ちわきの俳句の部屋

メカ音痴おばさんの一念発起のブログです。
人生の後半を俳句にどっぷりと浸かって、…今がある。

〝九月尽〟とは?

2019年09月30日 | 俳句

 とうとう9月も最後になってしまいましたね。今日の午前中は日が差していて、これは洗濯日和かなと洗濯物を干したのですが、午後からはだんだん空模様が怪しくなり…う~ん、どうしようかと迷いましたが、そのままでリハビリへ。

 もちろんその前に宇部新川駅へ切符を買いに行きました。新山口~新大阪の切符(乗車券・特急券)が往復で1500円も安く買えたんです。でも、新山口~豊橋への切符(乗車券・特急券)はたったの600円安かっただけですよ。ヘンでしょ!どうしてかしら?距離は当然豊橋の方が遠いですからね。まあとにかく消費税分得をしましたから、お弁当が買えます。ヤッター!

 リハビリの帰りには当然ガソリンも満タンにして…、さて、できることは一応しましたが、どうなんでしょう。明日からの増税分がすぐに生活に響いてくるのでしょうか?

 ところで、季語に「九月尽」(くがつじん)というのがあります。〝九月が終る〟ということですが、この季語は陰暦の九月末日をいうので、明日から冬に入るという九月晦日の、秋を惜しむ思いが強くこもるもの、春を惜しむ「三月尽」と並ぶ季語なんです。

 要するに陰暦では、一月~三月を春、四月~六月を夏、七月~九月を秋、十月~十二月を冬としていますからそうなるんです。しかし、近来の作例には間違って陽暦の九月末日を詠んだものがあり、注意が必要だと歳時記にも解説してありました。

  雨降れば暮るる速さよ九月尽         杉田久女

 この句はまさに秋の終りを感じさせますね。〈暮るる速さよ〉で、冬の季語の「短日」や「暮早し」という感じを匂わせていますもの。まだ明るい夕方の陽暦九月ではこうは言えません。また、立冬までは1ヶ月以上もありますし…。

 つまりは、俳句というものは事実を述べるだけのものではなく、詩情を詠いあげるものなんです。だからそこに詩が生まれる何かがなくては…、ここでいうなら〝秋を惜しむ心〟なんですね。ただ単に九月(陽暦)が終るというだけでは詩になりにくいでしょう。まだ陽暦の〝八月尽〟なら夏休みが終るという感慨もあります。例えば、子供たちからいえば〝もう終るというさみしさ〟、親の側からは、〝やっと終るから嬉しい〟という感情もあるかも。だから句が詠めると思うんですが、歳時記には「八月尽」はありません。その代わり「休暇果つ」や「夏季休暇果つ」という季語があります。使うときは心して詠みましょうね。

 写真は、今日リハビリに行った時、受付に咲いていた花〝コルチカム〟です。この花には60種ほどの原種があって、欧州、中東、北アフリカの地中海沿岸地域に自生しています。ほとんどが秋咲きで、ピンクや藤色の花ですが、黄花で春咲きの種類などもあります。いくつもの園芸品種が育成され、秋の花壇を彩る花として多く利用されますが、また、土に植えなくても、机の上や窓辺に球根を置いておくだけでも花が咲く性質をもっているので、受け皿やコップなど、さまざまな容器を使って花が楽しめます。褐色の皮をかぶった大きな球根で直径は10cmほどになりますが、通常は5cm以上あれば開花します。球根の下部の片側に突起物があり、この部分と反対側の2か所から蕾が出て開花するんだそうです。毎年患者さんが花が咲く頃に持ってきてくれるんですって。撮るとき色が薄いので、後に濃い色の背景を作ってくれたんですけど。下の2枚は電気を付けたのとそうでないもの。花の色が違うようでしょう。でも、どれもイマイチで、ゴメンナサイ!

 

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松田屋ホテルの〝南州亭〟

2019年09月29日 | 俳句

 今日も山口は午後雨の予報でしたが、宇部では降らずじまいで、ちょっと蒸し暑い一日でした。何も予定はなく…こんな日は、家事をして新聞を隅から隅までゆっくり読んで、合間には好きな動画を見たり、溜まった本などを読んだりと、結構好きな時間です。

 働いていたときは、そんな時間が余りにもなくて…一日でいいから好きなだけ寝て、何もせずに家でゴロゴロとぐうたらに過ごしたいと思っていました。でも、仕事を辞めて家にばかりいるのも嫌で、時間講師で程ほどに働かせて貰って、空いた時間には今までやりたくてもできなかったことなど始めて、とても充実した時期でよかったのですが…。今度は俳句の方が忙しくなって追いまくられるようになり、だからこんなのんびりした日がとても貴重なんです。

 先日山口へ吟行に行った時に訪ねた湯田温泉の「松田屋ホテル」、その庭園に〝西郷・木戸・大久保会見所〟がありましたが、その小さな東屋(?)には〝南洲亭〟という名前が付いていました。南洲というのは西郷隆盛の号です。ここで会見した中で一番重要人物が西郷隆盛だったからこういう名が付けられたのでしょうが、よく手入れされていて昔のままに保存されています。

 その西郷さんの忌日が、この9月24日だったんですよ。歳時記にも「南洲忌」「西郷忌」「隆盛忌」として、秋の季語に掲載されています。先頃は大河ドラマでもありましたから、皆様よくご存じのことでしょうが、あれほどの維新の立て役者であったのに、最後は西南戦争に敗れ、1877年(明治10年)、鹿児島の城山で自刃をするという哀しい最期でしたね。その時西郷さんは満49歳でした。

  南洲忌老の出仕のはやばやと       竹内夏竹

  薩摩琵琶叩き馴らして南洲忌       岩切貞子

 西郷さんはとにかく大柄な人だったということは知っていましたが、調べると身長181㎝、体重109㎏もあったんですって。ある時、鹿児島の美術館に陳列してあった遺品の陸軍大将大礼服を、鹿児島に巡業に来た東西両横綱が試しに着てみたところ、少しだぶつく大形で、特に肩幅が広く、首も大きく、カラーも十九半形を用いていたということでした。ヘエッ!横綱よりも恰幅がよかったなんて…

 持病は〝肥満〟だそうで、その肥満を治そうと治療も受けていたということ。これもオドロキ!何だかおかしくなりました。あの豪傑の西郷さんが今でいう〝ダイエット〟に心を砕いていたのかと思うと…。日頃何もないときは体が重たいからかゴロゴロと横になっていることが多いのに、運動のために狩猟をする時などは非常に敏捷だったとか。また、酒は余り飲まなかったが、煙草には目がなかったんですって…そういえば、南洲亭の木のテーブルには昔ながらの〝煙草盆〟が置いてありましたね。ああ、この小さな東屋にあの大きな体を…きっと狭すぎたのではと思うのですが、ここで好きな煙管(きせる)に刻みたばこを詰めて火をつけ、それを吸いながら密談したんだろうなあ~と、そう思って眺めると、また一段と心に響いてくるものがありました。だって坂本龍馬の仲介で結ばれた薩長同盟の確認と具体的協議のため山口に来て、この宿に泊りこの南洲亭で会見したのが1867年(慶應3年)、隆盛39歳の時だったんですよ。その10年後には死ぬという運命になるなんて…誰にも想像できなかったことでしょう。また、その時に顔を合わせた木戸孝允も明治10年に満44歳で病没、大久保利通は次の明治11年に満47歳で暗殺されるという。本当に人生って分からないものですね。あの明治維新という激動の時だから、そりゃあ余りにも目まぐるしくてアッという間の10年だったでしょうが。そう考えると私のこれからの10年間なんてどうなることやら…いや5年先だってもう全く見えませんものね~。ああ、イヤダ、イヤダ、こんなこと考えないようにしているのに…ハイ、もう止めます。

 写真は、もう一度松田屋ホテルの〝南州亭〟です。よ~く見て下さい!

