散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

元号は「時代の雰囲気を反映」するのか・西暦に直すのが面倒だ

2019年03月31日 | 歴史
元亀3年は西暦では何年?

これにぱっと1573年と答えられる人は「戦国史学者」「よほどの元号好き」「気合の入った戦国史ファン」ぐらいかなと思います。

今、私が「ウソ」を書いたのにお気づきでしょうか。元亀3年は1573年ではなく、1572年です。

司馬さんの作品には、元号の横に西暦が入っていません。だから「天正三年のことである」と書かれても、「西暦何年だ?」といつも思ってました。

私もブログで元号を使うことが多い。特に使うのが永禄、天正かなと思います。文禄とか慶長と書いた記憶はあまりありません。

永禄10年が信長の実質的な上洛作戦の始まりです。上洛そのものは永禄11年です。

本能寺の変が天正10年で、これは1582年と覚えています。永禄10年はその「15年前」と覚えています。だから引き算して1567年です。たぶん。

そうして元号を使って書きながら、実際は「あーめんどくさい」と思っています。

今から100年前はどうやら「大正8年」です。でもぱっと計算なんてできません。大正15年は昭和元年でもあるからです。

元号はめんどくさい。これが書いている時の私の実感です。

「それでもある程度時代の雰囲気を反映しているのだ」という意見もあるでしょう。

昭和生まれ
平成生まれ

なるほど「ある程度はイメージが湧きます」

平成元年生まれの人は多分今、30歳(29歳)です。でも1989年の1月7日生まれだと「昭和64年1月7日生まれ」、1日違って1月8日生まれだと「平成元年1月8日生まれ」です。

「平成生まれ」と言われても、30歳の人も0歳の子もいます。30歳では「凄く若い」とは言えません。

昭和生まれでも、昭和64年ならまだ30歳ですから比較的若い。計算合ってるかな。とにかく「面倒」です。ちなみに昭和64年は「7日間」しかありません。

「昭和生まれ」は90過ぎの人から30歳の人までいます。よくよく考えると「時代のイメージを反映」してもいません。

昭和と言っても、戦前、戦後すぐ、高度成長期、バブル時代では、全く違った時代と言ってもいい。同じ昭和でも、時代の雰囲気が全く違うのです。

元号を廃止しよう、とか「面倒な政治談議」をしているつもりはないのです。

ただただひたすら「計算が面倒」「西暦に直せない」と、いつもいつも思ってます。つまり戦国、安土桃山時代だけでも「元号が多すぎて西暦に直せない!」と「ハズキルーペ」のCMにおける渡辺謙さんのように「叫びたくなる」ということです。

補足
といって、歴史小説でいきなり「1615年のことである」と書かれても「興ざめ」なのは確かです。
「夜空には雲ひとつなく、十六夜の月の光がまぶしいほどに明るい。元和元年(1615)十月のことである」と、小さい西暦表示を是非お願いしたいものです。
ちなみに今「たまたま手にした、岡田秀文さんの本、海道竜一朗さんの本」にはちゃんと元号とともに西暦が明示されていました。最近の作家は親切です。

日本の近代化と西洋化・伊藤博文・大久保利通・西郷隆盛・夏目漱石

2019年03月31日 | 歴史
日本は「アヘン戦争がなければ」、太平の眠りの中に「たたずんでいたかった」国です。ところがアヘン戦争=列強の侵略を見てしまった。黒船が来た。そこから倒幕→明治維新→近代化、西洋化に突き進みます。

近代化、西洋化など、武士階級は、できればやりたくはなかったでしょう。でもやらないわけにはいかなかったのです。

近代化、西洋化は「軍隊の近代化」を主に意味します。しかしそのためには「教育の近代化」「生活の近代化」などあらゆる面に渡る近代化、西洋化が必要となりました。

西郷隆盛は、陽明学の徒で、保守的な人間でした。明治維新など起こさなければよかったと愚痴を言ってもいました。しかし山縣有朋が汚職事件を起こした時、彼をかばいました。山縣は長州ですから、かばう義理はなく、しかも西郷が最も嫌った汚職です。しかしかばった。何故なら「軍隊の近代化は山縣なしではできない」と思っていたからです。本来は村田蔵六の仕事ですが、彼は明治初頭に暗殺されています。

西郷すら「近代化は嫌いだが、やらないわけにはいかない」と考えていたのです。

大久保利通はさらにリアリストで、「やらなければいけないからやる」という立場でした。が、暗殺されます。

その仕事を受け継いだのが、大久保死後の内務卿(実質首相)である伊藤博文です。彼は芸者好きで有名ですが、生活は質素で、大久保を見倣って「蓄財」をしませんでした。明治天皇が彼を憐れんで、お金を送ったほどです。

伊藤もまた「近代化はやらないといけない」と考えていたでしょう。感情の問題ではなく、やらなければ亡国の危機があったからです。

夏目漱石は明治44年の講演で、近代化がいくら「上滑り」で「西洋の真似」であっても、やらなければ「どうしようもない」のだから、仕方なくてやったのだと述べています。

その結果が日露戦争の「勝利というか引き分け」です。「引き分け」としても奇跡的なことでした。その後日本は自己肥大を起こし、おかしくはなりますが。

明治の日本の政治家、知識人の多くは、西洋化に伴う「きしみ」「無理」を十分認識していました。しかし「それでもやらないといけない」ところに「日本が置かれた目の前の現実」、つまり帝国主義の時代という現実があったのです。

近頃の歴史小説家の傾向と対策・天野純希・伊東潤・火坂雅志・海道龍一朗・岡田秀文おすすめ歴史小説

2019年03月30日 | 歴史
天野純希

比較的ポップな作風だが、そういう作風の桃山ビート・トライブなどは、私には合いませんでした。

おすすめは「蝮の孫」(斎藤龍興)・「燕雀の夢」(織田信秀など)・「信長嫌い」(六角承禎など)・「有楽斎の戦」(織田有楽斎)

マイナーな武将に焦点を合わせて、面白く仕上げています。特に「蝮の孫」は良いと思います。あの齋藤龍興が「へたれ」から「たくましく」なって、最後は「己の生き方」を見つけます。歴史小説には珍しいハッピーエンドものです。すがすがしい。家康、秀吉も書いて欲しいのですが、たぶんメジャー過ぎて、興味がないのでしょう。

火坂雅志

わたしが読んだのは「王道もの」ばかりです。「天下家康伝」「真田三代」「天地人」などがおすすめ。「沢彦」はどうかな。

これら「王道もの作品」では「謀略とかトンデモ」をあまり書きません。「安心して読める」作品です。司馬さんの作品を「かみ砕いて易しくした」ような作風です。

伊東潤

短編も多い。「関東ものが大好き」な人です。つまり「北条」「武田」「上杉」です。「虚けの舞」「戦国鬼譚 惨」「北天蒼星――上杉三郎景虎血戦録」などがおすすめ。他、短編ものが多いので、気軽に読めます。多少「トンデモ」を採用する点が難ですが、さほどではありません。「虚けの舞」の主人公はなんと織田三介信雄です。

岡田秀文

「賤ケ岳」「関ケ原」など。特に「賤ケ岳」は本能寺から賤ケ岳までの流れを的確に追っています。初期の「本能寺六夜物語」を読んだら、全ての短編が「陰謀もの」なのに驚きました。「賤ケ岳」には無理な陰謀は出てきません。

海道龍一朗

実はまだ「北條龍虎伝」しか読んでいません。「戦国北条氏に弱い」私にとっては「うんちくが詰まった」作風となっています。主人公は北条氏康と北条氏綱で、早雲うんちくも沢山書いてあります。この作品だけをいうなら「王道もの」で「偉人伝」的な作風です。


