○天理ギャラリー 140回展『秋成-上田秋成没後200年によせて-』(2010年5月16日~6月13日)
前年秋の天理大学図書館の特別展が、この時期、東京の天理ギャラリーにやってくる。もはや恒例のお楽しみである。今年は、没後200年を迎えた上田秋成(1734-1809)の特集。そういえば、この夏は、京都国立博物館も特別展観『上田秋成』を企画している。私は、子どもの頃から怖い話、オバケの話が大好きだったので、「少年少女世界の名作文学」(小学館)以来の秋成ファンだが、一般にはマイナーな作家だと思っていたのに。大坂で生まれ、京・大坂で暮らした人物だから、関西人にはなじみ深いのだろうか。
展示品はおよそ70点。自筆原稿がずらずらあるのがすごい。あまり若い頃の筆跡はなくて、晩年の60~70代が中心だが、それでも少しずつ印象が違うのが面白い。食い入るように眺めたのは『春雨物語』富岡本(富岡鉄斎旧蔵本)。軸装である。秋成は、文化5年(1808)に成稿したこの小説集を、死に至るまで改稿し続け、後世には写本のみで伝わったという。へえ、じゃあ、最初の刊本が世に出たのはいつなんだろう。試しに「日本古典籍総合目録」を引いてみたら、確かに、写本と近代の複製本しか確認できなかった。
代表作『雨月物語』にも謎が多い。序の成立と刊行には8年の開きがあり、しかも非公許出版で、秋成は生涯、自分の作品であることを隠していたという。展示では「明和戊子」(1768年)と記された序文と「安永五歳」(1776年)の奥付が並べてあり、序文は「題曰雨月物語云剪枝畸人書」と結ばれている。それにしても、43歳の執筆から、76歳で死ぬまで黙っていたって、意固地にもほどがある。まあ、つきあいやすい人物ではなかったろうなあ、と思う。
その秋成が、ちょっと可愛さを見せるのは「茶」に対する熱中ぶり。古来の点茶よりも、ニューモードの煎茶が好みだったようだ。「茶は煎を貴とす。点は次也」と述べている。煎茶が道具の新調を喜ぶのは「清きをつとむる」ためだが、点家は「珍貴に耽りて」巨万の富を費やし、乱酒・博打と変わるところがない、と厳しい。
また、医術を修め、町医師でもあった秋成は、理系の発想・関心の持ち主だったように思う。著書『浅間煙』では、天明3年の浅間山の噴火が、祟りなどではなく、地中の火脈が影響したものだと、本草学者・稲生若水の説に拠って説く。間重富(1756-1816)から書斎の名を乞われて、「仰観俯察之室」という名を贈っているが、その書簡では、中国の天文学・暦学の歴史を古代から同時代まで詳細に語っている(ようだ)。「明の末の代にいたりて、又西洋の人の来たりしに習ひ伝えてしより、崇禎の暦書ありき」かな? この資料には、残念ながら全文翻刻がついていなかったので、なんとか自力で読み解こうとした。「清の代にかはりて康煕の帝、欧羅巴の国人を…観象台にこころみさせて…霊台儀象志をはじめに」…うーん、ギブアップ。でも、20以上も年下とは言いながら、のち寛政の改暦事業にも参加した天文学者の間重富に、中国天文学史を縷々解説しているのだから、いい度胸である。秋成って、自分のことを医者あるいは科学者と思っていて、文学者とは思っていなかったんじゃなかろうか。
他人と異なる生まれ育ちのせいもあって、かなりの偏屈者だったらしい秋成だが、妻(瑚尼)をはじめ、周囲の人々との間には、暖かい交流が感じられる。さびしがりやだから文句が多いけど、そんなに不幸ではなかったんじゃないかな。76歳(没年)の作の長歌の結び「老ひて今こそ世にはまじはれ」が心に沁みる。
※黌門客(個人ブログ):漆山本春雨物語のこと
なんと、昨年末に高田衛さんの『春雨物語論』が出ていたのか。