 

 

 

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いよいよ消費税が上がりますよ!

2019年09月28日 | 俳句

 本来なら今日は、「第23回俳人協会山口県支部俳句大会」が防府で開催される日なので、朝から一日中出掛ける予定にしていましたが、突然の中止でブランクができてしまいました。私にとってはのんびりできるので、うれしいんですが、楽しみにされていた方には申し分けないです。お天気はイマイチで、何処かに行く気にもなりませんでしたので、溜まっていることを少しかたづけて…気分はまあまあかな。

 だから今日は何も書くことがな~い!さてどうしましょうか?

 そうそう、消費税が10月から上がるというので、何か買物でもと考えたのですが…ウウ~ン、何も思いつかない!そうだ、昨日リハビリに行って、湿布薬が少ししか残っていませんでしたので、〝先生、目いっぱい下さい!〟と、お願いすると、〝じゃあ10袋出すよ〟と。何も言わなかったら5袋なんですけどね。でもたかが知れていますよ。そもそもが何百円かの支払いなんですから。あ、いや…弟が〝湿布薬は保険が利かなくなるよ〟とか言ってたから、これは少し得したかも。

 ああ、もう一つありました。まだ買っていないのですが、JRの切符。10月中旬には奈良方面、月末には名古屋方面へと出掛ける予定があって、切符はその1ヶ月前から買えますので、それを両方とも明日・明後日中に買いに行きます。そうすると改定前の価格で乗れますので、往復の乗車券・特急券の消費税値上げ分が得なんです。それぞれでお弁当代ぐらいにはなりそう!

 まあ、何ともみみっちいことで…お恥ずかしいことですが、でも年金暮らしのささやかなる抵抗ですよ。ガソリン代も値上げと言っていますので、満タンにしとかなっくっちゃ。郵便代もですよね。投句の切手代も葉書は1円、封書は2円足さなくっちゃ…忘れて出してしまいそうです。以前2円上がったとき、慌てて80円の切手で出して戻ってきたことがあります。いつも締め切りのぎりぎりで投句していますので…そりゃあ慌てましたよ。さあ1円と2円の切手をたくさん買っておかないと…

 でも今こうやって騒いでいても、そのうちすぐになれて、それが当り前のように何も思わなくなるんですよね。大きな買物、例えば車とかを買う時に、エエッ、こんなにと思って腹も立つのですが、怒っても仕方がないのですぐに忘れてしまいます。年金は下がることはあっても上がることはなく、出て行くものは上がる一方…どうすりゃいいのさ この私…という歌、昔ありませんでいた?エヘッ…

 今日はヘンな話になりましたね。ゴメンナサイ!

 代わりにこの写真でも楽しんで下さい。先日広島へ行った帰りの〝下松SA〟。いつも入口や周りに並べてある木彫りの人形や動物たちが迎えてくれます。これは、チェーンソーアートの、地元山口出身の林隆雄さんの作品です。林さんはアメリカで行われる世界大会で2大会連続の優勝という世界的なチェーンソーアートの有名人なんですって。数も以前よりだんだん増えてきているようで、今年の干支の〝イノシシ〟がとても可愛かったなあ~。子供たちが喜んで触ったり、女性たちが記念撮影をしたりしていましたので、私もパチリ! 年2回の下松SA下り線イベントでは、林隆雄氏によるチェーンソーアートの実演も行われているのだそうです。私も見たことがありますが、アッという間に出来上っていく様子はそれはそれは見事なものでしたね。干支も全部揃っていましたが、たくさんありすぎて撮りきれませんでした。

 

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子規の〝葡萄〟は?

2019年09月27日 | 俳句

 今日はまた暑さが戻ってきたような…午後のフラダンスが済んで整形へ行き、リハビリを終えて外へ出たときは何とも蒸し暑い!天気予報では午後は雨でしたが、どんよりとしているだけで降りそうにありません。土日も傘マークがでていましたが…

 昨日は俳画でした。画題は「葡萄」(ぶどう)、秋の季語です。お手本はきっと巨峰だなと思いながら描きました。描き上げた後今度はマスカットを…。どっちかというと〝巨峰〟の方が微妙な色合いが出せて面白い!ここにお見せできないのがザンネンですが…

  黒きまで紫深き葡萄かな      正岡子規

 葡萄は古くから世界各地に存在し、紀元前2500年頃のエジプトの壁画などには、葡萄の栽培や葡萄酒の醸造の様子が描かれているそうです。日本ではブドウ属の植物が六種原生し、古名を「えびかずら」といいましたが、日本の文献で葡萄という語が初めて使われるのは、『日本書紀』のイザナギとイザナミの話の中の黄泉の国の部分だということですって。

 ぶどうの品種はとても多く、世界には10000種以上のぶどうが存在するといわれます。このうち日本ではマイナーな品種を入れると100種類以上があり、主な品種で50~60種類ほどが栽培されているようです。私が知っているのは、昔ながらの〝キャンベル〟〝ベリーA〟〝デラウェア〟。そのうち〝巨峰〟が出回るようになりましたが、出始め当時は箱入りの高級品として主に贈答用でしたね。そうそう、〝マスカット〟も知ってはいましたが、これはもっと高級品でしたので買うことはなかったんです。今では巨峰も格が下がって、贈答用はもっぱら〝ピオーネ〟になっています。最近はスーパーでもいろいろな種類の葡萄が出回っていて、知らない名前のものがどんどん増えているような気がします。これからも更に改良されて、新しい品種の葡萄が生まれてくるのでしょうね。

 ところで、子規の詠んだ葡萄は何だったんでしょうか。そういえば子規は、病気にもかかわらず大食漢で、特に果物には目がなかったようですよ。

 〝巨峰〟が生まれたのは、1942年(昭和17年)。1919年(大正8年)に 「大井上理農学研究所」が設立され、そこの農学者・大井上康が試行錯誤の結果、日本の高温多雨多湿の気候に適した新品種として、品種名「石原センテニアル」商品名(商標名)「巨峰」として創り出したのです。だから巨峰が出回るのは当然戦後のこと。だとすれば、子規が死んだのは1902年(明治35年)ですから、この句の葡萄は絶対に巨峰ではありませんね。だとすると、キャンベルかベリーAということになるかしら。

 写真は、先日主人が草刈で切ってしまった曼珠沙華を花瓶に挿してみましたら、ほらこんなにキレイ!

