散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

滝川一益のこと。滝川三九郎のこと。

2019年01月29日 | 滝川一益
滝川一益。織田家の数少ない司令官でありながら、大河等ではあまり報われた描き方をされません。

「真田丸」では、段田安則さんが演じて、一定の存在感を持って描かれました。三谷さんの滝川一益への「愛着」のようなものを感じました。

織田家、本能寺段階では、方面司令官は数人しかいません。
・滝川一益
・羽柴秀吉
・明智光秀
・織田信忠
・織田信孝(丹羽長秀が補佐)

ぐらいです。滝川一益は「東国奉行」というかとにかく東国の方面司令官でした。秀吉に最後まで抵抗した北条氏も、この時は一益に屈服(信長に屈服)しています。

織田家の上洛段階から織田の司令官として登場します。もっとも上洛段階では信長も34歳ぐらい。一益も30歳ぐらいです。しかしかなり古い家臣と言えましょう。忍者だったってのは根拠がないようです。

ここから後の滝川一益の「戦歴」を並べていたらきりがありません。大きな戦いにはほぼ全て参加しています。

本能寺の変で没落、と思われがちですが、没落はしていません。賤ケ岳の戦い段階では、柴田権六勝家に味方し、最後は孤立無援になって、伊勢の城で秀吉に対抗します。天正11年、4月までには味方した柴田勝家も織田信孝も自害しますが、7月まで一益は抵抗しています。

その後、蟄居謹慎となって丹羽長秀に預けられます。

しかし小牧長久手の戦いには呼び戻され、秀吉方として調略等を行います。もっとも城をとったはいいが、最後は反攻され逃走します。嫡男の一忠は謹慎となりますが、戦後次男の一時には一万以上の領地が与えられています。一益自身も秀吉のお伽衆となり3千石です。

小牧長久手の戦いは、「引き分け」でしたから、戦前の約束は守られました。見方によって家康勝利ともなりますが、調べれば引き分けだと分かります。

一益はその数年後、天正14年に死亡します。本能寺の変から4年です。

一益の長男の一忠という人の長男が滝川三九郎です。特に有名な人ではありませんが、「真田太平記」では主要な登場人物として大活躍します。

松永久秀は「悪人」でも「下克上の権化」でもない。

2019年01月27日 | 松永久秀
題名はいささか「挑発的」につけました。ドラマでは大悪党として扱われます。ですから「学者さん」は「そうではない」と書きます。つまり学者という人種は「通説をつぶす」のが大好きなのです。私は学者ではないので別に「通説をつぶす」つもりはありません。

でも調べてみると、そんなに大悪党でもないのです。悪党であることはたしかですが。

松永久秀は「松永弾正」とも呼ばれます。最初の官位が「弾正小忠」です。織田信長家の「弾正忠」はおそらく自称です。でも松永の「弾正忠」は認可を得た本物です。

はじめ畿内を治めていた三好長慶に仕えます。

そもそも三好長慶に仕えているわけです。この人、足利の被官ですが、実権を握り、13代足利義輝を追い出したり、帰京させたりと忙しい人です。ともかくも幕府内で実権を握り、「三好政権」といわれる感じになるわけです。

つまり主君が「下克上」なわけです。主君の三好長慶が下克上なんだから、松永久秀はそれについていくしかありません。

その後三好長慶が死亡します。1564年。信長上洛の4年前です。

その後は、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)らと共に長慶の甥、三好義継を三好家の家督としてを支えます。三好三人衆は身分としては三好長慶の家臣です。

でこいつらが「将軍義輝を暗殺」します。

「松永久秀が将軍義輝を暗殺した」とされることが多いのですが、主犯は三好義継及び三好三人衆と久秀の息子の松永久通です。松永久秀は「直接参加はしていない」わけです。息子は参加しています。

その後三好三人衆は主君である三好義継と対立しますが、久秀は義継側についています。ここでも主君側で下克上はしていません。で三好三人衆と「戦争」です。

「三好三人衆は東大寺に陣を置いていた」から、当然東大寺が焼けてしまいます。これも久永の「悪行」とされますが、相手の陣があったわけです。

その後は信長の上洛です。これに協力し、義昭の幕臣になります。義昭が信長と対抗すると、義昭の命を受けて、信長に抵抗します。主君義昭は裏切っていないわけです。がこの時は信長に降伏(1572)

そして将軍義昭が追放されます。(1573)

1577年には信長に対抗して討ち死にします。信長に臣従してましたから、これは明確な反逆と言えると思います。信長が大和を筒井順慶にまかせようとしたのが原因とされています。ただ義昭の幕府が毛利で続いていたと考えるなら、ちょっと見方も変わります。

この久秀の最期。信貴山城の戦い。ドラマでは平蜘蛛釜に火薬をつめて爆死したことになっています。学説では「ウソ」です。が「ウソという証拠」も強固ではありません。久秀の首が残っていたとか自決したとかあるのが根拠です。まあ爆死にも証拠はありませんが、ドラマファンとしては爆死でいいと思います。

なお私はこの信貴山城の戦いは「秀吉の功績」だと思っていましたが、総大将は織田信忠です。佐久間信盛や謙信と戦っていた丹羽長秀も参加しているようです。

観音寺城の戦い・永禄11年(1568年)・豊臣秀吉登場す・ついでに蒲生氏郷も

2019年01月27日 | 歴史
最近は織田信長の上洛戦について書くことが多くなっています。

永禄10年と天正10年。1567年と1582年。この二つの「10年」が信長にとって非常に大切です。永禄10年は信長の上洛戦が実質的に始まった年です。正確には永禄11年からですが、伊勢平定を始めていますから、実質的には永禄10年が上洛戦の始まりです。こうして年代を並べてみると信長の天下統一戦は15年間です。その前は尾張統一・美濃攻略で、これに15年かかっています。天正10年が本能寺の変です。永禄と天正の間には元亀が3年ほどあります。

なお永禄10年は天下布武の印を使い始めた年でもあります。永禄10年・11年は安土桃山時代の始まりともされます。

信長は岐阜にいましたから、上洛戦で「邪魔」なのは、北伊勢(三重の北)の神戸氏と長野氏。これには養子を送って乗っ取ります。

最も「邪魔」なのは近江(琵琶湖辺り)の六角義賢・この人六角承禎という名で有名です。承禎は剃髪後の法名です。永楽2年には名乗っていたようですから、ここからは承禎と書きます。

信長は六角承禎とも戦いたくなかったようです。何度か使者を送って上洛協力要請をしています。義昭からも使者が出ています。岐阜からでは遠いと思ったのか、浅井の佐和山城に信長自ら出向いて、そこから六角と交渉したりしています。

しかし結局決裂します。これが永禄11年のことです。

信長は岐阜にもどって軍勢を整え、「1万5千の兵で出陣。のち加勢が加わり、軍勢は5万ほどになる」。主戦場は箕作城です。織田軍の陣容は

1、稲葉良通(稲葉一鉄)
2、柴田勝家・森可成
3、織田信長・滝川一益・丹羽長秀・木下秀吉

六角承禎は観音寺城にいました。しかし支城の和田城・箕作城が簡単に陥落。六角承禎は甲賀に逃走します。(この後も数年信長に対抗)

六角家家老・蒲生賢秀は日野城で最後まで抵抗する。しかし神戸氏らの説得を受けて降伏。人質を差し出す。この時の人質が蒲生氏郷。豊臣家では大封を有しましたが、ちょっと影が薄い人です。

木下秀吉が「信長記」に登場します。他の資料ではその3年ぐらい前に登場しているようです。

一番分からないのは「1万5千の兵で岐阜を出陣。のち加勢が加わり、軍勢は5万ほどになる」点です。1万5千に浅井の3千、徳川の1千が加わり5万、、、て計算が合いません。1万9千でしょう。

むろん伊勢や近江の国衆が「お味方」したのでしょう。その数3万。ちょっと多すぎるかなと思いますが、特に大きな異論はないようです。あっても私が知らないだけかも知れません。

