、松瀬青々主宰誌「倦鳥」で俳句を学び、日本画を森二鳳に学びました。その後1948年に俳句俳画誌『砂丘』を創刊・主宰した人物で、戦後の俳画界を牽引してきたひとりです。いつもよく賛に書いているのは藪本積穂の句なんですが、その師匠に当たる人が柳史なんです。

 でもこの句の季語は???「もも」も「さくら」も春の季語ですから、要するに季重ねの句ということになります。この句がということではないのですが、いつも思うことがあります。この俳画の賛に書かれる句、俳句をしている者からするとどうにも気にいらないのが多いんですね。ヒドいのになると季語だらけのものがあったりして…。やっぱり二足のわらじを履くというのは難しいということなんでしょうか。でも、佳句とまではいかなくても、せめて基本的なことはクリアーされている句がいいと思うのですが…。いかがなもんでしょうか。そこでちょっと調べてみました。

 俳画は、俳句を賛した簡略な絵(草画)のこと。一般には俳諧師の手によるものであり、自分の句への賛としたり(自画賛)、他人の句への賛として描かれるが、先に絵がありこれを賛するために句がつけられる場合や、絵と句が同時に成るような場合もある。さらに敷衍して、句はなくとも俳趣を表した草画全般をも指す言葉としても用いられる。「俳画」という呼称は渡辺崋山の『全楽堂俳諧画譜』にはじまるとされており、それ以前の与謝蕪村などは「俳諧物の草画」と称していた。 

 これはWikipediaの解説ですが、これからすると俳画はそもそも俳句(俳諧)が先にあってのもののようです。だとすればやはり賛として書く以上、俳句を優先した俳画を描きたいものですね。しかし、次のようにも…

 近世後期には、文人画の大成者であり、写生的な句をものした与謝蕪村が『おくのほそ道図屏風』や『若竹図』などを描き、俳画を芸術の様式として完成させた 。文化文政期には、渡辺崋山のように画家としての経歴をもつものが俳画を描く一方、小林一茶らは素人らしい素朴な俳画を残している

 近代には正岡子規が、素朴な草花の水彩画を句に配し、その門人も俳画をよくしたが、以後俳画を手がける俳人は減少していった

 と、あるように時代とともに変わっていって、今日では趣味的な即興画として世に広まり、俳句は二の次になってしまったのかもしれません。だから各地域の文化講座でも絵画の一分野として人気があるようです。でも、最近すこし下火になったのかしら?私が始めた頃は希望者が多くてなかなか入れませんでしたもの。今はプレバトのお陰か、俳句の希望者の方が多くなったような気がします。

 要するに、ここの俳画教室では絵の描き方の指導はしますが、そこに書かれている俳句のことには全く触れられません。なぜこの句がこの絵の賛になるのかとか…疑問に思うことが屡々。もし俳句も極めた人が俳画の指導をすればきっと違うと思うのですがね~。現在の講師は、私のところで俳句を学んでいますし、若いので将来はきっといい俳画の指導者になれるのではと大いに期待しています。ガンバレ、T子さん!

 写真は、先日の〝ひなもんまつり〟のいぐらの館・中川家の庭に咲いていた〝侘助〟(わびすけ)です。椿の一品種で冬の季語なんですが…。結構早くから咲いて長くありますし、茶人に好まれる花です。色は白・紅・絞りなど、一重の花。

 

 

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

〝ひなもんまつり&ぶち街角ギャラリー〟への吟行会(その2)

2020年02月12日 | 俳句

 昨日の天気が嘘のように、今日は一日中雨でした。朝、曇ってはいましたが、まあなんとか大丈夫かなと思ってラジオ体操へ行こうと外へ出た途端パラパラッと…。どうしようと迷っていると、主人がやめると言うので引き返しました。

 それからは止むこともなく一日中…ああ、よかった!昨日じゃなくて。午後からは健康体操へ行きましたが、欠席者が多かったですよ。雨が降ると自転車の人が来ないから。

 では阿知須の〝ひなもんまつり&ぶち街角ギャラリー〟のつづきをどうぞ。

 そもそもここ阿知須というのは、宇部の東に隣接する近郊農村で、広い台地がダイコン栽培に適し、山口たくあんの特産地です。井関川河口の阿知須浦は藩政時代からの漁港で、沿岸部には干拓地が造成され、2001年に「21世紀未来博覧会(山口きらら博)」が開催されました。跡地は山口きらら博記念公園として整備されています。2005年の合併で現在山口市になっていますが、宇部からは30分で来れるところですし、県立の「きらら浜自然観察公園」もあって、野鳥観察などと、よく吟行をするところです。