私は「偉人伝的」な作風が好きですが、どうも世間は「謀略ブーム」のようです。以上挙げた作品は「王道的歴史小説」で無理な「謀略」は出てきません。ただし天野純希さんは偉い武将を描かないようで、齋藤龍興や織田有楽などの「へたれ武将」がやさしく救済されています。

外戚の専横を理解していた信長と家康・理解していなかったらしい秀吉

2019年03月17日 | 歴史
「外戚の専横」というのは「王の妻の親族がやたらと政治力を持って政治を乱す」ことです。広くは「亡き王の妻が政治を乱す」ことも含まれます。

亡くなった王の妻や妻の親戚が権力を握って政治を乱す。母親を敬えとする朝鮮などの儒教国家では、王の母が「大妃」として大変な力を持ちます。

この「外戚禍」を織田信長は「知っていて予防した」と思います。彼の妻。帰蝶は早々に歴史から消えます。側室、生駒吉乃の生駒家は大大名にはなっていません。お鍋の方の親族も同じです。そもそも「帰蝶・吉乃・お鍋の方」みんな資料がほとんど残っていないので、実名すらよく分かりません。

吉乃は織田信忠の実母とされていますが、彼女ですら資料がほとんどないのです。早期に死んだのかなと言ったところです。

むろん「政治の表に出て活躍する」なんてこともありません。「外戚の専横」を信長は意識的に防いだのだと思います。

本能寺後、帰蝶が生きていたとしても、政治の表にでてこないのは、そういう織田家の家風を理解すれば納得できます。生きていたかどうか分かりませんが。

それは徳川家康も同じです。彼は信長より本を沢山読んでましたから、一層「外戚の専横」を知っていて、そして防いでいたと思います。

例えば徳川秀忠の母。西郷局ですが、その名も有名ではありませんし、彼女の一族が大大名になったなんてこともありません。

秀吉も「知っていた」かも知れません。正室である「ねね」の一族を優遇はしますが、さほどではありません。浅野長政が「ねねの親類」である程度です。

「ねね」自身は豊臣政権において一定の影響力を持っていましたが、秀吉死後はさっさと大坂城を出て出家します。それでも関ケ原段階では彼女を「母」と慕う加藤清正、福島正則などがいました。
しかし関ケ原後は高台院として比較的静かな余生を送っています。「外戚の専横」とはほど遠い行動です。

淀殿は「外戚の専横」にあてはまる可能性があります。彼女自身が「大阪城の主のように」ふるまいました。親戚は織田家と浅井家です。織田有楽、織田信雄なども大坂城では一定の力を持っていたようです。さらに自分の侍女たちの一族を優遇しました。侍女大蔵卿局の息子が大野修理です。木村重成は宮内卿局という女性の息子です。

徳川幕府において「大奥」は一定の力を持っていたと思われますが、有名な女性はほとんどいません。桂昌院、江島生島ぐらいでしょうか。桂昌院の一族は出世しましたが小大名程度です。歴代「実母の一族」も小大名か旗本程度の出世です。

歴代将軍の「実母」なんて、普通の人はほぼ知りません。徳川吉宗の母なんて「湯殿番」だったとされています。

将軍の正室で「実母」になったのは、お江(秀忠正室)だけのようです。お江の父は浅井長政、母は織田お市。でも彼女の一族が「専横を働いた」なんて史実はありません。
彼女自身が「専横的だった」というのも「伝説のたぐい」みたいです。

ただし、ここに「春日局」という人物が登場します。家光の乳母です。彼女は実際いろいろ政治力を発揮しましたし、縁故によって出世した者も多い。老中になった堀田正盛は彼女の義理の孫です。

徳川家は「春日局はもうこりごりだ」と思っていたような気がします。彼女以降、彼女ほど政治の表にでて勢力をふるう女性は出ませんでした。(大奥内ではいろいろやっていたとしても)

江戸幕府も一応儒教を受容しましたが、「実母には政治力を持たせません」でした。江戸期を通じて「誰でも知っているような悪女」が出てこないのは、そのせいだと思います。

そもそも日本史には「悪女」が少ないのです。北条政子は悪女ではないでしょう。承久の乱においては幕府をしっかり守りました。淀殿は微妙ですね。日野富子は「かばいにくい女性」であることは確かです。ただし大河「花の乱」は面白い作品です。悪い面もいい面ももった女性、つまりは「人間」として日野富子が描かれています。

ただし「お富の方」はどうかな?とは思います。歴代将軍の中で「一番好き勝手やった」将軍は11代の徳川家斉です。なんせ「50年も在位」しているのです。しかも「ぜいたく三昧」で財政を傾けました。「幕末手前」の1837年に亡くなっています。歴代将軍の中でいろんな意味で「一番トンデモナイ」やつです。

このトンデモナイ男の実母が「お富の方」です。家斉だけでなく、実子が「尾張当主」「黒田藩当主」「一橋家当主」に養子として入っています。しかも長生きしたようです。彼女の大奥での「権勢」は非常なるものであったと想像できます。しかしこの「お富の方」すら日本人はほぼ知りませんし、彼女の父である岩本正利のことも、ほぼ誰も知りません。それほどに徳川は外戚を回避していたということでしょう。



天皇制を考えない

2019年03月16日 | 歴史
題名は間違いではありません。「天皇制を考える」ではなく「天皇制を考えない」です。

近頃、本当に考えません。元号が変わるのは面倒だな、ぐらいです。天皇家のお嬢さんの結婚にも何の興味もありません。

じゃあ昔は考えていたかというと、そりゃ今よりは考えていたでしょうが、特に深く考えたことはありません。

昔はお茶の水方面にいくと明治大学の前に「タテカンバン」があって、「天皇制打破」とかデカデカと書いてありました。だからそれを見ると、「なんとなくは考えて」いた気はします。

今はそういう風潮もないので、本当に考えないなと思います。

ただし「昭和天皇の戦争責任」や「君が代問題」は高校ぐらいからよく考えました。そして私なりの結論を得ましたが、特にそれを主張する気もないので、ここには書きません。

ついでに言うと邪馬台国も考えません。ヤマタイ→ヤマトの連続性があるとかないとか、畿内だとか九州だとか。そもそもヤマタイコクなんてないぞ、ヤマイチコクだとか、昔は「政治性がからんで」、随分と熱い「戦い」があった気がします。学問論争というより「政治論争」でした。まさに「天皇制をめぐる戦い」「政治の戦い」「右と左の戦い」です。

あの時代を考えると天皇問題も随分と「おだやか」になりました。

今上天皇の退位の理由は流石に聞きました。「昭和の終わりのように、天皇が重態になった時、国民がみんな喪に伏すようなことがあってはいけない」という部分が印象的です。

昭和の終わり、井上陽水がクルマのCMにでて「みなさん、お元気ですか」と言ったら、「天皇が病気なのに、お元気ですかとは何事だ!」と放送中止になりました。あれは悪夢です。今上天皇も「あれを繰り返してはいけない」と考えているようで、正しい選択だと思います。基本的に「いい人」みたいな気がします。会ったことも話したこともありませんが。これは天皇だからではなく、全ての老人(私も含む)に対して共通して思うことですが、穏やかな老後を過ごしていただきたいものです。

観音寺城の戦い・永禄11年(1568年)・豊臣秀吉登場す・ついでに蒲生氏郷も

2019年01月27日 | 歴史
最近は織田信長の上洛戦について書くことが多くなっています。

永禄10年と天正10年。1567年と1582年。この二つの「10年」が信長にとって非常に大切です。永禄10年は信長の上洛戦が実質的に始まった年です。正確には永禄11年からですが、伊勢平定を始めていますから、実質的には永禄10年が上洛戦の始まりです。こうして年代を並べてみると信長の天下統一戦は15年間です。その前は尾張統一・美濃攻略で、これに15年かかっています。天正10年が本能寺の変です。永禄と天正の間には元亀が3年ほどあります。