織田信長の弟・織田信包・織田有楽斎

2019年01月25日 | 織田信長
織田信包(1543-1614) おだのぶかね 通称三十郎  のち剃髪して老犬斎を名乗る
織田有楽斎(1547-1622) 織田長益 おだうらくさい・おだながます

織田信長(1534-1582)の弟たちです。つまりは織田信秀の息子です。信長には庶兄も含めて兄弟が沢山いますが、有名なのはこの二人です。そして二人のうち圧倒的に有名なのは有楽斎の方です。「真田丸」では井上順さんが演じました。たいていは大坂の陣で「家康の間者」をしていたと描かれます。損な役回りです。また本能寺では信忠と一緒にいながら信忠には自害をすすめ自分は逃げたとされます。自害を勧めたは怪しげな説です。自分は逃げたは本当のようです。
茶では利休十哲の一人。関ケ原では家康に属しています。その後は大阪城で秀頼の後見の一人となったようです。二回目の大坂の陣の前に、もはや穏健派の自分は必要なしとして大阪城から退出しています。子供たち(のうち二人)には江戸幕府で1万石程度の藩を与えられました。そもそも関ケ原では徳川派でしたから、徳川との調整役として大阪城にいたのでしょう。

有楽斎に比べると「織田信包」の知名度はだいぶ低いと思います。映画「清須会議」では伊勢谷友介さんが演じました。あれで知名度は高まったと思います。

1568年年、信長の伊勢平定・上洛戦が始まります。信長は北伊勢の神戸氏には三男の信孝を養子として送り込みます。次に織田信包が北伊勢の長野氏に養子として送り込まれます。信長はこの時点では養子を送って乗っ取るという「毛利元就」と同じような作戦を用いています。織田信包この時、25歳ぐらいです。

次の年1569年に伊勢の国司北畠氏が臣従。織田信包は伊勢安濃津城主となります。この後に「織田信包が参加した出来事」を年表風にまとめると、

1570年・・姉川の戦い
1573年・・浅井・朝倉攻め
1574年・・長島一向一揆攻め
1575年・・越前一向一揆攻め
1577年・・雑賀攻め
1578年・・本願寺攻め・荒木村重討伐
1581年・・信長の馬揃え・第二次天正伊賀の乱
1582年・・本能寺の変 おそらく伊勢にいた・清須会議のあと伊勢津城15万石
1583年・・賤ケ岳の戦い(秀吉側)
1584年・・小牧長久手の戦い(中立→秀吉側)
1590年・・北条攻め
北条攻めの後秀吉の不興をかい、改易。のち復帰して3万6千石
1600年・・関ヶ原の戦い・西軍で細川幽斎攻め・だが戦後本領安堵
1614年・・大阪城で秀頼の後見をしていたが、死去 享年71歳

こうして見てみると前半生はほぼ「一向一揆・本願寺」との戦いです。雑賀も本願寺側です。

本能寺の変の時は39歳ですから、十分に大将となれる年齢でしたが、信忠補佐と言う役回りです。本能寺では信忠の陣にはいなかったようです。本国の伊勢にいたかと思います。
この時、甥の織田信雄も伊勢にいました。本能寺後、伊勢の国人は不穏な動きをみせたようです。織田信雄の手兵は2500でした。これは信孝・丹羽長秀の「四国討伐軍」に手兵を送っていたせいです。そうなると同じ伊勢にいた織田信包は信雄と協力して伊勢を守っていたと考えるのが適当かと思います。

大阪城では弟である織田有楽斎に比べると影が薄い。老犬斎を号するぐらいですから浮世離れした傾向があったのかも知れません。この辺りはもう少し調べてみます。大坂の陣の前年に死去します。

早見俊「うつけ世に立つ」・斎藤龍興・金森長近・帰蝶濃姫

2019年01月24日 | 織田信長
小説「うつけ世に立つ」。うつけは言うまでもなく織田信長です。

最初の方を読んだだけで「あれ?」と思いました。主たる登場人物が「珍妙」なのです。齋藤龍興・金森長近・帰蝶濃姫・鵜飼の弥吉。

帰蝶(濃姫)は信長と離婚して美濃(岐阜)の小屋に住んでいます。で何故か信長を深く恨んでいます。理由は父の仇をうつうつと言ってなかなかうたなかったから、みたいです。なら「かたき」である齋藤義龍・龍興親子の方が憎いはずなんですが、そうではありません。齋藤龍興とは仲がいいみたいです。

で、龍興に「叔母上」などと呼ばれ、「信長を殺すのじゃ」とか言ったりします。これでは「トンデモ」ですが、最後をみるとそこまで「トンデモ」でもありません。ただ「帰蝶」の設定だけが変なのです。ちなみにこの帰蝶、最期は和解し、信長に背負われたりしています。

でも私が本当に変だと思ったのは「斎藤龍興・金森長近大活躍」という点です。なんでこんなマイナーな武将を。

と思って本の終わりを見て納得しました。「そもそも岐阜市とのコラボ小説」なのです。明記されています。だから美濃の龍興・美濃出身で岐阜飛騨高山藩主である金森長近・それから鵜飼の子供が「大活躍する」のです。

小説の話はここまでです。

齋藤龍興(一色龍興)

1548年から1573年まで生きました。信長の美濃攻略が1567年ですから、龍興は20歳ぐらいです。イメージの悪い人です。だいたい「酒と女におぼれた人物」として描かれます。で、竹中半兵衛は「いましめ」の為に稲葉山城を一時奪われたりします。
美濃が陥落した後は、伊勢の北畠を頼ったようです。長井道利とともに長島一向一揆に参加したりして信長に抵抗します。その後は三好三人衆を頼り、本圀寺の変にも参加しています。
最期は朝倉を頼り、そこで戦死したようです。享年25歳。一応最後まで信長に対抗しています。ただし軍団を率いていたわけではなかったでしょう。

金森長近

1524年から1608年まで生きています。84歳まで生きています。大坂の陣前には亡くなっていますが、信長期から関ケ原までを生きたことになります。
美濃土岐氏出身。早くから織田信秀に仕えたようです。織田信秀→織田信長→柴田勝家→豊臣秀吉→徳川家康→徳川秀忠。経歴は凄い。
飛騨高山藩主です。岐阜ですね。私のイメージでは柴田勝家与力なので、越前かと思ってました。
大河で覚えているのは「利家とまつ」に出てきたなというぐらいです。小説ではたまに登場します。

帰蝶・濃姫はどんな設定でもOK

帰蝶・濃姫は比較的早期に「史実がたどれなく」なります。だからどんな設定にしても「トンデモ」とは言い切れないのです。堺に行かせてもいい。美濃に帰らせてもいいということです。なんなら信長暗殺の黒幕にしたっていいのですが、個人的にはそこまでの「トンデモ」はやめてほしいと思います。八切さんの珍説は、たしか帰蝶黒幕説だったと思います。

もちろん本能寺にいてもいいのです。だったら本能寺にいて欲しいかなと思います。

以前は信長と夫婦仲がよく、一緒に本能寺で亡くなってましたが、今は離別したり憎んだり、途中で亡くなってしまったり色々です。史実がわからないのです。
大河「功名が辻」では夫婦仲こそよくありませんでしたが、最期は本能寺で亡くなっています。帰蝶が死ぬシーンがないと、「信長の反応」「光秀の反応」がなくなるのでつまらないのです。
光秀には「帰蝶さまー」と涙ながらに叫んでほしいものです。


織田信長の尾張統一・登場人物ノート

2019年01月24日 | 歴史
信長の尾張統一を理解する上で必要となる「人物のまとめ」です。ほとんど「織田」なので、わかりやすくはありません。

前提として信長の親父、織田信秀の時代、尾張には次のような「グループ」があったことを知っておいてください。

守護である斯波氏グループ(しばし)
守護代である清州織田氏グループ(きよす)  または大和守織田氏
守護代である岩倉織田氏グループ(いわくら) または伊勢守織田氏
清州織田氏の奉行である信長血縁グループ(勝幡織田氏グループまたは織田弾正忠家グループ)・・勝幡の読みは「しょぱた」です。

