散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

英雄たちの選択・天正伊賀の乱

2019年04月14日 | 忍者
番組の内容にはあまり触れませんが、伊賀か甲賀の忍術継承者という方が出ていました。

それで「手裏剣」とかを持ってくるわけです。

脳学者の女性が「当時も使っていたのですか」と聞くと、「使ってません」「当時は鉄が大事でしたし、こんなもの持っていたのでは疑われます」と答えていました。おもしろい。忍者とは我々がイメージするものとはかなり違います。

天正伊賀の乱は二回あって、1回目は天正7年(1578)です。

織田信雄、信長に相談なく一存で一万の兵で伊賀に侵攻
青山峠(伊勢地口)長野左京太夫1300人
長野峠(阿波口)柘植三郎兵衛1500人
鬼瘤峠(布引口)、信雄本隊8000人「伊乱記」

で、「ほうほうのてい」で信雄は逃げ帰ります。なんというか「負けたこと」「伊賀が勝ったこと」より「信雄が信長に相談もせず侵攻した」というのが凄いと思います。

そんなことやったやついるかなと考えると、いないと思います。秀吉、柴田、滝川ら方面司令官は「その場の判断」をしたから、すべてを信長に相談はしなかったでしょう。
しかし「大方針」は決まっているわけです。信長に相談もなく、一国に攻め入るなんてことはしていません。

織田信忠、、嫡男です。甲州攻めでは、信長が「急ぐな」と命令したのに、急いで攻め入って武田を滅亡させています。これも軍令違反ではなく、ただ「急いだ」だけです。

織田信雄はその後も色々「やらかして」いきますが、「信長の許しなく一国に攻め入った」人間は、まあ彼ぐらいでしょう。しかも「惨敗」しています。

第二次は天正9年です。信長の死の一年前、信雄総大将で4万越える兵、勝利します。丹羽長秀や蒲生氏郷、筒井順慶などもいたようです。


阿加(伊賀)郡 信雄  
山田郡 織田信包  
名張郡 丹羽五郎左衛門、筒井順慶
阿閉郡 滝川一益、堀久太郎
伊賀四郡のうち 三郡 信雄知行 一郡 信包知行「信長公記」  

滝川一益もいます。まあ伊勢が本国なので当然かな。織田信包もいます。

「織田信雄、大将としての最後の勝利」でしょう。「小牧長久手の戦い」は「引き分け」です。

繰り返しになりますが、織田信雄が「独断で伊賀にせめいって負けた」、、、これは信長軍の「おきて」を考える上で、おもしろいなと思います。


忍びの国・織田信雄・仮面の忍者

2019年04月04日 | 忍者
豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎だった頃、琵琶湖の南に「金目教」という怪しい宗教が流行っていました。

史実じゃありません。仮面の忍者赤影の「設定」です。いつの時代なんでしょうか。琵琶湖とあります。秀吉が長浜城主となったは天正元年(1573)です。でもその前年に秀吉は「羽柴秀吉」を名乗っています。木下藤吉郎だった頃ですから、元亀年間なんでしょうね。元亀は4年(1573年まで)ありますが、実質は3年とちょっとです。

さて忍者もの。

「忍びの国」をTVで放映していました。録画をなんとなく見ました。小説の方も読んでいます。

小説の方の少しの面白さは「織田信雄が副主人公並み」という点です。ただ全体に「サツバツとした小説で、救いがない」のです。主人公の無門は伊賀で最も腕がある忍者で「殺人マシーン」のような存在です。あ、ネタバレしますよ。ちなみに映画では織田信雄をジャニーズの知念くんが演じています。「おのれらは天下一の父を持ったことがあるのか」(その辛さが分かるのか)と泣き崩れたりしています。

主人公無門は殺人マシーン的ですが、しかし「お国」という女性だけは例外で、彼女の前でだけは「人間」です。お国はお国で無門を「甲斐性なし」として世間一般の女房のように叱り飛ばします。無門は「女房に頭があがらない亭主」となり、その間だけは「人間」となるのです。

が、最後はお国を殺され、お国を殺した「伊賀の国そのものを壊滅させようと」します。で、織田信長を脅かしてわざと伊賀に攻め込ませます。第二次天正伊賀の乱のことです。

映画は、、、なぜか信長が出てきません。だから無門、嵐の大野くんが「天正伊賀の乱を起こした」となっていません。嵐の大野くんが「非戦闘員をあわせて3万人を殺した伊賀の乱のきっかけを作った」ではまずかったのかなと思います。映画は特に面白いわけでもなく、つまらないわけでもなし。お国は石原さとみさんです。

こっから映画を離れて、織田信雄の話です。

第二次天正伊賀の乱は、1581年(天正九年)です。信長の死の一年前です。

その前1576年に「織田信雄」信長の次男は、第一次天正伊賀の乱を起こしています。勝手に1万の兵で伊賀に攻めこみ、負け、信長にしばかれています。でも結局は信長も伊賀攻めを決め、第二次天正伊賀の乱が起きます。総大将は信雄でした。5万を動員して非戦闘員も殺し、3万人を虐殺しています。

第一次天正伊賀の乱は「信長の命もなく勝手に攻め込んだ」わけです。で勘当だとは信長から言われますが「殺すぞ」とまでは言われていないようです。アホな子ほど可愛かったとか、信長も普通の父親だったとかされます。

大河では天正伊賀の乱(二回もしくは三回あった)はあまり描かれません。「虐殺シーン」になるからです。大河「国盗り物語」では描かれました。総集編が残っているので分かります。それ以後、大河で描かれた記憶が私にはありません。

さて織田信雄。清須会議の後、三法師を抱え込んだ織田信孝への対抗上。織田家の家督扱いとなります。で尾張美濃で100万石です。その後徳川家康と組んで、小牧長久手の戦いを起こします。

1590年の小田原攻めまでは、豊臣大名として安泰です。小田原攻めの後、移封を拒んだら100万石改易です。この時織田信包も改易されています。織田家を秀吉が切り捨てるわけです。ただし、三法師、織田秀信は、岐阜13万石です。三法師だけは小田原後も安泰でした。秀吉としてはかつての織田家家督である三法師に13万石は惜しくなかったのでしょう。信雄は100万石です。これは取り上げたかったのだと思います。

その2年後の朝鮮の役の時に許され、でも2万石程度です。

この辺り伊藤潤の「虚けの舞――織田信雄と北条氏規」に描かれています。しかしその2万石も関ケ原で「傍観者」だったため、家康に取り上げられています。

その後14年間、大坂城で「居候」です。茶々と信雄は「いとこ」です。が大坂の陣の直前に城を出ます。大坂にいたら名目上の「総大将にされていた説」もあります。その後、家康から5万石を与えられました。間者であったともされますが、証拠はないようです。

結局この信雄が信長の血筋を残します。織田有楽も残していますが、彼は信長の子ではなく弟です。信雄はどうにも絵にならない感じがします。一方三法師、江戸期まで生き延びたら、彼の生涯を面白く描くこともできたと思います。惜しいことに関ケ原では西軍について、あっという間に岐阜城を落とされ、高野山追放。その後若くして亡くなります。三法師が東軍について、20万石ぐらいになっていたら「織田家の逆襲」ということで、色々なドラマ、小説で取り上げれていたと思います。もっとも少なくはありますが、三法師を主人公にした小説は存在します。