散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

司馬さんの「城塞」における徳川家康

2018年11月30日 | 司馬さん
司馬さんの「城塞」は1969年から71年にかけて「週刊新潮」に連載されたようです。「週刊新潮」か、とちょっと驚きました。教科書風に書けば「高度経済成長が終わる頃」になります。

しかし、実際は1971年では終わりません。田中角栄が総理であったのは1971年から74年です。田中の書いた(とされる)「日本列島改造論」はベストセラーになり、土地価格が高騰し、オイルショックもあって物価もウナギのぼり。「狂乱物価」と言われました。

つまり田中角栄が影響力を持っていた71年から80年までは「統計的には高度経済成長は終わっていた」のでしょうが、とても「安定成長期」と言えるような状況ではありませんでした。なにしろ「狂乱物価」なのです。新幹線計画を次々と打ち上げたのも田中角栄で、今走っている新幹線のほとんど(東海道を除く)は、田中の「負の遺産」または「遺産」です。

田中のことを長々と書きましたが、それなりに理由はあります。司馬さんは「土地投機」「バブル」という現象に対して極めて批判的な人でした。対談集「土地と日本人」は1976年の刊行です。

さてやっと本題。

坂本龍馬を有名人にしたのは司馬さんと武田鉄矢でしょうが、徳川家康、織田信長、新選組、秀吉、西郷などは違います。

1、秀吉、西郷の「人気」はある種の政治力が働いて、人為的に作られた。つまり征韓論を「是」とする勢力がかなり人為的に「偉人」にした。
(といっても西郷はともかく、誰がみても秀吉は凄いやつです。日本初の専制君主的存在です。)

2、徳川家康の人気は山岡荘八が作った。ウソにウソを重ねて家康を聖人君子に仕立て上げた。

3、織田信長は吉川英治である。彼が原作の「大河ドラマ太閤記」に登場した信長はたちまち国民的人気者になった。「信長を殺すな」という意見が殺到し、NHKは本当に本能寺の変を遅くした。52話の中で、本能寺は42話目である。つまり「本能寺後の秀吉」を描いた回はたった10話であった。演じたのは高橋幸治さん。知る人ぞ知る俳優さんである。

さてさてやっと本題の本題。

「城塞」において、司馬さんは徳川家康を徹底して「悪人」として描いています。これは山岡荘八がウソにウソを重ねて作りあげた聖人家康像への「批判」だと思われます。

「城塞」においては「大阪の陣」は「犯罪」とされています。大阪の陣を「企画」した徳川家康、本多正純、金地院崇伝、天海、林羅山(道春)を「ほとんど犯罪集団」と表現した箇所もあります。

それでも、その「ワル」があまりに「ワル」なので、この作品における家康はやはり主人公の一人です。悪漢小説として読めば、堂々たる主人公となります。ただし視点人物としての主人公は小幡景憲です。一応甲州流軍学の創始者とされています。しかしこの小幡に関しても司馬さんは厳しく「甲州流軍学なんてうさんくさい」とされていますし、彼もまた「犯罪の一翼を担った男」として描かれています。ただし彼の小ワルぶりは面白みがあります。一途に家康に従ったともされていません。家康を視点人物にしたら、あまりに謀略ものになり過ぎるので、やや滑稽な小幡を視点人物にしたのでしょう。もっとも物語も後半になると、視点人物としての小幡は影も形もなくなります。視点人物が存在しなくなるのです。

登場人物みんなワル、または愚人(除く、大阪の浪人武将)。というこの作品にあって、唯二?多少評価されているのは加藤清正と大阪城お女中の「お夏」ぐらいです。
(もちろん大坂側の浪人武将たちはきちんと評価されています。真田幸村、後藤又兵衛、木村重成等等。)

まとめ風に書くなら「やはり悪漢小説」です。ただし家康には「国盗り物語」の斎藤道三のような「ワルとしてのカッコよさ」はありません。深く静かにワルなのです。

時代の大変革期にあたり、人々がどう自己保身を図り生き残るか、または図ることもできず死んでいくか、また幸村たち浪人武将がいかに生きそして散ったのか、そういう「さま」が描かれており、「人生訓」と言えなくもない小説だと感じました。

とにかく面白い。ただ「家康の謀略」が凄すぎて、「多少引く」というのが、この小説を久々に読み返した私の感想です。



司馬さんの「城塞」 千年生きてもこんな作品は書けない

2018年11月26日 | ドラマ
考えてみると司馬さんの小説を「読み直す」のは久しぶりです。

特に「城塞」は数回しか読んでいない本で、本当に久々に読み直しました。

なんと書けばいいのだろう。サリエリがモーツァルトに感じたのはこんな感覚なんだろうなと思います。

全ての凡庸なるもの(私とかです)は、この作品の前に「ひれ伏すしかない」と思います。

誤解して欲しくないのですが、「全てが史実だ」なんて考えていませんし、小説なんだからフィクションです。

そのフィクションのリアリティの前に、少なくとも私は「ひれ伏すしかない」と思います。

司馬さんらしく色々な古書からの引用があります。多くは知らない本です。司馬さんの面白さは、こういう資料すら「ウソ」であることもないわけではない点です。

例えば「十一番目の志士」には「天堂晋助年譜」というのが登場しますが、そんなものはありません。あるわけないのです、天堂晋助という人物そのものが架空の存在だからです。

