ちわきの俳句の部屋

メカ音痴おばさんの一念発起のブログです。
人生の後半を俳句にどっぷりと浸かって、…今がある。

〝また、やってしまいました!〟悔しい…

2020年03月30日 | 俳句

 今日は午前中に、義母や義弟と一緒に定期通院でクリニックに薬をもらいに行きました。先月マスクをせずに行って、ない人は診察しませんよと言われて、100円で買いました。それがまた今日も忘れてきて、〝ヤバイ!〟と…。でも何も言われず???

 見ると一ヶ月の間にちょっと様子が変わっていました。いつもの受付カウンターにはガラスの仕切りが出来ていましたし、コロナの恐れ(熱があって咳が出たりする人)のあるような人は診察の時間帯が分けられていて、17時以後の診察だと。それも電話で予約して来ることになっていました。また、以前は風邪のようだと受付で言わなければ検温しなかったのが、何もなくても無条件で検温するように義務づけられていました。まあ本来そうあるべきだったんでしょうがね。診察に99歳の義母を連れて行くのが気になっていましたので、ほっとしました。先生もびっくりするぐらい義母が元気ですので、今のところみんな安心していますが…。

 家に帰って、午後のネットニュースを見ると、先日から重症だと報道されていた志村けんさんが昨夜亡くなられていたということをニュースで知りました。エエッ、とびっくりです。確かに重篤とは書いてありましたが、あまりにも急で…。改めてコロナの恐ろしさを思い知らされた感じでした。義母なんかは感染したらペースメーカーも着けているし、なんせ超高齢でしょ!でも志村けんさんはまだ70歳だったんですから、若いですよね。それなのに…心からご冥福を祈ります。

 そういえば昨日弟からの電話で怖い話…大分で院内クラスター感染が発生して、今や27人のコロナ感染者だと。〝そう、大分も急に増えて、大変やね。どこの病院だったの?〟〝何言ってるん。お義姉さんが入院していたところやん!〟〝ふうん…そうなん…〟と、まだピンとこない私。

 聞くところによれば、21日に集団感染者の発表…ということは2週間前から感染していた可能性があるのだと。だとすれば、15日に亡くなる義姉の看護で家族は院内を出たり入ったりしていた時と重なるということ。だからその後の通夜や葬儀で、私たちも義姉の家族とは接触しているんだし、だれがどうなっても不思議はないという状況なんだよね~。

 それで、やっと弟が言った〝あれから熱は出なかったかね?〟という意味が分かりました。葬儀からもう2週間、みんなに異常が出でいないので大丈夫だろうという話で、やっと納得しました。

 と、ここまで書いて…

 また、また〝やっちゃった!〟んです。もう、情けないったらありません。前回の〝八重山諸島5島めぐり 3日間〟の(最後の石垣島)のブログを削除してしまいました。悔しい!これを復元させる方法はもうないんでしょうね?もしあれば誰か教えてくださ~い!

 訪問して〝いいね〟や〝応援〟など下さった方々…ゴメンナサイ! なぜ削除したかって?それはもう…慌てていたからとしか言い様がありません…トホホ……聞かないで!

 だからもう続きを書く元気がありませんし、写真も探す気力がないので、今日はこれでオシマイです。

 

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気分転換に〝水仙の花あれこれ〟をどうぞ!

2020年03月27日 | 俳句

 昨日山口では6人目のコロナ感染者が出ました。その前日に出た学生のお母さんだとか…やっぱり家族は一番の濃厚接触者ですから当然かも。でも、あれこれ騒がず静かに見守ってあげたいし、世間の目からは遠ざけて治療に専念できるようにしてあげたいものです。

 昨日は忘れずに医大の定期検診へ行きましたよ。前日から忘れていたら言ってよねと、主人にも頼んで…。でもよく考えてみれば、前夜の9時以後の飲食はダメというのをしっかり覚えていれば問題なく心配もすることないのに。もしこれを覚えているのに朝になったら忘れるようじゃもう認知症?

 結果は異常なし、エコーも血液検査も…。これでまた半年後まで一安心…とは限りません。最近の医学は細分化され数値化されていますので、そこでの異常が無ければ安心とは言えないんです。あれだけ定期的に病院に通っていても、〝どうして?〟というような症例や訃報に接したことは何度もあるのですから。だから私はこれはこれと考えて、他に気になることが見つかれば、他の病院などへ行ってみます。自分の体は自分が一番よく知っていますから。自分の命は自分で守らなくっちゃと常々思っているんですよ。

 ところで、コロナで東京の方が大変だという話が出たとき、医大の先生が自分の東京出張も全部中止になったんだよと。いろんなところに支障が出ているんですね。こんな調子では何もかもが停滞して、経済的にも回らなくなるのは目に見えていますし…ああこんなこと考え出したらきりがありません。

 確かに東京では日ごとに感染者が急増していますし、小池都知事は「週末の外出自粛」を要請し、それを受けての近隣県などでも外出自粛の要請を出したり、週末の東京への「移動自粛」まで要請するなど、これでは一層人々の不安をかき立てるばかりでしょう。更にはそれに加えて今度は不要不急の外出禁止などへの対策として、人々が食料品の買いだめを始めたとか…。これでは益々東京は混乱状態に陥り…だとすればこういうのは地方へもすぐに飛び火してきますからもう時間の問題ですよ。ああ、いやだ、いやだ!そのうち日本列島がまるで戦国時代のお城が次から次に炎上していくように火だるまになる危険な日が近づいているのかも。 いやいや、これは今や日本どころの騒ぎではないでしょ。朝のニュースではアメリカの感染者が中国・イタリアを抜いて一位になったとか、世界中の感染者が50万人を超えたとか…もはやこれは世界中の、地球規模での大問題なんでしょうから。

 こんなこと今更私のような者が書いたって、一文の得にもならないでしょうが、つい書かずにはおれなくて…、目障りな方はスルーしてください。でもとどのつまりは、一人一人が自分のこととして、自分のやれることを真剣に考え行動することしか出来ないのではと思います。どんな国であろうとも、ここで人類が賢く生き残るためには……。

 こんな時に暢気に桜の話なんてと思いますが、……。でも、あちらこちらで桜満開の写真に出会うたび、宇部では全くといっていいほど桜は咲いていないんですよ。もちろんソメイヨシノのことですが。家の近くの保育園に大きな桜の木があって、それが昨日見てみるとなんとまだ一輪か二輪ほどしか開いていませんでした。トホホッ…

 天気予報で山口県の最高気温などが報道されたとき、下関や山口、防府などは16度、17度といっているのに、宇部だけは13度とかなんですよ。いつも3~4度は低いんです。だから宇部の開花予想も他より少し遅くなることが多いのですが、まあ、こんな状態なのでしばらく花見はお預けにしましょうか。東京では花見さえも(見るだけですが…)できなくなるような感じですね。

 今日は朝から雨です。明日も…。それで15時の予約で美容院へ行って来ました。ちょっときれいになって気分転換でもしようかと…。それで、また八重山の最終回は次に回します。ゴメンナサイ…

 写真は、桜がまだですので、今日は少しでも気分がよくなるように、明るい花の〝水仙あれこれ〟をどうぞ。いろんな種類がありますので、皆さんコロナを忘れてしばし目の保養をしてくださいね。冬はニホンズイセンだけなんですが、春のスイセンは時期を少しずつずらして次々と咲いてくれますので本当にありがたい花ですよ。一部はお隣さんちのスイセンで~す。

 

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〝焼藷(やきいも)〟の話だよ!

2020年03月25日 | 俳句

 今日もまたいいお天気で、気分転換に庭に出て草取りを…ついでに枯れ木を燃やして、これは庭にかまどが造ってありますので、そこで燃やして澳(おき)を造り本当に〝焼き藷〟をするんです。

 昔は自由に焚き火が出来ましたが、今は法令で野焼きや焚き火は禁止されています。我が家では庭で煮炊きをするのにかまどを造って、タケノコを茹でたり…今はもう止めましたが餅搗きをするのに使っていました。これはやっぱり…いけないのかな?ウウ~ン、もしそうなら皆さん内緒ですよ。シーッ!(笑)

 この写真の藷は、友人が畑で作った大きな、大きな藷で、さてどうやって食べようかと迷って、まだそのままおいていたもの…ほら、どうです?おいしそうでしょ! いい具合に焼けた藷を半分に切って、それをまた半分に。この4分の1だけでも食べるともうおなかいっぱいです。

 これで今夜は楽勝…というわけにはいきませんよね。やっぱりお藷さんだけでは栄養的には不十分でしょうから。では、何を追加して食べたらいいのかしら?