 

 

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兼題は〝葛の花〟

2019年09月25日 | 俳句

 急に昨夜から今朝にかけて寒くなり、最低気温も17度まで下がっていました。こんなにも違うんですね。薄い夏布団ではホント寒いぐらい。実は23日に彼岸法要で広島へ行き、教室を変更して貰っていましたので、今日がその替わりの句会でした。

 兼題は〝葛(くず)の花〟、秋の季語です。この題が出た先月、主人が葛は知っているが花を見たことがないというので、花を捜して見て帰りました。もう殆ど花も終りに近くて、先の方に小さいのが残っていました。写真はその時のものです。

 ところで、〝葛の花〟といえばすぐに釈迢空の短歌〈葛の花踏みしだかれて色あたらし この山道を行きし人あり〉を思います。大昔にこの歌が教科書に載っていて、〝どんな花だろう?〟と思って捜して歩いたことがあったからです。山にはよく行っていましたので、もちろん〝葛〟は知っていましたが、この短歌を知るまでは〝花〟には全く気が付かなかったのです。

 主人もそうだったらしいんですが、この〝葛〟という植物は、凄まじい繁殖力で放置された空き地などがあると、アッという間に占領してしまいますし、どこでも見かけますので、誰でも気が付くでしょう。しかし、花となると葉に隠れて見えにくいので気が付かない人が多いのです。

  葛の葉の吹きしづまりて葛の花        正岡子規

 これは「葛の葉」も秋の季語ですから、季重ねの句なんです。〈葛の葉の吹きしづまれば静なり〉という高浜虚子の句があってビックリ!一瞬これは〝パクリ〟? でもどちらも歳時記に載っているんですから違うんですね。子規は〝葛の花〟、虚子のは〝葛〟の項目でしたので、今まで気が付きませんでした。しかし、作者の感動の中心は違います。子規は風の収まった瞬間に葛の〝花〟を見つけたんです。いやもしかしたらあのほのかな匂いを感じて花の存在に気が付いたのかも知れませんね。虚子になると同じ状況でも〝静なり〟と…これはやはり私は子規の方に軍配を上げたいです。確かに葛の葉は大きくてたくましいし、強風などに吹かれると、葉裏の白が見えることから、「葛の葉の」は「裏見」の転じた「恨み」にかかる序詞として和歌に詠まれてきたんですから。このことから推察すると、〝人の恨みも時が過ぎれば、この葛の葉のように静かになるのだ〟という意味合いを兼ねて詠んだのでしょうか。でも何だか理屈っぽくて、まあ昔から〝嵐の前の静けさ〟とはことわざにもありますが、〝嵐の後の静けさ〟などというものはごくごく普通ではありませんか…と虚子大先生に言ってみたい! アハッハッ…

 句会では〈廃線の主のごと葛の咲きみだれ〉と〈饒舌な人の足元葛の花〉が高点句でした。どちらも葛の特性を生かしたいい句ですが、でも今一つかな。前句は言い過ぎです。〝廃線〟に〝咲きみだれ〟、それを〝主のごと〟と比喩を使っているところ。後句は説明足らず。〝足元〟が十分言い得ていないから、散った花なのか足元に咲いているのかが分からないし、〝饒舌な〟は口語で、文語なら〝饒舌なる〟というべき。そこで、〈廃線の主となりをり葛の花〉と〈饒舌なる人や散りたる葛の花〉に直しました。原句の「主」は、〝しゅ〟、添削は〝ぬし〟と読みます。後句は作者が、〝おしゃべりな人はあの散っている葛の花の美しさなど目に入らなくて…〟ということが詠みたくてと…。 

 

 

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兼題は〝赤とんぼ〟

2019年09月24日 | 俳句

 今日も最高気温は26度と涼しい一日でしたが、俳句教室の中はちょっと蒸し暑かったかしら…みんなは座って聞いているだけなので、エアコンが強いと寒いという。なのに私は暑い!殆ど立って話をしているからでしょうか。滅多に寒さなどは感じたことがありません。みんなにはエアコンの風が行くのに、私が立っている黒板の方へは風が来ないのです。だから私に合わせてちょうどよくすると、みんなには寒いということになるんです。これはエアコンの設置場所がよくない…言い換えれば教室の作りがよくないということ。黒板は動かせないんですからね…

 でも、今時黒板を使っているところは少なくなりましたよ。殆どがホワイトボードに変っています。どっちかというと私にとっては黒板よりホワイトボードの方がいい…だって手が汚れませんもの。しかし、書きやすいのは馴れている分黒板の方かな。どっちにしても長所と短所があるんです。聞くところによると最近は電子黒板(?)とかが導入されたと…考えただけで恐ろしくって使えそうもありませんが。

 今日の兼題は〝赤蜻蛉〟、秋の季語です。

  赤とんぼ筑波に雲もなかりけり       正岡子規

 これは、文芸における「写生」を唱えた子規の、まさに〝これぞ写生〟という句ですね。真っ青な雲一つない空にくっきりと浮かぶ筑波山、目の前には赤とんぼが飛び交うという、遠景と近景、青と赤という対比が見事に決まって、秋らしい気持の良い句になっています。

 ところで、日本は、日本書紀や古事記で「おおやまととよあきつしま」(大倭豊秋津島または大日本豊秋津洲)といわれたほどのとんぼ王国でした。「あきつ」はとんぼの古語ですから「あきつしま」とは、とんぼの島を意味するんです。特に8月から9月にとんぼの数がピークになりますが、それはいわゆる「赤とんぼ」が数多く見られるようになるからなのです。そもそも赤とんぼという名前のとんぼはいないんですってよ。赤やオレンジ色など赤みがかった色のとんぼすべてを指す俗称で、 トンボ目トンボ科アカネ属のとんぼの総称です。日本だけでも21種いるとか。さらに狭くいえば、その中の秋茜(あきあかね)だけをさす場合もあるそうです。

 だから、童謡の「赤とんぼ」も、どの種類の赤とんぼかと長年論議されてきたという、とても興味深い話がありましたので、みなさんにもご紹介しますね。

 まず、赤とんぼの代表である秋茜は夕方にはあまり飛ばないという習性が知られているため、「夕焼け小焼けの赤とんぼ」という歌詞に矛盾すると指摘されたんです。 それで、夕焼けの中でよく飛ぶのを見かける銀やんまなどが夕日を浴びて赤く見えたという説が主張されますが、一方では、夕焼けが早く訪れる東北などでは、夕焼けの時間帯と秋茜の群飛が一致し、そのような風景が見られるという反論がなされました。結局「やはり赤とんぼの歌のとんぼは日本特産種の秋茜がふさわしいし、きっとそうにちがいない」ということで論争は終止符を打ったかに見えたんですが、「このとんぼは薄羽黄(うすばき)とんぼではないか」という説が新たに浮上します。なぜかというと、この童謡の作詞家・三木露風の故郷は兵庫県龍野(現たつの市)。西日本では、秋茜よりも薄羽黄とんぼが一般的で、秋に群れをなして飛ぶのを見かけるのもこれだからです。そして西日本ではこれも赤とんぼといわれているのです。しかし、この薄羽黄とんぼ説の弱点は「止まっているよさおの先」のところ。この薄羽黄とんぼは物にとまるときに何かの先端に体を水平にしてとまるのではなく、枝の途中や葉などにお尻を下にしてぶらりとたれさがってとまることが多いので、歌のイメージと矛盾すると指摘されたこと。これについては、三木露風がこの歌を着想したのは、さおの先端に止まっている赤とんぼ(秋茜)を見て、子供の頃に夕焼けの中で見たとんぼの飛んでいる様子を思い出した時だと回想していることから、さおの先にとまるとんぼと、夕焼けに飛ぶとんぼが別のイメージの組み合わせであると説明されました。 つまり、目の前のさおの先に止まる「秋茜」をきっかけにして、遠い昔の子供時代に見た「薄羽黄とんぼ」の群舞を思い出した、というのが真相のようだと述べてありました。

 ヘエッ、面白いですね~。童謡の歌詞の〝とんぼ〟一つでさえも、こうやって昆虫学者(博士?)からすると〝これはおかしいのでは?〟と議論の対象になるのですから、私たちもなまじっかな知識を俳句に詠んでしまうと、何も知らない人なら〝へエッ、そうなんだ!〟と、感心したり、いい句だと思ったりしてしまうこともあるかも知れませんが、よく知っている人からすれば、〝この作者は何もわかっていない〟とか〝この句は嘘だ!〟とか、思われてしまうかも知れませんね。だから頭の中だけで適当にこねくり回して作ってもすぐに見破られてしまいますから、しっかり観察して真実を詠むようにしないといけません。いくら創造であったとしても…真実が底になければ人は感動してくれませんよ。

 ウウ~ン、また、また難しくなりましたね。いや、いや怖がらないで!焦らず一歩一歩行けば大丈夫。さあ、ガンバロウ!

