散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

上野千鶴子氏・村上春樹氏のスピーチを読んで。

2019年04月22日 | 哲学
上野千鶴子氏の東大入学式での祝辞が話題になっています。遅ればせながら、全文を読んでみました。上野氏の研究は大学時代から読んではいました。私はもともと「反差別」的な人間で、あの頃は「当然のことを言っている」程度にしか思いませんでした。つまり性差別が歴然としてあること。それに抵抗する必要があること。私は男性ですが、日頃からそうした問題を考えていたので、上野氏の主張が、特に目新しい考えとは思わなかったのです。

その後時代は変遷し、私はすっかり安心していました。もはや男より女の方が強い時代だ、ぐらいに考えていたのです。しかし上野氏のスピーチを読み、新たな形の性差別が発生していることが分かりました。わたしの「安心」には油断がありました。

これは韓国との関係も同じで、金大中大統領ぐらいの時代に、私はすっかり安心していました。もう韓国朝鮮差別はなくなり、これから友好的な未来が待っていると思っていたのです。これは全くの間違いでした。

上野氏は言っています。

あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。女性学を生んだのはフェミニズムという女性運動ですが、フェミニズムはけっして女も男のようにふるまいたいとか、弱者が強者になりたいという思想ではありません。フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です。

「自分の弱さを認め」からの部分が特に心に残ります。その前だけなら、「あなたたちは優れた強者なのだから、弱者をいたわれ」となってしまいますが、自分も弱者であることを認めよという考えには大変な共感を覚えます。

そして村上春樹氏のイスラエルでのスピーチを思い出しました。

もし、硬くて高い壁と、そこに叩きつけられている卵があったなら、私は常に卵の側に立つ。

多かれ少なかれ、我々はみな卵なのです。唯一無二でかけがいのない魂を壊れやすい殻の中に宿した卵なのです。それが私の本質であり、皆さんの本質なのです。そして、大なり小なり、我々はみな、誰もが高くて硬い壁に立ち向かっています。その高い壁の名は、システムです。本来なら我々を守るはずのシステムは、時に生命を得て、我々の命を奪い、我々に他人の命を奪わせるのです-冷たく、効率的に、システマティックに。

上野氏の考えとの共通部分が多いと思います。

そしてこれはあえて誰からの引用かを書きませんが、こんな言葉も思い出しました。

<知識>にとって最後の課題は、頂きを極め、その頂きに人々を誘って蒙をひらくことではない。頂きを極め、その頂きから世界を見おろすことでもない。頂きを極め、そのまま寂かに<非知>に向かって着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の<知>にとっても最後の課題である。

この最後の引用は前の2つの引用とは、主題を異にします。さらにやや過剰に哲学的であり、わかりにくい表現でもあります。しかし私の中では、この3つの引用は、互いに深く関連しているように思えてならないのです。

若い頃、あれほど読んでいた社会学の本も、村上春樹氏の本も、今の私にとっては遠い存在になっています。それを近くして、昔のように読み進めることはたぶんできませんが、それでも「できる限りは」、狭くなった自分の視野を広げなくてはいけない。そんな気がしています。

善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや、、、の思い出

2018年12月15日 | 哲学
高校では「倫理社会」が一番好きでした、「倫理」とは道徳ではなく、実質的な内容としては「哲学と宗教」です。だから「哲学・宗教・社会」ということです。ギリシャ哲学とか仏教とかを教わります。

親鸞の歎異抄について知ったのも、この授業においてです。逆に言うなら、高校3年になるまで私は親鸞という人間をほぼ何も知りませんでした。

「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」、恩師の岡野先生は素晴らしく博識な方で、高校生向きの参考書なども出しておられました。「その参考書のみ」、今でも持っており、今私の膝の上にあります。

高校の時の記憶ではこう説明なさったと思います。「自分は善人だと思っている人間すら往生は遂げられる。まして自分を悪人だと思っている人間はなおさらである。」

ひどく興味深い内容だったので、高校生のバカな私は、バカなりに色々考えました。

そして、なんだか「無知の知」みたいだなと「ずっと」思っていました。ところが今日参考書を詳しく読むと、微妙に違っています。

「人間はどんなに努力をしても、しょせんは煩悩具足の凡夫であって、善人とはむしろ自覚の足りない人のことです」。なるほどと改めて思いました。

司馬さんに「浄土」という短文があります(以下無用のことながら所収)。司馬さんの解釈が載っています。

岡野先生の解釈に似ていますが、また微妙に違います。

「解脱できる人を善人と言っている」が前提で「親鸞はそんな人は絶無かめったにないと思っている。いくら学問があり、精神力があっても、解脱できる人間というのは、これは一千万人に一人です」

つまり人間はほぼ全て悪人である。そんな悪人でも往生はできる。それが司馬さんの解釈です。

司馬さんはもう一歩踏み込んで、善人、悪人というのは「倫理の問題じゃない」のだ。と言います。

ではなんで「倫理の問題」になってしまうのか。それはクリスチャンでもないのに、キリスト教的倫理意識をもって、というより西洋概念をもって物を見るからだ。悪人とはつまりは「普通の人」という意味だと書いています。

以下は余計な文章です。

大学時代、夏目漱石の「門」という「地味な小説」について考えたことがあります。素直によめば「門」が禅と深く関係する小説であることは高校生でも分かると思います。ところが私はずっと「門」とは「天国の門」だと思っていたのです。たしかに読んでいたはずなのに、「西洋概念で読もうとするから」、頭に霧がかかって全然読めていないのです。たしかに読んでいるのに、禅のことなんかちっとも考えられないのです。「先入観」とか「思い込み」、やや正確に書くと「なんでも西洋概念でとらえようとする囚われ」というのは、実に恐ろしいものだと思います。

さらに余計なことを書くなら、私は別に親鸞が偉大な思想家だとは思っていません。宗教とは哲学ではなく、もっとシンプルなものだというが今の私の考えです。「悟り」というのは単純に「心の平安」であると思います。なかなか得られないものです。「心の平安」が得られるなら、それがつまりは信心であって、キリスト教でもイスラム教でも仏教でもかまわない。誤解を恐れずに書くなら「金銭で心の平安が得られる」ならそれもまた「悟り」です。まあこれは非常に誤解を呼ぶ書き方ではありますが。

つまりは「心の平安」=悟りを得られるならいいわけで、「方法」は「極端に違法なもの」でなければ(覚せい剤とか、暴行とか)、基本なんでもいいのだ、と思います。少しラディカル(過激)に書くなら覚せい剤で心の平安を得ても悟りである、と書いてもいいのですが、永続性がないので、やはりそれは悟りとは言えないように思います。