 ところで、〝焼藷〟は冬の季語。江戸に焼藷屋が現れたのは寛政5年(1793)といいます。栗に近い味の意で「八里半」という行灯(あんどん)を出して売り始めたのですが、その後、栗より(九里四里)うまいという意で「十三里」などの看板も現れました。屋台の石焼藷屋は、関東大震災で東京の焼藷屋の店舗が激減した後、盛んになったということですよ。

  鉤吊りに焼藷菩薩壺を出づ    皆吉爽雨 

    (かぎつりにやきいもぼさつつぼをいづ)

 今では殆どの焼藷屋さんは軽トラックなどに専用の釜を積み込んで、笛を鳴らしたり、「いーしやぁーきいもー」という独特の節回しで売り回るのが定番になっています。また、お祭りなどでお店を出していたりもしますので、何度か買って食べたことがあります。今はスーパーでも売っていますので、つられてつい買ってしまうことも。

 上掲の爽雨の句は、壺の中で藷を吊るして焼く〝壺焼藷〟のこと。私の子供の頃は駄菓子屋などでよく見かけましたが、壺型の器の中に鉤の手の針金で藷を吊し蒸し焼きにするものです。その鉤で吊り下げている藷を〝菩薩〟に見立てたものでしょう。しかし、庶民の食べる藷という超世俗的なものと俗世を超越した仏、それもお釈迦様が修行中の頃の姿であるという菩薩なんて。それを結びつけたところが、なんとも可笑しくってつい吹き出してしまいそう。さて、さて、お藷菩薩様はこんがりと色よく焼かれてどんなお顔で出てこられたのでしょう。想像するだけでも楽しくなりませんか。更にそれをアッツといいながら、菩薩の頭からパクりと…ああ、これぞ至福のひととき!……なんて、…いかがですか?

 考えてみれば、子供の頃のおやつにはふかし藷が多かったので、また~!という感じであまり好きではありませんでした。しかし、結婚してからは、母が送ってくれる畑の藷が懐かしくて、よく食べるようになりましたが、主人は嫌いだといってめったに手をつけませんでした。それなのに時々焼藷にすると、おいしいといって食べるんですよ。確かに焼藷にすると食べたりして、嫌いという人が減りますね。特に女性は…。なぜなんでしょう?

 ああ、そうそう、私が最初の子の妊娠でつわりがひどく何も食べられなかったとき、この母の藷だけは受け付けて吐かなかったんです。なぜなのかは分かりませんが、本当に不思議でした。だからといってその子…女の子でしたが、藷が好きで好きでたまらないということでもないんですがね。あのつわりって何だったんでしょう。このことは主人も覚えていて、時々〝あのときは藷ばっかり食べてたよなあ〟なんて、懐かしい話です。

 もう一つ、〝焼藷〟には、私にとって忘れられないことがあるんです。まあ、聞いてください。

 それは私が初めてのインターフェロン治療を受けた平成5年(1993)のこと。半年間の苦しい治療が終わったとき、やっとの思いで俳誌「馬酔木」に投句した五句が初めて巻頭になったんです。

 今は亡き水原春郎先生がその五句の中から秀句として取り上げ書いてくださったのが、次の句とその下の鑑賞文。

  焼藷を包める今も新聞紙

焼芋と古新聞紙、なんとも懐かしい。父が懐から取り出す焼藷、勿論、新聞紙にくるまれていた。俳句は気品の高いことも大切。しかし、時にはこのような軽妙な句も悪くない。

 ちなみに、そのときの他の四句は、

  河豚雑炊(ふぐぞうすい)一気に啜(すす)り厄落し

  蕪煮(かぶらに)や病後を久に厨事

  薬害の日にけに薄れ日記買ふ

  大根の菜飯の青さ食戻る

 振り返ってみると、今更ながらどの句もこれといって取り上げるところのない未熟な句ばかり。だってまだ馬酔木に投句し始めて5年足らずですもの。最初の句などは〝河豚〟も〝雑炊〟も冬の季語。おまけに〝厄落し〟まで…なんともお恥ずかしい限りです。しかし、私にとってその時はただ投句するだけで必死だったのです。句の出来の良いの悪いのなんて全く問題ではなく、ただひたすら五句揃えて出すこと、それも絶対に欠詠しないようにということ、それだけを守るのが精一杯だったんですから。きっとその様子が春郎先生には毎月の選句で、手に取るようにお分かりになったんでしょう。だってなんてったって、正真正銘のお医者様なんですから。それで、やっとの思いでその地獄のような闘病生活を終えて、平常を少しずつ取り戻そうとしている私への、これは、句の善し悪しを抜きにしての先生からの〝エール〟だったんだと、あの時も今も信じています。初めての巻頭は、まるで夢のようで、今までのあの苦しみが一遍に吹き飛んでしまった気がしました。やっぱり春郎先生は〝名医〟だったんです。

 本当にありがとうございました。あ~あ、こんなこと書いてたらもう一度春郎先生にお会いしたくなりました。お父さん、お母さん、お兄さん、お姉さん…み~んなあっちへ行っちゃって…、もし先生に会ったらよろしく言ってくださいね。

 今日は〝焼藷〟から変な話になりましたので、八重山の話は次にしますね。では、また…

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〝八重山諸島5島めぐり 3日間〟へ!(小浜島)

2020年03月23日 | 俳句

 このところの陽気につられて久しぶりに外に出て、昨日も今日も庭の草取りをしました。取り始めるとついついもう少しと…、でも右足は相変わらずギブスをしていますし、左膝は痛いしでボチボチとなんですけどね。しかし、手はなんともありませんから、もう少しきれいにとも思うのですが…そこは目をつぶってとても雑に大きな草だけをなんですよ。

 しかし、太陽を浴びるということがどんなに体の健康にいいかということをつくづく実感させられました…もちろん精神的にもですが。私は足がこんな状態だから仕方がないんですが、どこも悪くなかったら毎日こんなに鬱々と家に引きこもってばかりいたら、ホント、免疫力なんかなくなってしまいそうですよ。こんないい季候の時は大いに外へ出て太陽の力をもらい英気を養わなくっちゃ!そうすればコロナウイルスなんか恐れて寄りつかないかも…なんて、思ってしまいました。

 なんだか何もかもにサボり癖がついたみたいで、ブログにも今ひとつ気合いが入りません。ホントは、一昨日から今日、明日と句会や教室が続き、今は一番忙しい時だったんですが、みな通信になって…気も抜けますよ。やっぱり句会は実際に顔を見てやらなくっちゃ!

 今日だって、会館の閉鎖が26日までだから27日の句会は大丈夫と思っていましたら、4月7日まで延長されたのでダメですと連絡がありました。これで本当に今月の句会は全滅です。

 まだ来月の予定は全くわかりませんが、4月上旬のあちらこちらの開講式はすでに中止の連絡が来ています。昔から〝待てば海路の日和あり〟といいますが、いつまで待ったらいいのでしょうか。

 さて、さて、〝八重山諸島5島めぐり 3日間〟の最終日は、〝小浜島〟でした。

 この日はもうホテルには戻らないので、荷物を整理してから朝食へ。怪我のためホテルの庭などゆっくり見ていませんでしたので、食後に散策をして名残を惜しみました。

 8時過ぎバスでまた石垣港へ。この港ももうこれで何回目かしら。ここから船で25分、小浜港へ到着です。途中では海上保安庁の船が何隻も尖閣諸島への出動がすぐできるように待機しているのが見えましたよ。

 小浜島は、八重山諸島のほぼ中央部に位置し、石垣島から約17.7㎞、西表島との間にヨナラ水道をはさんで2.5㎞の海上にあります。NHKドラマ「ちゅらさん」の舞台として知られる島で、なだらかな丘陵にはサトウキビ畑と牧場が広がり、ヨナラ水道ではマンタがよく見られるので別名マンタウェイとも呼ばれています。さらに島の中央にある標高99mの大岳(うふだき)の、245段の石段を登ると、私は登れなかったので見ていませんが、エメラルドグリーンの海と与那国島を除く八重山諸島の8つの美しい島々が見渡せるんです。また、島の東側にはリゾートホテルやゴルフ場があり、アダンやガジュマルが生い茂った、リーフに囲まれたリゾート地でもあるそうな。

 島の真ん中のサトウキビ畑の間に1本まっすぐな〝シュガーロード〟とよばれる道が通っており、連続ドラマ「ちゅらさん」のロケにも使われて、この景色が小浜島の代名詞として一躍有名になりました。どこまでも続いているような、空までつながっているようなまっすぐな一本道、私たちはバスで通りましたが、自転車で風を切って走ればきっと爽快なことでしょう。だからここには貸し自転車がたくさんあるんですね。

 また、ガイドさんの最近の話題では、この島に急に野生のクジャクが増えて、それが農作物を荒らして困っているんだと。ところがそれが今では観光の一つにもなって、島にとっては痛し痒しなんですって!何でもこの島には珍しいものがないので観光の目玉にと、ホテルが放し飼いにしていたクジャクが繁殖しすぎて、それを学校などに配ったら、その小屋が台風の時に壊れて全部逃げて野生化したのだそうです。今では駆除の対象にもなって…かわいそう。なんとかクジャクを見つけて写真を撮ろうと思ったのですが…。この程度で…ゴメンナサイ!