 写真は、〝彼岸花〟。今年はなかなか咲かないと思っていましたら、昨日のお彼岸にはにょっきりと蕾が出ていました。ああ、やっぱり…時を間違わない曼珠沙華はスゴイ! 今朝見れば、開きかかっていましたので、句会が終って戻る頃にはもっと開いているだろう…と楽しみに帰ってきましたら、ナント主人が草刈機でバッサリ…ああ、ムザン!全部無くなっていました。クヤシイ!

 

 

 

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〝おとき〟とは?

2019年09月23日 | 俳句

 朝起きて外に出てみると、木も折れてなかったし、こちらは台風17号の暴風雨が思ったよりヒドくなかったようで…、ただ玄関に置いていた自転車と庭の脚立が倒れていただけでした。去年の方がヒドかったみたい。

 今日は「秋分の日」、そうです。季語でいえば「秋彼岸」「後の彼岸」といいます。そこで、その秋彼岸法要のために8時前には義母たちを迎えに行って、そのまま広島へ行きました。日頃は結構混んでいる山陽自動車道がやっぱり少ない!これも台風の影響でしょうね。途中下松SAにトイレ休憩で寄ったんですが、ホントにガラガラ…見あげると〝台風一過〟のような澄んだ青空。でも、雲がたくさん浮かんでいて、〝広島の方は雨かも…〟と心配するおばあちゃんに〝きっと大丈夫よ〟と言って車を走らせていると、急にパラパラと降りだしてしまいました。ウウ~ン、これは困った!と思っていたら、黒い雨雲を抜けるとまた明るくなり日も差してきて、今度は暑いくらい。

 写真は、下松SAでのもの。

 11時からの法要には少し早めに着きましたが、お墓参りをして本堂でのんびりしていると、おばさん達(母の義妹)も来られて懐かしいひとときが持てました。会うのも一年ぶりかしら。そうこうしているうちにいよいよ住職の講話と読経が始まりました。どちらも眠くって、我慢していると余計にコックリコックリと…住職さんと目が合う度にああ、いけんいけんと辛抱しました。やっと12時半に終って、住職が〝おとき〟を用意しましたので、それを食べてゆっくりしていってくださいといわれましたので、遠慮なくいただきましたが…。

 ところで、みなさん〝おとき〟って分かりますか?

 広辞苑には、〝御斎〟と書いて、「①仏家で、午前中にとる食事。午後は食しないと戒律で定めている。②肉食しないこと。精進料理。③寺で出すときの食事のこと。また、法要その他仏事の参会者に出す食事。④法要。仏事。⑤正月・5月・9月の16日。西日本で、精進をし仕事を休んだときの日。」とありました。さしづめ住職の言った〝おとき〟というのは③の意味でしょう。

 帰る時〝確かに住職さんは「おとき」って言ってたわよね〟と主人に聞くと、間違いないと。そういえば、私のふるさとでは、葬儀が始まる前に親族が食べる精進料理を〝おとき〟と言っていたっけ。だから葬儀のときにはおときを準備しないといけないからといって、参列する人数を必ず聞いていましたものね。宇部での葬儀は会葬だけで、親族として出たものはありませんので分かりませんが、広島もそうでした。呉の叔母が亡くなったとき、葬儀場に昼前に着くとすぐ〝おとき〟を食べ、葬儀の後の火葬場でまた折り詰めを貰って食べました。どちらも精進料理ではなかったような…。

 皆さんのところはいかがですか?そういうこと聞いたことありませんか? 私は、葬儀をする前に精進を食べるのは、お見送りをする死者と最後の膳を囲むという意味なんだよということを子供の頃に聞かされたような…。今思えば、葬儀が午後からで、遠方から来る人のために食事を用意してくれただけのことかも。火葬場から帰ってきて食べるのが〝精進落し〟といって、刺身や海老などが入っていましたね。

 お寺に関係した人間ではないので、こういうことについては知らないことだらけです。しかし、どんなことでも知っておくことに越したことはありませんよね。勉強しよっと。エヘッ!

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俳句の〝句またがり〟とは?

2019年09月22日 | 俳句

 今日は朝から雨がザアザアと…午後になると風もだんだんヒドくなりました。外に出ないので実感はないのですが、窓から見える柿の木が風に揺さぶられて今にも折れそうなのを見るとかなりの暴風雨のようです。もう暗くなってきましたので、明朝外に出てみるとその風の被害も分かるでしょう。去年は皇帝ダリアがのきなみダメになりましたし、木の枝なども折れて吹き飛ばされていましたが…

 ニュースでは明日未明に山口県に最接近すると…もちろん飛行機もフェリーも鉄道もみんな運行中止。でも明日はお彼岸の法要で広島へ義母たちと行くことになっていますので大丈夫かしら。夜中に通り過ぎ日本海の方へ抜けて行くようなので、余波は残っているだろうが、徐々に遠ざかるのでOKだと…これは主人の弁。まあ、お盆のお墓参りも春のお彼岸にも行っていませんので、おばあちゃんはどうしても行きたいようですから仕方がありません。

 ところで、昨日は朝方急に気温が下がって最低気温が18度、最高気温も25度と、とても半袖では寒くってすぐに長袖を出して着ました。雨も降ったり止んだりと…あれはもう台風17号の影響だったのでしょうか。

 午後からは「宇部馬酔木」の句会で、行って見ると皆揃っていて…〝あら、珍しい人が…〟と。〝一年ぶり?いやもっとかしら。ビックリするから大雨がふるでしょうが…〟と久し振りのMさんに言うと、みんなも大笑い。句会も和やかに始まりました。

 この句会では兼題がありませんので、当季雑詠です。しめて75句の10句選。でも使われた季語にはまだ夏が混在していましたね。例えば、「炎天」「蛸」「水馬」「新生姜」「夏果て」「蟻」「日傘」「蟬」「夕凪」「毛虫」など。秋の季語ではやはり「月」や「虫」に関わるものが多くて、月などは10句もありましたよ。

 以前にも書いたことがあると思うのですが、今回は特にリズムの気になった句が結構ありました。俳句は基本的に「五・七・五」という定型詩であるということ。これを音数の合計が17音であれば定型だと思っている人がいるような。いつも言っていることなんですが、5音と7音と5音のかたまりで詠むこと…もし収まらないときは上五は字余りにしてもいいが、中七や下五はできる限り守って詠むこと。もちろん山頭火のような自由律の俳句は別ですよ。

 そう言っているのに…今回出た〈青北風や源平の戦の跡へ〉の句に〝合計が17音でもこれはリズムがよくないですね〟と言うと、作者から〝これは句またがりで詠んだんです。だからいいのでは?〟と。他にも〈爽やかやマラソンのピストル発す〉や〈飛蝗跳ぶ除草剤撒きし庭にも〉のような合計17音の句も出ていました。

 確かに俳句には破調の句と言って、「句またがり」や「句割れ」の句があります。Wikipediaでは「句またがり」を〝短歌、俳句、川柳といった句数の定まった定型詩で使われる技法である。小池光は「文節のおわりと句の切れ目が一致しない時、これを『句またがり』という。」と定義している。と説明しています。

 その例として、西東三鬼の〈算術の少年しのび泣けり夏〉の句を挙げて、2句目から3句目にかけてが句またがりになっていると。要するに、子規の〈幾たびも/雪の深さを/尋ねけり〉というような句は、5/7/5でできているので正調(定型)といわれるもの。それに対して、芭蕉の〈海暮れて/鴨の声ほのかに/白し〉の句は、5 /9 /3 (または中9を5 /4とも)となって、「ほのかに」が中七と下五にまたがっていますので句またがり。字余りや句割れというのも俳句の一種の技法なんです。その字余りや破調によって独特の効果をもたらすことも多いのですが、初心の頃は基本的なリズムで音節の切れと意味の区切れを一致させて、まず音感に慣れることの方が大切でしょうね。