織田信秀(1551-1552)・・織田信長の親父、斯波・織田連合体である「尾張グループ」の代表格であった。しかし身分は低く守護代清州織田氏の奉行。勝幡城主→那古野城主→古渡城主→末盛城主

織田信長(1534-1582)・・18歳の時、父の織田信秀が死ぬ。1546年以前に那古野城主となる。親父は末盛城主。家督を継いだとされるが、信秀の居城である末盛城は弟信行が継いだ。

織田信行(1534より後の生まれ-没1558)

織田信秀の三男か四男、信長の同母弟。母は土田御前。名前がいくつかあり「勘十郎」「信勝」「達成」「信成」。織田信秀の居城である末盛城を継いだ。信秀死後、勝幡織田家の権力は「織田信長」「織田信行」「織田信光」の三人に分割された。信秀没直後は信長とは協力関係だったようである。だが2年後の1554年には織田弾正忠家当主を名乗って信長と対抗した。1556年には重臣「林秀貞・林美作守・柴田勝家」と共に信長と戦った(稲生の戦い)。この時林美作守は戦死。戦は信長が勝利。信行は末盛城に籠城。土田御前の仲介によりこの時は許された。しかし、1559年、岩倉織田家の信安に通じて謀反を計画。これを柴田勝家が信長に密告した。結局同年11月、病気と偽った信長の見舞いに行き、清州城で謀殺された。既に織田信光も没しており、これで信秀系の勝幡織田氏、つまり織田弾正忠家は織田信長のものとなった。子は津田信澄。津田信澄は明智光秀の女婿で、織田家連枝として遇された。本能寺の変で織田信孝に疑われ殺害された。

織田信光(1516-1556)

織田信秀の弟。つまり信長の叔父。孫三郎。守山城主。信秀系織田氏の中で信秀没後、一定の権力を有していたと思われる。1555年、信長と協力して清州織田氏の当主・織田信友とその家来坂井大膳を謀略にかけ織田信友を殺害。清州城を乗っ取る。坂井大膳は今川に逃亡。信長を清州に入れ、自分は那古野城主となった。その翌年の1月には家来坂井孫八郎に殺害された。急な死であったため「暗殺説」もあるが証拠資料はない。彼の死により勝幡織田氏(信秀系織田氏)の権力は織田信長と織田信行で分け合うことになった。

山口左馬之介(1560頃没)

織田信秀配下、三河との国境にある鳴海城を任されていた。1552年、信秀が死ぬと、息子九郎二郎と共に、信長に反旗をひるがえし、今川の軍勢を鳴海城に入れた。信長は800の兵で戦う(赤塚の戦い)が、引き分け。その後今川義元に疑われ、切腹させられた。

織田信友(没1554) 清州織田家

信長の直属の上司である尾張守護代清州織田家当主。清州城主。当主としての実権はさほどなく、坂井氏や河尻氏が実権を持っていたらしい。1552年ごろから信長と明確に対立。戦いをしかけたり、暗殺を企てたりする。1554年には家老坂井大膳とともに「信長派」であった守護「斯波義統」を暗殺。信長と戦って敗れる。織田信光に調略をしかけるも、逆にだまされ、清州城を乗っ取られて死亡する。坂井大膳は今川に逃れる。斯波義統の子「斯波義銀」は信長の保護下に入る。

斯波義統(1513-1554)(しばよしむね)尾張守護・国主

尾張の守護代。斯波氏14代当主。尾張に対し一定の影響力はもっていた。特に織田信秀とは協力関係にあり、両者は互いに利用しあう関係にあった。その為、信秀の上司である清州織田氏・織田信友とは対立的な関係になっていく。1554年、織田信友の信長暗殺計画を信長に密告。義統の密告を知った信友に襲撃され、奮戦ののち討ち死にする。信長は義統の子「斯波義銀」を保護。信長は逆賊討伐を名分にして、信友を討ち果たす。

織田信安(没1591または1614) 尾張守護代・岩倉織田家当主・織田伊勢守家

織田信秀は守護代清州織田氏の奉行であったが、信安はもう一つの守護代家「岩倉織田氏」の当主である。信秀とは友好的であったが、信長と疎遠であった。が、尾張上四郡では勢力を保っていた。信長に追放されたわけではなく、家督争いが起こり、長男の織田信賢に追放された。

織田信賢(生没年不詳)(おだのぶかた) 尾張守護代・岩倉織田氏当主・織田伊勢守家

父である織田信安を追放して、岩倉織田氏当主となる。岩倉城主。信長の弟信行を支援して信長と戦うが、1559年、追放される。同年、信長は今川と通じた斯波義銀も追放したため、ここに信長の尾張統一がなることになる。

以下逐次加筆します。

豊臣秀長・豊臣小一郎が生きていたら。豊臣政権の延命を考える。

2019年01月23日 | 豊臣秀吉
豊臣政権は「滅ぶべくして滅んだ」ところがあります。朝鮮侵略が致命傷でした。だから別に「延命して欲しかった」とは思いません。

でもここでは「思考実験」として、これなら延命したのではないか、を書いてみることにします。最初に書いておくと、家康を殺すはNGとします。実際家康一人を殺していても延命できたとは思いません。

☆どんな方法をとるとしても、豊臣恩顧内の内紛を鎮め、巨大大名の力を削ぐ、そして政治体制(官僚機構)を整えることが目標となります。

一番いい方法としては、魔法のような話ですが、51歳で死んだ、秀吉の弟の秀長を延命させることだと思います。豊臣秀長は1540年の生まれですから、家康の3歳年上です。家康が死んだのは73歳の時だったと思います。だから秀長を80歳まで「魔法で」生きさせるわけです。すると彼は1620年まで生きます。大阪の陣は1615年です。

人間50年といっても、真田信之などは90過ぎまで生きました。宇喜多秀家も松平忠輝も流されたのに長生きです。全くの「魔法」でもありません。

さらに

1、秀長の領地を増やす。もともとの大和・紀伊・和泉に、伊勢・尾張を加える。尾張の織田秀信は転封する。伊勢は豊臣秀次だったはずです。転封可能でしょう。これで「200万石」です。十分徳川家に対抗できます。

2、秀吉存命中に秀長を関白にする。秀頼を秀長の猶子とし、秀長の次の関白を秀頼とする。淀殿勢力は大坂城から追放して淀城にでも行ってもらう。秀頼の母は「北政所」とする。その上で「秀長と北政所が協力する」、北政所の協力さえあれば豊臣は割れません。

3、関白秀次には関白を返上させ、30万石程度の大名とする。

4、朝鮮侵略は当然即時中止する。朝鮮との外交を行う。

5、朝鮮の役で不満たらたらの加藤清正、福島正則らには、もう与える土地はないので、金銭と名誉号でなだめる。

6、徳川家の250万石は徳川秀忠と結城秀康に分割して相続させる。結城秀康は家康の実子で、秀忠の兄です。ついでに毛利・前田・上杉も分割相続させる。

とりあえず「これだけでも」、徳川家は手出しができなくなります。が、秀長が関白になっても「政治制度を整えなければ」、延命なんてできません。

必ずしも幕府は必要ないでしょうが、幕府を開いた方が、すっきりするでしょう。大坂幕府。「関白にして将軍」。別に難しくはないと思います。関白の方が征夷大将軍なんぞより数段上の位です。家康だって「右大臣にして征夷大将軍」です。

で、朝廷の力は抑制する。

一番難しいのは「江戸幕府でいう老中制度」の構築でしょう。「徳川譜代」は本当の譜代ですが、「豊臣譜代」は忠誠心が薄いからです。「豊臣譜代」なんて言葉すらなく「豊臣恩顧の大名たち」です。
これはもう「譜代大名」を無理にでも決め、あとは「恩顧大名」「外様大名」とするしかないかも知れません。五大老制はやめ、石高の少ない譜代しか官僚になれないようにする。石田三成は「恩顧大名」にしてしまう。加えて黒田如水も清正も福島も「恩顧」です。譜代は増田とか京極とか蜂須賀とか木下とか前田玄以家とか長束とか大谷とか。江戸幕府と同じじゃないかという話ですが、やっぱり一番いい方法でしょう。

