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山内一豊・土佐藩・坂本龍馬・山内容堂

2019年05月07日 | 坂本龍馬
土佐藩で有名な人物というと

藩祖の山内一豊・妻の千代、幕末にとんで山内容堂・後藤象二郎・坂本龍馬・岡田以蔵・中岡慎太郎・岩崎弥太郎・武市半平太・吉田東洋・板垣退助・谷干城といった人々でしょうか。

高名なのは山内一豊夫妻・坂本龍馬・板垣退助、それに三菱財閥の祖である岩崎弥太郎でしょうか。後藤はあまり有名ではありません。

岩崎弥太郎は龍馬の遺産を継いで三菱を興した、というのは、見方によります。たしかにそういう側面もありますが、岩崎の九十九商会は「明治期」になって飛躍するわけで、「全て龍馬のおかげ」ではありません。

坂本龍馬というのは郷士・下士で、上士を恨んでいたことになっています。「なっています」と書いたのは、彼が大金持ちの家に生まれたからです。幕末期ともなると商人の力というのは大きなもので、才谷屋という豪商の分家に生まれた龍馬はそんなに「虐げられた階級」の出ではありません。むしろ富豪の家です。上士と郷士の間には厳しいルールがありましたが、龍馬は「特別扱い」だったのではないか、とそんな風にも思えます。そもそも先祖から郷士ではなく、株を買って郷士になりました。郷士の出というより、豪商の出です。

土佐藩の藩祖の山内一豊という人はもともとはさほど有名ではなく、むしろ千代が有名でした。修身かなんかの教科書に良妻の典型として載っていたからです。「山内一豊の妻」という言葉は、まだ私が子供の頃には残っていました。

山内一豊の領地は豊臣政権下で最大約6万石です。同僚の堀尾吉晴や中村一氏が10万石以上だったことを考えると、秀吉の評価は「まあまあ程度」です。

関ケ原後に土佐10万石です。最初は10万石とされていました。あとでもっとコメがとれることが分かり、20万石とされます。徳川家康は10万石と思って与えたわけです。

この時、長曾我部の浪人が強く抵抗し、一豊はそれを武力鎮圧します。それが上士と下士の厳しい身分差別につながっていきます。

幕末の殿さんである山内容堂。鯨海酔侯と称して酒ばかり飲んでいました。佐幕派で色々やりましたが、あまり大きな影響はなかったように思えます。最後は佐幕派もやめました。もっとも安政の大獄では弾圧されました。つまり反井伊でした。これは土佐勤王党の成立と無縁ではないでしょう。ただし彼は土佐勤王党を弾圧しています。「龍馬伝」では、近藤正臣さんが演じて70歳ぐらいに見えましたが、亡くなった時45歳です。それが明治5年ですから、幕末はまだ30代後半です。若いのです。

この山内容堂に仕えた上士の一人が板垣退助です。当時は乾退助と言っていました。「板垣死すとも自由は死せず」で有名ですが、この暗殺事件で別に死んではいません。
「政治よりも軍事の人」だったのかも知れません。維新後、土佐代表格でしたから、政治家として色々高い地位にはつきました。が、結局西郷とともに下野します。西郷が近代政治に向いていなかったように、彼もまたそうだったのかも知れません。

維新期、軍人としては活躍しました。勝海舟に乗せられて、近藤勇や土方歳三が甲府城を取りにいきますが、これを撃退したのが板垣退助です。