 というわけで、句会に出た前掲の3句も確かに句またがりと言えなくはないのですが、例句に出た句と読み比べてみて下さい。三鬼の句にしても芭蕉の句にしても575のリズムが底辺に流れている気がしませんか。句またがりであってもそれを感じさせない、というよりそれが却って快く響いてきて、内容の詩情を高めるという効果があることを考えてみて下さい。

 ところが、前掲の3句は読みづらいため却って違和感だけを与えて心に響いてきません。むしろ〈青北風や源氏平家の戦跡〉〈マラソンの合図鳴りたり爽やかに〉〈除草剤撒きたる庭を飛蝗跳ぶ〉のように素直に正調で詠んだ方がいいのではないでしょうか。俳句も何年かやっているとだんだん平凡なものではあきたらず、ちょっと変ったことをしたくなるのかも知れませんが、やはり無理をせず学んでほしい。格好をつけることよりも内容の方に力を注ぐようにしたいものですね。

 写真は、以前俳画で〝鶏頭〟を描いたと言いましたが、その花がお隣さんに咲いていましたので撮らせてもらいました。〝槍鶏頭〟と書いていましたが、調べると〝ノゲイトウ系〟で、〝ホルン〟とか〝シャロン〟とかいって、いろいろな名前がありました。

    

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〝石州街道を行く〟⑤井上馨遭難の地⑥長寿寺⑦山口御茶屋跡

2019年09月20日 | 俳句

 今日の朝はまだ雨は降っていませんでしたが、10時過ぎ急に暗くなって…〝雨が降りそうね~〟というと、外から戻ってきた主人が〝もう降り出しとるよ〟と。それからは一日中雨でした。

 午後からは俳句教室、兼題は〝秋刀魚〟(さんま)でしたが…〝石州街道を行く〟の最終篇がまだ終っていないし、句会のことはまた次に書くとして、それでは吟行記の仕上げといきましょうか。

 この日は本当に快晴でおまけに暑い一日でした。朝は雲一つなかったのが、急に何ともいえない雲が広がっていって、だんだん鱗雲?というような感じになりました。

 ⑤井上馨遭難の地……元治元年(1864)9月25日、中河原の山口政事堂で開かれた御前会議で、井上馨は、幕府に謝罪しようとする保守派に対し、武力を備えて幕府に対抗する方針を主張。その後、湯田の自宅への帰路、袖解橋で保守派の壮士数名によって襲撃され、重傷を負いましたが、医師・所郁太郎の治療によって、一命をとりとめました。

  

 ⑥長寿寺……慶応元年(1865)1月10日、高杉晋作の功山寺決起、大田・絵堂の戦いに呼応した大庄屋・吉富簡一らが、井上馨を総督に担ぎ、鴻城軍を結成した場所です。本堂の柱には、隊士らが切り付けたと伝えられる刀疵が残されています。以前に来て聞いていたので分かりましたが、知らなければ古いお寺ですので何とも思わなかったでしょう。よかったです。その時住職さんに明治維新後の初めての山口県令(今の県知事)の「中野悟一」の墓のことも教えて貰いました。この人の話もいろいろあるようですが…興味のある方は調べてみて下さい。前に来た時は〝榠樝〟(かりん)に気が付きましたが、今回はなんと銀杏(ぎんなん)が風が吹く度にバラバラ落ち、下には円形に落ちていてあの独特な匂いをまき散らしていました。ああ、臭かった!でも拾って帰りたい気も…

 

 ⑦山口御茶屋跡……文久3年(1863)4月16日、前年より攘夷実行に備え、藩庁の移転準備を進めていた藩主・毛利敬親は、湯田温泉への日帰りの湯治という名目で萩を発ち、中河原の御茶屋に入り、そこに政事堂を置きました。同年7月には藩庁移転を公表。現在の県庁の地に山口御屋形が完成するまで、ここは藩政の中心地となりました。

 そこで捜していくと、パンフに載っている家はありましたが、〝これじゃ余りにも貧相よね~〟と思って聞いてみると、やっぱり違うと。じゃあパンフに載せなきゃいいのにとも思いましたが…その跡の碑しかないと。その碑も分かりませんでしたが、ただ橋の名に〝おちゃやはし〟と付いていて、その名残がありました。また、大きな楠木が…これは確かにその当時を知っている木よねと、みんなで眺めました。

 最後は御茶屋跡を捜していたとき、見つけたおまけの〝周防明倫館兵学寮跡〟です。周りにある楓の木がもう薄く紅葉していました。この御茶屋橋が架かっているのが、あの螢で有名な〝一ノ坂川〟なので、辺りのマンホールの蓋もこのようなデザインでしたよ。以上で吟行記はオシマイ! 明日も句会ですので…ではまた。

 

 

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〝石州街道を行く〟②瓦屋跡③松田屋ホテル④龍泉寺へ

2019年09月19日 | 俳句

 今朝は、半年に一回の医大への定期検診で出掛けました。もちろん朝食抜きですから朝の風はなんとも…いや、まだ冷たくはありませんよ。昨日の暑さがまだ身に残っているようで、却って気持の良い風でした。車内の温度を見ると23度でした。

 8時30分、もう医大は人でごった返しています。血液検査と腹部エコー。検査終了かと思えば、ちょっと待って下さいと…、何事かしらと待っていると、違う検査員さんが来てもう一度。聞くと、新しいものがではなく、前回にあったものがないと…心配ないでしょうからと言われて終りました。次に内科の受診。順番が来て先生に聞くと、〝心配いらんいね~。前回が血管かなにかが映ったのかも知れんし…〟と。とにかく目に見えないところのものですから、あってもなくっても困るんですね。でも、経過を見るということは大事なこと。囊胞が急に大きくなったという弟の話を先生にすると、やはりそれは気を付けないと癌化する可能性が高くなるので…ということでした。

 私は血液検査も異常なしで、また半年後の検診でお会いしましょうと先生…昼前に帰宅してやっと食事。昨日の疲れがどっと出たような。しっかり食べてちょっと昼寝をし、明日の句会の準備をしました。

 では、昨日の〝石州街道を行く〟の続きです。

 ②瓦屋跡……松陰門下生・山田顕義の妻がこの湯田温泉の〝瓦屋〟という旅館の娘でしたので、幕末から明治にかけて高杉晋作、木戸孝允、井上馨、伊藤博文ら、多くの志士たちが密議を重ねた旅館です。今は碑だけしか残っていません。

 ③西郷・木戸・大久保会見所(松田屋ホテル内)……ここは事前に見学をお願いしていましたので、快く見せていただきました。この松田屋の庭園は、江戸中期に作庭され、現在の形となったのが大正7年頃。明治の元勲山縣有朋公の力添えで、平安神宮「神苑」や「無鄰庵」の作庭で知られる小川治兵衛(七代目)チームにより新たに生れ代わったといわれているそうです。それは歴史を感じる立派な流水回遊式庭園でした。この庭園の内に維新名三傑〝西郷・木戸・大久保〟の会見した〝南洲亭〟が当時のまま残されています。また、司馬遼太郎著『街道をゆく長州路』に登場する樹齢180年の赤松や三条実実(さんじょうさねとみ)ほか七卿落の遺跡なども。このホテルは、多くの志士たちが宿に集い、夜ごと密議を繰り広げ湯に浸かり疲れを癒したといわれ、その歴史を証明する文化財の数々が館内の「維新資料室」にも残されています。高杉晋作が玄関横にあった楓の幹に所感を刻み込んだ「憂国の楓」も展示されていました。あっ写真を撮り忘れました。