なお永禄10年は天下布武の印を使い始めた年でもあります。永禄10年・11年は安土桃山時代の始まりともされます。

信長は岐阜にいましたから、上洛戦で「邪魔」なのは、北伊勢(三重の北)の神戸氏と長野氏。これには養子を送って乗っ取ります。

最も「邪魔」なのは近江(琵琶湖辺り)の六角義賢・この人六角承禎という名で有名です。承禎は剃髪後の法名です。永楽2年には名乗っていたようですから、ここからは承禎と書きます。

信長は六角承禎とも戦いたくなかったようです。何度か使者を送って上洛協力要請をしています。義昭からも使者が出ています。岐阜からでは遠いと思ったのか、浅井の佐和山城に信長自ら出向いて、そこから六角と交渉したりしています。

しかし結局決裂します。これが永禄11年のことです。

信長は岐阜にもどって軍勢を整え、「1万5千の兵で出陣。のち加勢が加わり、軍勢は5万ほどになる」。主戦場は箕作城です。織田軍の陣容は

1、稲葉良通(稲葉一鉄)
2、柴田勝家・森可成
3、織田信長・滝川一益・丹羽長秀・木下秀吉

六角承禎は観音寺城にいました。しかし支城の和田城・箕作城が簡単に陥落。六角承禎は甲賀に逃走します。(この後も数年信長に対抗)

六角家家老・蒲生賢秀は日野城で最後まで抵抗する。しかし神戸氏らの説得を受けて降伏。人質を差し出す。この時の人質が蒲生氏郷。豊臣家では大封を有しましたが、ちょっと影が薄い人です。

木下秀吉が「信長記」に登場します。他の資料ではその3年ぐらい前に登場しているようです。

一番分からないのは「1万5千の兵で岐阜を出陣。のち加勢が加わり、軍勢は5万ほどになる」点です。1万5千に浅井の3千、徳川の1千が加わり5万、、、て計算が合いません。1万9千でしょう。

むろん伊勢や近江の国衆が「お味方」したのでしょう。その数3万。ちょっと多すぎるかなと思いますが、特に大きな異論はないようです。あっても私が知らないだけかも知れません。

織田信長の尾張統一・登場人物ノート

2019年01月24日 | 歴史
信長の尾張統一を理解する上で必要となる「人物のまとめ」です。ほとんど「織田」なので、わかりやすくはありません。

前提として信長の親父、織田信秀の時代、尾張には次のような「グループ」があったことを知っておいてください。

守護である斯波氏グループ(しばし)
守護代である清州織田氏グループ(きよす)  または大和守織田氏
守護代である岩倉織田氏グループ(いわくら) または伊勢守織田氏
清州織田氏の奉行である信長血縁グループ(勝幡織田氏グループまたは織田弾正忠家グループ)・・勝幡の読みは「しょぱた」です。

織田信秀(1551-1552)・・織田信長の親父、斯波・織田連合体である「尾張グループ」の代表格であった。しかし身分は低く守護代清州織田氏の奉行。勝幡城主→那古野城主→古渡城主→末盛城主

織田信長(1534-1582)・・18歳の時、父の織田信秀が死ぬ。1546年以前に那古野城主となる。親父は末盛城主。家督を継いだとされるが、信秀の居城である末盛城は弟信行が継いだ。

織田信行(1534より後の生まれ-没1558)

織田信秀の三男か四男、信長の同母弟。母は土田御前。名前がいくつかあり「勘十郎」「信勝」「達成」「信成」。織田信秀の居城である末盛城を継いだ。信秀死後、勝幡織田家の権力は「織田信長」「織田信行」「織田信光」の三人に分割された。信秀没直後は信長とは協力関係だったようである。だが2年後の1554年には織田弾正忠家当主を名乗って信長と対抗した。1556年には重臣「林秀貞・林美作守・柴田勝家」と共に信長と戦った(稲生の戦い)。この時林美作守は戦死。戦は信長が勝利。信行は末盛城に籠城。土田御前の仲介によりこの時は許された。しかし、1559年、岩倉織田家の信安に通じて謀反を計画。これを柴田勝家が信長に密告した。結局同年11月、病気と偽った信長の見舞いに行き、清州城で謀殺された。既に織田信光も没しており、これで信秀系の勝幡織田氏、つまり織田弾正忠家は織田信長のものとなった。子は津田信澄。津田信澄は明智光秀の女婿で、織田家連枝として遇された。本能寺の変で織田信孝に疑われ殺害された。

織田信光(1516-1556)

織田信秀の弟。つまり信長の叔父。孫三郎。守山城主。信秀系織田氏の中で信秀没後、一定の権力を有していたと思われる。1555年、信長と協力して清州織田氏の当主・織田信友とその家来坂井大膳を謀略にかけ織田信友を殺害。清州城を乗っ取る。坂井大膳は今川に逃亡。信長を清州に入れ、自分は那古野城主となった。その翌年の1月には家来坂井孫八郎に殺害された。急な死であったため「暗殺説」もあるが証拠資料はない。彼の死により勝幡織田氏(信秀系織田氏)の権力は織田信長と織田信行で分け合うことになった。

山口左馬之介(1560頃没)

織田信秀配下、三河との国境にある鳴海城を任されていた。1552年、信秀が死ぬと、息子九郎二郎と共に、信長に反旗をひるがえし、今川の軍勢を鳴海城に入れた。信長は800の兵で戦う(赤塚の戦い)が、引き分け。その後今川義元に疑われ、切腹させられた。

織田信友(没1554) 清州織田家

信長の直属の上司である尾張守護代清州織田家当主。清州城主。当主としての実権はさほどなく、坂井氏や河尻氏が実権を持っていたらしい。1552年ごろから信長と明確に対立。戦いをしかけたり、暗殺を企てたりする。1554年には家老坂井大膳とともに「信長派」であった守護「斯波義統」を暗殺。信長と戦って敗れる。織田信光に調略をしかけるも、逆にだまされ、清州城を乗っ取られて死亡する。坂井大膳は今川に逃れる。斯波義統の子「斯波義銀」は信長の保護下に入る。

斯波義統(1513-1554)(しばよしむね)尾張守護・国主

尾張の守護代。斯波氏14代当主。尾張に対し一定の影響力はもっていた。特に織田信秀とは協力関係にあり、両者は互いに利用しあう関係にあった。その為、信秀の上司である清州織田氏・織田信友とは対立的な関係になっていく。1554年、織田信友の信長暗殺計画を信長に密告。義統の密告を知った信友に襲撃され、奮戦ののち討ち死にする。信長は義統の子「斯波義銀」を保護。信長は逆賊討伐を名分にして、信友を討ち果たす。

織田信安(没1591または1614) 尾張守護代・岩倉織田家当主・織田伊勢守家

織田信秀は守護代清州織田氏の奉行であったが、信安はもう一つの守護代家「岩倉織田氏」の当主である。信秀とは友好的であったが、信長と疎遠であった。が、尾張上四郡では勢力を保っていた。信長に追放されたわけではなく、家督争いが起こり、長男の織田信賢に追放された。

織田信賢(生没年不詳)(おだのぶかた) 尾張守護代・岩倉織田氏当主・織田伊勢守家

父である織田信安を追放して、岩倉織田氏当主となる。岩倉城主。信長の弟信行を支援して信長と戦うが、1559年、追放される。同年、信長は今川と通じた斯波義銀も追放したため、ここに信長の尾張統一がなることになる。