 このまつりが開催されているのは、JR宇部線の阿知須駅から歩いて巡れる街の中心部だけですから、半日もあれば十分。また、この阿知須浦地区は、江戸時代中期から明治初期、廻船業の港町として栄えたたところでしたので、火事から家を守るための居蔵(いぐら)造りの家屋が建てられ、現在でもその面影を残した白壁の街並みが並びます。

 特に明治17年に建てられた中川家は、その時代の居蔵造りを代表するもので、平成16年に当時の阿知須町に寄贈されて、現在は”旧中川家住宅”(愛称 阿知須いぐらの館)として一般公開されています。ここでは年中いろいろなイベントが企画されいて、私も何度か参加したことがありますが、この日は〝とつておき奏(かなで)コンサート〟が開催されていました。私たちは時間がなくてゆっくり出来ないし、また人が多くて中にはとても入れませんでしたので、ちょっと覗いただけで、尺八の音色を聞きながらそこを後にしました。

 今年はねずみ年ですので〝ひなもん〟にもねずみが多くて、中尾家では一つ500円、寫眞のは二つですので1000円で売っていました。紅梅と白梅がちょうど見頃でとても綺麗でしたよ。

 一巡りして、予約をしていた駅前の食事処で〝ひなもん御膳〟をいただき、午後はいつものふれあいセンターへ戻って句会をしました。吟行が初めての人もいましたので、投句は3句。11人の合計33句の句会でした。俳句についてはまた…これでオシマイ!

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

〝ひなもんまつり&ぶち街角ギャラリー〟への吟行会(その1)

2020年02月11日 | 俳句

 今日は「建国記念の日」の祝日ですので、ラジオ体操はお休み…気温的にはそれほど高くはないのですが、朝から日が差してきて、とてもいい洗濯日和なんです。けれど、残念ながらできません。なぜかって?

 実は今日は第2火曜日ですのでM教室の句会の日。ちょうど山口市阿知須で〝ひなもんまつり〟が7日から始まって今日11日が最終日なんです。それで、午前中を吟行にして、午後から句会をしようということになったんです。

 昨日の天気予報では曇り午後は雨催いだったんですけどね~、ほらやっぱり私は〝晴女〟でしょう。いい吟行日和になりました。この阿知須の〝ひなもんまつり〟へは以前何度か来ていますが、今年でもう第16回だということ。久し振りなんですが、以前と余り変わってはいませんでした。ただ〝ぷち街角ぎゃらりー〟という企画が同時に開催されていて、これらに参加している商店や民家の38軒で、「ひなもん」を始めとする工芸品が一斉に飾られ、町ぐるみで取組んでいるお祭りなんですよね。

 この〝ひなもん〟は、山口県山口市阿知須地区(旧・阿知須町)にて手作りで製作される吊るし飾りのこと。阿知須の町興しを目的に福岡県柳川市の「さげもん」を手本として製作され始めました。子どもが生まれたお祝いや健やかな成長や長寿を願って送られる愛らしい人形等で、ちりめんや古布で作られています。最近では作り方を簡素化したりアレンジしたりされているそうで、「ひなまつり」と「さげもん」をかけて「ひなもん」と名付けられ、阿知須オリジナルのものとなっています。

 2005年から阿知須町商工会の支援のもとで「ひなもんまつり」がはじまり、現在は「阿知須ひなもんまつり&ぶち街角ぎゃらりー」として一足早めの春を感じさせる風物詩としてすっかり定着しました。いつもこの「建国記念の日」を最終日とし、期間は1週間程度と短いのですが、毎年たくさんの方が訪れているそうです。

 中学1年生30名の〝ねずみのひなもん〟が展示されていました。女子よりも男子の方が18名と多いのですが、全員が作ったそうで、ひとつひとつみな表情が違っていて楽しかったです。毎年学校行事として取組んでいるとか…いいことですね。子供の頃からふるさとを大切に思う心が養われていくということは…