 もう一つ珍しいものとして、亀甲墓というのがあります。これは小浜島だけではなく、沖縄県に多くみられる墓で、墓室の屋根が亀甲の形をしているため、この名がついています。 琉球王国では、士族の墓とされていたそうですが、明治12年琉球藩から沖縄県になったのをきっかけに、庶民にも急速に普及したんだそうです。

 小浜島内観光は1時間の予定でしたので、「ちゅらさん」で使われたおばあの家「こはぐら荘」なんかは現在人が住んでいますので、バスから眺めるだけ。透き通って美しい細崎海岸では珊瑚のかけらを拾ったりと、あっという間に帰る時間になってしまいました。

 

 昼頃にはまた石垣港へ戻って、バスに乗り昼食会場へ。その後最後の観光地としての「バンナ岳展望台」へ行くのですが、それはまた次にしましょうか。

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〝八重山諸島5島めぐり 3日間〟へ!(由布島その2)

2020年03月20日 | 俳句

 今日はお彼岸の中日…、そう、春分の日です。

 「春分」は、二十四節気の一つ。太陽が春分点(太陽が赤道の南から北へ移る点)を通過する時刻を春分といい、その日を春分の日とよびます。太陽は真東から出て真西に沈むため、昼と夜の長さが等しいことになるので、「中日」はこれに由来しているのだと。この日以降、夏至までの間、昼の時間はだんだんと長くなります。

 「彼岸」といえば、春分と秋分とをそれぞれ中日として、その前後3日間ずつ、計7日間をいいますが、俳句の季語としては、「彼岸」だけなら春、秋の場合は「秋彼岸」「後の彼岸」といって区別しています。

 また、「春分の日」となると、「自然をたたえ生物をいつくしむ」日として「国民の祝日に関する法律」により定められたものですから、同じ日であっても仏教的な意味合いを持つ「彼岸中日」とは多少雰囲気が違ってきますね。

  山寺の扉(と)に雲あそぶ彼岸かな     飯田蛇笏

  見上げゐる春分の日の時刻表        井上康明

 さて、〝八重山諸島5島めぐり 3日間〟への、(由布島その2)です。

 集合時間までまだ少し時間がありましたので、「蝶々園」へ行ってみました。ここでは白黒のまだら模様が特徴的な日本最大級の蝶「オオゴマダラ」を見ることができます。美しい羽根を広げてゆったりと飛ぶ姿は、とても幻想的です。そして、一番驚いたのは、その蝶のサナギがナント黄金色!初めて見ましたが本当にきれいな色でした。これは、〝ホウライカガミ〟という毒性のある葉を食べるので、サナギにも毒性があることを知らせるための警戒色だということ。また、ここで見られる蝶たちは本州ではほとんど見られないものが多いようで、他にリュウキュウアサギマダラ、カバマダラ、シロオビアゲハ、ベニモンアゲハなどがいましたが、西表の市蝶や竹富の町蝶になっているというツマベニチョウは見つかりませんでした。ザンネン!

 戻る時間が来てこの島ともお別れ…また、水牛車に乗って美原へ。名残惜しい!

 ところで、面白い話。途中水牛車が止まって動かなくなり、どうしたのかしらと見ていると、目の前の水牛のお尻がもりもりと膨れてきて……ポトン…じゃあない、ベチャッかな。大きなものを二ひねりほど。なんせ帰りは一番前に座っていたもんで…アハッ。そして、ゆっくりと歩きだし、しばらく行ったかと思うと、また立ち止まり…エエッ、今度は何???そうです。おしっこでした。馭者さんに、〝もしかして水があるところでしかしないのですか?〟と聞いてみると、そうなんですって。 ワアッ、水洗なんだ!(大笑)

 美原からバスに乗って大原港へ。バスのシンボルマークはイリオモテヤマネコでした。

 そこからまた船で石垣港へ戻り、ホテルへ帰りました。その夜は、ホテルの〝舟蔵〟で沖縄郷土料理の〝八重山会席〟をいただきました。このホテルでは毎日20時からロビーでエンターテイメントショーが実施されるのです。前日は〝三線〟のライブがあったそうですが、私と主人は病院へ行ってそれどころではありませんでしたから、今日は最後の夜ということで、最前列で鑑賞しました。この日の出し物は、何かと思ったら〝フレアカクテルショー〟。これは、BGMに合わせてお酒のボトルやシェイカーをダイナミックにパフォーマンスをして、派手なカクテル演出をするエンターテインメントを兼ね備えたバーテンダーショーで、映画とかでは見たことがありますが、実際に目の前で見るのは初めてでした。

 もちろん子供たちもたくさんいますので、お酒ではなくジュースだということでしたが、レインボーカラーのカクテルが出来上がっていくのもきれいだし、それに灯がつけられたりしてとても魅惑的でした。最後に出来上がったカクテルを今日のお客様の中で何かの記念日とかで来られている方へ差し上げます…というので、早速私の誕生日の記念とS夫妻のダイヤモンド婚で来たことを告げると、それぞれにカクテルをいただきました。新婚旅行だというカップルもいたりと、本当に今回の旅のいい記念になりました。下の写真はS夫妻。

 この旅もとうとう明日の小浜島を残すだけになりましたが、それはまた次へ…

 

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〝八重山諸島5島めぐり 3日間〟へ!(由布島その1)

2020年03月19日 | 俳句

 昨日も今日も全くのいいお天気、サンサンと太陽のあふれる春の陽気で…外のベンチに座っていると、ついうとうとと眠くなってしまいます。

 テレビでは相変わらずコロナのニュースばかり、その上にあまりにもあっけない義姉の死が加わって、なんだか箍の外れた樽のような…。体中の何もかもがばらばらに機能している、いや機能しなくなった状態かも、それで時間だけが過ぎていくのです。でもなんだか時の流れが今までと違ってゆっくりしているような。あの目まぐるしい時は時間がなくてあっという間に…という感じでしたが。同じ時の流れでもこんなに違うんですね。

 しかし、これに慣れてしまうと、今度は忙しい日々がまた始まったときにとても苦労しそうで、怖い!それも困りますけどね~。

 ところで、先日の義姉の葬儀後火葬場へ行き、もう夕方でしたが、お骨拾いの時です。義姉は10年以上も前に両ひざとも関節の置換手術をしていましたので、お骨の中に焼けずに残っていました。それを見て、こんなのがと…ちょっと複雑な思い。

 実は前にも書きましたが、我が家の家系はほとんどがО脚で、早かれ遅かれ膝が悪くなり手術するのも時間の問題と…。そのトップバッターの弟が5月に手術をすると聞いていましたが、この度の葬儀で兄に会うと、この4月中旬、自分の方が先に手術をするのだと聞いてびっくり!

 それも、兄は手術実績が大分で一番のところで、弟は2番目のところなんですって。だから2人も先にするので、その話をよく聞いて参考にしてやったらいいなんて…ひと事ではありませんけどね。あと2人弟がいますので、それもきっとそのうちに順番が来るだろうなんて、まるで笑い話のようでしょ!おまけに2番目の義姉も足が悪いので杖を突いて歩いています。それで、その3人が並んでよっちらよっちら歩いている姿を見ると、ああ、私もそのうちすぐにこの仲間に加わって…ほら、杖の一家だなんて滑稽!(笑)

 そんな話をしながらこの火葬場へ来ていましたので、お骨拾いも他人ごとではなかったんです。あの世に行って歩けないと困るだろうからと、甥が骨壺にその金具を納めてやっていました。合掌

 さて、さて、お待たせしました。〝八重山諸島5島めぐり 3日間〟のつづき、〝由布島〟です。 

 この由布島(ゆぶじま)は、周囲2.15㎞・海抜1.5mの小さな島で、島全体が亜熱帯植物園になっており、島へは、対岸の西表島から遠浅の海を水牛車に揺られながら、のんびり渡ります。園内には、人気のハイビスカスが約30種類。亜熱帯特有のヤシ類10数種、オオベニゴウカン・アデニュームなどの花木やグァバ・パパイヤなどの果樹を合わせると100種類以上。色とりどりの植物が一年を通して楽しめますし、他に「蝶々園」や「ブーゲンビレアガーデン」などもあって楽しめるところです。

 この由布島が現在のような〝亜熱帯植物楽園〟になったのには、とても涙ぐましい努力があったんですって。パンフに〝由布島ヒストリー〟として書いてありましたので、どうぞ…

 かつての由布島は、武富島や黒島から移り住んだ人々で栄えていました。その頃農耕用ととして活躍していたのが「水牛」で、昭和7年頃、台湾の開拓民と共に石垣島へ渡ってきました。水牛は、当時〝水牛2頭で家が建つ〟と言われるほど大変高価なものでした。昭和30年ごろには各家庭に1頭の水牛が飼われるまでに島は栄えましたが、昭和44年のエルシー台風で大きな被害を受けた島のほとんどの人々は、由布島の対岸にある美原地区(西表島)へ移っていきました。そんな中故・西表正治おじい夫妻は島に残り、「島をパラダイスガーデンへ」のロマンを描きながら1頭の水牛で土や堆肥を運び、ヤシや花を植え続け、手造りの楽園を造り上げたのです。それは老夫婦の人柄と情熱に感化された人々の多くの援助があったからでもあります。

 現在由布島にいる水牛は、アジア水牛で40頭余り。一頭一頭それぞれに名前が付いていて、食事は1日2回朝と夕方で、エサは牧草や穀物など。水牛車を引くには、生後2~3年から調教を始め、早い水牛で半年から1年でお客様を乗せて引けるようになるそうです。寿命は約30年、現役で水牛車を引くのは、15~20年位。水牛は、太くて大きな角が特徴的で、水を大変好み暑い日には一日中池の中にいるんですってよ。

 私たちは、西表島の美原から水牛車に15分間揺られて由布島に渡り、昼食後自由行動で島を散策しました。まるで命の洗濯…本当に楽園に来た感じです。

 先ずはマンタが来るという〝マンタの浜〟へ。今日はマンタは来ていませんでしたが、白砂の浜と真っ青なサンゴ礁の海、おまけに青空と、申し分のない南国気分に浸れました。近くにいたカラス、ちょっと小さいけどハシブト…八重山カラス???枝に止まって近づいても全く逃げません。人に馴れているのでしょうか。調べてみると、ここにいるカラスはオサハシブトガラスといって一回りくらい小さいんだと。鳴かなかったから分からないけど、鳴き声は同じなのかしら。

 次にブーゲンビレアガーデンへ。目の覚めるような鮮やかさ…しかし、温室なのでさらに熱気が…暑い暑いと言いながら、次の蝶々園へ移動しました。1時間の自由時間なんてあっという間でしたね。

 それでは長くなりましたので、次の〝蝶々園〟はまたにしますね。

 会うことはできませんので、せめてイリオモテヤマネコのモニュメントでも。亜熱帯特有の珍しいオオベニゴウカン…これはデカいねむの木の花なんですってよ。ガジュマルも…。そういえば、ここはハワイと緯度が同じぐらいだったんですものね。納得!