実はこんな条件をつけなくても、豊臣秀長が80歳まで生きていたら、存命中は豊臣は滅びないし、江戸幕府も成立しない。むろん関ヶ原も起こらないと思います。私が書いた「関白秀長とか徳川分割」といった「夢みたいな話」が実現しなくても、「豊臣秀長が80歳まで長生きさえしていれば」、豊臣政権は100年ぐらいは続いたと思います。100年以上は無理でしょうが。

織田信長の尾張統一・みな織田姓・織田信なので一苦労

2019年01月23日 | 歴史
織田信長の親父は織田信秀です。この人が「尾張国主・守護」なら話は簡単です。親父が死んだので信長が「尾張を継いだで終わり」です。しかし、そう簡単にはいきません。なにしろこの「親父」である「織田信秀」は国主でも守護でもなく、守護の代わりをする「守護代ですらない」のです。

こういうことです。

親父・織田信秀(1511-1552)の当時の尾張の勢力

尾張守護    斯波義統(しばよしむね)
守護代上四郡  織田信安(おだのぶやす) 織田伊勢守家・岩倉織田家  
守護代下四郡  織田達勝(おだたつかつ) 織田大和守家・清洲織田家  やがて家督は織田信友が相続

で肝心の織田信秀は織田達勝の「家来」です。清洲織田家には家来筋の奉行が三家あって「清洲三奉行」と言われました。その三奉行のうちの一人が織田信秀です。織田信秀の家は「織田弾正忠家」と言います。

簡単に書くと尾張守護の「家来の家来」です。死ぬまで彼は奉行です。それでも港を保持して経済力があり、戦上手でもあったため、他国との戦では大将になることが多かった。だから「尾張国主」と勘違いされることが多いのです。勘違いというか「国主並の勢いがあった」と書くほうがいいかも知れません。それでも「尾張統一なんてしてないし、あくまで一奉行」です。信秀は尾張グループの代表格でしたが、その「代表格」を信長が簡単に継げるわけではないのです。実際信長は代表格全ては継げなかった。だから自分で勝ち取ったのです。

織田信長が尾張統一をしようとする場合、「敵」は以下のような存在です。

A、織田弾正忠家=信秀系織田氏の中の「反信長勢力」

B、主君である織田大和守家=清州織田氏の中の「反信長勢力」  当然AとBは重複しています。

C、織田伊勢守家=岩倉織田氏の中の「反信長勢力」

D、守護斯波氏の中の「反織田勢力」 斯波氏自体に勢力がないのでさほど問題にはならない。

ただし「敵対」ばかりはしていられません。いきなり全部敵に回すなんてできません。だから信長も、当初は、時にあるグループにすり寄り、時に敵対しながら、なんとか尾張統一を目指しました。

その過程を、なるべく簡略に整理すると、こうなるでしょう。

1、まず織田弾正忠家、その他の「反信長勢力」を平定

18歳で信長は織田弾正忠家の家督を継ぎます。これには反対もありました。それでいくつか戦いが起きます。信長はなんとかそれらの乱を乗り切ります。
最大の敵は弟である織田信行(信勝・勘十郎)でした。が信行殺害は24歳の時です。また「いきなり信行を敵にした」わけでもありません。敵は他にいくらでもいたからです。

2、織田大和守家・清洲織田家の「織田信友」を殺害。

21歳の時に織田大和守家・清洲織田家当主「織田信友」とその家臣「坂井大膳」が尾張守護・斯波義統を攻め殺します。信長は義統の子を保護し、叔父織田信光とともに織田信友を殺害します。これが22歳の時です。これで織田大和守家=清洲織田家は断絶。

3、謀反の前歴があった弟「織田信行」を殺害。

24歳の時です。病と偽って見舞いに来た「織田信行」を殺します。これで織田弾正忠家の中の争いはほぼ終息します。

4、織田信安に代わり実権を握っていたその嫡男・織田信賢を追放

26歳の時です。これにより織田伊勢守家・岩倉織田家も潰れます。ほぼ尾張統一です。

同じ年、最後に残っていた前尾張守護「斯波義統」の子である「斯波義銀」(しばよしかね)を追放します。これで尾張統一です。あー分かりにくい。

これで尾張「守護家」「二つの守護代家」「信秀系織田家の反信長勢力」の三つが全て潰されます。みんな「織田姓」しかも「織田信」までが同じ人間が多い。だから非常にややこしいのです。
でも「清洲三奉行のうちの2つは残っているのではないか」と思う方もいるでしょう。他の2家は信長時代には勢力を失っていたようです。なお、土佐の山内一豊の家は岩倉織田家に属していたと言われます。そんなこと書いていたらキリありませんが。

織田信長の子供たち・織田信忠・織田信雄・織田信孝・伊賀の乱

2019年01月22日 | 織田信長
織田信長には男子だけでも沢山の子供がいます。有名なのは長男信忠・次男信雄・三男信孝・四男秀勝(秀吉の養子となる)でしょう。

幼名がそれぞれ変わっています。まあまあ「まともな」幼名もありますが、9男の「信貞」にいたっては「人」だと伝わっています。名前が「人」です。

1、信忠

1576年には信長から家督を譲られていますから、本能寺段階では「織田家当主」です。幼名は「奇妙」です。
本能寺段階で26歳ぐらいであると考えられます。本能寺の変で討ち死にしますが、「逃げることもできた説」もあります。実際おじの織田有楽などは逃げたようです。
かつては「凡庸」として描かれました。というよりドラマではあまり深く描かれたことがありません。学説でも凡庸でしたが、最近は「普通並みの武将」だったとされています。
最近の「真田丸」では最初の方だけ登場しました。結構な威厳に満ちていて、徳川家康を「そんざいに扱って」いました。かつては織田と徳川は同等として表現されることも多かったのですが、最近は「本能寺段階では徳川は織田の家来格」として描かれることが普通になっています。
秀吉も彼になついていたとされています。彼が生きていたら、日本史は全く違ったものになっていた可能性があります。

2、三男 信孝

幼名は三七です。
たぶん秀吉によって殺された唯一の「信長の息子」です。実際は秀吉が信雄に命じて、殺しました。殺されたのだから「人並以上の人物だったのかも知れない」とされています。
ただこのブログでも書きましたが、本能寺段階では大阪あたりで1万5千の兵を有しながら「ほとんどに逃げられて」います。掌握力は低かったのかも知れません。

3、次男 信雄

何度も名を変えていますが、ここでは信雄で通します。幼名は茶筅(ちゃせん)、茶筅って茶をぐるぐるかき混ぜる道具です。なお通称は三介です。「三介」の方が有名です。
ほとんどの場合「アホ」として描かれます。大河「功名が辻」でもそうでした。映画「清州会議」ではアホさがデフォルメされていました。

史実は分かりません。が当時から軽く見られていたという資料もあるようです。
清須会議では秀吉が推薦する三法師が織田家を相続しました。信雄は家督を相続できませんでした。それでも伊勢・尾張・伊賀で100万石です。その後家康と組んで秀吉に対抗しますが、勝手に秀吉と単独講和して、家康を唖然とさせます。「アホとされる所以」はこのあたりです。あとフロイスによると、安土城を失火で焼いてしまったそうです。フロイス、信じていいのか分かりませんが。

天正伊賀の乱を起こしたことでも有名です。しかも勝手に1万の兵で伊賀に攻めこみ、負け、信長にしばかれています。でも結局は信長も伊賀攻めを決め、第二次天正伊賀の乱が起きます。総大将は信雄でした。5万を動員して非戦闘員も殺し、3万人を虐殺しています。このあたりを描いたのが映画「忍びの国」ですが、まだ見ていません。