以下逐次加筆します。

織田信長の尾張統一・みな織田姓・織田信なので一苦労

2019年01月23日 | 歴史
織田信長の親父は織田信秀です。この人が「尾張国主・守護」なら話は簡単です。親父が死んだので信長が「尾張を継いだで終わり」です。しかし、そう簡単にはいきません。なにしろこの「親父」である「織田信秀」は国主でも守護でもなく、守護の代わりをする「守護代ですらない」のです。

こういうことです。

親父・織田信秀(1511-1552)の当時の尾張の勢力

尾張守護    斯波義統(しばよしむね)
守護代上四郡  織田信安(おだのぶやす) 織田伊勢守家・岩倉織田家  
守護代下四郡  織田達勝(おだたつかつ) 織田大和守家・清洲織田家  やがて家督は織田信友が相続

で肝心の織田信秀は織田達勝の「家来」です。清洲織田家には家来筋の奉行が三家あって「清洲三奉行」と言われました。その三奉行のうちの一人が織田信秀です。織田信秀の家は「織田弾正忠家」と言います。

簡単に書くと尾張守護の「家来の家来」です。死ぬまで彼は奉行です。それでも港を保持して経済力があり、戦上手でもあったため、他国との戦では大将になることが多かった。だから「尾張国主」と勘違いされることが多いのです。勘違いというか「国主並の勢いがあった」と書くほうがいいかも知れません。それでも「尾張統一なんてしてないし、あくまで一奉行」です。信秀は尾張グループの代表格でしたが、その「代表格」を信長が簡単に継げるわけではないのです。実際信長は代表格全ては継げなかった。だから自分で勝ち取ったのです。

織田信長が尾張統一をしようとする場合、「敵」は以下のような存在です。

A、織田弾正忠家=信秀系織田氏の中の「反信長勢力」

B、主君である織田大和守家=清州織田氏の中の「反信長勢力」  当然AとBは重複しています。

C、織田伊勢守家=岩倉織田氏の中の「反信長勢力」

D、守護斯波氏の中の「反織田勢力」 斯波氏自体に勢力がないのでさほど問題にはならない。

ただし「敵対」ばかりはしていられません。いきなり全部敵に回すなんてできません。だから信長も、当初は、時にあるグループにすり寄り、時に敵対しながら、なんとか尾張統一を目指しました。

その過程を、なるべく簡略に整理すると、こうなるでしょう。

1、まず織田弾正忠家、その他の「反信長勢力」を平定

18歳で信長は織田弾正忠家の家督を継ぎます。これには反対もありました。それでいくつか戦いが起きます。信長はなんとかそれらの乱を乗り切ります。
最大の敵は弟である織田信行(信勝・勘十郎)でした。が信行殺害は24歳の時です。また「いきなり信行を敵にした」わけでもありません。敵は他にいくらでもいたからです。

2、織田大和守家・清洲織田家の「織田信友」を殺害。

21歳の時に織田大和守家・清洲織田家当主「織田信友」とその家臣「坂井大膳」が尾張守護・斯波義統を攻め殺します。信長は義統の子を保護し、叔父織田信光とともに織田信友を殺害します。これが22歳の時です。これで織田大和守家=清洲織田家は断絶。

3、謀反の前歴があった弟「織田信行」を殺害。

24歳の時です。病と偽って見舞いに来た「織田信行」を殺します。これで織田弾正忠家の中の争いはほぼ終息します。

4、織田信安に代わり実権を握っていたその嫡男・織田信賢を追放

26歳の時です。これにより織田伊勢守家・岩倉織田家も潰れます。ほぼ尾張統一です。

同じ年、最後に残っていた前尾張守護「斯波義統」の子である「斯波義銀」(しばよしかね)を追放します。これで尾張統一です。あー分かりにくい。

これで尾張「守護家」「二つの守護代家」「信秀系織田家の反信長勢力」の三つが全て潰されます。みんな「織田姓」しかも「織田信」までが同じ人間が多い。だから非常にややこしいのです。
でも「清洲三奉行のうちの2つは残っているのではないか」と思う方もいるでしょう。他の2家は信長時代には勢力を失っていたようです。なお、土佐の山内一豊の家は岩倉織田家に属していたと言われます。そんなこと書いていたらキリありませんが。

真田昌幸と織田信長

2019年01月21日 | 歴史
真田昌幸(信繁=幸村の父)と織田信長を比べるのは「視点がおかしい」とは思います。真田昌幸はあれだけの謀略を使いながら、せいぜい6万石程度の領地しか持たなかった人間です。信長とはスケールが違います。年齢も信長が13歳ぐらい「年上」です。さらに言えば一時ですが、昌幸は織田家に臣従もしています。

が「真田太平記ファン」の私としては「つい比べてみたくなる」わけです。伊達政宗が「東北に生まれず、しかも信長と同世代だったら天下をとっていた」とは思いません。なにかというと伊達政宗は天下を狙っていたことにされますが、彼の一生を見る限り、そんなそぶりはありません。娘婿の「松平忠輝」が徳川宗家に「かなり警戒」されていたので、それが理由となって「松平忠輝を擁して天下に号令しようとした」とされることもありますが、「伝説」と言えましょう。伊達政宗は徳川幕府に対し実に忠実です。

同じように「真田昌幸が信濃に生まれなかったら天下をとれた」というのも「伝説」です。それと「分かりつつ」書いています。

真田昌幸の「不幸」は「主君武田家がしっかりしていた」ということです。下克上を起こそうにも、そんなスキは勝頼時代だってありません。信長の場合、父の代ですでに「主君は力を失って」いたわけです。斯波氏ですね。信長は「尾張を受け継いだわけでない」わけで、父の作った土台の上で、「自分で尾張を統一した」のですが、「主君が武田のように強大だったら」、無理だったでしょう。ちなみに斯波氏を滅ぼして尾張を統一したとは言えず、織田家同族との争いが主でした。

信長も昌幸も「小さな領地を継承した」点では同じですが、信長が「自由に振舞えた」のに比べ、昌幸にはそんな自由はなかったわけです。自由が欲しいとも思わなかったかも知れません。なにせ主君が武田信玄です。強大過ぎます。それに昌幸は信玄近習なわけで、下克上なんて発想そのものがなかったと考えられるわけです。

しかしその武田も滅び、昌幸は「ある種の自由」を得ます。しかし周りを見渡せば「織田→豊臣の勢力」「勢力を増した徳川家」「関東の覇者北条家」「衰えたと言えど強大な上杉家」に囲まれているわけです。彼が「本領安堵」、つまり「もともと持っていた領地を保全したい」と考えるのも当然です。どう見てもそれが「限界」だからです。

しかも彼の生まれた土地は「信濃」です。畿内で起きていたような下克上は「既に終わって」いました。信玄時代を見るならば「上杉」「武田」「北条」「今川→徳川織田」で周囲はがっちり固められていました。(北条早雲が下克上のはしり、武田信玄は父を追放、上杉謙信はもともとは長尾氏ですが、それら下克上は既に終わっていたわけです)

それに比して信長の周りにいた大名は「名門」でした。本拠の尾張は斯波氏。周囲には六角氏(佐々木氏)、北畠氏。古いけどやや力が弱い名門です。美濃は脅威でしたが、道三の娘をもらうことにより、解消します。もっとも道三死後は「最初の最大の敵」となりました。しかし美濃を攻略し、この時点で尾張+美濃、領国は100万石を超えます。しかも交通交易の要衝です。「美濃を制するものは天下を制する」とまでは言えないと思いますが(司馬ファンとしては言いたいのですが)、「日本の中心地帯の一部」であることは間違いないと思います。

しかも畿内では下克上の風潮が満ち満ちていました。浅井氏なんても「新興勢力」ですし、三好や松永など「下克上の権化」みたいな存在もいました。さらに本願寺勢力、これも「新興」と言えば新興です。