 中心部の公民館周辺では飲食コーナーがありますし、あちらこちらに休憩所を兼ねた喫茶や食事処も、またフリーマーケットなどがあったりして、1日ゆっくり楽しむこともできます。近くには毎年5月下旬~6月上旬頃に〝十七夜祭〟が行われるという恵比寿神社もあり大きな銀杏はまだまだ裸木でした。行く途中に野牡丹の花が一つ…返り花でしょうか?一瞬野牡丹が夏の季語だということを忘れてしまいそうでした。

 レトロの写真館などもあって、平成天皇が皇太子殿下の時美智子妃殿下とご一緒の写真が飾ってあったりして…その古さは〝寫眞館〟という店名の漢字を見ても分かるでしょう。とにかく昭和の匂いたっぷりの町です。

 

 朝10時に現地集合して、2時間ほど自由に散策しましたので、まだ、後半の〝いぐらの館〟周辺などのレポートがあります。でも長くなりましたので、この続きはまた明日へ。オヤスミナサイ!

 

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

兼題は〝余寒〟でした!

2020年02月09日 | 俳句

 今日もあまりいい天気ではありませんでしたので、洗濯物がイマイチ…風も冷たかったですね。我が家ではもう白梅は終わってしまい、遅咲きの豊後梅がさあ咲こうと蕾をたくさん付けていますのに、このところの寒さで足踏み状態です。

 昨日は、午後と夜の部のダブル句会でしたので、やはり疲れました。このところ気がかりなことも重なって、精神的な重たさが余計に疲労感を覚えさせるのかも。よく言うでしょ、〝気が重い〟とか〝気が滅入る〟とか。あれですよ。

 ところで、夜の部の兼題は「余寒」でした。先日の「冴返る」や「寒戻り」と同じ内容の春の季語で、暦の上では寒が明けて、春を迎えてはいるものの、まだ残る寒さがあるということ。

 では馬醉木の俳人の3句を採り上げて、これらの季語の使い方などをみてみましょうか。

 先ず今は亡き大先輩のお二人の句です。

  橋の灯の水に鍼なす余寒かな       千代田葛彦

  校正の朱を八方へ冴返る         福永耕二

 前句、「余寒」を川面に映った橋の灯、それを〝鍼なす〟と見立てて捉えたもの。〝鍼なす〟とは、鍼灸に使う針のように尖って銀色をしている…と、寒さを感覚的に捉えたのでしょう。後句は、嘗ては馬醉木の編集長だった作者ですから、その校正の時の赤鉛筆の色に「冴返る」寒さを実感しているようです。

 さてみなさんはこの2句を比べてみてどう思いますか。前句の方により寒さを感じませんか?後句は寒いとはいっても、朱色とそれが更に〈八方へ〉と開放的に捉えて、やがて来る〝春〟を予感させているからでしょうか。前句にはやはり〝鍼〟の一語が効いていますね。同じような季語でも感覚的なものが違うでしょう。

 ここで、もう1句みてみましょうか。わが馬醉木の現主宰・德田千鶴子先生の句です。

  冴ゆる夜の無韻につもる砂時計      德田千鶴子

 この句のキーワードは「無韻」です。「無韻」とは〝雪などが音もなく静かに降ること〟なんですが、ここでは雪ではなく砂時計の砂が落ちていく様子です。冬の季語「冴ゆ」は、寒さが極まって光や音・色などが澄みわたった透明な状態をいう季語ですし、夜の静寂なんですから、かすかな砂の零れ積もる音が聞えてもおかしくはないのでしょうが、そこにあるのはただ時間という無限の闇。その音のない中で主宰は一体何を見つめていたのでしょうか。主宰という多忙の日々に、ふっと訪れる一人の時間、早くに逝かれたご主人への思いかも。闇の中に一途に研ぎ澄まされていく感覚…。でもこの時間は短いですよね。どんなに長くても砂時計なんだから…。でも「冴ゆ」という季語を使うと、まだまだ〝春〟への兆しが感じられませんので、どこまでも〝無〟へ繋がっていくような気がするのです。

 ここでこれらの句を、例えば〈橋の灯の水に鍼なす寒戻り〉とか〈校正の朱を八方へ冴えにけり〉〈冴え返る夜や無韻の砂時計〉などと言い換えてみることができますが、やはりしっくりとこないでしょう。ということは、それぞれの季語がその句の内容とびったり合っている…即ち季語が〝動かない〟ということになるのですよ。少しは分かっていただけたかしら?