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〝終活〟のことなど…

2020年03月16日 | 俳句

 今日は義姉の通夜が夜19時から、明日の13持からは葬儀ということで、午後から大分へ出かけます。

 昨夜から主人と話したこと。私の父の時は…、姉の時は…、じゃあ兄の時はと考えてみると、全くといっていいほど覚えていません。主人も義父の時のことなどとちゃんぽんになっていて、あれはどうした? じゃあこれは? と、二人して何もかもが曖昧。人間の記憶というものがいかにいい加減かということを思い知らされました。せいぜい3年ほど前の母の時のことぐらいしか思い出せないんです。

 こんな調子なんですから…香奠いくら包んだかと聞かれても、??? この年になれば…ナンでもメモをしておかないといけませんね。また、子供たちにもいろいろ教えておかないと…。確かに今時は余り堅苦しいことを言わなくなったかも知れませんが、今後もし喪主になったときの手はずなどは一応は頭に入れておかないと。

 無知で何もかも葬儀屋さん委せというのは、まるで赤子を相手にするようなもので、いいようにあしらわれたとしても文句が言えませんもの。全てにお金の要ることですし…しっかりした人が付いていれば別でしょうが、また懇意の葬儀屋さんだったら…。でも、懇意にしている所などそうはないでしょうし、日頃から調べたりしておかないといけませんね。葬儀費用の相場というものも知らずに、後からいろいろ聞いたり、教えて貰ったりしても、まさに〝後の祭り〟ですよ。もし私や主人がボケて、息子が喪主にでもなろうものなら、どうなることやら…。また、突然亡くなったりすると、何がどこにあるのやら、何をどうしたらいいのやらと、混乱するばかりでしょう。やっぱり〝終活〟というのが、そろそろ必要かなと考えてしまいました。だって、義姉は私よりたった2歳上でしたから。兄もいないから当然長男の甥が喪主になるのですが、昨日弟から電話が掛かってきて、〝あいつは何も分っとらんぞ。どうなるんじゃろ…〟と心配していました。もういっぱしの歳にはなっていますから大丈夫だとは思うのですが、でも世間的なことや親戚付き合い、また一族の祭祀のことなどは全て義姉が一手にやって来ていましたので、そういうことは何も知らずに育ったことでしょう。

 ある意味それは幸せなことなんですけどね。そういうことに通じているというのは、不幸なことを何度も経験した人でしょうから。考えてみれば主人も私も喪主を務めたことがありません。だから、子供たちが何も知らないのは当然。私の直ぐ下の弟は幼い我が子を2人も亡くして、2度も葬式をしていますので、そういうことにはすぐに気が付くのでしょうが…。なんだか淋しい話になりましたね。でも現実に刻々と近づいている問題ですもの。

 今日の写真は、せめて明るく…。先日の句会場の玄関先に活けてありました。この桜大好きなんですが、何というのでしょう。早咲きですから〝河津桜〟? ちょっと違うような…じゃあ〝コヒガンザクラ〟かも??? 桜には余りにもいろいろな名前が付いていて、ソメイヨシノ以外は覚えきれませ~ん。ゴメンナサイ!

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〝八重山諸島5島めぐり 3日間〟へ!(西表島)

2020年03月15日 | 俳句

 今朝7時頃に突然電話のベル…何ごとかと思ったら、義姉が亡くなったという報せでした。〝ああ、やっぱり…〟という思いで、それ程は驚きませんでしたが、さすがに気が滅入ります。

 この1月中旬にお見舞いに行き、顔も見て話もしてきましたが、その後の連絡では3月いっぱいが無理かもと聞かされていましたので、ある程度の覚悟は出来ていたつもりです、が…ショックですね。

 義姉は長男のお嫁さんでしたので、兄が59歳で亡くなった後は母と同居して暮らし、私はいつもそこへ里帰りをしていました。それで、何かとお世話になり、いろんな話もしてきました。母が亡くなってからは体調を崩してしまい、それでも俳句を作るようになってからは雑誌などにも載るようになったと、本を見せて喜んでいましたのに…。これでいよいよ里が遠くなってしまいました。本当に淋しい限りです。

 さて、〝八重山諸島5島めぐり〟の2日目。今回の旅の一番の見所は、東洋のガラパゴスといわれる西表島のマングローブクルーズです。

 竹富港から30分足らずで西表島の大原港へ。

 西表島は、沖縄本島に次ぐ大きな島で、島の殆どを山岳がしめていて、その90%以上が熱帯、亜熱帯の原生林に覆われています。また、ここの気象は亜熱帯というより熱帯に近く、降雨量は年平均2.600㎜以上と圧倒的に多くて、熱帯雨林の様相を見せています。このジャングルの中にイリオモテヤマネコ、カンムリワシ、セマルハコガメ、ナリヤラン、ヤエヤマヤシ、サキシマスオウノキなどの世界的に珍しい動物や植物が生息しているのです。

 早速港について、遊覧船を待っているとき、パイナップルに似た果実の成っている木を見つけました。トゲのある葉が特徴で、夏になると甘い香りを放つ橙色の果実をつける「アダン」という木ですって。マングローブに生息するヤシガニの大好物で、「阿檀」と書き、タコノキ科タコノキ属の常緑小高木。亜熱帯から熱帯地域の海岸近くに生息し、成長すると茎から木根が地面に伸びて支柱根となり、風で倒れないように体を支えている。ちなみに沖縄では古くからアダンの葉を煮て乾燥させ、繊維をゴザやかごに加工して利用されてきたそうです。また、八重山地方では、アダンの新芽を湯がいてあく抜きし、煮物や炒め物として食べられることもありますが、果実は繊維質で細かいトゲを持っているため、食用には適していないんですって。

 どなたかが落としたサングラスでしょう、それをこんなふうに…なかなかオシャレで、似合ってる!

 私たちは、先ず〝仲間川マングローブクルーズ〟へ。これは天候や潮の干満によって体験できないこともあるのですが、この日は急遽プランが入れかわってしまったので、潮が引きすぎると奥まで行くことが出来ず最大の見ものが見れなくなるということも心配されましたが、ぎりぎりセーフ。ヨカッタ!

 仲間川遊覧船乗り場のある仲間大橋のたもとから約1時間のクルーズです。クルーズ船の船長さんが川沿いを面白おかしくガイドしながらまわってくれ、折り返し地点でサキシマスオウノキの巨木を見学して戻ってくるコースです。
 
 
 

 この仲間川は、西表島南部の南風岸岳付近を源流に、島の南東部を流れる全長17.5キロの川。上流域は亜熱帯植物が茂り、下流域は国内最大の面積を持つマングローブ林が広がっていて、流域全体が原始のままの姿だとされ、仲間川天然保護区域に指定されています。

 ところで、このマングローブとは、そういう名前の植物を指すわけではありません。熱帯・亜熱帯地域の河口付近など潮の満ち引きのある潮間帯に生育する植物の総称をマングローブと呼んでいます。マングローブ植物は、世界に70~100種類生育するといわれていますが、日本では、鹿児島県、沖縄県で見ることができ、西表島では、日本に生育する7種すべてのマングローブに出会えるそうです。

 日本国内にあるマングローブ林は約600ヘクタール。このうちの25%、約160ヘクタールを仲間川流域が占めていて、うねうねと蛇行する川の両岸には、多くの野生動物が生息し、冬にはカンムリワシが飛来することもあります。川にいるシジミは大人の手のひらほどもあるビッグサイズ。天然記念物に指定されたヤエヤマヤシの群落もあり、所要時間は55分から70分。折り返し地点では船を降り、板のような形をした根(板根)を持つことで知られるサキシマスオウノキを見に行きました。1982年に発見されたもので、板根部分の高さが2.5メートル。樹齢400年と推定される古木なんですよ。

 そういえば、ここにしかいないという〝ミナミコメツキガニ〟は見られませんでしたが、樹上にカンムリワシがいるのを、私が発見して〝ほら、ほら…〟と言っているうちに通り過ぎ…、写真はダメでした。船長さんに聞くと間違いないと。クヤシイ!帰りはどんどん潮が引いてこんなに水嵩がなくなり、支柱根もむき出しに…

 この後は、昼食をとり、由布島へ。これはまた次に…。

 

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コロナ旋風の中、さあいざ吟行へ!