前年秋の天理大学図書館の特別展が、この時期、東京の天理ギャラリーにやってくる。もはや恒例のお楽しみである。今年は、没後200年を迎えた上田秋成(1734-1809)の特集。そういえば、この夏は、京都国立博物館も特別展観『上田秋成』を企画している。私は、子どもの頃から怖い話、オバケの話が大好きだったので、「少年少女世界の名作文学」(小学館)以来の秋成ファンだが、一般にはマイナーな作家だと思っていたのに。大坂で生まれ、京・大坂で暮らした人物だから、関西人にはなじみ深いのだろうか。
展示品はおよそ70点。自筆原稿がずらずらあるのがすごい。あまり若い頃の筆跡はなくて、晩年の60~70代が中心だが、それでも少しずつ印象が違うのが面白い。食い入るように眺めたのは『春雨物語』富岡本(富岡鉄斎旧蔵本)。軸装である。秋成は、文化5年(1808)に成稿したこの小説集を、死に至るまで改稿し続け、後世には写本のみで伝わったという。へえ、じゃあ、最初の刊本が世に出たのはいつなんだろう。試しに「日本古典籍総合目録」を引いてみたら、確かに、写本と近代の複製本しか確認できなかった。
代表作『雨月物語』にも謎が多い。序の成立と刊行には8年の開きがあり、しかも非公許出版で、秋成は生涯、自分の作品であることを隠していたという。展示では「明和戊子」(1768年)と記された序文と「安永五歳」(1776年)の奥付が並べてあり、序文は「題曰雨月物語云剪枝畸人書」と結ばれている。それにしても、43歳の執筆から、76歳で死ぬまで黙っていたって、意固地にもほどがある。まあ、つきあいやすい人物ではなかったろうなあ、と思う。
その秋成が、ちょっと可愛さを見せるのは「茶」に対する熱中ぶり。古来の点茶よりも、ニューモードの煎茶が好みだったようだ。「茶は煎を貴とす。点は次也」と述べている。煎茶が道具の新調を喜ぶのは「清きをつとむる」ためだが、点家は「珍貴に耽りて」巨万の富を費やし、乱酒・博打と変わるところがない、と厳しい。
また、医術を修め、町医師でもあった秋成は、理系の発想・関心の持ち主だったように思う。著書『浅間煙』では、天明3年の浅間山の噴火が、祟りなどではなく、地中の火脈が影響したものだと、本草学者・稲生若水の説に拠って説く。間重富(1756-1816)から書斎の名を乞われて、「仰観俯察之室」という名を贈っているが、その書簡では、中国の天文学・暦学の歴史を古代から同時代まで詳細に語っている(ようだ)。「明の末の代にいたりて、又西洋の人の来たりしに習ひ伝えてしより、崇禎の暦書ありき」かな? この資料には、残念ながら全文翻刻がついていなかったので、なんとか自力で読み解こうとした。「清の代にかはりて康煕の帝、欧羅巴の国人を…観象台にこころみさせて…霊台儀象志をはじめに」…うーん、ギブアップ。でも、20以上も年下とは言いながら、のち寛政の改暦事業にも参加した天文学者の間重富に、中国天文学史を縷々解説しているのだから、いい度胸である。秋成って、自分のことを医者あるいは科学者と思っていて、文学者とは思っていなかったんじゃなかろうか。
他人と異なる生まれ育ちのせいもあって、かなりの偏屈者だったらしい秋成だが、妻(瑚尼)をはじめ、周囲の人々との間には、暖かい交流が感じられる。さびしがりやだから文句が多いけど、そんなに不幸ではなかったんじゃないかな。76歳(没年)の作の長歌の結び「老ひて今こそ世にはまじはれ」が心に沁みる。
※黌門客(個人ブログ):漆山本春雨物語のこと
なんと、昨年末に高田衛さんの『春雨物語論』が出ていたのか。
私は、近世文学が専門ではないのですが、某先生のゼミで、秋成の書簡文「文反故(ふみほーぐ)」を読まされ、これが難解で、大変なおもいをしたことがありました。
注記、参考文献などのしっかりした記事で、たいへん勉強になりました。
高田衛さんは好きなので、『春雨物語論』もいずれ読んでみようと思います。