見もの・読みもの日記

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ナショナル・ヒストリーの終わり/ポスト戦後社会(吉見俊哉)

2009-01-29 23:32:32 | 読んだもの(書籍)
○吉見俊哉『ポスト戦後社会』(岩波新書:シリーズ日本近現代史9) 岩波書店 2009.1

 最近、直近の現代史に真正面から取り組んだ本が目につく。それは、いわゆる「近代史」の枠組みでは、もう現在の社会状況を十分に論じ切れなくなっているためではないかと思う。

 本書は、「戦後」を「戦時」との連続性において把握し、1960年代の高度経済成長を「戦時期を通じて強化されてきた総力戦体制の最終局面」であったと考える。それでは「戦後」から「ポスト戦後」への転換は、いつ起きたのか。著者が参照するのは、見田宗介『現代日本の感覚と思想』である。見田は、70年代初めまでの「理想」および「夢」の時代に対して、80年代以降を「虚構」の時代と名づける。私は見田の本は読んでいないが、大澤真幸『不可能性の時代』も、同様に見田の時代区分を採用していた。

 本書の冒頭には「戦後社会」と「ポスト戦後社会」を象徴するアイテム(事件、キーワード)を手際よくまとめた対比表が掲載されている(ix頁)。たとえば、冷戦とポスト冷戦。重化学工業と情報サービス産業。永山則夫と宮崎勤。連合赤軍事件とオウム真理教事件、など。でも、いちばん重要なのは、福祉国家から新自由主義という舵の切り方(その裏面で進行するグローバリゼーション)だったのではないかと思う。

 そして、90年代以降、新しい段階を迎えた日本社会、それはもはや「ポスト・ポスト戦後」と呼ぶべきなのだろうか。グローバリゼーションの結果として、「日本」は、2つの異質な存在に分裂しつつある。片や、アジアを覆うグローバル資本としての「JAPAN」。片や、崩壊する地場産業や限界状況の農村を抱えてもがく「国土」――著者は、もともと政治経済の専門家ではないので「いかにも俄か勉強の域を出ない」と謙虚だが、多数の実例を踏まえ、無定見な開発行政が地域に残していったものを、冷静・詳細に記述しており、読み応えがある。さらに、日本の大衆文化の海外(特にアジア)進出、外国人労働力の流入が相まって、今や「日本」という歴史的主体は崩壊しつつあるのではないか、と著者はいう。

 確かに、私たちは「『日本史』がもはや不可能になる時代を生きている」のかもしれない。小森陽一・高橋哲哉らが『ナショナル・ヒストリーを超えて』というタイトルの本を出したのが1998年。あの本の趣旨は「如何にすれば(主体的に)ナショナル・ヒストリーを超えられるか」だったと思うが、結果的に、現実のほうが容赦なく先に行ってしまったような気がする。

 それでも、この絶望的に閉塞的な状況にもかかわらず「異なる複数の未来」があることを信じ、新しい歴史的主体を立ち上げていくことに希望を託して本書は結ばれている。困難の中でも、心に小さな灯がともるような読後感が嬉しい。学者の書く本はこうでなくちゃ。同じ著者が「戦後」日本社会を論じた『親米と反米』も併せてぜひ。

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