2020年03月14日 | 俳句

 今日は、吟行会でしたので、八重山諸島の続きは次にして…

 ところが、久し振りの吟行だというのに、朝起きると雨☂…これは今までにないこと。でも天気予報を見ると、雨のち晴☀ですよ。フウ~ン、まあいいか、そのうち晴れるのなら大したことないだろうし…、と出かける用意をしていると☎。

 〝先生、集合場所間違ってませんか?〟〝どうして?〟〝だって、門が閉まっていて入れませ~ん!〟〝あらそうなの…じゃあ隣の総合庁舎の駐車場で待って。他の人も見かけたらそう言ってね。〟と。するとまた☎…

 いつものフォーユーの駐車場がコロナ騒ぎで土・日は閉鎖されていたようです。じゃあ急いで行かなくっちゃと…立ち上がった瞬間、今度は首に掛けていたペンダントの紐が切れて玉がパラパラッと散ったんです。何コレ?今日はヘンよ。何にもなければいいけど…と不吉に思いながらも出かけました。

 今回の吟行はフォーユーの午後と夜間の合同でしたから、いつもは結構多いんですが、コロナ騒ぎで不参加が多く、合計8名でした。だから、私とIさんの車2台で…もちろん私の車の運転は主人ですのでご心配なく。

 みなさん元気、元気、ちっともコロナなんか気にされていませんでした。却ってどこにも出かけられずにクサクサしていたので、ヨカッタなんて喜ばれて。私の方が気にしてそれぞれの車で行く?なんて聞いても、いや便乗したほうがいいと。出発した頃には青空が…そのうちお日様まで…。これでまず、まず一安心。

 おまけに、ちょうどいい具合にIさんの家の近くを通るというので、念願のお庭を見せて頂くことに…

 これは、Iさんが以前水琴窟の句を詠んでいましたので、〝どこで聞いたの?〟と聞くと、我が家にあると。〝ヘエッ、スゴイ!いつかみんなで見に行ってもいい?〟〝どうぞ、どうぞ。いつでも…〟と話していましたので、それがやっと実現したのです。ヤッター

 それで先ずは、Iさん宅へ寄って行きました。それはそれは立派なお庭…確かに水琴窟の音も聞かせてもらいました。辺りはちょっとした林で、鶯がいい声…。今は馬醉木と椿がキレイに!もうじき桜、それも薄墨桜なんですって。更にはアプローチの石畳に差し掛けるように並んだ紅葉…さぞかし秋はいいでしょうねと言うと、〝わざわざ差し掛けるように斜めにして植えたんですよ〟だって。〝紅葉かつ散る〟を地で行くようね。その頃またお伺いしたいわなどと言うと、OK…みんなでイェ~イ!

 これだけ俳句的な環境にいれば、いい句を詠まなくっちゃねと言いながら…本来の目的地〝三神社〟へ。

 三神社は、宇部市の東、JR丸尾駅から東へ1.3キロメートルに位置し、瀬戸内海に面し自然景観に富んだ風光明媚なところで、丸尾港の守り神、〝住吉大明神・厳島大明神・八代龍神〟をお祀りしています。先端まで行けば一望に東岐波の海も見渡せる気持ちの良い散歩道があり、この一帯が平成4年には風致公園〝三神公園〟として開設され、地域のコミュニティーの場、自然の景勝地、また、やすらぎとうるおいのある市民の憩いの場として親しまれています。2枚目の鳥居は海へ続いていますし、桜の頃はきっとキレイでしょう。

 今回初参加で、以前歴史の会に入っていたという人が、〝近くにこんないいところがあるなんて知らなかった〟と、ビックリしていました。

 また、次に行った〝若宮古墳〟も始めてだといって、今回参加して良かったと喜んでいました。

 この若宮古墳というのは、東岐波の若宮海岸近くの高台にあって、約1,400年前に造られた5基の古墳群です。横穴式石室という、死者を埋葬する部屋を土で丸く覆った円墳で、規模はそれ程大きくはないのですが、2,3,4号は複室構造の石室です。全て石室下部しか残っていなかったようで、現在は公園となり2,4,5号は石室を埋め戻して墳丘復元、1,3号で石室が公開されています。(2号墳の墳丘写真忘れたのかな?)

 古墳からは、多くの須恵器や装身具(ヒスイ・メノウ・水晶製の勾玉やガラス小玉、碧玉製管玉など)の他に、鉄鏃や刀子などが出土しました。

 周辺地域を支配していた豪族とその家族の墓と思われます。(宇部市のホームページより)

magatama

上から

<耳輪(金環)>

<碧玉製管玉>

<水晶製切子玉>

<ガラス小玉>

(萱曲古墳出土)

下:<勾玉>

(左から水晶・メノウ・ヒスイ、メノウ・メノウ)

(若宮古墳)

tubo

<平瓶>   <提瓶>

sara

<坏と坏蓋>

hai

<高坏> <はそう>

kusi 

<鉄鏃>

 さて、12時近くなりましたので、昼食と句会場へ移動です。

 そこでついにアクシデントが…。駐車場へ入ろうとしているときに、無理に横を通り抜けようとした車がいて…。私は降りて入口で待っていたんですが、〝ドン!〟という音が聞え、急いで見に行くと、ああ~!でした。相手の方が〝わあ、大丈夫と思って…〟と、謝られたのですが、傷が付いてへこんでいましたので、保険を使うなら事故証明が…ということで、警察へ通報。

 この近くの方ということなので、後から連絡してもらうようにして、先ずは食事を…。ああ、これが朝の虫の知らせだったのかしら、まあ、この程度でよかったわなんて思わなくっちゃね。実は、これみんなに朝〝先生も骨折この程度でよかったと思わなくっちゃ〟と言われっぱなしだったもの。

 一応、話も付いて無事句会も…といいたいところが時間切れとなり、場所を変えて続きをやり17時前には終了しました。〝コロナなんか飛んでけ、飛んでけ!〟といって、またを約束して解散。皆様お疲れ様でした。 

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〝八重山諸島5島めぐり 3日間〟へ! (竹富島)

2020年03月13日 | 俳句

 昨日は全国的に晴れマークの暖かな1日。なのに…いや、だからでしょうか、大ポカをやってしまいました。多少頭の方が緩くなって、真剣に考えることがあまりないからかも…あれもこれもということが出来なくなった昨今です。一点集中なんて、俳句だったらとてもいいことでしょ。というわけで聞こえはいいのですが、要するに一つのことにしか頭が回らなくなったということ。

 さてさてこんな調子で、この1ヶ月を…いやもっとかしら。もしかして2ヶ月か3ヶ月?と続いたとしたらどうなるのでしょう。緩んでしまった頭を元に戻すのはこれは大変なこと!順調に回っていたものが一度狂ってしまうと何もかもがおかしくなります。今の私がその通り…。まあ、聞いてください。

 昨日の朝、ピンポ~ンと…何かしらと主人に出て貰うと、義母のために購入したミニファンヒータが届いたとのこと。もう今さらの感がありますが、入浴時の脱衣場が寒いというので、早速購入。さて、今日は2週間後のレントゲンと診察のため整形外科へ行く日。そのついでに義母のところへも寄って届けて帰ろうと…。

 いつも病院へは午後に行くのですが、木曜日は午前中のみ。それで朝からその通院のための入浴をし、ギブスの巻替えをしたりして出かけたのはいいのですが、慌てていたので、〝アッ、マスクを忘れた!〟と。コンビニで買おうにもないし…まあ、また病院で売ってくれるかもと、行ったら診察室はガラガラ。12時前ですから当然かも…でも日頃はそんなことはなかったのに、やっぱりコロナの影響でしょうか。黙って診察券を出すと、マスクのことは何も言われずにホッと…、やっぱり内科とは違うんでしょうね。

 レントゲンの結果は変化なし…まだ2週間余りですものね。〝先生、これで骨が接ぐんですか?〟〝それを期待しておるんじゃが…〟〝エエッ、じゃあダメなら…〟〝まあ、転ばんことじゃの。しっかり固定して気長に…〟とは、ナンとも心許ないかぎり。とにかく痛み止めや湿布などを貰って1時過ぎに帰宅しました。

 お昼を食べながら…アレッ!これは何?  とんでもないことを忘れていたのでした!カレンダーにしっかり赤ペンで書いていたのに。そうなんです。今日は医大の半年に1回の検診日。ああ、もうダメ。診察だけなら予約があるから今からでもまだできるのですが、血液検査と腹部エコーの検査は朝一番。それにこれは昨夜9時過ぎから朝の検査が済むまで飲食はダメなのに、そんなこと頭からスッポリ抜けていましたから、お構いなしに食べておりますっちゃ!だから全てアウトです。

 すぐに電話をして、お詫びと次の予約を先生にお願いしました。その結果3月26日に予約が取れて、一件落着。ワタクシとしたことがナンと……何言ってるか。よくやることじゃろ!とは、横からの茶々…。

 というわけで、今日は〝八重山諸島5島めぐり〟の2日目、〝竹富(たけとみ)島〟の観光だけですが…どうぞ。

 竹富島は、石垣港から高速船で約10分の沖合に浮かぶ、周囲約9㎞の小島。赤瓦屋根の民家に様々な表情のシーサーたち、真っ白なサンゴ砂の道に色鮮やかな花々、三線の音色とともにゆっくりと集落を散策する水牛車…。純朴で美しい昔ながらの沖縄の原風景が残る竹富島は、国の重要伝統的建造物群保存地区にも選定されており、八重山屈指の人気観光地でもあります。……とは、パンフレットのキャッチコピーだよ!

