○遠藤哲夫『大衆めし 激動の戦後史:「いいモノ」食ってりゃ幸せか?』(ちくま新書) 筑摩書房 2013.10
NHKの連続テレビ小説『ごちそうさん』が面白いので、欠かさず見ている(朝は忙しいので、オンデマンドで)。それもあって、ふと目にとまった「食」の本を買ってしまった。
本書の導入部で語られる時代は、もう少し新しい。1943年生まれの著者が、70年代初めに食品・飲食店のプランナーとなって以来、つぶさに見て来た大衆食の風景が中心である。かなりの部分が、私の個人史とも重なる。
冒頭に登場する魚肉ソーセージ。1954年のビキニ水爆実験の結果、放射能汚染マグロが消費者に忌避され、水産各社は余剰マグロを原料とする魚肉ソーセージの生産に力を入れるようになった、という前史は初耳だったが、魚肉ソーセージが、おやつにもなれば、おかずにもなる手軽な食品だったことは、よく覚えている。1970年前後から、コールドチェーンの確立によって、鮮魚や鮮肉が大量に出回るようになると、クジラの缶詰や魚肉ソーセージなどの加工食品は「貧しい過去のニセモノ」扱いされて、衰退に向かった。ああ、この変化も、懐かしくほろ苦い記憶の中にある。
カレーライスが「即席ルー」とともに日本の家庭の隅々に広がったのもこの頃。さまざまなクックレス食品の登場によって、日本の台所仕事は激変した。ボンカレー、ククレカレー、かに風味かまぼこ、永谷園の「さけ茶漬け」、日清のカップヌードル…いずれも、私の小学生時代に登場した「クックレス」食品だ。著者が実際にレトルトごはんや冷凍エビフライの開発にかかわって苦労した話も、興味深く読んだ。
そして、ファストフード店の登場。1968年発行『新訂 東京の味』には、マクドナルド三越店、ダンキンドーナツ、ケンタッキーに加え、ラーメンや均一ずし(にぎり40円均一)も紹介されているという。今から見ると驚きだが、当時は、こうしたファミリー&ヤング向け格安外食店が、東京に出現したばかりのオシャレなライフスタイルだったのだろう。70年代後半になると、エビ料理やハンバーグは日常の食事に退き、ワインとチーズ、ピザやパスタが食のファッション化を牽引する。うんうん、このあたりも、まさに同時代史である。
しかし、洋食も中華も各種エスニック料理も、すっかり身近になった今日に至っても「甘鯛のかぶら蒸し」的な伝統的な「日本料理」は、庶民の生活から最も遠いところにある。一体、なぜか?という疑問に始まり、本書後半は、時代をさかのぼって、近代→近世→中世へと視点を広げていく。
そもそも「日本料理」とは、台所料理(めしのおかず)と全く違うものであったと発見する驚き。日本料理は料理屋料理であって、包丁文化が淵源にある。料理屋の日本料理を「割烹」ともいうが、これは「割主烹従」からきており、「割鮮」(包丁で新鮮な素材を裂くこと)が最も重視され、「烹」は、素材の色を逃がさない、見た目重視の技巧的な煮物が良しとされる。
そこで「日本料理」と全く関係のない、日本の生活料理(これは著者と、食文化史家の江原恵が広めた言葉)の一例として「野菜炒め」について考察する。野菜炒めはいつごろ普及したか。台所の火が気に重要だ。1943年生まれの著者は、10歳頃まで薪と炭の台所で育ったという。薪と炭でもじんわり油で「炒め煮」することはできた。代表的な料理は、カレーライスときんぴらとけんちん汁である。しかし、野菜炒めには安定した強い火力が必要で、ガスが普及するまでは一般的にならなかった。そうかー。野菜炒めよりカレーライスのほうが「ハイカラ」なイメージがあるが、新しい料理の普及には、素材の流通と並んで、台所の「火力」が大きなカギとなるのだな。それに比べたら、味覚の適応なんて、大したハードルではないのかも。
最終章は「食の豊かさ」について、著者からの苦言。食べてマズイと思う感心しない食品が、大量に流通する社会に批判を目を向けながら、「食育」「日本型食生活」の推進で万事が解決するというような、政府や有識者のご都合主義にも疑問を呈する。著者の同志、江原恵は、食文化の混乱にあっての料理の基本は「創意や工夫や意欲や感覚を、自分の生活の中で血肉化すること」だと述べている。これを受けた著者の呼びかけは「まずは、台所に立とう」。確かにそこからだ。毎日でなくても、自分のいまの生活に無理のない範囲で、この呼びかけに応えることは需要だと思った。