「ひれ伏す」などと書くと、司馬オタク、司馬マニアと言われるかもしれないし、それは事実かも知れません。

ただこの本の「濃密さ」を別の表現で言うことはできません。

千年生きても、こんな作品は書けません。

山本兼一さん 「信長死すべし」

2018年11月26日 | ドラマ
最初の方を読んで、ちょっと戸惑ってしまい、最後の100ページを読んでみました。

「なんだこれ?」とむしろ不思議な気持ちがします。思いっきり悪口を書きたくなって調べてみると、山本さんは若くして亡くなられたようで、故人です。

故人なので、悪口をなるべく慎みます。

「火天の城」もこの方のようです。あの映画(映画しか見ていません)、驚くほどつまらなかった。これは映画の脚本家への悪口です。驚くほどつまらない。

さて「信長死すべし」

正親町天皇が光秀をたきつけたということになっています。

信長も何故か死ぬ時、「光秀ごときにできるわけない。正親町の野郎の差し金だ」

とか考えます。ちなみに設定では、信長は「本能寺の次の日に」正親町と公家を「焼き討ち」して皆殺しにすることになっています。しかもそれを「光秀は知らない」のです。(なんだそれ?)

ところが、まだ秀吉の「大返し」も分かっていないのに、正親町は光秀を見捨てます。

で天皇親政とか1秒ぐらい考えますが、2秒後には無理だと言われてやめます。

光秀は光秀で、正親町に騙されたと考え、あの野郎と公家たち、みな殺しにしてやろうかなどと考えています。

摩訶不思議といおうかトンデモとしかいいようのないストーリーです。正親町黒幕説としても「稚拙」過ぎます。でも作者が故人なので、この辺りにしておきます。



大久保利通死後の薩摩閥

2018年11月22日 | ドラマ
長州閥は恐ろしいことに「現代まで続いている感じ」があります。佐藤栄作、岸信介、安倍晋三。もっとも安倍さんは選挙区こそ山口ですが、東京生まれの東京育ちです。

対して、薩摩閥というのは明治・大正でだいたい尽きた、というイメージがあります。

大久保利通死後の薩摩閥ですが、

西郷従道
大山巌
松方正義
黒田清隆
山本権兵衛

などが支えました。東郷平八郎も一応薩摩です。

このうち松方は優秀でしたが、大山ほどの人望はなかったようです。また黒田は酒乱で、たびたびトラブルを起こしており、そのせいか、大河ドラマ等においてもほとんど登場しません。

従って、大久保利通亡き後の薩摩閥はまず「大山巌・西郷従道」が支えたと言っていいと思います。二人のうち大山は大正まで生きます。

結論から書けば、大山巌が引き継いだ、と言っていいでしょう。しかし彼は総理になることを拒みました。それは西郷従道も同じです。

大山を引き継いだのは山本権兵衛かと思います。

したがって大久保利通→西郷従道・大山巌→大山巌→山本権兵衛(昭和8年没)と考えていいのかなと思います。黒田や松方の位置は微妙です。

東郷平八郎は軍人であって、政治家とは言えません。晩年は「神様扱い」だったようですが、私の中のイメージとしては「老害老人」です。




「真田丸」を見直してみると

2018年11月19日 | ドラマ
外付けHDDにバラバラに保存してあった「真田丸」を一つにまとめて、さーと見てみました。

で気が付いたことですが、

1、やっぱり主人公は真田昌幸(草刈さん)である。

2、自分に知識が不足している前半部分が面白い。後半は知ってることばかりだし、あまり面白くない。

3、三谷作品は嫌いなんだが、この作品における人物の描き方は面白い。特にいいのが真田昌幸、北条氏政(高嶋さん)あたりである。

高嶋さんの怪演がいいと思いました。戦国北条氏は「知っているようで知らない」ので余計そう感じるのだと思います。ここまでち密に北条氏政を描いた大河は他にありません。

遠藤さんの上杉景勝。この作品における上杉景勝は「幸村の引き立て役」で、「信繁は、わしがなりたかった理想の武将じゃ」てなことを言わせたりします。ちょっとかわいそうです。

寧々、鈴木京香さん。ゆるやかで、私のイメージとは非常によくあっています。ちなみに、功名が辻の浅野ゆう子さんは「やたらときつい女」でちょっとイメージとは違います。

秀吉、なんだか最近秀吉の「自分の中でのイメージ」がはっきりしないのですが、それでも「陽気で冷酷」な秀吉がよく描かれています。陽気で冷酷な秀吉、緒形拳さん以来かなと思います。

戦国史は「家康の上洛」まででいい。

「いい」というより「面白いのは家康の上洛まで」かなと思います。

それ以降は秀吉もおかしくなってしまうし、家康も残忍になっていく。「老いと滅びを描く」ことになってしまいます。

この作品も「家康の上洛まで」が面白く、それ以降は「不幸話」が多くて、どうも楽しく見ることができません。

2021年の大河ドラマ 「麒麟がくる」の次を予想してみると

2018年11月19日 | ドラマ
3年後を予想してもなーとは自分でも思うのですが、

1、男女主人公大河はもうやめるだろう。すでに女性主人公のネタが切れている。
2、普通に考えれば、戦国(麒麟がくる)の次は、幕末か鎌倉か、室町ということになる。
3、大河ドラマで最も古い主人公は平将門、平安時代。源平時代を除いて平安を描いた作品は2つだけ。基本平安は描かないし、飛鳥・奈良時代とかもまずありえない。