 池には立派な鯉がたくさん泳いでいましたが、その中に金魚のような長い尾鰭をひらひらさせているのがいて、みんなも初めて見たとビックリです。三条実美の遺墨碑は、〈時しあらばよにあひおひのひめ小松 君にひかるることもありなむ〉で、当時の悶々とした情や再起の願いをよく表現した和歌。伊藤博文の額は〈履信居仁〉で、〝信(まこと)を履(おこな)い仁(じん)に居(きょ)す〟と読み、意味は〝信を日々繰返しおこない、礼にもとづき自分に厳しく他人には優しく、思いやりの気持でおりなさい〟です。これは、伊藤博文公より、旅館業の心得として松田屋がいただいたものだそうです。写真が相変わらず下手でボケていますが、お許しを!庭園の萩の花の色が濃くて綺麗でした。

 ④龍泉寺……文久3年(1863)8月18日、京都御所で起こった政変により、京都を追われた7人の公家は長州藩へと身を投じましたが、ここはそのうちの二人、東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)、四条隆謌(しじょうたかうた)が起居した場所で、別名〝湯田前町御殿〟とよばれました。寺の裏には七卿が弓術を学んでいた射場があったと伝えられています。が、今は寺も建て替えられて殆ど何も残っていませんでしたので、前を素通りしただけでした。写真は前の下見に行ったとき撮ったものです。

 

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〝石州街道を行く〟①井上公園の巻

2019年09月18日 | 俳句

 今日は暑かった! 朝から雲一つない快晴で、これはまさに〝吟行日和〟ですね~と、喜んだのはいいのですが、外を歩くと日差しが強いのなんのって…真夏に匹敵、いやそれ以上かも知れません。だって秋の日差しの方が紫外線が強いとか…。オオ、コワッ!

 朝9時に出発して、参加者8人、いざ山口市方面へ。今回は観光地巡りではなく、余り知られていない隠れた穴場です。題して明治維新策源地〝石州街道を行く〟ですよ。

 さて、〝石州街道〟とは? 朝日新聞社の「コトバンク」によれば、〝…北端に羅漢山(1109m)がそびえ,町域のほとんどが山林である。江戸時代には岩国城下から玖珂郡北部を通り,石見(いわみ)国を抜けて萩城下に至る石州街道が通じており,街道沿いの渋前(しぶくま)には享保期(1716‐36)ころまで市が開かれていた。山林が多いため農家の経営規模は小さく,米作を中心に畜産,シイタケ栽培が行われ,特産に岸根(がんね)栗,茶がある。…〟と。要するに「石見国」(今の島根県の西半部にあたる旧国名)を抜けて萩へ行く道なんですが、パンフには〝志士たちが新たな時代に向かって駆け抜けた、石州街道〟と謳ってあります。ちょっと説明を見てみましょうか。

 風雲急を告げる幕末、文久3年(1863)4月、藩主・毛利敬親は、湯田温泉への日帰り湯治という名目で萩を発ち、中河原の山口御茶屋に入り、そこに政事堂を置きました。以来、山口の町は藩政の中心地となり、同年6月には高杉晋作が奇兵隊創設案を建言。翌元治元年(1864)6月には留学先のイギリスから急遽帰国した井上馨が開国論を唱えるなど、歴史の上で重要な舞台となりました。また、その年9月に開かれた御前会議では、幕府に謝罪しようとする保守派に対し、井上馨が藩論を武備恭順に統一させることを強く主張しますが、その帰宅途中、袖解橋にて圓龍寺を屯所としていた、保守派の壮士数名によって襲撃され重傷を負ったのでした。そして翌日、改革派のリーダー・周布政之助が自刃。改革派は失脚し、保守派が藩政の実権を握ることになりました。こうした中、12月には改革派の挽回を図ろうとする晋作が長府功山寺で決起。奇兵隊をはじめとする諸隊もそれに呼応。翌年、山口には続々と有志が集結し、長寿寺において井上馨を総督とする鴻城軍が結成されました。こうして晋作や馨を中心とする改革派は兵を進め、保守派の萩政府軍を退け政権を奪取。維新という新たな時代へ向け、その一歩を踏み出したのでした。(NPO法人防長史楽会より)

 その明治維新策源地を巡る山口コースとして、次の順路が紹介されていました。 

 ①山口御茶屋跡→②長寿寺→③井上馨遭難の地(袖解橋)→④龍泉寺→⑤西郷・木戸・大久保会見所(松田屋ホテル内)→⑥瓦屋跡→⑦井上公園→⑧周布政之助の碑→⑨周布政之助の墓

 この〝石州街道を行く〟モデルコースを歩いて巡ろうとすれば、所要時間約1時間15分・約3,9㎞となっていますが、私たちは車2台で、逆に⑦→⑥→⑤→④→③→②→①と巡りました。やがて12時も過ぎましたので、昼食場所へと向い、そこでもちろん句会もしましたよ。

 今日は、その〝井上公園〟について紹介しましょう。

 この公園は、井上馨の生家跡に造られた公園で、園内には馨の銅像や七卿の碑の他、足湯や遊具などもあり、市民の憩いの場となっています。また、七卿のひとり三条実美が起居した河遠亭(かえんてい)の間取りを再現した施設も公開されています。

 では、写真で紹介しましょう。説明の字が小さすぎて読めません? ゴメンナサイ! 興味が湧いて詳しくお知りになりたい方はネットで検索して下さい。中原中也の生家跡が「中原中也記念館」になっていて、この井上公園のすぐ近くにあります。なお河遠亭は水曜日は閉所日で、内部が見れませんでした。ザンネン!

1、井上馨候生誕地跡の碑 2、井上馨候の銅像 3・4、井上馨候の碑 5、河遠亭跡の碑 6、河遠亭の説明 7、河遠亭 8、河遠亭跡の碑 9、瓢箪池 10、瓢箪池の説明 11、三条実美候歌碑〈君がためおもい来にけり旅衣 なれし二木の蔭は忘れず〉 12、三条実美候歌碑の説明 13・14、大樹の松(三条実実がが懐かしんで和歌を詠んだ二木の一つ) 15、三条実実公お手植松 16、所郁太郎顕彰碑(井上馨遭難の折に、刀傷を数十針も縫う大手術をして瀕死の井上を救ったが、27歳で病没) 17、龍尾の手水鉢(古くから井上家にあったもので、三条実実や維新の志士たちが使った) 18、龍尾の手水鉢の説明 19、足湯 20、湯田温泉のシンボル狐像 21、湯田温泉〝白狐の伝説〟 22、山頭火句碑〈ほろほろ酔うて木の葉ふる〉 23、山頭火句碑の説明 24、中原中也詩碑(詩集『山羊の歌』の「帰郷」の一節) 25、中原中也詩碑の説明 26、中原中也誕生の地の碑 27、 中原中也記念館 ……以上写真の説明でした。

 

 

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俳句に「方言」を使うのは?