NHKの連続テレビ小説『ごちそうさん』が面白いので、欠かさず見ている(朝は忙しいので、オンデマンドで)。それもあって、ふと目にとまった「食」の本を買ってしまった。
本書の導入部で語られる時代は、もう少し新しい。1943年生まれの著者が、70年代初めに食品・飲食店のプランナーとなって以来、つぶさに見て来た大衆食の風景が中心である。かなりの部分が、私の個人史とも重なる。
冒頭に登場する魚肉ソーセージ。1954年のビキニ水爆実験の結果、放射能汚染マグロが消費者に忌避され、水産各社は余剰マグロを原料とする魚肉ソーセージの生産に力を入れるようになった、という前史は初耳だったが、魚肉ソーセージが、おやつにもなれば、おかずにもなる手軽な食品だったことは、よく覚えている。1970年前後から、コールドチェーンの確立によって、鮮魚や鮮肉が大量に出回るようになると、クジラの缶詰や魚肉ソーセージなどの加工食品は「貧しい過去のニセモノ」扱いされて、衰退に向かった。ああ、この変化も、懐かしくほろ苦い記憶の中にある。
カレーライスが「即席ルー」とともに日本の家庭の隅々に広がったのもこの頃。さまざまなクックレス食品の登場によって、日本の台所仕事は激変した。ボンカレー、ククレカレー、かに風味かまぼこ、永谷園の「さけ茶漬け」、日清のカップヌードル…いずれも、私の小学生時代に登場した「クックレス」食品だ。著者が実際にレトルトごはんや冷凍エビフライの開発にかかわって苦労した話も、興味深く読んだ。
そして、ファストフード店の登場。1968年発行『新訂 東京の味』には、マクドナルド三越店、ダンキンドーナツ、ケンタッキーに加え、ラーメンや均一ずし(にぎり40円均一)も紹介されているという。今から見ると驚きだが、当時は、こうしたファミリー&ヤング向け格安外食店が、東京に出現したばかりのオシャレなライフスタイルだったのだろう。70年代後半になると、エビ料理やハンバーグは日常の食事に退き、ワインとチーズ、ピザやパスタが食のファッション化を牽引する。うんうん、このあたりも、まさに同時代史である。
しかし、洋食も中華も各種エスニック料理も、すっかり身近になった今日に至っても「甘鯛のかぶら蒸し」的な伝統的な「日本料理」は、庶民の生活から最も遠いところにある。一体、なぜか?という疑問に始まり、本書後半は、時代をさかのぼって、近代→近世→中世へと視点を広げていく。
そもそも「日本料理」とは、台所料理(めしのおかず)と全く違うものであったと発見する驚き。日本料理は料理屋料理であって、包丁文化が淵源にある。料理屋の日本料理を「割烹」ともいうが、これは「割主烹従」からきており、「割鮮」(包丁で新鮮な素材を裂くこと)が最も重視され、「烹」は、素材の色を逃がさない、見た目重視の技巧的な煮物が良しとされる。
そこで「日本料理」と全く関係のない、日本の生活料理(これは著者と、食文化史家の江原恵が広めた言葉)の一例として「野菜炒め」について考察する。野菜炒めはいつごろ普及したか。台所の火が気に重要だ。1943年生まれの著者は、10歳頃まで薪と炭の台所で育ったという。薪と炭でもじんわり油で「炒め煮」することはできた。代表的な料理は、カレーライスときんぴらとけんちん汁である。しかし、野菜炒めには安定した強い火力が必要で、ガスが普及するまでは一般的にならなかった。そうかー。野菜炒めよりカレーライスのほうが「ハイカラ」なイメージがあるが、新しい料理の普及には、素材の流通と並んで、台所の「火力」が大きなカギとなるのだな。それに比べたら、味覚の適応なんて、大したハードルではないのかも。
最終章は「食の豊かさ」について、著者からの苦言。食べてマズイと思う感心しない食品が、大量に流通する社会に批判を目を向けながら、「食育」「日本型食生活」の推進で万事が解決するというような、政府や有識者のご都合主義にも疑問を呈する。著者の同志、江原恵は、食文化の混乱にあっての料理の基本は「創意や工夫や意欲や感覚を、自分の生活の中で血肉化すること」だと述べている。これを受けた著者の呼びかけは「まずは、台所に立とう」。確かにそこからだ。毎日でなくても、自分のいまの生活に無理のない範囲で、この呼びかけに応えることは需要だと思った。