 しかし、その通りの島で、お天気もよかったせいか、のんびりと水牛車に揺られながら三線を聞いていると、遠い琉球の世の自然で豊かな暮しが思いやられて、まるで別世界へ来たようでした。骨折がなければ、もっとよかったのでしょうが、でも車椅子を押して貰い、却ってみんなに気を遣って貰ったりして、全て同じように観光が出来たのはホントに有り難かったです。みなさまアリガトウございました。

 写真は、石垣港から竹富港へ船で。降りてガイド付きのマイクロバス観光。星の砂で有名な皆治(かいじ)浜へ。ここで星の砂のストラップを5色も買ったのですが残ったのはこの二つ。1個300円でした。その後、水牛車観光へ。牛さんに近寄らないでと言われましたが、なんともおっとりとして…黙々とよく働く水牛たち。それぞれにみな名前が付いていて、働き盛りは5,6歳からとか。女の子は耳にハイビスカスの花を付けてもらって、車も小振りのものだそうです。後から行く由布島もそうでしたが、水牛様々なんですね。花はこの島ではブーゲンビリアが見事でした。30分の水牛車観光が終わったところにはしっかりとカメラマンさんが待っていて、グループ毎の記念撮影…結局買うはめになってしまいました…

 ああ、そうそう、水牛車が急に停まって動かなくなり…どうしたのかなと思ったら、三線が他所から聞えてきて、それを所望して動かなくなったんですって。馭者さんが三線を弾きはじめると、ひとりでに動き出しました。これ、訓練してあるのかしら?

 ところで、私の無様な姿、目障りでしょうがちょっと記念のために…。スミマセン!この後は、竹富港から西表島の大原港へと船で行き、そこでの観光が済んだら、また石垣港へ戻りホテルへと帰りました。

 それではまた、つづきは次回へ。お楽しみに。

 

 

 

 

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〝東日本大震災〟からもう9年目!

2020年03月11日 | 俳句

 今日は東日本大震災のあった日、2011年3月11日…忘れもしません。というより余りもの衝撃的映像が目に焼き付いて離れないのです。あれからもう9年…昨年の11月末に、宮城県名取市の〝閖上(ゆりあげ)の記憶〟を訪ねてその後の復興の様子を見ましたので、より一層実感が湧きます。(これは11月22日のブログ・「東北大震災の〝閖上の記憶〟」をどうぞ。)

 あの何もない、きれいに整地されただけのだだっ広い空間に立てば、ここに5千人以上の人が住んでいて、その家々が一瞬のうちに消えてしまったということ…もし復興されて家がきれいに立ち並ぶ町になってしまっていたとしたら、50年後の人には現実のことに思えるでしょうか。更にこれが100年も経てば、体験して記憶に残っている人たちも殆どいなくなるでしょうし…。考えてみれば、何もかもそうかも。戦争しかり、原爆もしかり…、75年が過ぎようとしている今日、もう実際を知って伝えられる人々は殆どいなくなってしまいそうですもの。だからこそ、残すべきものは残して、後世へしっかり伝えていかないといけないと思います。

 昨日の3月10日も、実は昭和20年のこの日が第二次世界大戦下の東京大空襲の日でした。これは「東京大空襲忌」として季語になっていますが、今日のこの東日本大震災の日はまだなってはいません。

  土筆なと摘まな三月戦災忌     上田五千石

 この句は、「土筆(つくし)」や「三月」という季語が重なっていますので、紛れもなく春の句と分かるでしょうし、「戦災忌」となっていますからいいのですが、この東日本大震災を、「震災忌」や「震災記念日」として詠んでしまうと混同されてしまいますので、気を付けましょう。これは、歳時記では大正十二年九月一日の関東大震災のことですから、秋の句になるのです。例えば次のように…

  わが知れる阿鼻叫喚や震災忌     京極紀陽

 じゃあこのような他の震災をどう詠めばいいのかが問題になりますよね。実際に起こった災害を目にしての実感、俳人ならばそれを何とかして詠みたいと思うでしょう。そういう心にこみ上げてくるものがあるとき、しっかり詠み残しておきたいものです。そんな時は、「東日本…」とか「東北…」また、「阪神(淡路)…」とかいうように、その地域名を入れるか、ずばり「三月十一日」などとして詠むのもいいでしょう。あるいは、そういう語を用いずにそれと分かるように詠むことはいくらでもできます。次のように…

 高野ムツオ(「小熊座」現主宰)氏は、東日本大震災復興支援俳句コンクールを企画し、自らも多くの震災句を詠んでおられます。
   車にも仰臥という死春の月     高野ムツオ
   陽炎より手が出て握り飯摑む
      〃              
   みちのくの今年の桜すべて供花     〃              

 また、阪神淡路大震災では、次のような句が…

   阪神忌天幕の灯は野外ミサ     小路紫峡

   あをあをと空あり阪神震災忌     角川春樹

   白梅や天没地没虚空没           永田耕衣

 特に最後の永田耕衣の句は、神戸市の自宅が倒壊し、その瓦礫の中から救出された氏の実感でしょうし、その時に咲いていた〝白梅〟がどんなに神々しくも美しく健気に見えたことでしょう。そこに全てが凝結されていますね。 

 以前俳人のどなたかが仰っていたことがあるのですが、8月15日を「敗戦記念日」というのはけしからんと。「敗戦日」ならまだしも、あれは記念の日ではないだろう。原爆にしたって広島・長崎合わせて50万人以上の人が亡くなっているのだから記念日とは言わない、それと同じくこの戦争でも300万人以上の人たちが犠牲になったんだから、これは当然〝敗戦忌〟と詠むべきだと。

  割箸の割れのささくれ敗戦忌     辻田克己 

 私も「記念日」というのには、何だか抵抗があります。せめて「……日」というぐらいで詠みたいものだと思っています。

 さて、〝八重山諸島5島めぐり〟の続きですが、あと〝西表島〟〝竹富島〟〝小浜島〟〝由布島〟と四つの島を巡りましたので、書き出すと長くなります。それは次回に回して…

 今回の写真は、私が骨折するはめになった、ホテルの夕日とハイビスカスの花をご紹介しましょうか。ハイビスカスはどこにでも咲いていて、まだいろんな色がありましたが、…これはやはり南国の花ですね!

 

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〝八重山諸島5島めぐり 3日間〟へ!(石垣島その1)

2020年03月10日 | 俳句

 昨日は概ねいい天気かと思えば夕方からパラパラと…。天気予報は☀☁☂、その通りになりました。今日も1日中昨日からの雨がボショボショと……。そんななか何もかもが中止という状況では気分的にも滅入りますし、今一つ何にもやる気が出ません。体調が狂うということはこういうことなんでしょうね。人間が如何にメンタルな生きものかということでしょうか。

 私は特にコロナのせいだけではなく、身から出た錆…みたいなもので、この足の骨折が災いして、今まで維持してきた体力が壊れつつあるような…。左足のせいで一番大事な膝と腰に非常に負担が掛かるんです。なのに、それを鍛える足腰の運動が出来ないと。更には動かなくなったのに食べるのは変わらず…そうすれば体重が増えて更に膝と腰に負担が掛かる…という悪循環で悪い膝が悲鳴をあげているんです。歳を取ったら体力の維持が最大の努力課題。向上は望むべくもないんだから、なにもしなければ当然下降へ一途!ですから。維持できるということがどんなに素晴らしいことかって分かっているんですけどね。

 それではここで、コロナの話ばかりに振り回されるのもしゃくですから、そろそろ、〝八重山諸島5島めぐり 3日間〟の旅の報告でも書いて、嫌な気分をサアッーと吹っ飛ばしましょうか。そうしないと、あの感動を忘れてしまいそう!(下の写真2枚はそのちらしです。)

 2月24日(月)、私の誕生日なんですが、あ、関係ないですね。スミマセン!山口宇部空港を11時40分発、FDAチャーター便で石垣空港へひとっ飛び!それが売物の一つのツアーですので、殆ど宇部の人?…いや、そんなはずはないでしょうから、きっと県内の人でしょう。出発ロビーで見た限り、同行のS夫婦以外の知り合いは一人もいませんでしたもの。最初80名限定での募集でしたので、満席だったらしいですが、今回の新型コロナ騒ぎでキャンセルが相次ぎ、それでも60余名のツアー。2班に分れて、それぞれに添乗員さんが付いていました。

 私たちは2班でI添乗員さん。天気もよくって意気揚々と出発したのはいいものの、初日にまさかのアクシデント…予想もしないことがいつ起きるか分からないというのは本当ですね。誕生日というのもあっていい気になっていたのでしょうか。まさに青天の霹靂とはこういう時に使うものなんだと実感しました。

 さてさて、それは夜のこと…それまではルンルン気分で、見学しましたからそれをまずご報告しましょうか。

 始めて乗ったチャーター便…確か2人掛けの2列で21番まで、ということは乗客席84席。日頃乗るのに比べるとかなり小さいですが、天気がよかったからか、全く揺れることもなく快適な空の旅でした。

 〝ところでFDAって航空会社聞いたことある?〟と主人に聞くと〝知らんの~〟と。〝Aだけ分かるわ。きっとエアラインの略よ〟と、話しているうちに、眼下に桜島が…しばらくすると今度は真っ白に煙を吐いた小さな島が…〝もしかして、硫黄島では?〟と、スチュワーデスさんに聞くとそうだと。種子島、奄美大島、屋久島…と名前だけしか知らなかった島がつぎつぎと。この辺りの島は殆どが火山ですので、機上から見るとそれがよく分かりました。それらを見ているだけでも愉しい!天気がよくって本当によかったです。ちなみにFDAは〝フジドリームエアラインズ〟なんですって。

 14時半前に石垣空港に到着。約2時間半ほどの空の旅でした。

 石垣島は、沖縄県で、沖縄本島、西表(いりおもて)島に次いで3番目に大きな島です。石垣市は、日本最南端の都市で、自然たっぷりのパラダイスといわれ、人口5万人弱。ハワイのホノルルとほぼ同じ緯度にあり、年平均気温が23.8℃で、亜熱帯の島。ここには八重山諸島の人口の90%が集中し、経済・行政・交通の中心となっており、台湾へは僅か277㎞の距離に位置しているんだそうですよ。ヘエッ…でもこの日は見えなかった!