大河では天正伊賀の乱(二回もしくは三回あった)はあまり描かれません。「虐殺シーン」になるからです。大河「国盗り物語」では描かれました。登場した代表的な忍者である葛籠重蔵(架空)が伊賀出身です。露口茂さんでした。必死に戦い「もしわしが生き残ったら、信長を生かしてはおかぬ」と誓います。その後信長を狙います。しかし本能寺を知って「そんな馬鹿な」と唖然とします。「生きる目標を失った」からでしょう。この葛籠重蔵という人はもともとは「梟の城」の主人公です。「梟の城」では秀吉を狙う設定です。

話を信雄に戻します。

豊臣期では貴人としてそれなりに大切に扱われたようです。尾張・伊勢・伊賀という大封を有して、内大臣にもなっています。しかし北条滅亡後の転封に反抗、改易です。遠流のあと秀吉お伽衆、1万8千石。

結局江戸幕府でも息子の領地と併せて5万石で「織田の血筋」を残したとされます。織田の血筋を残したかどうかは「他の血筋からの養子がなかった」かどうかが前提となりますが、それはまだ調べていません。

 まあ血筋なんて分かりません。400年の間に「浮気の子」がいたらそれでおしまいです。

織田信長の上洛戦・伊勢平定・織田信雄・織田信孝

2019年01月22日 | 織田信長
織田信長の上洛戦は永禄11年(1568)9月です。

義昭を奉じて上洛戦を決行する→尾張・美濃・伊勢・近江あたりから兵力4万が終結→あっと言う間に近江の六角義賢は逃げ出す→京大和の三好三人衆も逃げ出す→簡単に上洛

というイメージがある(少なくとも私には)のですが、よくよく見るともうちょっと複雑です。

信長は今の岐阜県・愛知県にいました。ここから京都に行こうとすると、滋賀県(近江)と三重県(伊勢)だけはどうしても避けられません。

武将としては近江の六角義賢と浅井長政が邪魔です。伊勢で邪魔なのは神戸氏・長野氏・そして国司である北畠具教などです。ただし浅井と北畠本家は京への直線ルート上にはありません。

上洛戦の以前から信長はまず伊勢攻略をはじめます。がそう簡単にはいきませんし、力攻めばかりだと信長も兵を失います。

で、「戦わずして攻略する」作戦を立て、まず北伊勢の神戸氏に狙いを定めます。具体的には信長の三男である三七信孝を養子にしないかと神戸氏に申し入れるわけです。神戸氏としても決戦して滅びるよりはということで、これを受け入れます。ここで織田信孝は一旦、神戸信孝になります。(時を経て織田信孝に復帰)

次は同じ北伊勢の長野氏です。これには信長弟の織田信包(のぶかね)を送り込みます。ということで一時、長野信包になるわけですが、この縁組はあっという間に解消されたようです。それでも長野氏は織田家の支配下になりました。この「織田信包」という人は映画「清須会議」で伊勢谷友介さんが演じた人です。豊臣期に15万石→3万6千石。江戸幕府でも本領安堵です。ただし3代で無嗣改易。

これで北伊勢は平定。上洛戦以前です。南伊勢の北畠具教は直線ルートにないので、後回しです。

近江の北にいた浅井長政とは誰でも知っている通り、「お市」を送り込んで婚姻関係。

ここまで準備して上洛戦です。信長に対し、近江の六角義賢は観音寺城の戦いで大敗。近江甲賀郡に逃げます。そこから6年ほど六角義賢はゲリラ戦を続けます。のち秀吉のお伽衆です。

信長は三好を駆逐して京都に入ります。三好は四国に移ります。が気がかりなのは大和(奈良)と南伊勢(三重南部)です。

大和には松永久秀がいました。が、実は既に上洛前から手は打っており、松永久秀は信長に協力します。

すると残りは南伊勢の北畠。北畠に対しては上洛の翌年力攻めを行います。が、持久戦となる。そこで今度は次男の織田信雄を送り込んで養子作戦に移行します。織田信雄は北畠具豊(北畠信雄)に改名です。この時、北畠氏は信雄というか信長によって虐殺の憂き目にあっています。織田信雄、この人、生涯に何度も名を変えて、結局江戸幕府でも生き残ります。

で伊勢平定がなされるわけですが、その翌年、つまり上洛の2年後には既に信長包囲網がしかれます。金ケ崎の戦いとか姉川の戦い、本願寺挙兵、長島一向一揆とかが起きるわけです。

補足、以上登場の人物のうち織田信孝。次男の信雄に比べれば「比較的まし」な人物とされ、四国遠征の「総大将」とされていました。補佐は丹羽長秀です。四国遠征の渡海のまさにその日に本能寺の変が起こります。ということは、織田信孝は当時京都に近い場所(摂津、大阪)で1万5千ほどの兵を有していたわけです。普通に考えれば「織田信孝が天下に一番近かった」はずです。「大返し」などしなくても、大阪にいるのです。細川藤孝・筒井順慶などを誘い込み、明智討伐だって「可能性としてはできた」はずです。

ところが「兵がほとんど逃げた」とされています。信孝一人ならまだ分かりますが、丹羽長秀だっていたのです。それで秀吉の到着をまって山崎の戦いとなります。「兵がほとんど逃げた理由」に興味が湧きます。当時は兵集結地の住吉におらず、岸和田にいたからという記事がありましたが、渡海の当日に本拠地を離れるものでしょうか。もう少し調べてみたいと思います。

大河の中の上杉謙信・上杉景勝・直江兼続・上杉家・米沢藩

2019年01月21日 | 上杉謙信
上杉謙信

これだけ高名で、戦国最強説もありながら、大河ドラマで主役になったのは「たった一回」。それも私も覚えていないほどの昔です。石坂浩二さんの「天と地と」。

正義の人過ぎて面白くないのか。衆道(確証はなし、それに衆道なんて信長だってやっていた)がいけないのか。理由はわかりません。信玄が主人公の場合は副主人公にはなります。柴田恭兵さんとかガクトさんが演じました。

上杉家そのものは大変古い家です。足利尊氏の母が上杉氏です。謙信の若い時代、越後の守護は上杉定実(さだざね)でした。が、跡継ぎなく死んだため、将軍義輝は長尾景虎を守護並みにします。この長尾景虎が上杉謙信です。もっとも守護になる前から権力そのものは長尾家にありました。

上杉謙信は大層な酒好きで、50歳を前に、おそらく脳溢血であっけなく死んでしまいます。西に向かって動き出した時でした。そのあたりは「天地人」で描かれました。役者は阿部寛さんです。

毘沙門天に誓って女色を断っているわけですから、当然子供がいません。しかも悪いことに跡継ぎを指名していませんでした。そもそも越後だって一枚岩ではなく、派閥はありました。で、謙信の甥の上杉景勝を押す一派と、北条家からの養子の上杉景虎を押す一派で跡目争いが起きます。御館の乱です。これによって上杉家の力は相当落ちました。これも「天地人」で詳しく描かれています。どこまで史実かは微妙ですが。

「真田丸」に出てきた上杉景勝(遠藤憲一)は少し情けないところがありました。御館の乱によって謙信時代の上杉家の威光はもはやなくなっていたからです。「真田丸」は描きませんでしたが、織田信長に攻撃され、本能寺がなければ、おそらく滅亡していたでしょう。

重臣の直江兼続が頑張って、本能寺後の動乱をなんとか乗り切ります。豊臣秀吉からは江戸の抑えとしてか、会津120万石をもらいます。その前の越後時代は40万石程度でした。ちなみに謙信時代は最大で150万石程度(計算によって様々、商業収入も多かった)と言われています。

関ヶ原段階での行動は疑問が多いと思います。前田家が回避した家康の挑発を何故回避しなかったのか。直江状は本物なのか。そもそも徳川家と本気で戦うつもりだったなら、何故無理してでも軍勢を西に向けなかったのか。家康を挟み撃ちにするという作戦(存在したか分からないが)は机上のものとなり、結局は伊達と一生懸命に戦うはめになっています。

