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見もの・読みもの日記

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文豪の長男/耄碌寸前(森於菟)

2010-11-27 23:52:16 | 読んだもの(書籍)
○森於菟著、池内紀解説『耄碌寸前』(大人の本棚) みすず書房 2010.5

 50歳を迎えると「老い」とか「晩年」という言葉に自然と目がとまる。未体験のワンダーランドの入口に立って、興味津々という心境である。それにしても「耄碌(モウロク)」ねえ。みんな嫌な顔をするけれど、きれいな漢字だなあ、と思いながら手に取った。

 森於菟さんの名前は、文豪・森鴎外の長男として認識していたが、才気煥発な妹たちに比べると、なんとなく影の薄い存在で、文筆家として意識したことはなかった。にもかかわらず、本書に手が伸びたのが、愛書家のエッセイスト・池内紀氏が解説を書いており、「老いをめぐって書かれた古今の文のうち、『耄碌寸前』はもっとも秀抜な一つにちがいない」という讃嘆の言葉がオビを飾っていたためである。

 ぱらぱらとめくって、私は池内さんの言葉が嘘でないことをすぐに理解した。本書には、数ページから十数ページの短いエッセイ、21編が収録されているが、いずれも書き出しが秀逸なのである。「私は自分でも自分が耄碌しかかっていることがわかる」という『耄碌寸前』、「拝啓。お嬢さん、わたしは死体屋です」という『死体置場への招待』、あるいは端的に「明代末葉のころらしい」で始まる『魂魄分離』。以下、無駄な愛想を見せない文体から、じわじわと沁み出してくるユーモアに、たちまち魅了されてしまった。これぞ大人のエッセイ。

 話題は決して広くない。老い、父・鴎外のこと、家族、愛犬、そして解剖学。生前の父の思い出と、旧宅を相続した後の紆余曲折を記した『観潮楼始末記』はやや長文である。日露戦争から帰還した後、ロスケロスケと大声で語る父を見て「私は戦争の影響で繊細な父の感情が荒らされたように感じた」という、子どもながらに鋭敏な観察が興味深かった。また。鴎外の死後、貸家に出された観潮楼は、借主の質が次第に落ち、暴力団の抗争の舞台となって警官隊が踏み込んだりした挙句、著者が台湾に赴任中、借家人の過失で火を出し、全焼してしまったのだという。知らなかった。著者は憤ろしさに耐え切れず、夜の台北の街を咆哮して走り抜けたという、その「行動」を記すばかりで、複雑な内面の「感慨」には敢えて触れない。こういう抑制された筆づかいがとても好ましいと思う。

 日本の解剖学の黎明期の秘話もいろいろ。当時の学者、学生が、教材としての人骨を入手するために、どれだけ苦心惨憺したか。刑場に人骨を掘り出しに行くなど、法すれすれ(というか、はっきり違法)の行為も淡々と活写されていて、笑っていいのか、真面目くさって読むべきか、迷う。

 「家庭人鴎外の遺産というなら、第一に森於菟」という池内紀氏の言葉に、私は全面同意したい。森茉莉、小堀杏奴よりも、著者の枯れっぷりのほうが私の性分に合う。そして、こういう書物を、装いもあらたに世に出してくれた出版社(みすず書房)に深く感謝したい。造本も素敵。

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観潮楼 (成瀬功)
2013-04-01 10:49:29
「観潮楼」の運命について読み、何悲しくなりました。石川啄木、森鴎外、与謝野鉄幹、与謝野鉄幹との縁で担当したと言われる大逆事件の弁護した平出修・・錚々たる人物。
こうした人たちにお会いになった幼き日の森於菟さん。正岡子規が風呂ギライだったとは知らなかった。その人たちの思い出の詰まったお話も素晴らしかった。
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