 貸切バス2台で、最初に向ったのは、沖縄を代表する景勝地、川平(かびら)湾。

 ここは、日本百景にも選ばれ、2009年ミシュランのグリーン・ガイド日本版では、県内唯一三つ星の評価で格付けされた世界屈指の観光地で、湾内では世界的にも珍しい黒蝶真珠の養殖も行われているところです。

 そこでグラスボートに乗り、美しい珊瑚礁と熱帯魚を見ながら30分間のミニ航海です。でも、ウ~ウン、ここでも珊瑚礁が危機に瀕していると。即ち地球温暖化や海洋汚染による白化現象がどんどん広まっているのだそうです。このコバルトブルーの美しい海を私たちは何とかして守らねば…と、小さなお魚さんたちを眺めながら思いました。魚はいろいろ泳いでいたのですが、小さくて…映っていませんね。

 次は、唐人墓へ。富崎観音堂の近くにあるひときわ目をひく極彩色の中国人のお墓です。

 これは、米国船ロバート・バウン号事件で非業の死を遂げた中国人の霊を祀った墓で、バウン号事件とは、1852年2月、中国からアメリカへ向かう商船バウン号内で、虐待に耐えかね暴動を起こした中国人たちが、船長以下7名を撲殺し、船はその後台湾に向かいましたが、石垣島沖に座礁してしまい、380人が島に上陸。 石垣の人々は仮小屋を建て、彼らを収容しましたが、米国と英国の海軍が三回にわたり来島、砲撃を加え、武装兵が上陸してきびしく捜索を行った結果、山中に逃亡した 中国人達は銃撃、逮捕され、自殺者、病没者も続出したとの事です。
 琉球王朝と蔵元は人道的に対応、島民も密かに食糧や水を運び、中国人側の被害が少なくなるよう配慮し、その後事件処理に関する国際交渉に取り組んだ結果、翌1853年9月、琉球側が船二隻を仕立て、生存者172人を福州に送還。 中国福建省出身者128人の埋葬された墓は、かつてはあちこちに点在していたものを、石垣市が合祀慰霊するため、台湾政府や在琉華僑の支援などをうけて、この唐人墓を1971年に完成させたんだそうです。その時はまだ沖縄返還がなされる前だったのかしら? 寄付金はみなドルで記入されていました。

 島の人たちの心の広さや優しさを、今に語り伝える話でした。が、こお話には事実と少し違う面もあるらしく?…詳しくはWikipediaでどうぞ。

 その後、今日と明日2連泊の「グランヴィリオリゾート石垣島グランヴィリオガーデン」へ。バスが着いた途端、玄関に大きな垂れ幕が…わあ、「千葉ロッテマリーンズ」のご宿泊ホテルなんですって!ロッテフアンは色めきたったでしょうが、私たちはカープフアンですから…私なんかロッテの選手よく知らないもんね~。アハッ…

 ホテルの証拠写真を撮っておこうと思っていましたのに、それどころでなくなって…それでこれはパンフより

 その夜の食事…石垣牛と島野菜の焼肉セット、大変美味しかったんですけどね~。いや、足は痛くてもしっかり食べましたからご安心を。では、つづきはまた…

 

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ランキング1位の〝住みたい田舎〟ですって!

2020年03月08日 | 俳句

 昨日はまた一日小雨が降ったり止んだりの天気、それほど寒くなかったので、エアコンを入れずに済みました。風邪を引いていると、このエアコンで余計に喉や鼻を痛めてしまいますので、ホッとします。今日は昨日よりは随分温かいそうですから、そろそろ風邪も退散してくれるといいのに…

 昨日の朝の広島市に感染者が始めて出たというニュース。それが何度も受診していたにもかかわらず、やっと7回目にして診断。診断されなければ、おかしいと思いながらもあちこちとうろつき回っているかもしれませんし…こうなったらもうどうしょうもありませんね。きっと感染していてもまだ症状が出てないだけの人もいるはずでしょうから、ならばウイルスが次から次へと飛び散っていっても防ぎようがないではありませんか。広島市には知人も親戚も多いので、これからどうなるのかと思うと心配です。

 ところで、2月末宇部市が、「住みたい田舎」ベストランキング1位で表彰状を貰いました。みなさん知っていました? 1月の初めに友人からメールをもらい、〝ヘエッ、ホントなの?〟と、信じられなくてビックリしましたが、この28日に市長の表彰状を贈られた写真が地方新聞に載って、本当なんだと実感しました。

 これは、宝島社が地方移住希望者向けに発行している月刊誌「田舎暮らしの本」2月号の2020年版「住みたい田舎」ベストランキング大きなまち(人口10万人以上)総合部門で、宇部市が1位に輝いたからなんです。

 このランキングは、同誌編集部が全国の市町村を対象にアンケートを実施。移住支援策、医療、子育て、自然環境、就労支援、移住者数など230項目への回答から、「総合部門」「若者部門」「子育て部門」「シニア部門」でランキング化したもの。宇部市はシニア部門でも2位だったそうです。

 編集部によると、病院など医療・福祉が充実し、空港などの交通の利便性が高いことなどが評価され、さらに、移住者も倍増していることがランキングを引き上げたということ。宇部市長は「1位を続けていけるよう、もっと魅力を高めていきたい」と話したとか。ちなみに、今回の評価の対象となった昨年4月から9月までの移住者は1029人で、前年同時期と比べて倍増なんですって。知りませんでした!

 ホントにヘエッですよ。県内でというのならいざしらず、日本でなんですよ。人口10万人以上の田舎なんて、ごまんとあるでしょうに。よりにも選って宇部市とは!

 私が宇部に来たのは結婚して主人の勤務先が宇部でしたから、仕方なく(?)かな…、いや、その時はきっとどこでもよかったんでしょうが…だれでもそうでしょう。昔のようにいやいや家のために結婚させられるんじゃなければ。あの斎藤道三の娘、帰蝶さんのように…相手の顔も知らずに、いやいや…そうなるのかな?この先のドラマでは??? ナンテ…

 ああ、そうそう宇部の話でした。昔から〝住めば都〟といいますが、私にはそうならなかったんですね。新婚生活も1年過ぎればうんざりして、…なぜって? 家事以外することがなかったし、それがまた私の一番苦手なものだったんで。時間だけはたっぷりありましたので、そりゃいろいろやってみましたけど、心から楽しめない…やっぱりスキじゃないんです。自分という存在が、まるで玉葱の皮を剝いていくように一枚ずつなくなっていくような感じがして…。思い立って通信教育なども受けたりしましたし、学生証で映画見に行ったことも。でも何をしてもひとりでしたから、きっとそれが堪らなかったんでしょう。

 仲間が居ない!友人がいない!せめて実家が近かったら救われたのかも…主人の帰りだけを待つ生活なんて…。こんなはずじゃなかったと…。結局それほど好きでもなかった教職へまた自分から戻ったのでした。子供が生れても、この宇部が好きになれず、ズーッと主人の転勤を望んできたのですが、海外への単身赴任はあっても転勤はないままに…

 今では…とうとう宇部に骨を埋めるしかなくなってしまいました。いずれ退職後は、長男ですから広島の主人の実家へ戻るつもりだと思っていました。私も…。ところが、主人の退職前頃、実家が立ち退きなって、いろいろ考えた揚句義母たちが広島を引き払って宇部へ来ることに…という次第なんです。だから、私にとっては宇部が「住みたい田舎」だなんて到底思えないんですけどね。

 確かに…医療は医大、交通は山口宇部空港があって、新幹線駅もまあ近い方だし、海が側で魚は美味いし…、自然はたっぷり…。いい条件が揃っているとは思うのですが、……じゃあ何が不服で? 気候だってそこそこだし、物価もそんなに高くはないので、生活するのにはいいところに間違いはありません。ということなら残るのは〝人〟かしら? それも…どうかな? 人というよりそれを含めたここの風土かも知れません。上手く説明できないのですが、なにかが違うと…。何をやっても今一つ発展しないし…ヘンな矜持のようなものがあって、意外と閉鎖的だし…。一つ一つはそうでなくっても、塊になると…。要するに臆病なんですかね。ナンでも後手後手に回って、発展しそうで発展しない…そういう町なんです。

 私はこの年になってやっと安住の場所を見つけました、それが俳句だったんですが、もしこの俳句がなかったら、退職後の私は…と想像しただけで、本当にありがたいです。自分の生きる場、いや生かせる場があったということが…それを〝生きがい〟というんでしょうか。いや、そんな大袈裟なことばでなくてもいい、これからの人生、私にも何かできる、まだなにか自分を生かせるものがあるということが、一番大切なことかもしれません。それがありさえすれば、どこであってもいいんです。そう思えるようになった今では、ここが私の〝住みたい田舎〟に、やっとなったんですよ。ヨカッタ!