NHKは単発で「大化の改新」「聖徳太子」「大仏開眼」とかを作ってはいますが、「皇室ファンがうるさい」し、「衣装も大変だし」、ということで平安以前を描くことはまずないと考えます。
天皇を主人公にすることもありません。天皇が主人公格(副主人公)になったのは、「太平記」だけです。ちなみに後醍醐天皇です。

そうなると鎌倉、まあ源平時代ですが、これを「源氏側」から描く。いまさら「義経」もないだろうから、となると北条義時ということになります。つまりは「草燃える」のリメイク版です。

次に室町、純粋に室町時代(戦国を除く)ということなら、足利義満が残っています。

足利義満はさんざん「皇室を圧迫」した人間なので、ちょっと無理かな。

ということで無難なところでは「北条義時」です。というより坂東武者、北条とか三浦とか和田とか。つまり坂東の武者軍団、、、群像劇として描いていく。

幕末だと「長州」でしょうか。桂小五郎、高杉晋作、吉田松陰、村田蔵六、伊藤博文。松陰から伊藤まで描くなら幕末から明治末期までになります。

ということで「つらつらと」考えてみると、

1、北条義時と源頼朝と北条政子(大河では二回目)
2、足利義満(初めて、だがまずありえない。同時代に義満の他に有名人がいない)
3、長州人
4、河井継之助(主人公になったことはない)
5、さらに戦国をさかのぼるなら「北条早雲」(主人公になった、というより登場したこともない)

蛇足
2018年の段階で「予想」しました。「麒麟がくる」の次は渋沢栄一で明治ものです。私が予想した「北条義時」は2022年の「13人の鎌倉殿」の主人公です。

長篠の戦い 逆転の日本史をさらに逆転する

2018年11月19日 | ドラマ
とにかく「通説を崩す」ということに「やっきになって」いる人たちがいます。

長篠の戦いの場合

1、3000丁の鉄砲という数が怪しい→せいぜい1000丁だ

2、整然と三段撃ちを行うことは無理である

3、そもそも武田騎馬軍団なんてない→実践では降りて戦う。当時の馬はポニー程度の大きさしかない。

なんてことが言われます。なんでもかんでも「逆転させれば」いいという感じがします。

その「逆転をさらに逆転する」と、

簡単なのは「3」で、まず当時の馬はポニーじゃありません。ポニーより一回り大きく、体はがっしりしています。現代の木曽馬で実験すると、現代人を乗せて、サラブレッドに迫るスピードで走ることができます。当時の人間は身長が150センチぐらいですから、体重も軽いわけです。現代人が甲冑を着ていても木曽馬なら走れます。

また、「馬を降りて戦う」は関西のやり方で、関東では乗ったまま戦いました。と簡単に「逆転を逆転」できます。

3000丁か1000丁か、ですが、これは1000丁の方にもさしたる根拠はありません。が1000丁だとしても、そして「整然とは撃たず」、「用意ができた者がバラバラに撃った」としても、準備時間は30秒程度なので、250丁は稼働可能です。

つまり1000丁としても250発+弓の矢が飛んでくるわけです。大変な威力です。銃はたとえ一発でも怖いものです。

すごく簡単に書いたので、アラはありますが、それでもこのように「逆転を逆転する」ことが簡単にできる場合もあります。

なんでもかんでも「逆転すればいい」というものではないし、それは時に史実に反する結果を生み出します。


大河ドラマ「春日局」 美化しているのに暗い

2018年11月13日 | ドラマ
大河「春日局」は平成元年のようです。30年前ですね。アマゾンプライムビデオで見ることができるので、さーと見てみました。

美化しています。春日局だけでなく、ほぼすべての人物を美化しています。「お江」なんかも「ものわかりのよい賢い女性」です。

徳川は豊臣を残そうとしたのだけど、徳川家臣になってまで生きたくないという「秀頼の美学」によって滅んだことになっています。

「美化しているのに全て暗い」作品です。春日局は生まれた時だけ幸福で、斎藤利三の死によって一気に転落、その後、家光と乳母になって苦労、権勢を握ってからも息子が死んで不幸。というように「とにかく苦労ばかり」なのです。

作者は橋田さんで「渡る世間は鬼ばかり」の人です。周りが鬼でもないのに、「春日局は苦労ばかりでずっと不幸」です。

やたらと明るい大河も嫌いですが、ここまで不幸ばかり描かれると気持ちが沈みます。バランスが大事だなと思います。

やたらと明るい前向きの大河でも「時代劇そのものが今の若者にとっては暗すぎるのかも」と感じました。

それにしてもこんな暗い作品だと思いませんでした。当時はよく見ていなかったような気がします。

歴史上の事件は一応抑えて書かれています。もっともその「解釈」は当然、春日局に「いいように」解釈されています。それでも春日局は不幸なのです。

大坂の陣以後の歴史について、大河ドラマはほとんど描きません。大阪の陣が最後であとは幕末まで飛びます。吉宗と「忠臣蔵」が描かれる程度です。

春日局の縁故の家系は沢山ありますが、息子の家系はやがて「淀藩」になって幕末まで続きます。「淀藩」か、、、という感じです。

齋藤道三は油売りではなかったの根拠は「六角承禎書写」だけなのか?

2018年11月09日 | ドラマ
歴史ドラマファンの私にとっては「斎藤道三は油売りから一代で美濃の国主となった」と信じているほうが「おもしろい」わけです。

でも最近は親子二代国盗り説が流行で、

あっという間に

「斎藤道三は油売りなどではなく、一代で国をとったわけでもない」という風になってしまいました。

根拠は何なのだろ?と「ネットで調べてみると」、今の段階では「六角承禎書写」という文章一つみたいです。

最後に「写」とあります。

偽書じゃないか、後世の写しじゃないか、と思ってもそれを実証する力はわたしにはありません。

学者さんたちが色々調べて、当時の資料としたのだろう、と思うしかありません。

でもじゃあ父親の長井さんは何をしていつ生まれたのか。となると「わからない」ということになるようです。

ただ「一つの手紙だけで、いとも簡単に史実が覆っていいのかな」とは思います。もう少し二代国盗り説を「補強する資料」が必要だと思います。

ブログ村の住人なんだが・歴史ブログの住人なんだが。

2018年11月09日 | ドラマ

HTMLというネットの「言語」がよく分からない私は、バナーを張り付けるのも一苦労。

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で、思うのが自分の平凡さ。「大河ドラマ関係」しか書けないので、結局戦国有名人、幕末有名人ばかりになります。

戦国でも畿内中心です。島津・毛利・伊達とかまして最上なんては「書けない」のです。まあ「毛利元就」だけは「大河になったことがある」、橋之助さん主演、で、なんとか書けます。あ、伊達もありますね。でも書けない。

「戦国島津」は主役にはならないので、書けるとすればせいぜい「関ケ原の退き」ぐらいのものです。

でも、色々疑問があります。

・最初の兵数は1700とか1500とか。まあそのぐらいなんでしょうが、西軍に入ったのは「なりゆき上しかたなく」なのかな?

・正面突破後の兵数はだいたい300となっているようです。

・戦がほぼ終わってから正面突破するぐらいなら、途中で徳川に内応して、「しずしずと帰っても」「いつの間にかいない」って感じでも良いのでは。

・そもそも本陣を突いたのか、本陣の前を通り過ぎたのか。ドラマでも作品によって描き方が違います。

一番疑問なのは「なりゆき上西軍」という点で、関ケ原後の「薩摩の外交力」と比べて、おかしな感じがします。

私の場合、日本史の学者ではなく「歴史ドラマファン」なので、そういう「素人的疑問」を、なんとか調べて、このブログを書いています。

でも歴史ブログをやっているかたは「こだわり」が違います。実に細かい点にこだわって書かれている。「へぇー」と思います。

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ブログ村の注目記事欄に私のブログが二つ載っているのですが、どっちも「力をこめて書いたものではなく」、こっちの「思い入れ」とみなさんの興味は違うのだなとつくづく思います。


西郷どん・維新の三傑の死没年齢・高杉晋作・吉田松陰・伊藤博文

2018年11月08日 | ドラマ
維新の三傑とは、書く必要もないでしょうが、西郷・大久保・桂です。

死没は明治10年・11年で「ほとんど同じ時に亡くなって」います。

西郷は戦死で49歳  墓は薩摩にある。
大久保は暗殺で47歳 墓は青山霊園。
桂は結核による病死で43歳 墓は京都。京都霊山護国神社。幕末の志士たちを多くまつっている。

亡くなった時の年齢が50歳に達していないわけです。幕末の最終段階では彼らはみんな30代です。桂に至っては幕末段階では、まだ30歳ぐらいです。

西郷は南洲翁と言われます。「翁」ですから60は超えていたかというと、亡くなった明治10年で49歳です。島津斉彬に見いだされた時はまだ26歳ぐらいです。その後彼は斉彬の下で各藩の名士と交流しますが、それは20代後半の話です。斉彬が死んだ段階でも30歳ぐらいです。

ちなみに吉田松陰というと何か「老成」した印象がありますが、安政の大獄で切腹した時、まだ29歳です。高杉晋作は結核で病死27歳、坂本龍馬は暗殺時31歳ぐらいです。

伊藤博文は高杉と同じく松下村塾出身で、弟分ですが、2歳年下です。明治元年の段階ではまだ27歳ぐらいです。総理になった時点でも44歳ぐらいです。伊藤は67歳で亡くなりますが、明治も後期になると高杉のことは、回想で「高杉は」などと呼び捨てにしていました。そりゃそうです。だって彼の知っている高杉は27歳の「若僧」で、伊藤は「総理大臣経験者」です。むろん幕末にあっては「高杉さん」(もしかすると高杉君)だったでしょう。「君」はないかな。なにしろ高杉は「名家の子」で、伊藤は「士分ともいえない身分」です。ただ「君」は平等意識に基づいたもので「志士の間での流行語」でした。さすがに松陰は「先生」、木戸のことは「木戸公」もしくは「木戸先生」と呼んでいたようです。
ちなみに山縣有朋が死んだ時は既に大正時代で、83歳ぐらいのようです。圧倒的に長生きしました。生まれたのは1838年で、1839年の高杉晋作より「一つ上」です。高杉も病気にならなければ、大正時代まで生きていた「可能性」はあったのです。

篤姫・天璋院・徳川家定・徳川家茂・徳川慶喜 食生活は大切だ

2018年11月06日 | ドラマ
篤姫は13代将軍家定の正室です。今はとっても有名な人です。夫亡き後は天璋院。「璋」ってなんだろうと思ったら、玉(東洋で珍重された宝石)製品の「ひしゃく」みたいです。まあ「玉」という意味でしょう。

ウィキペディアを見ると「大奥」で菅野美穂さんが演じたとか「単発ドラマ、主役」で佐久間良子さんが演じた。大河「篤姫」で宮崎あおいさんが演じたと「3つの作品」が載っています。

何か忘れてはいませんか?と思います。大河「翔ぶが如く」で富司純子さんが演じましたし、大河「慶喜」では深津絵里さんが演じました。

大河「慶喜」は総集編すらDVDになっていません。私は昔、スカパーの時代劇専門チャンネルで録画したので、探せば全話分を持っていると思います。

「翔ぶが如く」が1990年ですから、1998年の「慶喜」の時には私は十分に篤姫のことを知っていたはずです。でも気が付かなかった。そもそもは、司馬さんの何かの文章で知りました。大変賢く、人望があったと書いてあった気がします。ちなみに小説「翔ぶが如く」には登場しません。小説の方は全部明治後の話だからです。大河ドラマの明治以前の部分は、脚本の小山内美江子さんが、司馬さんの他の幕末ものを参考に1から作り上げたものです。素晴らしい創作力です。

さて大河「慶喜」の篤姫ですが、すっごく「高慢ちきな女」なのです。あまり登場もしません。だから篤姫だと気が付きませんでした。深津絵里さんは1998年には「踊る大捜査線」に既にでており、「きらきらひかる」では主演もしています。なんで大河「慶喜」で「わきのわき」みたいな役につき、あんな「いやな女」を演じたのか、不思議です。

宮崎あおいさんの「篤姫」は「かろうじて1回観た」程度です。苦手な作品です。なにしろ主人公が徳川に嫁いでから一回も江戸城を出ないわけです。準主役は小松帯刀ですが、キャラとしては坂本龍馬の「いいとこ取り」みたいな人物として設定されていました。

夫である13代家定、堺雅人の設定が不思議でした。「暗愚のふりをしているという設定」でした。「子供のころから何度も毒をもられたから」だそうですが、じゃあ大人になって「将軍親政」を行い、敵を「粛清」すればいいと思いますが、どうも「トラウマ」を持っているみたいで、まあ不思議な設定でした。

史実としてもよく分からないところがあります。病弱だったということは良く言われます。「子供はできないだろう」と当時から思われていました。女性と性交渉ができない病弱な体ってなんだろうと思います。脳性麻痺とも言われますが、確実なところはわかりません。

とにかく子供は作れない。だから「誰を次の将軍にするか」が早くから問題となりました。一橋派が負けて、徳川家茂(いえもち)派が勝ち、紀州から入って12歳で将軍となります。篤姫は家茂を我が子のように育てた、らしい、のですが20歳で亡くなっています。脚気衝心つまり「かっけ」というビタミンB1欠乏症です。白米ばかり食べているとそうなります。玄米だと予防できます。豚肉を食べるとまずこの病気にはなりません。

実は篤姫の夫である家定も「脚気衝心」で亡くなっています。篤姫が食事を作っていたわけではないので、別に篤姫のせいではありません。でも「薩摩産の豚肉」を勧めていれば、家定も家茂も少しは長生きできたかも知れません。食生活は大切です。豚肉は「不浄なもの」ですが、けっこう「隠れて食べていた」人も多いのです。

徳川慶喜に至っては隠れて食うなんてこともせず、堂々と食べていました。でついたあだ名が「豚一様」です。写真をみると貴族風のなかなかにいい男なんですけどね。豚のおかげか、パンのおかげか、75歳ぐらいまで長生きします。亡くなったのは明治帝のあとで、大正2年です。幕末ものの本を読むのが好きだったようです。たぶんですが、夏目漱石だって読んでいたはずです。

さてドラマの天璋院にもどると、

富司純子さんが演じた時は驚きました。若い頃を別の女優が演じるわけでもなく、いきなり富司純子さんが10代を演じたわけです。幕末だってまだ30歳ちょっとで、亡くなった明治16年でも47歳です。でも富司さんの天璋院はいかにも「包容力があり」、西郷に対しても優しい人間として描かれました。

(西郷は斉彬の公武合体構想に沿って行動はしなかったけれども)

よい、世は流れているのです。吉之助は立派に世直しをしたのです、と西郷に告げます。西郷涙ぼろぼろでした。

北川景子さんの天璋院は「西郷、慶喜殿の首ひとつでこの戦を終わらせてくれ」と命令調でした。女優さんは綺麗ですが、セリフが美しくありませんでした。

慶喜の首ひとつ差し出す、自分も死ぬという論理です。まあ西郷あての手紙では「たしかにそんなことを書いては」いるのです。慶喜は天罰を受けても仕方ないし、自分もどうなってもいいが、徳川家だけは守ってほしい、とそう「書いては」います。なんで「天罰」いう言葉が出るかといえば、彼女は「息子同然の14代家茂を殺したのは慶喜だ」と信じていたからです。

が、そのまま単純に彼女が「慶喜に切腹させ、自分も死ねば事態は収まる」に思っていたとは思えません。しつこく「徳川家」と何度も書いている点が重要かと思います。

「徳川家を潰すというが、もし立場が逆で、島津家を潰すと言われたらどうする。勅命であったとしても、それに西郷は従うのか。島津家臣が家を重んじるように、徳川家臣も家を重んじている。ここは立場を変えて考えてみてほしい。島津はむろんのこと西郷家だって潰したくはないだろう。」

「家の論理」を繰り返し訴えることによって、「家を特に重んじる薩摩」の武士である西郷の弱点を突いている、私にはそう読める気がしてなりません。

藤田達生「資料でよむ戦国史・明智光秀」は物理的に重たい。石谷家文章とか本能寺の変と四国の関係とか。

2018年11月06日 | ドラマ
中断を挟みつつ、3年ぐらいこのブログを書いていますが、「本能寺の変」の「原因」とか「動機」とか、まして「黒幕」なんてことに触れたことは、おそらくほとんどないと思います。

どれを信じるかはあなた次第って感じで「次々と説が」出ますが、どれも「こじつけ」感が強すぎるからです。

藤田達生「資料でよむ戦国史・明智光秀」は三重大学の教授さんが書いた「明智光秀論」というか「本能寺の変の裏に四国あり」というご本です。

正直何言ってるかよく分からない(私の頭が悪いせいで)のですが、物理的に重い。単行本で400頁あります。値段も5000円。むろん図書館で借りたので買ってはいません。

最初の三分の一ぐらいは「古文書を活字にしたもの」がズラーと並んでいます。

まあ「四国関係説」に立つわけです。

1、光秀と家臣である斎藤利三は四国の長曾我部と関係が深かった。

2、光秀たち(これを光秀派閥というそうです)は、長曾我部氏を介して(介してって何?)、西国支配への影響力を行使しようとしていた。(どうやら長曾我部・毛利→毛利にいた義昭ラインというのがあるという前提みたいです)

3、とにかく光秀派閥は四国の長曾我部と関係が深かった。しかも長宗我部元親の正室は斎藤利三の妹(異母?)なので特に関係が深かった。

4、最初信長は長曾我部は殲滅しないつもりだった。光秀派閥は長曾我部とともに四国に勢力を伸ばし、西国へ影響力を行使しようとした。

5、ところが「子供たちへの土地分配=相続問題」に悩んでいた信長?は、四国を殲滅しようとした。

6、そこで光秀派閥は本能寺の変を起こした。「四国討伐」が決まったとしても、光秀が担当するなら「まだ良かった」が?、四国征伐は織田信孝・丹羽長秀の担当となった。全国平定が終わったら光秀派閥は遠国にとばされる。(四国も遠国では?)これではもう織田信長を討つより光秀派閥には進む道がなかった。(なぜ?)それを主導したのは石谷家文章を読む限り、光秀というよりむしろ斎藤利三だ。つまり「光秀派閥だ」。だから「単独犯行説」も「直前に光秀が謀反を利三に打ち明けた」という説も、まったく成り立たなくなったのだ。

7、今までもこのことを筆者は指摘してきた。しかし江戸時代に書かれた資料(2次資料)を基にしたので検討されることが少なかった。ところが新しく石谷家文章という「1次資料」が2014年に公開された。これを読めば、「四国説」が「検討に値するものである」ことは明らか。光秀派閥が本能寺の変を起こしたのだ。織田家は血みどろの「派閥抗争の場」だったのだ。だから偶然ではなく、本能寺の変は派閥抗争の必然の結果なのだ。(どうして必然という言葉がでてくる?)

たぶん、7割程度は藤田さんの書いていることを「それなりに藤田さんの言う通りにまとめている」と思うのですが、このようにまとめても、何言いたいのかあまり正しくは理解できません。論理の筋道が通らないところが少なくないためです。

まとめている私の中で「なぜ?どういう理屈だ?」という言葉がガンガン響いて仕方ないのです。

一番重要なのは「光秀派閥」または「派閥」という言葉のようです。石谷家文章の中には長曾我部元親と斎藤利三が交わした手紙が含まれるのですが、もちろん「長曾我部を討つらしいので、明智家が信長を討って長曾我部を守ります」なんて書いてあるわけではありません。

そもそもずっと四国関係説を言ってきたが、無視されてきた。そこに石谷家文章が公開された。これこそ四国関係説の証拠というべきものなのだ。まあ「証拠なのだ」は言い過ぎかも知れないけど、これをきっかけに四国関係説を真剣に検討せよ。そう訴えているように私は読みました。

もし藤田氏ご本人、またはそのお弟子さんたちがこの文章を読んだら、「浅読みしかできない素人が何いってやがるんだ」と怒られると思います。いや怒る気もなくして無視されると思います。当時の資料を本の3分の1を使って載せているのだから、古文書に「注釈」を加えて欲しいと思います。「そんな必要はない学者向きの本」なのかと思うと、途中で「コラム」とかが出てきます。とすれば「素人向き」でもあるわけで、それにしてはあまりに「不親切」です。

私に分かったことは、なにか当時の文章(たぶん鑑定は済んでいるのでしょう)が出てくると、必ずそれに付随して「説」がまた増えるか、もともと存在していた「説」が「息を吹き返す」こと。

そしてある種の学者さんは、少し論理的におかしいと自分でも分かっているだろうに、自説を語る時には「必要以上の断定口調で語ること」です。

そもそも1次資料ってそれほど「信頼に足る」ものなのでしょうか。事実の叙述には必ず解釈が入ります。「今日は久々に空に雲があまりなかった」「今日は3日ぶりの快晴だった」、どっちも同じ事実を語っていても、そこに微妙な違いが生じます。しかも当時は「だましあい」の時代であり、書いた時点で既にウソなんて文章も沢山あると思います。「資料に語らせる」というと何か客観的、科学的という感じがありますが、果たしてどうなのでしょう。

むろん筆者さんたちが私の百倍も歴史知識があり、時間をかけて古文書を読んでいることは分かっています。分かっていても、、、。まあ、関係者の方ご免なさい。でも「素直な感想」です。

私は基本、本能寺の「説」に興味がないのですが、一応少しばかりは本能寺本を読んでいます。全部に「つきあっているヒマ」はありません。一番「心にストンと落ちる」のは「たまたま説」です。特に「奇妙」まで、つまり織田家当主の「織田信忠」まで討ち取ることができたのは「たまたま」だと思います。実際、一緒にいた信長の弟・長益、織田有楽は逃げ延びたわけです。

織田信忠が、少数とはいえまだ兵を持っていた丹羽・信孝軍までたどり着いて、そして生き延びていれば「清須会議」など開く必要もないわけです。家督は譲られていて、信忠は既に当主だったのです。「明智討伐に大功あり」ということで、秀吉が強引なことをしようとしたなら、信忠指揮のもと、柴田、丹羽、滝川、織田信雄、織田信孝が動き、秀吉派は駆逐されていたでしょう。秀吉は馬鹿ではないので、そんな行動はそもそもとらないはずです。秀吉は信忠との関係が良好であったと伝わっていますし、そんな無謀な行動をとるとも思えません。

信忠存命を知ったら、秀吉は大返しなどしなかったと考えることもできますが、そうなると柴田が帰ってきてしまい、秀吉にとっては不利な状況が生まれます。柴田が担当した越後にはもう謙信はおらず、上杉は存亡の危機でした。秀吉よりずっと帰ってくる「余裕」があったのです、したがって秀吉が信忠のもとで重臣になろうとするなら、やはり「大返し」をしたと思います。当時織田家では謀反が増えていましたから、秀吉は当然、京で何かが起きる「少しの可能性」は考えていたでしょう。準備もしていたかも知れません。信長が死ぬとは思ってなかったでしょうが。

「本能寺はたまたまだ」と声を大きくして言いたいわけではなく、「たまたま説」が今のところ一番筋が通っていると思うだけです。

「ドラマにできる大久保利通」・江藤新平・山内容堂・大村益次郎おまけで麻生太郎

2018年11月06日 | ドラマ
大久保利通という政治家は基本的には公正無私で、生活は質素であり、無口で仕事は厳密にこなす、同時代人で悪くいう人はあまりいないようです。

エピソードも西郷に比べればはるかに少ない人物です。

が、以下のようなシーンならあるいは「ドラマにできる」かも知れませんし、実際「ドラマになったシーン」も含まれます。「ほぼ史実」だと思います。

・大久保に何か言いたくても言えない桐野(半次郎)が、酒の勢いで大久保に意見しようとする、しかし、大久保にちらっと「一瞥」されただけで、あの桐野が委縮して黙り込んでしまった。

・中江兆民が大久保に自分の意見を披露した。大久保は目を閉じていた。眠るとは失礼と中江兆民が不満を述べた。大久保は「よく聴くために目を閉じている。私が見ていては君も話しにくいだろう」と応じた。

・警備を重くしろという周りの忠告を聞かなかった。死ぬとすればすべて天がなすものとして、厳重な警備をしなかった。(もしかすると川路大警視は大久保に警備をしたいと言って、断られたのかも知れません)

・江藤新平の佐賀の乱鎮圧時は強権を発動した。明治後であるのに、江藤を追いつめ「さらし首」にした。これは不満氏族への見せしめと言われているが、必ずしもそれだけではない。江藤新平と大久保は国家観が近く、国家の仕組みを建設する能力が高いことも同じであった。明治初期においてはただ一人「江藤新平」のみが自分と匹敵するような男と思っていたふしがある。

・伊藤は西郷など尊敬していなかったが、大久保を深く尊敬し、それは終生変わらなかった。ちなみに伊藤は木戸も尊敬はしていたが、「口うるさい兄貴」という風にも思っていた。

・慶喜討伐を話題にした御前会議で山内容堂に意見し、「何をいいやがる」とどやされた。(慶喜は領地を返還しないから朝敵というのが大久保の論でしたが、領地返還をまだしていないと言えば、土佐も薩摩も長州も同じでした。そこをとらえて容堂は「何をいいやがる」と叫んだわけです。当時大名はそんな言葉はまず使いませんでした。)

・予期せず暗殺された時、西郷隆盛からの手紙を懐に持っていた。(いつも持っていたということ)

兵制論争
大久保利通は長州の大村益次郎とは兵制改革をめぐって「大喧嘩」をしています。兵制改革とはつまりは国民皆兵で、武士の誇りを奪うものです。大久保は「ソフトランディング」を目指しました。「薩摩の反発と暴発」「島津久光の動向」が頭にあったためでしょう。大村は至急なる「兵制改革」を主張します。論争に敗れた大村は辞表を出しますが、結局大村以外はできないということで、また軍政のトップに戻ります。ただしほどなく暗殺されます。大村暗殺は不平士族の犯行ですが、「黒幕」には大久保ではなく、薩摩の海江田がいたと言われています。
大村にも「久光の影」は見えていたでしょう。しかし長州の出身ですから殿様の意向なぞに重きはおきません。しかも久光は殿様ではなく、殿さまの父親に過ぎません。「薩摩の反発と暴発」は予想していました。「やがて九州から足利尊氏の如きものが現れる」と予感していました。その時こそ薩摩を叩き潰し、武士の世を終わらせる。大村はそう考えていたでしょう。大久保も同じだったでしょうが、「それにはまだ時間がいる」と考えていたのだと思います。


おまけ
麻生太郎氏、どうも彼の政治姿勢というか「傲慢な態度」には下品さしか感じません。経済政策にも賛同はできません。が、一応は大久保利通の「孫の孫」みたいです。
矢印で示すと大久保利通→牧野伸顕→雪子→和子→麻生太郎となるようです。孫の孫ですから玄孫。ちなみにひ孫は「孫の子」です。

西郷どん 川路利良・泉澤祐希・西郷と大久保を両名とも殺した大警視のこと

2018年11月05日 | ドラマ
川路利良は日本最初の大警視です。明治12年になくなりましたが、勲二等という勲章ももらっています。今でいう「警視総監」です。

薩摩の郷士、準士分ですが、西郷、大久保に見いだされ、明治4年より明治政府に出仕。警察制度の創設にかかわっていきます。この時40歳少し前という年齢です。

岩倉の西欧視察団に司法省より参加。(当時は警察は司法省・江藤新平の管轄、その後内務省・大久保利通など、今は内閣府の国家公安委員会の管轄)、フランス式の警察制度を導入します。

日本の警察制度を作った、で終わればいいのですが、西郷と大久保の死と深くかかわりを持った人物としても有名です。彼が直接両名を「殺した」わけではありませんが、「殺したようなもん」とされています。ただし、彼の名誉のために書いておくと、彼自身は「近代日本国家の建設」に深い情熱を持っていました。いや、過剰なほど持っていました。過剰すぎただけです。

簡単に書くと、

1、薩摩に下野した西郷を暗殺するため中原尚雄という刺客を送った。少なくとも薩摩私学校の人間は「川路が西郷を暗殺しようとした」と信じた。それが西南戦争の直接の契機となる。で、西郷は西南戦争で死にます。明治10年。

2、薩摩の黒田清隆が行った妻の殺害を隠蔽した。それが大久保暗殺の遠因となった。しかも川路は周りの忠告を聞き入れず、「大久保の警備」を強化しようとしなかった。で、大久保は死にます。明治11年。

3、本人も西郷、大久保のあとを追うようにして、病死する。明治12年。二代目の大警視は大久保巌である。

そういえば「西郷どん」に大山巌がでていないような気がします。理由もなんとなく想像がつきます。

さて、この「西郷どん」、私は散々「悪態をついて」きました。むろん他の方のブログをみると「感動した」という方もいます。私はそれを否定はしません。ただ、私が読んだ多くのブログでは「私以上の悪態をついている人々」が多かった。史上最低とはいいませんが、最低の作品の一つでしょうね。人物の描き方が「浅いにもほどがある」のです。

特に、明治後の大隈重信、江藤新平、伊藤博文、板垣退助といった人々の描き方が薄いし、誰が誰かもよく分かりません。正直、俳優さんの名前もわかりません。西郷の引き立て役というか、にぎやかしというか、「ひな壇芸人」というか、とにかく薄っぺらい人間として設定されていて、「かわいそうだな」と思います。

さて、西郷と大久保を死においやった「川路利良」ですが、「西郷どんの法則」からみて、「刺客を送った」とはされないと思います。まあ真偽は分かれていますから、「送らなかった」でもいいと言えばいいのです。でもそうすると「西郷には大恩を受けたが、近代国家の設立にとっては西郷はもはや障害である。西郷の命と近代国家の成立、どっちが重いかと言えば、間違いなく近代国家の設立である」という「川路の信念」もどっかに吹っ飛んでいってしまいます。乱を起こして死ぬ江藤だって、大隈だって伊藤だって板垣だって、それぞれの信念を持って生きていた。「人に対するリスペクトがなく、みんなを西郷の引き立て役」にしてしまうから、この作品は多くの批判を呼んでいるのです。

ちなみに前回では、島津久光が西郷を叱って、はげましていました。実際はあれを行ったのは板垣退助です。

維新後の西郷は一種のうつ患者でした。明治政府を作ったら腐敗だらけ。久光には不忠者とずっとなじられる。近代化派と武士ファースト派の間で板挟み状態。ある日、同じく参議をしていた板垣退助に、

「こんな政府を作って、旧幕府の方々にむしろ済まない思いすらする」と泣きつきます。

すると板垣退助は怒気を発してこういいます。

「そんなことで、幕末そして戊辰の戦争で死んでいった、多くの人々に申し訳がたつと思っているのか!」

西郷は膝を正し、板垣に謝ったそうです。これ、私はいい逸話だと思います。