直江兼続は「天地人」でもなんでもなく、一生懸命上杉家の生き残りを図った人としか言えないような気がします。

それでも生き残りはできて、結局30万石になります。米沢藩です。しかし比較的早期に家督断絶によって改易の危険が生じます。が、徳川家光の弟、保科正之の助けで、なんとか家は存続します。しかし15万石に減封されました。江戸末期は19万石だそうです。

大河に上杉が登場するのは戦国時代だけではありません。徳川綱吉時代の「忠臣蔵もの」でも登場します。吉良の実子が上杉家の養子になって、上杉を継いでいたからです。親父を守ろうとして上杉綱憲は騒ぐが、重臣に止められる。というのがお決まりのシーンです。

もう一人、米沢藩には9代上杉鷹山というスターがいますが、大河に出たことはありません。大河にしても「道徳劇」みたいになってしまうからかも知れません。

真田昌幸と織田信長

2019年01月21日 | 歴史
真田昌幸(信繁=幸村の父)と織田信長を比べるのは「視点がおかしい」とは思います。真田昌幸はあれだけの謀略を使いながら、せいぜい6万石程度の領地しか持たなかった人間です。信長とはスケールが違います。年齢も信長が13歳ぐらい「年上」です。さらに言えば一時ですが、昌幸は織田家に臣従もしています。

が「真田太平記ファン」の私としては「つい比べてみたくなる」わけです。伊達政宗が「東北に生まれず、しかも信長と同世代だったら天下をとっていた」とは思いません。なにかというと伊達政宗は天下を狙っていたことにされますが、彼の一生を見る限り、そんなそぶりはありません。娘婿の「松平忠輝」が徳川宗家に「かなり警戒」されていたので、それが理由となって「松平忠輝を擁して天下に号令しようとした」とされることもありますが、「伝説」と言えましょう。伊達政宗は徳川幕府に対し実に忠実です。

同じように「真田昌幸が信濃に生まれなかったら天下をとれた」というのも「伝説」です。それと「分かりつつ」書いています。

真田昌幸の「不幸」は「主君武田家がしっかりしていた」ということです。下克上を起こそうにも、そんなスキは勝頼時代だってありません。信長の場合、父の代ですでに「主君は力を失って」いたわけです。斯波氏ですね。信長は「尾張を受け継いだわけでない」わけで、父の作った土台の上で、「自分で尾張を統一した」のですが、「主君が武田のように強大だったら」、無理だったでしょう。ちなみに斯波氏を滅ぼして尾張を統一したとは言えず、織田家同族との争いが主でした。

信長も昌幸も「小さな領地を継承した」点では同じですが、信長が「自由に振舞えた」のに比べ、昌幸にはそんな自由はなかったわけです。自由が欲しいとも思わなかったかも知れません。なにせ主君が武田信玄です。強大過ぎます。それに昌幸は信玄近習なわけで、下克上なんて発想そのものがなかったと考えられるわけです。

しかしその武田も滅び、昌幸は「ある種の自由」を得ます。しかし周りを見渡せば「織田→豊臣の勢力」「勢力を増した徳川家」「関東の覇者北条家」「衰えたと言えど強大な上杉家」に囲まれているわけです。彼が「本領安堵」、つまり「もともと持っていた領地を保全したい」と考えるのも当然です。どう見てもそれが「限界」だからです。

しかも彼の生まれた土地は「信濃」です。畿内で起きていたような下克上は「既に終わって」いました。信玄時代を見るならば「上杉」「武田」「北条」「今川→徳川織田」で周囲はがっちり固められていました。(北条早雲が下克上のはしり、武田信玄は父を追放、上杉謙信はもともとは長尾氏ですが、それら下克上は既に終わっていたわけです)

それに比して信長の周りにいた大名は「名門」でした。本拠の尾張は斯波氏。周囲には六角氏(佐々木氏)、北畠氏。古いけどやや力が弱い名門です。美濃は脅威でしたが、道三の娘をもらうことにより、解消します。もっとも道三死後は「最初の最大の敵」となりました。しかし美濃を攻略し、この時点で尾張+美濃、領国は100万石を超えます。しかも交通交易の要衝です。「美濃を制するものは天下を制する」とまでは言えないと思いますが(司馬ファンとしては言いたいのですが)、「日本の中心地帯の一部」であることは間違いないと思います。

しかも畿内では下克上の風潮が満ち満ちていました。浅井氏なんても「新興勢力」ですし、三好や松永など「下克上の権化」みたいな存在もいました。さらに本願寺勢力、これも「新興」と言えば新興です。

信長の力が真田昌幸をはるかに凌駕していたのは間違いありません。ただ「生まれた土地が良かった」のもまた間違いないと思います。

2020年大河ドラマ・麒麟がくる・キャスト予想・一覧・加筆版

2019年01月20日 | 麒麟がくる

NHK発表を踏まえた最新版はここにあります

主人公は「明智光秀」、主人公並みの重要人物は「斎藤道三」「斎藤利三」「織田信長」「細川藤孝」「今川義元」「織田信秀」「松永久秀」「足利義昭」「今井宗久}と思われる。

信長と光秀が「盟友である」という設定は、NHKが公表している。信長の親の世代を描く意図、主人公たちの青春時代を描く意図も発表している。従って全体に俳優の年齢が若くなっている。

齋藤道三の死去は1556年・桶狭間の戦いは1560年・信長の上洛戦は1568年・義昭追放は1573年・本能寺の変は1582年・関ヶ原の戦いは1600年

主人公・明智光秀関連

明智光秀(1528-1582 早くに両親を亡くし、祖父光継に育てられた、道三に仕え、道三死去後、信長と盟友となる、諸国を遍歴、乱世収拾の道を探る)・・・長谷川博己
明智煕子(没1576 あけちひろこ、光秀の妻)・・・吉岡里帆
明智光継(光秀の祖父、光秀の育ての親、武芸に秀でている)・・・近藤正臣
明智牧子(史実では名前不詳、光秀の祖母・京都公家出身、教養が深い)・・・松坂慶子
明智光慶(史実を変更)(あけちみつよし、光秀の長男、学説では死んだ時まだ14歳であるため、それを24歳と設定する。光秀と信長の連絡係として活動したことにする)・・・神木隆之介
明智光安(1500-1556 美濃明智城主、明智家家督、道三正室の兄)・・・平山浩行
明智倫(史実では名前不詳、光秀の長女、荒木村重室→明智光春室)・・・山本美月
明智宝子(史実では名前不詳、光秀の四女、信長の従弟である津田信澄の正室)・・・橋本環奈
明智左馬助光春(1536-1582 明智秀満 光秀の女婿にして重臣)・・・山崎賢人
明智珠(1563-1600 あけちたま 光秀の三女、細川ガラシャ、細川忠興正室、関ヶ原の混乱の中で死去)・・・桐谷美玲
明智光忠(光秀の従弟、光秀重臣)・・・浅利陽介
齋藤利三(1534-1582 光秀腹心の部下、春日局の父)・・・ムロツヨシ
溝尾庄兵衛(1538-1582 溝尾茂朝 光秀重臣、光秀と共に討ち死)・・・斎藤工
藤田行政(1582没 光秀の古参の重臣)・・・佐藤二朗
細川藤孝(1534-1610 細川幽斎、はじめ光秀とともに足利義昭擁立に尽力する。のち織田信長に仕え、光秀の与力武将となる。古今伝授を受けた歌人)・・・向井理
細川忠興(1563-1646 細川幽斎の嫡子、細川ガラシャの夫、関ケ原で功を立て、肥後細川家の基礎を築く)・・・溝端淳平
京極高次(1563-1609 衰退した北近江の守護家に生まれる 本能寺後光秀に協力 のち許され豊臣家→徳川家 妻は淀殿の妹である初、妹は秀吉側室)・・・勝地涼
上泉信綱(1508-1577 柳生新陰流の祖、諸国を遍歴して、槍術、剣術を広めた。一時美濃に滞在し、光秀に槍術剣術を指南、将軍義輝の剣術信南、光秀と義輝をつなぐ)・・・真田広之
伊丹新之助(架空の人物)(商人ではあるが武術の達人、その自由な生き方が光秀に大きな影響を与える)・・・オダギリジョー