信長の力が真田昌幸をはるかに凌駕していたのは間違いありません。ただ「生まれた土地が良かった」のもまた間違いないと思います。

「西郷どん」 「西南戦争」の「あらすじ」と感想と願い

2018年12月10日 | 歴史
西郷は武装決起します。村田新八らは「海路東京を襲撃する」ことを主張しますが、桐野ら参謀は「政府に尋問の筋これあり」が西郷軍の大義であり、堂々と熊本城の鎮台兵を叩くことを主張します。西郷は「尋問の筋あり」などと言うのは「戦の大義に過ぎず、実質は反政府武装蜂起である、戦は言葉遊びでやるものではない。殺し合いである。」と「心では思う」ものの、「すでの自分の体は預けた」という考えのもと、何も言いません。

桐野は「竹の棒一本あれば熊本城など叩きつぶせる」と後世に残る「名言」「迷言」をはきます。そして熊本鎮台の「谷干城」に対し、「西郷大将が行くから、お出迎えをしろ」という手紙を書きます。むろん谷干城は「激怒」します。「西郷はどこまで増長しているのか。大将などというのは位に過ぎず、軍隊の指揮命令系統とは何の関係もない」と正論を吐きます。

熊本鎮台の火力の前に西郷軍は城にとりつくこともできません。それでも桐野は「鎮台は本気でやる気だな。元気があってなかなかいい」と虚勢を張ります。しかしあえなく撤退し、西郷の神通力など一部薩摩士族にしか通用しないことを痛感します。

やがて舞台は熊本城の北方「田原坂」に。政府鎮台兵は薩摩の「抜刀隊」を恐れます。しかし川路が薩摩郷士からなる「警視隊」を投入すると、勝負は互角になり、やがて「火力に勝る」政府軍が西郷軍を圧倒していきます。政府に尋問などという「言葉遊び」は何の意味もなく、西郷軍は薩摩へ薩摩へと追い詰められていきます。

総司令官的な地位にあった山縣有朋はそれでも西郷軍を恐れ、「鎮台は薩摩士族の敵ではないのか」と悲観的な意見を述べます。副司令官的地位にいた大山巌は「薩摩の戦いは、昔から勇猛である。しかし勇猛であるあまり、補給を軽んじ、後方をかえりみない。今鹿児島はカラになっている。そこをつくべきだ。田原坂の薩摩軍に対しては撃って撃って撃ちまくる。火力では政府が圧倒的優位に立っている。撃って撃って撃ちまくれば、勝利は必ず政府軍がつかむ」と山縣を諭します。

山縣有朋は言います。「思えば、村田先生(大村益次郎)は九州に備えて火力を増強せよと長州の山田に言い残して死んだ。薩摩人である君の前で言うのもなんだが、殺したのは薩摩人であり久光公側近の有村俊斎である。それから8年が経つ。村田先生は明治2年に死んだが、時を経て、今、薩摩の西郷さんと刺し違えようとしている。村田先生はまさに鬼謀の人であった」

そんな中、桂小五郎が結核でなくなる。亡くなる前「西郷君、もう分かった、もういい加減にせんか」と声を絞りだすようにして言います。

西郷軍に物質的な支援をしていた県令(知事)の大山は、カラになった鹿児島をついた政府軍によって囚われの身となります。そしてやがて東京で大久保と対面。

大山は言います。
「今度はおいたちも薩摩の怒りを抑えられなかった。しかし自分は久光公に対しても、西郷さーに対しても自分の役割は果たした。政府の方針を無視し、内務卿である一蔵(大久保)を散々苦しめたが、それがおいの戦いであった。一蔵どん、薩摩人の死を無駄にするな。おいたちの死を乗り越えて一蔵どんも自分の役割を果たせ。」
そして肩を強く握りしめてこう言います。
「役割を果たして、一蔵どんも早く楽になれ」

すでに自分が遠からず殺されるであろうことを予想していた大久保は黙ってうなずき、こう言います。
「自分と大山さーのことは、そして自分と西郷さーのことは、決して他の人には分からないでしょう。」
大山は「頑張れ」というように大久保を見つめます。

大山巌が西郷糸を訪ねます。大山巌は西郷隆盛、従道とは「いとこ」の関係でした。薩摩には警視隊の薩摩郷士を多く殺した西郷家を恨む声もあり、糸たちを保護することが大山巌の目的でもあり、西郷従道の願いでもありました。糸は言います。「保護は受けません。大将の妻として死んだ人たちの恨みは甘んじて受けるつもりです。うちの人や新八さーは、血気にはやるニセどんたちを必死になって抑えようとしてきました。その思いは、東京にいる慎吾どんも弥助さー(大山巌)も同じだったはずです。慎吾どん、弥助さーは政府の大官でありながら、何故この戦争を止められなかったのですか。大久保さーは、何を考えていたのです。」
大山巌は黙ってうなづき、子供たちの為の物品だけを置き、兵士たちに遠巻きに警護を行うよう指示して、西郷家を去ります。

一方島津久光のもとには勅使として柳原前光が派遣されていました。久光の上京をうながすためです。久光は中立を表明し、東京には忠義ら息子を行かせると言います。その上で、今までと同じ政府批判を行い、西郷暗殺計画についても触れます。柳原は毅然として言います。「維新では長州人がもっとも多く死にました。しかし今山口の県令は元幕臣の関口であり、山口県は何の特権も得ていない。なぜ鹿児島だけを特別に扱わなくてはいけないのか。大久保卿は長州の木戸さんに絶えず責められておりました。久光公、西郷さんはやがて戦死なさるでしょう。多くの薩摩武士も死にます。久光公は維新において大きな功績がありました。だから今後も政府は久光公だけは守ります。しかし鹿児島を今後特別扱いすることなどできません。時代は移っていくのです。もはや殿様などは無用の特権と思し召して、余生を風雅の中に送っていただきたく存じます」

そして西郷軍は敗退に敗退を重ねます。義軍を率いて熊本から参加していた宮崎八郎は「薩摩は勇猛と聞いていたが、ここまで近代戦を知らないとは思ってもみなかった」という言葉を残し、戦死します。西郷の末弟である西郷小兵衛も戦死します。

そんななか、転々と各地をさまよう西郷軍より「西郷助命の嘆願」が山縣に届きます。戦は自分たちが西郷をかついで起こしたにすぎず、国家のため西郷だけは殺さないで欲しいという内容でした。

「どうなさいますか、西郷を殺し、その首を江藤のようにさらしますか」と言う大山巌に対して、山縣有朋は半ば怒り、そして悲し気に言います。「自分は山城屋の件では西郷さんに生涯忘れてはならない恩を受けている。助けられるものなら私だって助けたい。西郷さんの死を悲しむ者は、君や大久保卿や西郷従道君だけではない。しかし、ここまで人が死んだ以上、助命はもはや無理である。自分は西郷さんを無残に殺したくはない。今となっては西郷さんに自刃してもらうほかない。それを願っている。」

西郷軍は人吉に移り、やがて宮崎、延岡そして長井村へと根拠を転々と移しながらさまよいます。その間、桐野たちは兵隊を強制徴用したり、「西郷札」という「空手形」を発行することにより、いわば民衆を騙して物資を補給します。このように桐野らが散々民衆を苦しめるのを見た西郷は「西郷軍解散」を決心します。そして今後は残った少数に対し、自分が指揮をとることを宣言します。すでに死を覚悟していました。西郷にとって問題なのは、いかに長井村から脱出し、薩摩に戻り、そして薩摩において死ぬか、もうそれだけでした。「自分が死んでも東京に大久保ある限り、日本は大丈夫である」、西郷は村田新八に対し静かにそう言います。「それにしても鎮台兵は強くなりました。これで外国との戦争も大丈夫ごわすな」、村田新八は微笑みながらそう言います。西郷も満面の笑みでそれに大きくうなづきます。「自分は後方では死なん。我がふるさと薩摩に戻り、そこで政府軍を迎えうち前線に於いて死す。さあ、行こかい」、西郷は立ち上がります。