2019年09月17日 | 俳句

 今日も概ね晴れて、まだまだ30度を超すような残暑ですが、日陰に入るとスーッと涼しくなって…、これはやはり湿度の違いのようです。同じ温度でもあの肌にまとわりつくようなねちっこさがないからでしょうね。

 月曜日が祝日で病院が休みでしたので、今日は午後からリハビリへ行きました。だんだん体力がなくなっているのがよく分かります。以前は楽にこなしていたメニューが…途中でひと休みしないと続けられなくなりました。メニューを減らしてしまうと元に戻すのがえらくて…エエッ、〝えらくて〟が分からないですって!じゃあこれは方言なんですかね~。

 普通漢字で「偉い」と書くと、〝社会的な地位、身分が高い〟とか〝行動や識見がすぐれて、立派だ〟という意味にとられやすいですね。しかし、「えらいことになった」とか「えらい騒ぎだ」とか言うことありません? この時の「えらい」は〝とんでもない〟や〝ひどい〟という意味で使っています。私が使った「えらい」は、〝しんどい・苦しい〟という意味なんです。

 みなさんはこういう時どういう言い方をされますか? 広辞苑で「しんどい」を引くと、〝京阪で言う。「心労」の転か〟とあって〝くたびれている。つらい。くるしい〟の意味。ということは「しんどい」の方が方言ということになるんでしょうか。ヘンなの…

 しかし、ちょっと調べてみますとやはり〝しんどい〟と同じ意味での「えらい」は方言のようです。私のふるさと大分では、〝よだきい〟ということばもあります。初めて他県に行ってこれを使いましたら笑われてしまいました。〝どういう意味?〟と。

 でも、今では広辞苑にも載っているんですよ。〝(大分・宮崎県で)億劫だ。面倒くさい〟という意味が。だからいつか東京で宮崎出身の友人に会って、つい〝よだきいね~〟と言ったら、〝わあ~懐かしい!〟と大笑いになりました。

 でも、この言葉は由緒あるものなんですよ。国会図書館の資料によると、平安時代にまで遡ることができ、古語の「よだけし(弥猛し)」(大儀だ、ものうい。おっくうだ)を今に引き継いだものとあります。ね~ビックリでしょう! だから方言だといってバカにしちゃいけないんですよ。

 そこで、方言を使った俳句があるのかしらと、ネットで調べてみましたが殆どありませんでした。中に一つほど…『増殖する俳句歳時記』より。

  秋風や鼠のこかす杖の音         稲津祇空

 作者は江戸期大阪の人。談林系から蕉門へ近づき、江戸に出て基角に師事した。「こかす」は、今でも方言として生きている地方もあるが、「たおす、ひっくりかえす」の意。私が子供だったころにも、寒い日の夜ともなれば、鼠どもが天井裏などを走り回っていた。人間が寝てしまうと、土間にも出没して、こういうこともやらかしてくれる。杖の倒れた音に作者は一瞬驚くのだが、いたずらをした犯人もまた一瞬にして見当がつく。耳をすますと、表ではひゅうひゅうと風の吹き渡る音。心ぼそい秋の夜、いたずら鼠にむしろ親愛の情すら感じてしまう。淋しかったでしょうね、大昔の秋の夜は。(清水哲男)

 ところで、毎日新聞の大分版で「大分弁俳句」の募集が平成24年4月より始まったんですって。これは毎日新聞が主催している「別府大分毎日マラソン」の応援企画として、平成20年からその時期だけ募集していたのを、好評につき定例化することにしたということらしいです。調べてみると、今年で350回を突破することができたんだそうですよ。スゴイ!

 選者は、大分県臼杵市出身で、方言を活かしたコピーライター・タレントとして活躍する吉田 寛(よしだ・かん)さん。毎週火曜日に優秀作5句、最優秀作=「大賞」1句を掲載。最優秀作には選者による「評」が加えられ、毎月「月間大賞」も選ばれて翌月の初めに発表されます。ちなみに、4月の初めての「月間大賞」に選ばれたのは、次の句だったんですと。

  見ちくりい男言葉の春ショール

 【評】おしゃれでかわいいショールを披露する際、つい「見ちくりい」と口走るおばさんの顔が浮びます。

 この「見ちくりい」というのは、〝見てくれ〟という意味で、ちょっと乱暴な言葉なので私たちは使いませんでしたね。やはりこの句のように方言を使うと滑稽が勝ちすぎて、川柳(川柳の方には失礼かも)に近いものになってしまうような気がします。

 詰るところ、私たちの学んでいる伝統俳句は、韻文であり文語を主体として抒情を求めるものとするならば、どこかに俳句としての〝品格〟が必要なのではと私は思っています。駄洒落やことば遊びとは違った分野の文芸ですが、その表現手段の一つとして方言を使う俳句があってもいいと思います。しかし、余程上手く使いこなさない限り納得してもらえるようないい俳句は詠めないのではないかしら。ウウ~ン、難しいですよね。明日は定例の吟行会ですので、今日はこれでオシマイ。

 写真は、〝韮の花〟(にらのはな)で、晩夏の季語ですが、今真っ盛りです。よく見ればカワイイ花ですよね。毎年勝手に生えてきます。

 

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兼題は〝踊〟

2019年09月16日 | 俳句

 今日も1日中晴れて、結構日差しは強いのですが、時折吹いてくる風はやはり気持の良い爽やかな秋の風でしたね。先程外に出てみるともう寒いぐらいで…ホント一枚羽織りたくなりました。

 すでに昨日「敬老の日」については書きましたので、これを話題にするのは何となく気の抜けたビールのようで…今日は他のことにしましょうか。

 先日の句会の兼題は「踊」でした。もちろん俳句で「踊」というのは盆踊を意味しますので、秋の季語なんです。この盆踊は平安初期の空也上人や時宗の一遍上人が広めたといわれる念仏踊を起源とするもので、盆に迎えた霊を供養し、かの世へ送り返すためのものでした。室町時代から江戸時代にかけて盆踊は全国に広がりましたが、その過程で、豊作を祝う豊年踊などと結びつき、土地ごとに変化していき、さらには、宗教てきな色合いがしだいに薄れて、娯楽としての要素を深めるようになったものなんです。

 昨年は初めて阿波おどりを見に行きました…それなのに残念ながら総踊は中止になり、おまけに雨まで降ってと散々でした。今年はお天気もよく総踊も復活と幸先のよいスタートを切ったかと、ニュースで見て悔しかったのですが…何のことはありませんでした。14日・15日は台風10号のため中止になったんですって。去年よりもっと悪いですよね。私たちが行ったのも最終の15日でした。しかし、一応雨でも見れましたし、その前の練習会場には屋根がありましたので、習って踊りましたから、中止よりはましかな。今年の東北四大祭は全部バッチシでしたから、これはラッキーでした。

  てのひらをかへせばすゝむ踊かな       阿波野青畝

 幼い頃、といっても小学生の頃ですが、私は盆踊が大好きで一人でよく踊に行っていました。大分県の別府にいましたから確か〝別府音頭〟とか云っていましたが、子どもでもすぐに踊れたのですから簡単だったのでしょう。大体が手と足を真似ねれば踊れます。この句のように〈てのひらをかへせば〉よかったような…そして、返しながら一歩前に進むんですね。基本的には殆どの盆踊がそうなっているような気がしませんか。ただ今回観に行った山形の〝花笠踊り〟のように、手に花笠のような何かを持って踊るのもありますから、一概にそうとは言えませんが。

 句会ではおもしろい句が出ていましたよ。原句は〈提灯も狐も踊る島の夜〉とありましたので、〝これはもしかしたら、大分県の姫島のこと?〟〝そうです。姫島の狐踊で~す〟と、元気な声で作者。私も観に行ったことがありますので、すぐに分かりましたが、〝狐は分かるけど、提灯も踊るの?〟とちょっとかまってみますと、〝いやだあ~、狐が提灯を腰につけて踊るんですよ!〟と。そこで、〈夜〉といわなくても大体想像できますのでこれを削って、〈提灯を腰に狐も踊る島〉と直しました。