齋藤道三関連

齋藤道三(1494-1556 斎藤利政、美濃国主、土岐頼芸より美濃を奪取した。天下取りの野望を光秀と信長に託す)・・・遠藤憲一
長井新左衛門尉(生没年不詳、ながいしんざえもんのじょう、道三の父。はじめ京都妙覚寺僧侶、還俗して京の油屋山崎屋に入り婿し、その財力を背景に国盗りを目指して美濃土岐家の家臣となる)・・・松重豊
お万阿(架空の人物)(おまあ、道三父の京都の妻、道三の母ではない。京都の豪商、油屋山碕屋の女主人)・・・井川遥
土岐里子(架空の人物)(土岐家支流の娘、道三の母)・・・黒木瞳
深芳野(みよしの、道三の側室、もとは土岐頼芸側室、斎藤義龍の母)・・・麻生久美子
小見の方(1513-1551 おみのかた、道三正室、明智光安の妹、濃姫の実母)・・・広末涼子
竹中半兵衛(1544-1579 天才的軍略家、幼少時は道三の薫陶を受ける、神童と言われ12歳で道三の軍略を受け継ぐ、斎藤家家臣→信長家臣、秀吉の与力)・・・志尊淳
齋藤義龍(1548-1573 道三の子、実は土岐頼芸の子とされることもある、長良川の戦いで道三の首を奪う)・・・城田優
赤兵衛(架空の人物)(元妙覚寺の寺男、道三の父の最古参の腹心、道三にも仕えた)・・・(華丸大吉の華丸)
稲葉一鉄(1515-1589 西美濃三人衆の一人、土岐家→斎藤家→織田家→豊臣家、娘は斎藤利三室、春日局の祖父)・・・安田顕
猪子兵助(1546-1582 いのこひょうすけ、道三の小姓、道三没落後、織田信長に仕える)・・・濱田岳
土岐頼芸(1502-1582 ときよりよし、もと美濃国国主・道三により尾張に追放される)・・・小日向文世
日運上人(1484年生、美濃常在寺住職、長井氏出身、道三の父とは妙覚寺で同学)・・・温水洋一
天堂玄隆斎(架空の人物、てんどうげんりゅうさい)(道三の武術指南、槍術の達人)・・・仲代達矢
山崎屋いろは(架空の人物)(道三の父とお万阿の間に生まれた娘、道三の異母妹、やがて油屋山崎屋女主人となる。京都における信長、光秀の指南役として大きな存在感を発揮する)・・・常盤貴子

織田信長関連

織田信長(1534-1582 初めは道三とは対立、が濃姫と婚姻後、道三と手紙で交流、道三の野望を受け継ぎ天下人を目指すことになる)・・・山田孝之
☆信長については「保守的、中世的側面を強調、経済政策に優れていた点も強調される」とNHKが発表している。
織田信秀(1511-1552 信長の父、京都志向がある教養人にして強き武人、道三と幾度も戦うが結局美濃を奪うことはできなかった)・・・西島秀俊
織田信定(没1538 清州織田家に仕えた奉行、織田信秀の父、信長の祖父、信秀の尾張制覇の野望に賛同できぬものの黙認、隠居する)・・・大和田伸也
濃姫(1535生誕、没年不詳 斎藤帰蝶、信長正室、道三の娘、母は小見の方、幼き頃は光秀に淡い恋心を抱いていた)・・・新垣結衣
お市(1547-1583 信長妹、浅井長政正室、淀君の母、お江の母、豊臣秀頼、徳川家光の祖母、長政没落後、柴田勝家に嫁ぐ)・・・北川景子
土田御前(没年1594 信長の母、信長の才能を実は見抜いていた、息子である織田信行の謀反を心配している)・・・水野美紀
織田信忠(1557-1582 信長の嫡子、幼名は奇妙丸、織田家家督を継ぐ、本能寺の変にて討ち死)・・・竹内涼真
生駒吉乃(1528-1566 いこまきつの、信長側室、信忠、信雄、徳姫の実母ということになっている、穏やかな性格で濃姫との関係も悪くない)・・・満島ひかり
織田信行(没年1558 信長弟、信長と家督を争い、謀殺される)・・・三浦春馬
織田長益(1547-1622 おだながます、織田有楽斎、信長弟、信秀の11男、茶人、東京都有楽町は彼に由来する)・・・坂東巳之助
柴田勝家(1522-1583 織田家重臣、通称権六、織田家家督に信行を推した過去を持つ)・・・市原隼人
木下藤吉郎(1537-1598 後の豊臣秀吉)・・・大泉洋
木下寧々(1548-1624 秀吉妻、のちの北政所)・・・夏帆
前田利家(1539-1599 織田家家臣、柴田勝家の与力武将、秀吉とも親しく、のち加賀前田100万石の当主となる)・・・山崎樹範
前田まつ(1547-1617 前田利家正室、芳春院、「加賀100万石は芳春院でもつ」と言われた)・・・瀧本美織
森蘭丸(1564-1582 信長小姓、信長より5万石を与えられた、本能寺にて討ち死)・・・加藤清史郎
夕顔(架空の人物)(信長、光秀に情報をもたらす女忍び)・・・栗山千明
丹羽長秀(1535-1585 織田家方面司令官の一人、秀吉政権で一時は120万石、その後減俸、子孫は二本松藩主となり、明治まで続く)・・・塚本高史
滝川一益(1525-1586 織田家方面司令官の一人、関東担当、秀吉と戦うも、のちお伽衆となる。子孫は江戸幕府で旗本)・・・甲本雅裕
佐久間信盛(1528-1582 織田家司令官の一人、本願寺担当、のち信長に追放される)・・・戸次重幸
池田恒興(1536-1584 織田家重臣、信長とは乳兄弟、子の輝政は初代姫路藩主)・・・窪田正孝

戦国武将・その他
武田信玄(1521-1573 52歳で死去、甲斐の戦国大名)・・・草刈正雄
山本勘助(半ば架空の人物、甲陽軍鑑や古資料にみられるが、完全なる確証はない、信玄の軍師として高名)・・・荒川良々
武田信虎(1494-1574 甲斐国主、息子の武田信玄によって今川に追放された。信玄より少し長く生きた)・・・角野卓三
上杉謙信(1530-1578 48歳で死去、越後の戦国大名)・・・井浦新
上杉景勝(1556-1623 67歳で死去、上杉藩初代藩主、越後→会津→米沢、関が原により120万石から30万石に減俸)・・・玉山鉄二
今川義元(1519-1560 41歳で死去、駿河の戦国大名、領地経営に優れていた、桶狭間の戦いで戦死)・・・滝藤賢一
北条氏康(1515-1571 56歳で死去 相模国の戦国大名、後北条氏三代目当主、謙信・信玄と互角に戦った)・・・鈴木浩介
北条氏政(1538-1590 52歳で死去 相模国の戦国大名 後北条氏四代目当主、東国の覇者 秀吉に最後まで抵抗する)・・・市川猿之助
浅井長政(1545-1573 28歳で死去、北近江の戦国大名、お市の最初の夫、のちに信長と対立、豊臣秀頼、徳川家光の祖父)・・・賀来賢人
朝倉義景(1533-1573 40歳で死去、あさくらよしかげ、越前の戦国大名、光秀は信長と謀り、越前の状況を探るべく、一時義景のもとに身を寄せていた)・・・中村七之助
六角承禎(1521-1598 77歳で死去、六角義賢、近江の戦国大名、信長上洛戦にて敗退、その後も信長と交戦、晩年は秀吉の保護を受ける)・・・要潤
本願寺顕如(1543-1592 一向一揆の総本山石山本願寺住職、浄土真宗本願寺派宗主、10年以上信長と激しい戦いを繰り広げる)・・・伊勢谷友介
三好長逸(1573年前後に死去か、みよしながやす、将軍義輝を暗殺した三好三人衆の一人、畿内で三好政権ともいわれる勢力をほこった。信長上洛で逃亡するが、その後も本願寺と連携、信長と戦う)・・・松田龍平
波多野秀治(没1579 八上城城主 光秀の丹波攻略時の敵将)・・・相島一之
荒木村重(1535-1586 信長家臣、信長より摂津一国の経営を任される。光秀の娘と村重の息子は婚姻関係にある。のち信長に謀反して失敗、しかし生き延びる)・・・六角精児
筒井順慶(1549-1584 大和国大名、のち信長に臣従、光秀の与力となる。妻は信長の娘である)・・・柄本佑
ルイスフロイス(1532-1597 ポルトガルの宣教師、足利義輝、織田信長の保護のもとで布教、著書「フロイス日本史」を残す)・・・ピーターフランクル(数学者にして大道芸人)
松永久秀(1508-1577 69歳で死去、畿内を実質的に治めていた三好家の重臣、やがて主君を上回る力をつけていく。信長以前に天下統一を夢みた梟雄。)・・・稲垣吾郎
足利義輝(1536-1565 29歳で死去、足利幕府13代将軍、三好三人衆によって御所で暗殺される、剣豪でもあり、多くの寄せ手を斬り殺した)・・・中村獅童
足利義昭(1537-1597 60歳で死去、足利幕府15代将軍、信長が将軍に擁立、のち信長と対立。信長包囲網の中心人物となる。晩年は秀吉の保護を受けた)・・・松坂桃李
雑賀孫一(史実不詳)(さいかまごいち、紀州雑賀衆の頭目、またの名を「尻くらえ孫一」、鉄砲隊によるゲリラ戦を駆使して信長の雑賀侵攻を退け、「信長、わが尻をくらえ」と言い放つ)・・・椎名桔平
近衛前久(1536-1612 関白、太政大臣、信長と親交があった)・・・田中哲司
徳川家康(1543-1616 73歳で死去、三河遠江の戦国大名)・・・野村萬斎
今井宗久(1520-1593 堺の豪商、会合衆、信長の経済戦略の要となった人物)・・・高橋一生

