散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

下天のうちを比ぶれば・「うちを」って何だろう。

2019年04月21日 | 滝川一益
人間五十年 下天のうちを比ぶれば 夢幻のごとくなり 一度生を得て 滅せぬもののあるべきか

まあ解釈は日本史ブログファンなら誰でも知っているでしょう。下天の説明も割愛します。どうせみんな知っている。

人間世界の50年は下天世界の1日に相当する(ほど短い時間で)、夢幻のようなものだ。ひとたび人間世界に生まれて、滅びない(または死なない)ものがあろうか、いやない。

「ない」からどうなのか。仏教的無常観に即して解釈すれば、つまり無常だという意味。織田信長のイメージで解釈すれば逆になり、滅びを恐れることなく、自らの道を突き進むという意味になります。

ずっと気になっていたのは「のうちを」の部分です。

一般には「下天世界」の「うちの1日」「と比べるなら」となります。でも「うちの1日」という解釈がどうして成立するのか。どうして「1日」を間に挿入できるのか。

調べたけど、どうにも分かりません。

また「を」に「と」という意味はあるのか。あまり記憶にない。「うちに」なら分かるのです。「に」なら「と」いう解釈は簡単です。

「うちを」の部分にこだわった解釈はあるかなと思ってネットで調べたのですが、分かりませんでした。

もっとも「人間世界の50年」と「下天世界の1日」「を」、、比べるならと訳せば、「を」を「と」と解釈する必要はなくなります。

としても「1日」を補うことがどうして可能か、は分かりません。

分からないという報告みたいなもんです。誰も疑問に思わないのでしょうか。

滝川一益と北条氏政・一益の描かれ方

2019年04月21日 | 滝川一益
映画「清州会議」はコント性の高い作品で、滝川一益は映画全編を通して「ひたすら清須会議に向かって走って」います。で到着したら黒田如水から「終わったよ」とか言われ、倒れ込みます。

同じ三谷作品でも「真田丸」では「それなりの武将として描かれて」いました。段田さんです。

以下は別に「真田丸」の話ではありません。

織田信長の家督相続後の生涯は30年です。前半15年かけて尾張統一・美濃攻略、後半15年で伊勢攻略から上洛、全国支配へ向けた活動を行います。

滝川一益は後半15年の最初、伊勢攻略の時点で既に大将です。

天正10年、本能寺の変の年、武田氏を攻略します。大将は織田信忠ですが、武田滅亡後は畿内に帰ります。で滝川一益が「関東管領のような立場」で残されます。

あと数年あったら、関東を鎮め、北条氏の攻略か東北の攻略に向かっていたでしょう。それほど重要なポストでした。ちなみに上杉は柴田が攻め陥落寸前でした。上杉が滅んで越後が鎮まったら、柴田と滝川が信忠をかついて東北攻略を行っていた可能性も高い。でもそんな時間はなく、本能寺の変が起きます。

本能寺の変の後、北条氏は織田家への臣従の姿勢を変え、滝川一益を追撃、関東から駆逐します。滝川はやがて秀吉政権下で「関東取次」の仕事を数年します。本能寺段階の北条氏の動きが、織田家武将に「表裏ある者」との印象を与えたのでしょう。徳川は懐柔し、北条は滅ぼす。これは天正14年、本能寺の4年後に62歳で死んだ滝川一益の「遺志」だったかも知れません。

既に書いてしまいましたが、滝川一益は殺されてもいないし、徳川の旗本として家も残ります。

話を戻すと、本能寺後、唯一織田家司令官を「追撃」したのが北条氏。北条氏政です。中国の毛利は秀吉を追わなかった。上杉も柴田を追わなかった。

北条氏政の行動をどう考えるべきなのか。まあ単純に考えるなら毛利や上杉は「追う力がなかった」とも言えます。上杉は疲弊していた。毛利も物資が不足していたと言われています。坂東はやはり「一所懸命」の思いが強かったとも考えられます。

北条は元気であった。それが滝川一益の不幸でしたが(結局は北条にとっても不幸)、それでも彼は生き残りました。旗本ながら家も残りました。織田家の4司令官、羽柴、滝川、柴田、明智。江戸期も本家が残ったのは滝川一益だけです。もっとも柴田も家名だけは受け継がれたようですが。

滝川一益の描き方。たぶん「麒麟がくる」でも「ひとかどの武将」として描かれると予想しています。だって「ひとかどの武将」だったからです。