 姫島の盆踊りは、鎌倉時代の念仏踊りから発展したものといわれています。毎年8月14,15日に、多くの伝統踊り、創作踊りが披露されますが、中でも〝狐踊〟が有名です。盆踊り終了後は、フェリーの夜間臨時便も運行されていますので、近ければ日帰りできますよ。私たちは前日から行って島に泊り、盆踊を見て遅くに帰りましたけど…。            キツネ踊り(きつねおどり)  ※写真と説明は、姫島村役場の観光案内からお借りしました。

キツネ踊り(きつねおどり)
以前は大人の踊りであったが、昭和20年代に大人から子どもの踊りとなり、北浦地区の子供たちによって踊られるようになりました。可愛らしいキツネの化粧とユーモラスなしぐさで人気を集めています。

 

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〝名月〟から〝十六夜〟へ、今日は〝立待〟

2019年09月15日 | 俳句

 宇部市も今日は30度超えの気温です。折角の3連休なんですが、予定は無し。しかし、明日は「敬老の日」ですよね。

 山口県では、県内の100歳以上の高齢者が1202人(15日時点)で、前年度より45人増の、過去最多を更新すると発表しました。今年度中に100歳を迎える人は605人(同73人増)で、5年連続の増加。宇部市では、100歳以上の高齢者数は176人とか。

 私が、〝おばあちゃん、市長さんから何かお祝いが届いた?〟と聞くと、〝何いよるんね、わたしゃまだ100歳じゃあないけんね~〟と言われてしまいました。〝ああ、そうか。100歳にならんとダメなのね〟〝なってもあんな金杯なんかいらんわ~ね〟〝エエッ、お祝いは金杯なの?でも、新聞の写真などで見ると違うみたいよ〟と、これ先日のおばあちゃんとの会話です。私の周りで貰った人はまだ誰もいませんから…知らないんです。

 主人の母は来年2月の誕生日で満99歳です。だからお祝いは満100歳にならないといけないということなら、再来年ということになります。義母が〝まだ私98歳じゃけんね!〟と、ちょっと気分を害したみたいで…、やっぱり女性はいつまでも歳を多く言われるのはいやなんでしょうね。エエッ、男性でも…ですか? とにかくこの歳になってもとても元気な義母に感謝しています。

 ところで、この「敬老の日」は、昭和26年に「としよりの日」として始まり、41年から9月15日が「敬老の日」として国民の祝日となりました。しかし、平成15年より、現在のように9月の第三月曜日に改定されました。

 そこで、『秋櫻子俳句365日』(梅里書房・平成2年刊) を見てみましたら、やはり敬老の日が制定されるとすぐに秋櫻子先生は句を詠んで発表していますね。さすが珍しいもの、新しいもの好きの先生らしい!では9月15日の頁を転載しましょう。これは娘である、「馬醉木」德田千鶴子主宰が書いておられます。

  好みとて老を敬ふふかし藷   (このみとておいをうやまうふかしいも)

  栗茹でて楽しからずや自祝翁  (くりゆでてたのしからずやじしゅくおう)

  着膨れて敬老の日の俄寒    (きぶくれてけいろうのひのにわかさむ)

 下二句も同時作。敬老の日に、ふかし藷と栗の句では、ちょっと寂しいんじゃない? と、思ったことがある。しかし、この二つは秋櫻子の大好物。甘党が知られて、全国から銘菓を頂くのでおいしい菓子は、よく知っているのだが。

 人は生まれ育ってきた味が一番というけれど、年をとるに従い、子供の頃食べたふかしたさつま藷や焼芋、茹栗など、素朴な味がなつかしくなるようだ。

  熟睡翁敬ふ朝湯沸きにけり   (うまいおううやまうあさゆわきにけり)

は、翌年の敬老の日に詠んだが、敬老という言葉を使わずに詠んでいる。朝寝していると、敬老の日だからと、朝湯を沸かしてくれたという、今では贅沢のうちには入らない敬老の祝いである。つい二十数年前の事で、敬老の日が祝日になったのはこの前年から。

 (昭和42年作・句集『殉教』所収) ※俳句の読みは私が付けたもので本文にはありません。

 さあ、明日の敬老の日にはおばあちゃんをどこに連れて行こうかしら? でもまだ、暑いし、義弟が土曜日に退院したばかりだから家で何か美味しいものでも作って食べましょうか。では今日はここまで…。

 写真は、13日の「中秋の名月」、14日の「十六夜(満月)」、今日15日の「立待月(十七夜)」です。満月だけは雲一つありませんでした。みなさんの所は? 去年のブログを見ると「雨月」でしたので、今年はきれいに見られてよかったですね。

  十六夜や月のゆらりと上りたる         後藤比奈夫

  立待の月光欅真半分              斎藤夏風

      

 

 

              

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〝中秋〟と〝仲秋〟の違いは?

2019年09月13日 | 俳句

 今日は〝中秋の名月〟ですが、満月は明日とか…

 ところで、よく〝中秋の…〟か〝仲秋の…〟かがハッキリしないという声を聞きます。またはどちらでもいいと思って適当に使っている方もいるような気がしますが、意味が違いますので気を付けて使いたいもの。

 〝中秋〟は、陰暦8月15日のことで、1日限りですが、〝仲秋〟は、秋の3ヶ月を孟・仲・季(初・仲・晩)と分けて、その真中をいい、陰暦8月の異称ですので、約1ヶ月間です。だから、陰暦8月15日の〝中秋の名月〟が絶対に満月だとは限らないのです。以前にも書いたことがありますが、大きくずれた年もあります。今年は1日のずれで、9月14日が満月なので名月は少し欠けた状態なんです。要するに月の満ち欠けがきっちりと1日単位でないので、そのずれが生じて、陰暦8月15日は名月であっても、満月になるとは限らないのですよ。今度ぴったりと8月15日が満月に一致するのは2021年だそうです。ああ~ややこしい!詳しくは次を…

 太陰太陽暦では、新月(朔)の瞬間を含む日が、その月の朔日(ついたち)になります。今年は8月30日(新月の瞬間は19時37分)が太陰太陽暦の8月1日、9月13日が太陰太陽暦の8月15日となります。一方、天文学的な意味での満月(望)は、地球から見て月と太陽が反対方向になった瞬間の月のことを指します。今回は、9月14日13時33分に満月となります。今年のように、中秋の名月と満月の日付がずれることは、しばしば起こります。詳しくは、国立天文台暦計算室の暦wiki「名月必ずしも満月ならず」をお読みください。

  名月や池をめぐりて夜もすがら          松尾芭蕉

  むら雲や今宵の月を乗せて行く          野沢凡兆

  十五夜の雲のあそびてかぎりなし         後藤夜半

  いくたびか無月の庭に出でにけり         富安風生

  土砂降の芋名月とこそはなりぬ          石塚友二

  物音も雨月の裏戸出でずして           田中裕明

 さてさて、「今日の月」はどれでしょうか? ちなみに名月が雲で見えないことを「無月」といい、雨が降って全く見えなかったら「雨月」といって、中秋の名月と同じ季語なんですよ。

 天気予報によると、こちらは一日中晴れマークなんですが、全国的には雨や曇りのところもあるようで…。千葉の方はどうなんでしょうか。停電が今日中に復旧すればいいんですが、もしダメならせめて今夜は名月で明るい夜を過ごして欲しいですね。千葉のみなさん、ガンバッテ!

 写真は、11日に買物に行った時の夕空、もう月がこんなに見えていました。名月の前日(陰暦8月14日)の月を「待宵(まつよい)」とか「小望月(こもちづき)」「十四夜月」などといって、これも季語です。そうするとさしずめこれは「十三夜月」ということになりますね。

  待宵や女主に女客                与謝蕪村

  待宵の心に添はぬ雨なりし            稲畑汀子

 

 

 

 

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