 今日は、先日の句会場のヒストリアで、飾ってあった折鶴。一枚の紙で187羽を折ってあり、それぞれが繋がっているんです。スゴイでしょ!次は紐で作ったねずみ。最後は先日の上小野での南天。まだこんなに見事に実を付けて…。この辺りは餌が豊富だから鳥が食べないんでしょうかね。

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昔の〝トイレの紙〟の話

2020年03月06日 | 俳句

 昨日もまあまあ良かったけど、それ以上に今日は朝から洗濯日和…雲一つない青空でした。だというのに気分はイマイチ。風邪の症状が行ったり来たりで…今は鼻水が止めどなく…ああ、汚いでしょ!でも、仕方ないですよ。出るものは所嫌わず…なんですから、みなさん分かりますよね。

 というわけで、机の前は鼻をかんだテッシュの山…なのにテッシュがない…と心配してましたが、主人も息子も買って来てくれました。ああ、良かった…ホッ

 そういえば、昔の笑い話…確か新聞紙で鼻をかんでいたような…それで何度もかむので赤くなって痛くなったり黒くなったりした子供の顔…記憶にありませんか? トイレットペーパーも田舎に行くと、新聞紙が四角に切ってあって、それを揉んで柔らかくしていたような…

 昔々、中国へ旅行へ行ったとき、確か西安だったかしら、何が一番困ったかというとトイレでした。ぽっちゃんトイレは覚悟の上でしたが、三方だけ囲みがあってお尻の方はスッポンポン…。男性ならいいでしょうが。また、ヒドいところは穴だけだったかな? さてさて紙などあったっけ? エエッ、じゃなんで拭いてたかって??? ああ、もう覚えてな~い。きっと、日本からポケットテッシュを山ほど持って行ったような気がします。

 よく覚えているのは、長い巻きスカートのようなものを作って持参し、その中で用を足し…一緒の仲間達で順番に見張りに立たりして…。

 とにかく、あの旅行はまさにカルチャーショックでした。これは日本の終戦直後の様子ですよと…でも私は知らないのですが、年配の方がそう言っていましたもの。その体験があるので、ヒマラヤに行ったときは余りショックを受けませんでした。汚いのは汚かったのですが、10日もいるとそれが当り前で麻痺してしまって…。また、そうでなくちゃここでは生きていけませんよ。

 ああ、暇だといろんなことを思い出しますね。本当に考えられないぐらい不衛生だったんですが、病気にもならず無事に帰って来られましたから。でも、水だけは怖かったので、生水を飲むことだけには注意しました。絞りたてのジュースとか生野菜のサラダなんかもダメなんですからね。

 もう書いてたらきりがありませんが、そういう所には細菌がウヨウヨいたでしょうし、いつ病気になってもおかしくない状況でしたが、せいぜい水に当たった人ぐらいで、全員無事に帰ってきました。まだ若かったのもあるでしょうが、私たちの世代は戦後の不衛生な暮しを乗り越えて来ていますから、免疫があるんです。ところが、今の若い人たちは余りにもキレイな環境で育っていますので、雑菌などにとても弱い。それとも、細菌たちが打たれ強くなってどんどん力を着けてきたということかも。まあ、その両方でしょうから、これから先も最新医療といろんな菌たちとのいたちごっこかもしれませんね。

 本当にヘンな話になってしまいました。よく分かりもしないのに…と思われた方もいらっしゃるかも。気に触りましたらゴメンナサイ!

 ところで、その時は武漢へは行きませんでした。北京に西安、蘇州に上海と、初めての海外旅行での中国でしたから、いろんな愉しい思い出があります。国語科の先生方の漢文紀行でしたもの。懐かしい!

 久し振りに午後からは郵便局に用事があったので外出。そのついでにフォユーの事務所にも寄りましたが、駐車場など何もかもガラガラ…。最後は風邪薬が無くなったので、病院へ。受付で、マスクがないと診察室に入れないよと言われ…〝売り切れでしたので…〟〝ではこれを買って下さい。100円です〟と1枚。ビックリ! 診察もカーテンで仕切った個室のような所で…。しばらく待っていると先生が来られ、〝熱がなければ鼻水ぐらいでこんなところへ来ん方がいいよ〟と。〝はい…でも薬がなくなって…〟と言って、鼻水の薬だけはもらいました。

 写真は、先日の兼題の〝蘖〟。一つは椿、もう一つは11月始めに伐った榎(えのき)のひこばえです。こんなので大きくなるのかしら? 応援しましょう。最後は夕方4時過ぎの月と飛行機雲。

 

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兼題は〝蘖(ひこばえ)〟でした!

2020年03月04日 | 俳句

 今朝はカーテンを開けるとウッドデッキがしっとりと濡れて小雨…どうも昨夜から降っていたようですが、気が付きませんでした。午後には一時止みましたがまたシトシトと…です。

 今日の朝のトップニュースが、ついに新型コロナウイルスの感染者が山口にもでたと…。(コラ、なに喜んでんの! イエイエ、とんでも…) 中国地方ではこれが初めての人だという。そのためか今日は講座の中止の連絡がつぎつぎと、それを今度は伝えるのに電話の掛けっぱなし…。主人は主人で私は私の携帯で、おまけに固定電話が入れ替り立ち替わりと鳴り、そのためにしっかり半日は潰れてしまいました。とうとう四月始めの開講式まで取り止めの連絡が…。このコロナウイルス狂騒曲はいつになったら最終楽章が聞けるんでしょうか。とにかく1日も早いことを願っています。 

 さて、昨日は天気予報では暖かで4月並みの気温とか…、確かに言っていたような気がするのに、なんだか背中がゾクゾクとして、こりゃヤバイ! 本当にまた風邪をブリ返したのかしらと思ってしまいました。それでも午後からは俳句教室でしたので出かけると、外はやっぱりお日様が照っていて、暖かな日でしたね。

 朝のラジオ体操も今は主人一人で出かけていますが、昨日すぐに戻って来て、〝ああ、今日から2週間休むというのを忘れとった。〟と。フ~ンと、あっちもこっちもコロナのお陰で中止が…・

 でも、昨日はまだこの教室は中止の連絡が来なかったから大丈夫だと、出かけました。でも先日の話からすれば欠席者が多いだろうと思ってましたら、一人だけ欠席。なんだかんだ言ってもやっぱりみんな俳句が大~好きなんですね。ヨカッタ!

 ところで、兼題の〝蘖〟(ひこばえ)はやはり難しかったようで、なかなかこれといった句がありませんでした。その中で、〈蘖や考の出征写真出づ〉という句が目に留まりました。

 この句には3点入っていましたので、採った人に選評を聞くと、〝きっとお父さんが戦争に征って亡くなられたんだと思い、哀しいけどその軍服の写真が蘖とぴったり合っていて…〟と。他の2人も同じよう。〝まあ、そのように受止めるのが妥当でしょうか。では作者は?〟と聞くと、〝は~い。そうなんですが、実は父は戦死したんじゃないんです〟と。〝それじゃ、なんで???お父さんの若いときの軍服姿が格好良くって?〟〝実は…そうなんです〟〝じゃあお父さんは長生きされたのね〟(大笑)

 これは偏に「考」という漢字にあるんです。俳句を始めると、初心者はよく「亡き父」とか「亡き母」を詠みます。ところが字数が制限されますので字余りになることが多く、そこで、こういう場合は便利な漢字があるのよと教えるんです。亡くなった父母のことを「考(ちち)」と「妣(はは)」と。そうすると大抵ビックリして、これはいいことを知ったと、今度はやたらに使うようになるんですね。(笑)

 この場合もそうで、すでに亡くなった父だから「考」を使ったのでしょう。しかし、それは出征写真を撮ってから50年以上も過ぎてのことなんです。ここは若い頃の父の写真が出てきたということだけですから、「父」でよかったんです。そうすればそういう間違った鑑賞は防げるでしょう。作者もそういう風にとられないかと気にしながら作ったらしく、だから〝誰も採る人がいないといいのに…〟と願っていたんだそうです。(笑) そうするとKさんが、〝ああ、私と同じような人がいるんだわ。まるで私が詠んだみたい〟と最初思ったんですよ、と言いだして…。やっぱりこういう哀しい実体験は当の本人が詠むべき句材なんで、なんぼ創作だからといっても詠むのは遠慮するべきでしょうね。時々こういうお涙頂戴の句を詠んで、点を貰おうとする人がいますが、自分の身内を殺してまでいい点を貰おうと思っちゃいけませんよ。知らずに〝お母さん亡くなられて大変でしたね〟と言うと、〝いや、ぴんぴんしてますよ〟と言われたことがあって、もうビックリ! 〝なぜ?〟と聞くと、〝その方がドラマチックでいいでしょ。だから…〟と。〝じゃあ、せめて自分の母ではないように詠まなくっちゃね! いくら創作だといってもそんな句は、私スキじゃないわ〟と言ってしまったことがありました。

 今回の句は、それを狙ったのではなくて、あまり深く考えずに〝考〟を使ってしまったということですから、念のために。また、他にとびっきりの迷句もでてましたが、それはここに披露するのは止めておきましょう。

 写真は、梅の花。もう殆ど終りに近いですが、我が家の豊後梅と上小野で見た八重の紅梅。

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