○橋爪大三郎、大澤真幸、宮台真司『おどろきの中国』(講談社現代新書) 講談社 2013.2
刊行当初から気になる本だった。中国について著作の多い橋爪大三郎(1948-)氏はともかく、なぜ大澤真幸(1958-)と宮台真司(1959-)が?とフシギに思っていたら、あれよあれよで15万部を突破したそうなので、そんなに売れているなら読んでみることにした。
鼎談に先立つ2011年9月、大澤、宮台両氏は、橋爪大三郎氏とその奥様の張静華氏の案内で、上海、長沙、北京、天津等々を旅行し、名所旧跡に加えて、庶民の生活の場を訪ね、中国の学者と討論し、「何年も中国に滞在していたとしても、ここまで多くを見たり、いろいろな人に会ったりはしないだろう」というディープな旅を体験したという。それゆえ、本書には、中国問題の専門家だけに閉じた構えもないし、実態をかけ離れた無知な発言もない。大澤、宮台両氏が、体験や観察を踏まえて発する鋭い疑問に対し、主に橋爪氏が応答し、さらに社会学の理論に鑑みて、問題を一般化していく手法が取られている。どの議論もオープンで、新鮮な「おどろき」に満ちている。
何しろ、最初の宮台真司氏の問題提起が「そもそも中国は国家なのか?」である。いいなあ、この素朴で核心を突いた疑問。われわれは、ふつう国家といえば19世紀に誕生した国民国家を思い浮かべる。ところが「中国」というアイデンティティは、二千年以上前に作られた。最近の考古学的調査によれば四千年以上前の「夏王朝」で遡るとも言われている。ここで橋爪さんが、中国はEUみたいなもの(文中の表現は逆)という、また目からうウロコの落ちるような説明を返してくれる。なぜ中国はそんなに昔に中国になったかという質問は、なぜEUはこんなに遅くEUになったかという質問と裏腹である、と。おお~そんなこと考えたことがなかった。たぶん中国史を、中国あるいはアジアの中だけで考えている学者にはない発想だと思う。
中国人と日本人の行動原理について。中国人は「政治的リーダーは有能でなければならない」という第一公理を持っている。これは中国人が集団の安全保障を重視することと深い関係がある。日本人は「リーダーは有能でなくてよい(自分ががんばるからいい)」と考える。これはムラの論理、農民の論理で、安全保障は武士に預けてしまう。戦後日本は武士(軍隊)がいなくなったので、武士の役割をアメリカに外注した。とすれば、いまの日本を「普通の国」にするために急務なのは、軍隊を取り戻すことではなくて、有能な政治的リーダーを育てることではないかしら。
「日中戦争とは何だったのか」という分析も興味深かった。大澤真幸氏は、日中戦争とは「壮大な『意図せざる結果』のように思います」と発言している。もともと、それほどの喧嘩をするつもりがなかった相手と、めちゃめちゃな喧嘩をしてしまったようなものではないか。今日なお、日本の「謝罪」が伝わらず、何度も歴史問題が再燃するのは、日本人自身が何のために中国と戦争をしたのか、よく理解していないためではないか。中国側は呆れるかもしれないが、当たっている感じがする。ここではちょっと脇道にずれて、日本社会論が展開しており、この段階の日本はまだ近代国家ではなく、ルソーのいう「一般意志」が存在しなかったのではないか、という指摘も興味深い。国家が集団の「空気」に飲み込まれているのだ。
最後の章は「中国のいま・これから」を語る。文化大革命が旧体制の価値観を打破した結果、資本主義が可能になった、という説は、どこかで読んだと思ったら、大澤真幸氏が著書『「正義」を考える』に、スラヴォイ・ジジェクの説として紹介していた。だとすれば、社会主義市場経済は毛沢東と小平の合作ということになるだろう。ただし、橋爪氏は、改革開放政策はアメリカの支持と承認があってはじめてできたことを強調する。
20世紀の覇権国家はアメリカだった。今後、アメリカは下り坂になるが、EU、ロシアなどのキリスト教国はアメリカを支え続けるだろう。したがって、中国がアメリカに代わる覇権国家になることは難しい。そこで、日本はアメリカにくっつきながら、対中関係を考えていかなければならない。この予測を踏まえ、アメリカが、台湾、北朝鮮、尖閣問題について、何を望んでいるかという解説がある。これらを日本の外務官僚は理解しているが、多くの日本人および政治家は理解していないだろうという。ああ、溜息が出るなあ。国民はともかく、日本の政治的リーダーは、正確な情報に基づき、国家の長期戦略を立ててほしい。いや、政権がこんなに短期的にぐらぐらする状態では無理か。