 写真は、お隣さんちの〝紅梅〟??? 薄紅梅はよく見かけますが、こんなに濃い色は珍しいから違うかも。今度聞いてみましょう。ついでに8日に撮った満月?いや、9日が満月だから〝小望月〟。これも「寒月」と詠んではいけないかしら?

 

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

〝歳時記よりも実情を優先せよ〟ということは?

2020年02月07日 | 俳句

 今朝も寒かったですね!でも昨日の方が今季一番の寒さだったような…だって、一昨日のブログに〝寒いけれどまだまだ雪も氷も…〟と書いたんですが、昨日のラジオ体操へ出かけるとき、外の流しを見ると始めて凍っていました!ワアッ、ここも凍ってるよ…と、一輪車の中に溜まっていた雨水も。さらに行く途中の畑を見れば一面霜で真っ白になっていましたね。確かマイナス1度か0度が最低気温だったような…

 これで一応冬らしさは感じることが出来ました。では、これを句に詠もうと思ったら、やっぱり立春を過ぎてからのことですから、「冴返る」や「寒戻り」という春の季語を使わないといけないのでしょうね。

 でも、私はなんだか違うような気がするんです。昨今のように地球温暖化の影響でどんどんと季節がずれ、下手すると約1ヶ月ほどの違いが自然界に起こっているような…。だとすると、このところの寒さは本来一月ごろの寒中のものだと考えてもおかしくはないかも知れませんね。だからこの寒さや氷を詠もうとすれば、暦のことはさておいて、冬の季語を使って詠んでもいいのではないでしょうか?ちなみに、春の氷だったら「薄氷(うすらい)」と詠まないといけないんですからね。

 そもそも「冴返る」や「寒戻り」という季語は、ひとたび春めいた気候を感受した後に味わう寒さをいうのであって、一度も厳しい寒さを味わいもしないで、あの頃の寒さが〝戻って来た〟とか〝ぶり返した〟とかいうのは実感がないのでは?要するに暦に振り回されて機械的に季語を用いるのはよくないということ。一度春めいた暖かさを実感した後の〝寒さ〟というものは、脳が春を認知している以上、〝なんだ!この寒さは、まるで冬に舞い戻ったような…〟と、諾いがたい寒さでなければ季語としては生きてこないのではないでしょうか。だから今日あたりの寒さを詠むときは、まだ「寒し」や「冴ゆ」などの冬の季語で詠んだ方が、私には実感が籠もるような気がします。もちろんこれはこちらの気候でのことですから、日本海沿岸の地方や、東北、北海道などの雪国では違うと思いますし、鹿児島やもっと南の島などでは…。日本列島は縦に長いから一律の気候ではありませんので、歳時記はどこを基準にしているのでしょうか。江戸時代を考えれば、知りうるのは人が行けた範囲のことでしょうからね。だから今では沖縄や北海道には独自の季語があるとか。また、このまま地球温暖化が進んでいって異常気象がいずれは異常じゃなく普通のことになったとしたら、歳時記もどんどん見直していかなくてはいけませんね。

 以前子規が、〝歳時記よりも実情を優先せよ〟と答えたということを書きましたが、まさにその通りだと思うのです。

 俳句というものは、作者がどんなにその状況を伝えようと努力しても、季語の選択を間違ってしまうと台無しですし、反対に全く思いも掛けない意味に伝わることもあります。要するに読者に伝える力は半分以上は季語に負うところが…いやそれ以上かもしれません。

 だからこそ季語の選択が俳句ではとても重要になるのです。が、一つ間違えればあらぬ方へ…と、それが難しいところでもあります。よく昔季語が〝動く〟とか〝即きすぎ〟〝離れすぎ〟とか注意されましたが、始めの頃はなぜなのかサッパリ分かりませんでした。もちろん〝即きすぎ〟だけはよく分かりましたよ。〝朝起きるのがいやだ〟という内容に〝寒い〟などのような理由になる季語を即ければ、誰もが分かりやすいでしょうし、またそれは言われなくても想像できることですから。それが〝即きすぎ〟ということなんですが、このような問題はなかなか厄介で、一筋縄ではいきませんので、またの機会があればその時に…。

 つまるところ、俳句を学ぶのは季語を知るというところから始めたいものです。みなさんガンバリまよう。

 写真は、今朝の霜と氷の様子です。分かりますか?

 

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする