散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

花神・吉田松陰・高杉晋作・桂小五郎・村田蔵六

2019年04月01日 | 花神

長州の倒幕への道のりは、4名の人物で「考えられるかな」と思います。もちろん「4人以外にも重要な人物」は沢山います。でもまあ4人で考えてみます。

1人目は「思想家」である吉田松陰、2人目は「革命家」である高杉晋作、3人目は「政治家」である桂小五郎。

そして、なんと言うか、「仕上げ人」である村田蔵六(大村益次郎)です。技術者と書いてもいいのですが、まあ「仕上げ人」でしょう。

1859年(ちなみに大政奉還は1867年です。)
まず思想家の吉田松陰が「草莽崛起論」を表明します。「もはや武士階級はダメだ。一般大衆が立ち上がって政治を正すしかない」というものです。革命性がありますし、平等主義への志向も見られます。しかし、この段階では弟子の高杉や久坂玄瑞にすら「過激過ぎる」と思われ、孤立します。最終的には安政の大獄が起き、思想家吉田松陰は幕府によって処刑されます。

1863年
やがて草莽崛起(そうもうくっき)が本当に必要な時代を長州は迎えます。攘夷に伴う長州と外国との戦争です。この時になって高杉晋作は「時代が吉田松陰に追いついた」ことを知ります。
で、彼と仲間が作ったのが「奇兵隊」です。「聞いておそろし 見ていやらしい 添うてうれしい奇兵隊」という「歌」を高杉は作っています。ただ比較的すぐに高杉は奇兵隊総督を「くび」になってしまいます。奇兵隊が正規の武士と「もめた」為です。

その後、奇兵隊は山縣狂介(有朋)、赤根武人(あかねたけと)らによって運営されます。

1865年
高杉晋作が「最も輝いた年」です。功山寺挙兵ですね。「藩内革命」です。第一次長州征伐が迫る中、保守派の武士(上士)たちを打倒します。高杉も上士なんですが。
最初は山縣らは高杉の「革命」に賛同しませんでした。「ほぼたった一人の戦い」です。やがて伊藤博文らの「力士隊」等が加わります。これが後の伊藤の出世につながります。
高杉らは藩の軍船を乗っ取りますが、保守派の「弱腰」に腹を立てていた艦長らは抵抗もせずに高杉に船を明け渡します。奇兵隊も加わります。

ここで高杉は有名な言葉を吐きます。長州に逃れていた三条ら公家に対し「これから長州男児の肝っ玉をお見せいたします」と言い放ちます。ドラマにすると「かっこいい」ところです。

藩内革命が終わると、高杉は政権を桂小五郎らに譲り渡します。彼自身が狙われていたという事情もあります。「おうの」さんと逃避行です。
桂小五郎は高杉の「藩内革命」が起きる前までは、兵庫あたりで逃亡生活を送っていました。

1866年
第二次長州征伐の年です。
高杉も活躍しますが、主役は桂小五郎と村田蔵六(大村益次郎)に移っていきます。伊藤博文、井上馨も活発に活動します。この二人親友ですが、伊藤は百姓階級、井上は上士です。

小倉城を落とした後、高杉は途中で結核が重篤になってしまうのです。翌年、大政奉還を見ずに死亡します。辞世の句は「面白きことも無き世を面白く」です。「済みなすものは心なりけり」は野村望東尼が加えました。ただしこの辞世については異論もあるようです。

ドラマでは「済みなすものは心なりけり」という文字をみて「おもしろいのう」と言って死んでいきます。ドラマです。

村田蔵六は桂の政治的保護のもと、奇兵隊ら諸隊を「軍隊」として組織化します。そしてグラバーからミニエー銃を買い付けます。元込め式で「回転弾」です。近代武装のおかげで、幕府軍を圧倒し、撤退させます。途中14代将軍徳川家茂がわずか20歳で亡くなります。死因は「脚気衝心」(かっけ)です。

1867年 大政奉還です。

1868年
鳥羽伏見の戦いが終わり倒幕がなります。
西郷は江戸で指揮をしますが、彰義隊に悩まされます。そこで桂は京都から東征大総督府補佐(実質は総督)として村田蔵六を江戸に送ります。
 村田蔵六は周到な作戦を用意し、アームストロング砲も駆使して、上野で彰義隊を征伐します。

その後の戊辰戦争も村田が東京で「総指揮」します。戊辰戦争をもって明治維新がなります。したがって村田が維新の仕上げ人です。「龍馬が維新の仕掛け人とするなら、仕上げ人は村田蔵六」とも言われます。が、戊辰終了後、西郷信者(海江田と言われます)らの反発を買い、彼らが放った刺客によって暗殺されます。

「一人の男がいる。歴史が彼を必要としたとき忽然と現れ、その使命が終わると大急ぎで去った。もし、維新というものが正義であるとしたら、彼の役割は津々浦々の枯木にその花を咲かせてまわることであった。中国では花咲爺のことを花神という。彼は花神の仕事を背負ったのかもしれない。彼、村田蔵六、後の大村益次郎である。」

これが村田を描いた大河「花神」の冒頭です。実際の主人公は吉田松陰→高杉晋作→村田蔵六と移行します。

大河「花神」が放映された時、まだ10代半ばでしたが、この冒頭のナレーションには「参りました」というか、言語によってこんなに人間は「感動するものなのだろうか」というほどの衝撃を覚えました。「言語」ってすごいなと思います。とにかく体が硬直するぐらい、ひきつけられたのです。

実は「それを書くために」、長々と前半を書いてきたのです。要するに「花神冒頭のナレーションには降参するしかなかった」と書きたかったのです。

ちなみに三谷幸喜さんなども大好きな大河として「花神」を挙げています。私より言語感覚が鋭いでしょうから、やはりこの冒頭には感動したのだと思います。

わたしは当然村田蔵六なんて知りませんでした。主人公としては「風采のあがらない中年風の男」です。ただ中村梅之助さんですから、一種独特な口調の良さとなにより「眼力」があります。とにかくこの大河ドラマにはもう「夢中」になりました。幕末ものの最高峰です。桂小五郎は米倉斉加年さん。吉田松陰は篠田三郎さん。高杉晋作は中村雅俊さんです。伊藤博文は尾藤イサオさん。

小説の方にはこの冒頭文はありません。だから司馬さんの文章ではなく、脚本家の大野靖子さんの文章なんでしょうか。天才的才能だと思います。

大野靖子さんは「国盗り物語」も担当しています。

「光秀の死とともに、ひとつの時代が終わる。戦国と呼ばれ、乱世と呼ばれた時代、一介の油商人山崎屋庄九朗が、美濃一国の主、斉藤道三となりえた時代、尾張のうつけと呼ばれた悪童が、天下の権を握りえた時代、人が力と知恵の限りを尽くし、国盗りの夢と野望を色鮮やかに織り成した時代は、ここに終わりをつげる。」

これは「国盗り物語」の最後のナレーションです。名文です。一般には「光秀の死とともに戦国が終わり、近世に移行する」という考えはありませんが、「そう思わせてしまう」ほどの名文です。特に「人が力と知恵の限りを尽くし、国盗りの夢と野望を色鮮やかに織り成した時代」という表現は最高です。

 以上、後半は歴史の話ではなく、言語の力は凄いなというお話でした。こうして歴史ブログを書いているのは、この二つの名文に出会ったからだと思います。


大河「花神」の主人公・村田蔵六・大村益次郎のこと

2019年03月31日 | 花神
靖国神社には村田蔵六(大村益次郎)の銅像があります。山田市之允(いちのじょう)あたりが作ったのだろうなと思って調べたら、やっぱり山田顕義でした。日本大学の創始者です。

大村(以下は本名の村田で表記します)も山田も長州の人間で、師弟関係にあります。村田も山田も軍略の天才といわれた人間で、特に村田は、彼がいなければ、戊辰の勝利はなかったといわれる人物です。幕末から維新にかけて、長州、そして明治政府の軍事作戦を「主導」します。もともとは適塾の塾頭ですから、オランダ学者、医者です。靖国の「もと」を作ったのも、村田です。最初の靖国の名前は、たしか東京招魂社です。あくまで内乱で死んだ政府側の兵隊の魂を鎮めるために作られました。外国まで出て行って戦争をすることは、村田は想定もしていませんでした。

明治維新の完成者、という見方があり、その観点から書かれたのが「花神」という小説で、大河ドラマにもなりました。幕末ものですから、視聴率はよくなかったようです。ただし、視聴率と内容は別。幕末ものとしては最高の作品です。三谷さんなぞも「大好き」ということで、へえーとちょっと驚きです。花神とは「花咲かじいさん」のことです。

幕末、彼の学問はひくてあまたで、大藩、そして幕府の「学者」として活躍していました。今なら大学教授です。収入も相当なものでした。

が、彼は結局、長州にもどります。最初は100石にも満たず、扱いは軽いものでした。東大教授が田舎の中学の平先生になったようなものです。それでも、彼は長州に属し、やがて長州の軍政を一手に握ります。ただし、政治は極めて苦手で、桂小五郎の「保護」のもとに活躍します。明治維新後も政治は苦手だったようで、西郷は無視ですし、大久保とはたびたび衝突します。大久保との衝突はいいのですが、西郷無視というのは当時極めて危険な行為で、結局明治のはじめ、「西郷信者」(海江田と言われます)の暗殺教唆によって暗殺されます。実際の犯人は過激な攘夷派です。

村田蔵六が暗殺されなければ、「兵制改革」は山縣有朋ではなく、村田が当然のごとく担ったはずです。そうすると日本近代史はどう変わっていたのか。

それは誰にも分かりませんが、「陸軍のドンである山縣有朋が出現しなかった可能性」も出てきます。

そう考えると、随分と違った方向に動いていただろうな、ぐらいは言ってもいいかと思います。