刊行当初から気になる本だった。中国について著作の多い橋爪大三郎(1948-)氏はともかく、なぜ大澤真幸(1958-)と宮台真司(1959-)が?とフシギに思っていたら、あれよあれよで15万部を突破したそうなので、そんなに売れているなら読んでみることにした。
鼎談に先立つ2011年9月、大澤、宮台両氏は、橋爪大三郎氏とその奥様の張静華氏の案内で、上海、長沙、北京、天津等々を旅行し、名所旧跡に加えて、庶民の生活の場を訪ね、中国の学者と討論し、「何年も中国に滞在していたとしても、ここまで多くを見たり、いろいろな人に会ったりはしないだろう」というディープな旅を体験したという。それゆえ、本書には、中国問題の専門家だけに閉じた構えもないし、実態をかけ離れた無知な発言もない。大澤、宮台両氏が、体験や観察を踏まえて発する鋭い疑問に対し、主に橋爪氏が応答し、さらに社会学の理論に鑑みて、問題を一般化していく手法が取られている。どの議論もオープンで、新鮮な「おどろき」に満ちている。
何しろ、最初の宮台真司氏の問題提起が「そもそも中国は国家なのか?」である。いいなあ、この素朴で核心を突いた疑問。われわれは、ふつう国家といえば19世紀に誕生した国民国家を思い浮かべる。ところが「中国」というアイデンティティは、二千年以上前に作られた。最近の考古学的調査によれば四千年以上前の「夏王朝」で遡るとも言われている。ここで橋爪さんが、中国はEUみたいなもの(文中の表現は逆)という、また目からうウロコの落ちるような説明を返してくれる。なぜ中国はそんなに昔に中国になったかという質問は、なぜEUはこんなに遅くEUになったかという質問と裏腹である、と。おお~そんなこと考えたことがなかった。たぶん中国史を、中国あるいはアジアの中だけで考えている学者にはない発想だと思う。
中国人と日本人の行動原理について。中国人は「政治的リーダーは有能でなければならない」という第一公理を持っている。これは中国人が集団の安全保障を重視することと深い関係がある。日本人は「リーダーは有能でなくてよい(自分ががんばるからいい)」と考える。これはムラの論理、農民の論理で、安全保障は武士に預けてしまう。戦後日本は武士(軍隊)がいなくなったので、武士の役割をアメリカに外注した。とすれば、いまの日本を「普通の国」にするために急務なのは、軍隊を取り戻すことではなくて、有能な政治的リーダーを育てることではないかしら。
「日中戦争とは何だったのか」という分析も興味深かった。大澤真幸氏は、日中戦争とは「壮大な『意図せざる結果』のように思います」と発言している。もともと、それほどの喧嘩をするつもりがなかった相手と、めちゃめちゃな喧嘩をしてしまったようなものではないか。今日なお、日本の「謝罪」が伝わらず、何度も歴史問題が再燃するのは、日本人自身が何のために中国と戦争をしたのか、よく理解していないためではないか。中国側は呆れるかもしれないが、当たっている感じがする。ここではちょっと脇道にずれて、日本社会論が展開しており、この段階の日本はまだ近代国家ではなく、ルソーのいう「一般意志」が存在しなかったのではないか、という指摘も興味深い。国家が集団の「空気」に飲み込まれているのだ。
最後の章は「中国のいま・これから」を語る。文化大革命が旧体制の価値観を打破した結果、資本主義が可能になった、という説は、どこかで読んだと思ったら、大澤真幸氏が著書『「正義」を考える』に、スラヴォイ・ジジェクの説として紹介していた。だとすれば、社会主義市場経済は毛沢東と小平の合作ということになるだろう。ただし、橋爪氏は、改革開放政策はアメリカの支持と承認があってはじめてできたことを強調する。
20世紀の覇権国家はアメリカだった。今後、アメリカは下り坂になるが、EU、ロシアなどのキリスト教国はアメリカを支え続けるだろう。したがって、中国がアメリカに代わる覇権国家になることは難しい。そこで、日本はアメリカにくっつきながら、対中関係を考えていかなければならない。この予測を踏まえ、アメリカが、台湾、北朝鮮、尖閣問題について、何を望んでいるかという解説がある。これらを日本の外務官僚は理解しているが、多くの日本人および政治家は理解していないだろうという。ああ、溜息が出るなあ。国民はともかく、日本の政治的リーダーは、正確な情報に基づき、国家の長期戦略を立ててほしい。いや、政権がこんなに短期的にぐらぐらする状態では無理か。