最後にお知らせ

言うまでもなく「予想キャスト」です。なんだか全員が「主役級」になってしまいました。カッコ内の解説は6割ぐらいが史実です。4割は「設定」ということです。縁戚関係については故意に嘘は書いていません。間違っていたら私が浅学であるせいです。そもそも戦国の人物については、資料の正確さに問題があり、縁戚関係についてすら確定的なことを言うことはほとんどできません。主人公の光秀の前半生を、もし誠実に書くとしたら、「ほとんどわからない」ということになると思います。なお、1540年ぐらいからを描くようです。そうなると武田信玄(晴信)ですらまだ19歳です。となると大御所役者ではなく若い俳優となるはずです。つまり全体に比較的若い俳優の起用ということになると予想しています。

大河ドラマ「いだてん」の時代 

2019年01月20日 | ドラマ
いきなりですが、「なんとなく見たくない」作品です。積極的に見たい理由がないわけです。ということで「早送り」で一応見てます。

なんとなく見たくない理由

1、そもそも金栗四三、田畑政治なんて知らない。
2、オリンピック商法に乗せられたくない。国策ドラマか!とか思う。
3、朝ドラの大河版のような気がする。

となります。

さらに見たくない理由は「時代背景」でしょう。

たぶん金栗四三の幼少時代、1900年頃から東京オリンピック1964年までを描くのでしょう。明治30年代中頃から昭和39年までです。

時代的には日露戦争→日韓併合→大正デモクラシー→軍部の台頭→日中戦争→第二次世界大戦→朝鮮戦争→高度成長の始まり、ということになります。

たぶん「時代の暗黒面はさほど描かない」でしょうから、日露戦争の興奮、ストックホルム五輪、そして大正の雰囲気を明るく描き、戦後復興を描くということになるのかな、と思います。

日露戦争の「勝利?」から日本はちょっとおかしくなり、日韓併合を経て、軍部の台頭となるわけです。「強大な軍隊を持ったので、戦争せざる得なくなった時代」です。戦争が起きる理由は色々ですが、一つの有力な説として「軍人と軍隊が強大となると、使わないわけにいかなくなる」という説があり、これは説得力を持っていると僕は考えています。むろん主原因は「経済」です。

1910年から1945年までの日本を司馬さんは「別国」と呼びますが、そんな時代です。

目をそむけてはいけないけれど、そむけたくなる時代、というのが個人的イメージです。後半は戦後復興でしょうが、「昭和復興伝説」も僕はあまり好きじゃありません。

あまり見たくない最大の理由は「そもそも金栗四三、田畑政治なんて知らない。」ということですが、「いだてんの時代」がどうも僕は苦手です。

メゾン・ド・ポリス感想 近藤正臣さん・野口五郎さん・角野卓三さん・小日向文世さん・西島秀俊さん・西田尚美さん

2019年01月20日 | ドラマ
日本の刑事ドラマはほとんど見ないのですが、配役に惹かれて、「メゾン・ド・ポリス」を見てみました。

主役は高畑充希さんですが、本当の主役は「引退したおっさん刑事」でしょう。

近藤正臣さん・野口五郎さん・角野卓三さん・小日向文世さん、それに事情があって引退したらしい西島秀俊さんです。

新米で所轄では相手にもされていない刑事の高畑さんが、おっさんたちと組んで事件を解決します。

なぜ「おっさんと組めるのか」というと近藤さんが「元警視副総監」だからです。もちろん実際には元警視総監でも「事件資料」なんて見られるわけありませんが、そこは「ドラマ」です。

高畑さんが「浮いていない」のがよいと思います。美人過ぎることもなく、背も低い。「こんな美人刑事いるもんか」という感じが全くありません。たとえば美人の北川景子さんだったら、相当浮いた感じになるでしょう。

野口五郎さんは俳優として実に魅力的で、たとえば「ケイゾク」などでは準主役です。アサクラ役ですね。もっと彼を使うべきだと思います。

近藤さんの演技は実に安定しており、味もあり、超一流でしょう。角野さんや小日向さんも超一流です。

西島さんは「相変わらず西島さん」という感じですが、主役ではないので、肩の力も「少しはとれて」、いい演技をしています。

個人的にはもう一人の主キャストである西田尚美さん。非常に好きな女優さんなので、彼女が出ているだけでも見ていられます。

西田さんは高畑刑事に質問します。「なんで刑事になんかなったのか」。高畑さんはこう答えます。「ドラマをみて憧れて」

「じゃあ、あれか、ストロベリーナイト、竹内結子か」
「いえ、沙粧妙子・最後の事件」
「なんだー、浅野のゆう子かよー」
「温子の方です」
「どっちでもいいんだよ」

西田さんの魅力全開です。もっとも彼女、こうした男まさりの演技だけでなく、「白夜行」で見せたような「情念の演技」もできる人です。それにしても「沙粧妙子・最後の事件」の名が出たのにはびっくり。1995年ですから、高畑さんが産まれた頃の「素晴らしい作品」です。高畑さん、1991年生まれみたいですから、正確には4歳。

キャストを考えた人は「よく考えたなー」と思います。高畑さんの相方が「名前も知らないイケメンの若手」だと、いっきに見る気もうせるのですが、そうはなっていません。唯一のイケメン担当が木村了さんみたいですが、若手でもないし、そんなにイケメンでもありません。

事件は「日本の刑事物らしく」、「まあ簡単な構造」ですが、それでも人々の感想など見ると「凝っている」という人もいる。私には多少「わかりやすすぎて」というところです。私が基本日本の刑事ものを見ない理由はこの「簡単すぎる」という点ですが、それでも「日本のドラマとしてはそこそこ複雑」なのでしょう。

実際、犯人が誰かなんてどうでもいいのです。そもそも「ゲスト犯人制度」ですから、ちょっと有名な俳優さんがゲストなら、その人が犯人です。ストーリーはあまり気にしません。ただキャストたちの演技を見ているだけで楽しめます。

補足 第一回のゲストは手塚里美さんでした。12歳ぐらいの時から知ってます。役の設定もあるのですが、年取ったなーと思いました。