見もの・読みもの日記

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江戸のヴンダーカマー/木村蒹葭堂のサロン(中村真一郎)

2008-01-26 23:58:34 | 読んだもの(書籍)
○中村真一郎『木村蒹葭堂のサロン』 新潮社 2000.7

 久しぶりに入った神田の三省堂でこの本を見つけて、すぐに買ってしまった。5,600円、700ページ超の本を衝動買いというのも豪気な話だが、正月なので気が大きくなっていたのかもしれない。

 木村蒹葭堂という名前は、少なくとも学生時代には全く知識の外にあった。それが、近年、江戸の学芸に興味を持ち始めるとともに、いろんなところで出くわすようになった。たとえば、絵画史の中で。また善本漢籍の所蔵者として。また蘭学ネットワークにおいて。登場の局面があまりに広すぎて、なかなか1つの像にまとまらない。しかし、いつも私の脳裡を去らなかったのは、かつて見た谷文晁筆の肖像画である(上記に画像あり)。大きく横に開いた鼻、半開きの厚い唇は、快活な知識欲に充ち、人生を肯定するモラリストの顔である。

 木村蒹葭堂(1736-1802、本文中では世肅)は、江戸中期、大阪の人。書籍・絵画・博物標本を精力的に収集し、一大コレクターとして、オランダ人や朝鮮通信使にも知られた。生活はほどほどに質素で、妻妾2人は学芸員として仲良く彼を助けた(このエピソード、ちょっと好きだ)。本書は、蒹葭堂との交流が確認される学者・文化人たちを、ひとりずつ丹念に紹介したものである。これまで、絵画史、文学史、蘭学史など、ポツポツと聞き知っていた人名や書名が、網を広げるようにつながっていくことに、何度も興奮を覚えた。

 たとえば、伊藤若冲を支援した大典禅師の処女詩集『昨非集』は蒹葭堂が出版したもの。同じく若冲が慕った黄檗僧の売茶翁(高遊外)も、蒹葭堂の漢詩および茶道の先達として登場。残念ながら、若冲と蒹葭堂の交友は確認されないそうだが、応挙、岸駒、呉春らの画人は『蒹葭堂日記』に登場する。浦上玉堂と谷文晁は、まさに蒹葭堂サロンで出会っているという。

 著者は、気になる人物が登場すると『蒹葭堂日記』を離れ、どこまでもその人物を追っていく。司馬江漢については、長崎旅行を記した『西遊日記』を素材に「伝統を弊履のようになげうってかえりみない」江漢の天才と限界を鮮やかに描き出す。同じ手法で、「純粋芸術家」の生き方を選んだ田能村竹田や、うっとおしい偏屈者だが憎みきれない上田秋成、官僚臭い正論が鼻につく佐藤一斎、老年に至ってなお知識欲の火花を散らした大田南畝など、多彩な人々が活写されている。ただ、本書を読み終わって、これら客人の人物像は鮮烈なのに、主人の蒹葭堂のイメージはぼんやりしたままである。それでいいのかな。本質的に、そういう人なのかしら。

 ところで、江戸の学問を考えるとき、われわれは国学・漢学と蘭学を対立的に捉えがちだが、著者は大槻玄沢のオランダ学の根底に「古い日本への郷愁」「(祖国日本を強くしようという)偏狭なナショナリズム」を嗅ぎ取っている。それは、江戸・大坂など大都市人の国際感覚とはかなり異質なものであった。同じ対立は、国学において、京坂の国際派・上田秋成と地方の民族派・本居宣長にも見て取れるという。この視点、かなり面白いと思った。

 気になったのは、森鴎外への言及。鴎外は、日本美術史を書き下ろすべく詳細なノートを準備したが、陽の目を見ることなく終わったという(95頁、注解あり)。そうなのか? 私は、このへん全く不案内なのだ。確かに鴎外文庫(鴎外旧蔵書)には美術関係の自筆稿が、意外に多かった記憶がある。さらに、鴎外文庫で習い覚えた漢詩人・詩集の名前を、本書でたくさん見つけた。われわれが、まるで異国の伝統のように遠ざけてしまった江戸の学芸が、明治の人・鴎外にとっていかに親しいものだったかを思って、感慨深かった。

※補記:若冲の来訪記事をめぐって(2010/7/14)

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