やがて薩摩の城山に籠った少数の西郷軍を、膨大な数の政府軍が取り囲みます。西郷は最後の突撃を試み、2発の弾丸を受けます。「ここらで良かろうかい」、西郷はそう言い残して別府晋助の介錯で自刃します。桐野らは塹壕の上で政府軍に身をさらして、鉄砲を撃ち続けます。左右から政府の抜刀隊が桐野を狙いますが、桐野は立ちどころに相手を切り殺します。しかし政府の弾丸が桐野のひたいを撃ち抜きます。残った者たちも次々に自刃します。西郷軍の壊滅を見届けた村田新八も自刃します。最期の言葉は「ああ天命なり」でした。

賊魁(ぞくかい)西郷死すの電信を大久保は受け取ります。大久保は涙を流し、心の中で自分に向かってこう考えます。
「後世、自分は英雄西郷を殺した男とされるだろう。そして人々に恨まれるに違いない。それは良い。しかし、自分と西郷さーの関係は、どんなに言葉を尽くそうと、後世の人間には決して理解できないだろう」

以上。

もちろんこれは「西郷どん」の「あらすじ」ではありません。「こう描くべきだ」という私の「願い」みたいなものです。「翔ぶが如く」のセリフも拝借しています。しかし実際は全く違うことが描かれました。無駄なエピソードばかりで、西南戦争の推移も全く描けていません。西郷軍の敗因すら分からない脚本で、残念な限りです。「ここらで良かろうかい」と西田さんは言いますが、「いいわけないだろ」と思います。

京都五山と禅宗についての覚書

2018年12月08日 | 歴史
「京都五山」という言葉はよく聞きますが、別に「山の名前」ではありません。室町幕府の庇護を受けた「6つの寺」のことです。ややこしい。5山なのに6つです。

「三好三人衆」という言葉もよく聞きますが、これは3人です。でも何故か個人名で呼ばれず「三好三人衆」と言われます。個人名としては三好長逸(みよしながやす)、三好政康(みよしまさやす)、岩成友通(いわなりともみち)。これもやや「ややこしい」。岩成は三好姓ではありません。

さて京都五山。「位」がつけられています。

別格が南禅寺、第1位が天龍寺、第2位が相国寺、第3位が建仁寺、第4位が東福寺、第5位が万寿寺。

この内、2位の相国寺は室町初期は五山ではなく、存在もしていません。なぜなら三代将軍足利義満が作った寺で、義満の圧倒的な政治力のもとに「五山の仲間入り」をしたからです。

そうすると元々の5寺に加えて全部で6寺になります。それでも「京都六山」とはなりませんでした。南禅寺を「別格」とすることで、「つじつま合わせ」をしたようです。でもやっぱり「6寺」あるので、「辻褄合わせにもなっていない」感じはあります。

さてさて禅宗。

難しい言葉は抜きにして、大雑把に言えば、「断捨離」とか「シンプルライフ」を主張?する教えで、いかにも仏教的です。

一切皆苦→諸行無常→涅槃寂静。これも大雑把ですが、諸行無常を正しく捉え、やがて涅槃寂静の悟りの境地に至る、これが私の捉える「仏教のそもそもの姿」です。もちろん上座部仏教(小乗仏教)です。

個人救済と修行(座禅)の重視を特徴としている点で、禅宗は「初期仏教の流れ」かと思います。もっとも禅宗にも、いろいろな流れがあるようで、大乗的な考えをする宗派はあるようです。

そもそも私としては「大乗仏教か」「上座部仏教か」という点にはあまり興味がありません。「人間個人の救い」を問題としているか「鎮護国家を問題としているか」が多少問題のように思えます。もっとも「鎮護国家を問題として」いても、結局はそれが「人々の救済」につながるわけですが、それでも一つの指標にはなると思います。ただ例えば、空海の密教は明確に鎮護国家を問題としていましたが、それでも人間個人の救済を問題としていなかったわけではありません。学問的には難しい問題ですが、別に学問をする気はないので、まあ区別などは「いい加減」でいいのではと思います。

仏教というのは、これもまあ大雑把ですが「いかにして悟るか」を説く宗教です。「悟りへの方法の違い」があるだけです。「いかにして心の平安を得るか」が問題なわけです。

キリストを信じて、キリスト教の仲間と交わることによって「平安を得られる」なら、それは悟りです。イスラム教を信じて平安を得られるなら、それも「悟り」です。

浄土衆の場合は念仏を唱えて浄土を信じることで「平安を得よう」とします。日蓮宗はまあ攻撃的で、なんとなく平安とはほど遠い感じもしますが、「まず社会を平安にし、そのもとで個人が平安を得る」という「宗教であろうか」と思います。日蓮宗について調べたことがあまりないので自信はありません。

さて禅宗の場合は、「捨てる」ことによって平安を得ようとします。

妄想を捨てる、、過去や未来について想像し、心を乱すことなかれ。
情報を捨てる、、「知識」によって心を乱すことなかれ。

総じていうなら「心配事で心を乱すなかれ」という宗教のように思います。その一助となるのが「捨てる」という動作です。

と「わかったようなこと」を書いていますが、もちろん私は専門家ではないので、「なまカジリの知識」です。ただし仏教的に書くならば「専門家かそうでないのか」にこだわることもまた「無明」であり、そんな「権威」は所詮は「虚仮」に過ぎません。

江戸城無血開城の最終的確定条件

2018年09月20日 | 歴史
江戸城無血開城の「最終的確定条件」

江戸城開城に関して、官軍が最初に出した案はこうです。

1、徳川慶喜の身柄を備前藩に預けること。
2、江戸城を明け渡すこと。
3、軍艦をすべて引き渡すこと。
4、武器をすべて引き渡すこと。
5、城内の家臣は向島に移って謹慎すること。
6、徳川慶喜の暴挙を補佐した人物を厳しく調査し、処罰すること。
7、暴発の徒が手に余る場合、官軍が鎮圧すること。

では「最終的な確定条件」はどんなものか。ネットで調べる限り、ちょっと分かりにくい感じになっています。がたぶん「こう」だと思います。

1、徳川慶喜の身柄を水戸徳川藩に預けること。
2、江戸城を明け渡すこと。
3、軍艦をすべて引き渡すこと。
4、武器をすべて引き渡すこと。
(ただし武器等に関しては、最低限必要な分だけ、後に徳川家に戻す可能性は残す)
5、城内の家臣は向島に移って謹慎すること。
6、徳川慶喜の暴挙を補佐した人物は謝罪謹慎すること。基本的には命は奪わない。ただし会津藩松平容保、桑名藩松平定敬に関しては罪を認め降伏しない限り、厳しく断罪する。
7、暴発の徒は徳川家が鎮撫する。ただし徳川家の手に余る場合、官軍が鎮圧する。

これが「最終的確定7箇条」だと思いますが、さてどうでしょう。徳川慶喜の助命と水戸徳川預けが勝海舟にとってもっとも大切な目標でした。人気のない将軍とはいえ、慶喜を殺したら、というより「主君である将軍を殺したら」「岡山あたりに遠流状態にしたら」旧幕臣の暴発は抑えることができなくなります。「旧幕臣をおとなしくさせるため」には、つまり「内乱の規模を小さくするため」には、慶喜の助命と水戸預けは譲れない一線でした。ちなみに慶喜を助けたのは西郷とは言えないと思います。もともとの西郷は積極的な慶喜切腹論者でした。慶喜助命に積極的に動いたのは長州、特に桂小五郎です。加えてパークス、山内容堂、松平春嶽。それから天璋院あたりでしょうか。むろん西郷も最後は助命に同意してはいます。

「6」に関してです。桑名の松平定敬は五稜郭に行き、それから上海まで逃亡しますが、結局は帰国し新政府に対し降伏します。なんやかんやで桑名藩は討伐の対象になりませんでした。
それに対し会津藩松平容保は藩内の主戦論を受け入れ、結局は徹底抗戦に決します。松平容保は「新政府はどうせ会津を許さない」ことを理解していたと思います。
で、会津戦争になり、最終的には降伏します。松平容保の命は奪われませんでしたが、会津藩は青森に移され、貧困と寒さに苦しみます。松平容保は最終的には日光東照宮の宮司になります。

徳川慶喜がなにかと「悪く」描かれるのは、この会津藩の不幸に対して、徳川慶喜が明治の世を彼なりに謳歌したからかな、と思います。

徳川15代の中の聖君とか名君とか

2018年09月18日 | 歴史
初めに、結論を書くと、徳川将軍に「聖君」などいません。もともと「聖君であることを求められていない」からです。「名君」であることは多少重要でしょうが、「聖君であれ」とは誰も思っていないでしょう。そもそも天皇が存在するわけで、聖君は「天皇の役割」ということかなと思います。

なぜ聖君という言葉を持ち出したかというと、朝鮮王朝では、やたらと聖君であることを求められるからです。少なくともドラマではそうなっています。でも朝鮮王朝にもきっと聖君なんていないでしょう。「王」ですから、現実は聖君でいられるほど甘くないのです。

さて、徳川15代の中の名君は誰か。といっても普通の日本人は15人の名前を暗記で言うことはできないでしょう。私もできません。4代とか6代とか7代とか10代とかあまりに影が薄いのです。

初代徳川家康、、、まあ彼は別格でしょう。創業社長ですから、まあ名君なんでしょうが、いろんな意味で別格です。ちなみに神君とよく言われます。とにかく別格です。

2代徳川秀忠、、、3代家光の功績とされていることの半分以上は、秀忠の功績です。実際に幕政改革行ったのは家光で、しかも秀忠の死後ですが、秀忠が用意した方針のもとに行ったともいえます。秀忠はドラマではよく描かれませんが、きわめて有能な人だと思います。もしくは有能な部下を使いこなした人です。

3代徳川家光、、、いろいろ功績があるとされていますが、半分以上は親父の功績です。というか死んだ親父の作ったレールのうえに成り立った功績だと思います。有名なわりにはドラマの主役になることが少ない人です。「将軍家光忍び旅」とか、古いところでは「家光が行く」がある程度です。大河では「葵 徳川三代」があって、一応主人公の一人です。

4代徳川家綱、、、病弱で早死にしています。影が薄い人です。それでも幕府が成り立ったのは、すでに合議制でうまくいく組織になっていたからでしょう。おじさんの保科正之の補佐があったことも幸いしました。保科さんは秀忠の隠し子です。保科さんは実質的には大老でした。後半は酒井忠清が権勢をふるいます。家綱の時代から「文治政治」が始まったという評価もあります。

5代徳川綱吉、、、ドラマにはよく登場してました。赤穂の討ち入りがあるからです。最近は「忠臣蔵」が流行らないので、あまり登場しません。家光の子で、家綱の弟です。犬公方とかいう別名もあります。いままで馬鹿にされて描かれることが多かったせいで、「実は名君だった」なんて新説も出ています。経済的には徳川の黄金時代です。裏を返せば、彼ぐらいから財政が傾きます。

6代徳川家宣、、、、家光の子で早死にした徳川綱重の息子です。綱吉の「おい」ですね。新井白石を登用しましたが、「在位がわずか3年」です。影が薄い。「いえのぶ」と読みます。

7代徳川家継、、、六代家宣の息子です。7歳で没しています。子供です。

8代徳川吉宗、、、徳川本家の血筋が絶えたので、紀州徳川から将軍になりました。暴れん坊将軍です。中興の祖とされてますが、彼がやった享保の改革はほぼ失敗しています。御三卿(御三家ではありません)の元を作った人です。いろいろやったけど失敗で、まあ名君とは言えないかな、と思います。幕府財政はよくなりましたが、要するに年貢を増やしたからです。商品経済の発達についていけなかった人です。

9代徳川家重、、、八代吉宗の長男です。体が弱い。言語が不明瞭であることなどで「有名?」です。15年在位しましたが、前半6年は吉宗の大御所政治です。

10代徳川家治、、、「いえはる」です。在位が長く26年も将軍をしていました。田沼政治で有名?です。つまり商品経済の発達になんとか対応しようとした政権です。

11代徳川家斉、、「いえなり」です。10代家治の子ではなく、吉宗の四男である徳川(一橋)宗尹(むねただ)の孫です。50年も将軍をしてました。前半は寛政の改革を行いましたが、後半は「無駄遣い老人」となりました。幕末、幕府の財政が傾いていたのはこの人の責任でしょう。50年の将軍在位は「ダントツの1位」ですが、ドラマの主役になった記憶はありません。

12代徳川家慶、、「いえよし」です。天保の改革で財政引き締めを目指しましたが、時すでに遅し、、でした。蛮社の獄はこの人の時代です。1853年にペリー来航、その年の夏に亡くなっています。

13代徳川家定、、、知的障害を持っていたと言われます。篤姫さんの夫です。父親の家慶には30人ぐらい子供がいましたが、この人しか成人しなかったようです。政治は阿部正弘→堀田正睦→井伊直弼が担いました。もっとも多難な安政期に5年ほど在位しました。

14代徳川家茂、、、「いえもち」です。紀州徳川から将軍になりました。12歳ぐらいで将軍になり、20歳で亡くなっています。後半は徳川慶喜が将軍後見職でした。幕末ものには必ず登場しますが、これといった「見せ場」がない人です。若すぎました。

15代徳川慶喜、、、一橋慶喜です。一橋家の始祖は8代吉宗の子の徳川宗尹です。つまり基本は吉宗の血筋なんですが、この人は養子で、水戸家の人です。在位は1年でした。いろいろなドラマで「これでもか」というぐらいひどく描かれます。が、彼がいなければ明治維新はもっと悲惨な内乱になっていたでしょう。維新最大の功労者だと言われることもあります。司馬遼太郎さんはそう思っていたようです。

ということで、名君はまあ「家康、秀忠、慶喜」の3人だと私は考えます。逆に一番トンデモないやつは「11代徳川家斉」でありましょう。

リベラルは何故、道徳教育を嫌うのか。

2018年07月30日 | 歴史
自分で書いておいてなんなんですが、「題名がおかしい」ですね。「リベラル」とは何か。「本当に嫌っているのか」など、変な点はいくつも指摘できます。

まあTVのコメンテイターのうち、良識派とか左寄りと言われるひとが、「官製の道徳教育を嫌う」もしくは「どうせ実効性はない」などと揶揄(やゆ)するのは何故か、ぐらいの意味だと思ってください。

私の「立ち位置」を書くなら、「リベラル風」です、「風」がつくのです。凄く保守的な面もありますし、前衛的な面もある。総合すれば「リベラル風」かなと思います。人間は矛盾の総合体ですから、「イズムで生きる」なんてことはないのです。商売右翼さんとか商売サヨクさんは別にして、いや彼らこそまた矛盾の総合体であり、つまりは「みんな色々な面を持っている」はずです。

リベラル風ですから、「日の丸」とか「愛国心を声高に言う人」はまあ「好きじゃない」方です。でも自分で言うのもなんですが、日本史の知識は平均以上ぐらいにはあります。日本という国をいつも考えているのです。正直、「愛国心を声高に言う人」より「よほど私の方が日本の歴史を知っている」と思います。でも自分は愛国者だなんていう必要もないのでいいません。そういうことを大声でいうひとはほとんど「ニセモノ」だと思っています。まあ実際、ワタクシは「いわゆる愛国者」ではないでしょう。好きな面もあるが嫌いな面、改良しないといけないと考える面も日本には沢山ある。そもそも僕にとっては愛国者かどうかなんて「本当にどーでもいいこと」です。

さて本題。

今の50代とか60代の人が大学で学んだ場合、当時の大学の先生たちはほぼサヨク的でした。「ほぼ」です。ウヨク的だと「保守反動思想家」と言われて「忌み嫌われる」わけです。だからほとんどの大学の先生は「サヨク的」です。そういう人が書いた本で学ぶわけだから、どうしたって頭は「サヨク的」もしくは「リベラル的」になりがちです。そういう時代だったのです。中にはサヨク的では飽き足らず、もっと左へ行きたい人々もいました。吉本隆明氏なんかは共産党さえ「保守的」だと批判し続けていました。

そういう人たちは、カントの道徳律の影響を「自然に受けて」いることが多いと思います。別にカントを読んだことなくても、カントに影響を受けた人の本を読めば、自然に受けてしまうのです。マルクスを理解するためにはヘーゲルの理解が必要であり、ヘーゲルの理解のためにはカントの理解が必要です。

僕の場合などは、高校の倫理の時間でカントを勉強して、すっごく感動したわけです。だから自覚的に影響を受けています。

そんなに難しい話ではないのです。

「人間は自律性を持ち、みずから立てた道徳律に、みすから従う能力を持っている」というだけのことです。外在的な道徳に従う必要はないけれど、みずから立てた道徳法則に従うことは重要だ。僕はそのように解釈しました。そして「感動」したのです。

「内面化された道徳律こそ真の道徳律であり、すなわちそれこそが倫理である。同時にそこにこそ人間の真の自由がある」。高校生だった私はそのように解釈しましたし、その考えは今も変わっていません。

でも「みんなが勝手に道徳律を持ち、その個人個人の道徳律に従うなら、争いが起きる」。つまりは「万人の万人による闘争」が起きてしまうのではないか。

そこで有名なこの文章が登場します。

「汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」

なんじゃそりゃ、と書きたいところですが、実はそんなに難しくはありません。「格率」さえ分かれば、そんなに難しくないのです。

格率とは「個人の道徳律」のことです。それを「個人が自由に選んだ道徳の法則」と書かずに「格率」なんて書くから分からない。そもそも「格率」なんて日本語、普通は見たことも聞いたこともないものです。なんでそんな訳になったか調べても分かりませんでしたが、要するに「訳がいけない」のです。誰がこんな日本語考えたのだろ?

「あなたは自由に自分の道徳の法則、行動の法則、基準を選ぶことができますよね。でもね、それにできるだけ普遍性を持たせなさい。普遍性がなければ、個人と個人の衝突が起き、結局誰も真の自由を得られないのですよ」

そんな感じの訳になるはずです。

「ふへん」という日本語。漢字にすると不変、普遍、不偏と3つの漢字が存在します。「不偏」は偏りがないこと。普遍は「いつでもどこでも通用すること」です。

道徳基準は大切ですよ。でも外から押し付けられた道徳基準はあまり意味がないですよ。自分で考えて、自分の意志で道徳の規準(倫理)を持ちなさい。自分の頭で考えた道徳の法則です。でもね、それが「なんでもあり」にならないようにしなくちゃいけない。そうしないと「個人の自由道徳と個人の自由道徳の激突」が起ってしまう。みんなが不自由になって、真の自由は得られませんよ。

だから「個人の道徳律」を持つ時は、それができるだけ「普遍的」であること目指しなさい。

カントの言っていることはそういうことで、別に難しいことでも何でもありません。

で、最初の話題にもどるのですが、こういうカント風の道徳思想の影響を受けた、リベラル派とか良識派の人がいるとして、そういう人から見れば、「官製の道徳教育がカント主義に基づくわけがない」と「どうしても思えて」しまうのです。

「道徳教育をやってもいいが、道徳教育の最終目標は分かっているのかい?それは人間の真の自由と解放なんだよ」と「言いたくなっちゃう」のです。

で、「なんとなく嫌い」というか「信用できない」となり、「どうしても揶揄したくなる」、、、うーんちょっと「書ききれてない」感じはしますが、まあ今の段階では、とりあえず私はそのように考えます。

普遍的な道徳律をもった人間を「人格」といい、そうした「人格」で成り立つ社会を、カントは目的の王国と呼びました。国連の成立に大きな影響を与えます。「目的の王国でこそ人は真に自由になれる」、だからカントにおける道徳の最終目標の一つは「真の自由」なのです。


加藤隆著「福音書=四つの物語」

2018年07月05日 | 歴史
加藤隆さんの主張は「四つの福音書は基本的に全く違ったもので、その意味するところ、思想もまるで違っている」というもので、どの著作でも一貫しています。

私が最も興味があるのは「新約聖書学のテキスト批判の方法」です。次に「西洋的思考の問題」にも興味がある。現代キリスト教がきわめて「西洋的なものになってしまった」のは何故か。もともと中東で生まれた宗教が、きわめて「西洋的」と言われるのは何故か。歴史的観点からはそこに興味があります。

さてそれはともかく、

四つの福音書、ルカは福音書とは言われず「ルカ文書」と言われるそうです。使徒列伝を含んだ全てをルカ文書と言うからです。ルカ福音書はルカ文書の前半部分ということになります。

四つの福音書は

マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネ

です。書かれた順番もほぼこの通りと思われます。紀元一世紀半ばから二世紀初頭にかけてギリシャ語で書かれました。マタイとルカの作者は間違いなくマルコ福音書を読んでいました。しかしマタイとルカの筆者には「つながりはない」、つまり互いの福音書は読んでいなかったと考えられます。そのわりにはマタイとルカは似ています。これはマタイとルカの作者が「同じ資料を参考にしていた」からであると考えられます。それは「キリストの言葉集」のようなものでQ資料と呼ばれます。Qという文字に神秘性はありません。ドイツ語の資料という言葉の頭文字がQであったからに過ぎません。このQ資料の存在は間違いないと考えられますが、現存はしていません。断片のようなものでさえ発見されていません。

それぞれの「性質」を単純化するとこうなります。

マルコ キリストの行動を示したもの。長い説明とか教訓は多くない。神殿批判や弟子たちへの批判など、批判に満ちた書である。復活のイエスについての叙述は当初はなかったと考えられる。

マタイ かなり長い内容になっている。律法主義的な性格が強い。キリスト教がしりぞけたユダヤ教の戒律にかわって、キリスト教戒律のようなものが示されている。

ルカ  キリストのみならずその他聖人たちの行動が示されれる。キリスト教は普遍主義的でなければならない、と考える作者によって書かれた。復活のイエスの意義が強調されている。

ヨハネ 他の福音書とはだいぶ違っている。キリストのみが神であるという立場が見られる。

われわれはキリスト教というとたとえば「隣人愛」などと考えますが、それは「ルカ福音書の立場」です。ルカ文書は「普遍主義的な立場」をとっていて「万人にあてはまる真理」を語っているかのような「外形」を持っています。だからルカの立場がキリスト教の立場だと考えられてしまうことが多いのですが、それは一つの福音書の立場に過ぎません。

この四つが対立的か協調的か、どう考えるかで解釈は違ってくるのですが、加藤隆さんは「対立的」と捉えています。だから「統一的理解などもともとできない」ということになります。非常に興味深い指摘だと思います。