「新刊コーナー」でたまたま目についた本を借りてきて何気なしに読んでいると、ハッと胸を打たれることがある・・。
何の先入観や期待も抱かないままでの、 程よい刺激はマンネリ化した「脳」にはもってこいなので、やっぱり図書館通いは止められない。
この本には67名の作家の「小編」が収められていた。
そのうちの「二編」を後日のために記録に残しておくとしよう。まず最初の「一編」の著者は芥川賞作家の「堀江敏幸」氏。
タイトルは「歌でも読む様にして」。
「識字率という物騒な単語がある。これは一般に、ひとつの国の総人口の、15歳以上で読み書きができる者の割合を意味するのだが、こういう話題になるとかならず、日本の識字率がいかに高いかといった、妙な自慢話をはじめる人がいる。
たしかにそうかもしれない。しかし、字を識(し)る力はかならずしも心を識る力に結びついているわけではないのだ。平成の世に入って生じたいくつもの人災において、責任ある立場に置かれた人々が示した立ち居振る舞いを見れば、それは明らかである。
文字は、そして文字の連なりからなる文章はどんなにありきたりなものであっても、単なる情報ではない。いや、情報ではあるけれど、それだけに終わらないなにかがふくまれている。
たとえばかって、消息を知らせる書状や葉書の文面には、文字の読める受取人だけでなくそのまわりの、文字を読めない者にも伝わる思いがこめられていた。読める人が近くにいるのを当てにして書かれている場合もめずらしくなかった。
石川県富来に生まれた加能作次郎に、「恭三の父」(1910年)と題された短編がある。郷里から東京の大学に進んだ恭三は夏休みに帰省して1か月あまり無為な暮らしを送っている。
やるべき勉強にも身が入らず、むなしく散歩をするばかりで、親しい話し相手もいない。だから手紙を書く。日常の些事を同じく里へ帰っている友人たちに細かく報せる。返事が欲しいのだ。
ある晩、恭三が散歩を終えて家に戻ると、待ち暮らしていた自分宛ての手紙の代わりに親族からの葉書と手紙が届いていた。父親は字が読めないのでふだんは学校に通っている次男坊に頼んで読んでもらっている。
しかしその日、酒の入っていた父親は、恭三に読んでくれと頼んだ。「何と言うて来たかい」と問う父親に息子は答える。「別に何でもありません。八重さんのは暑中見舞いですし、弟様(おっさま)のは礼状です」
彼らの手紙は「言文一致」ではなく従来の「候(そうろう)文」の定型を並べたにすぎず、意味のあることなど書かれていない、伝えても分からないでしょうという息子に、父親は分からないから聞くんだと怒る。
「六(むつ)かしい事は己等(おれら)に分からんかも知れねど、それを一々、さあこう書いてある、ああ言うてあると歌でも読む様にして片端から読うで聞かして呉れりゃ嬉しいのじゃ」
父親はすべての言葉が大切なのである。差出人を見れば中身など簡単に想像できるけれど、時候の挨拶ひとつにもいろいろ言い方があって、元気なのは承知していても、そこに書かれていることをありのまま、ぜんぶ教えて欲しいのだ。
声に出して読んでもらうことで定型は定型をはずれ、情報を超えた感情となる。字の読めることが当然の恭三はそこに気づかず、言葉のやりとりを効率に換算して、説明や要約にかえてしまう。
彼の躓(つまず)きは、百年後のわたしたちの躓きでもある。読み書きとは、本来無駄なことを無駄でなくするための力なのだ。
”歌でも読む様にして” 、という父親のひと言が、深く胸にしみる。(2016年5月発出)
そして、二編目はこれ。
「わからない」を語りたい(花田 菜々子)
「最近 ”わからなかった” 本の話を誰かとすることにハマっている。書店員として働くようになってから二十年弱。書店員というのは職業上、本のことを ”わかっている” ていで話をしなければならない仕事だ。
あれは名作ですよね、話題のあの本が売れているのはこういう理由でしょう、この本の素晴らしいところはこんなところなんです、などなど。
嘘は言わないが、わざわざネガティブな感想を表に出すことはほとんどない。 ”わからなかった” は本来はネガティブな感想ではないのだが、 ”読む価値が無かった” の婉曲表現だと思われてしまうし、何より書店員としての見栄もある。
そう感じていた私が「わからない」に目を向けたきっかけは、最近文学賞を受賞したある小説を読んだときに全然面白いと感じられなかったことだ。う~ん、よさがわからない。
だが、たくさんの書店員が心から絶賛しているようだ。駄作ということではなさそう。隣で仕事をしている文芸好きの同僚にふと尋ねてみた。
「〇〇って読んだ? 私、実はよくわからなかったんだけど」
すると意外なことに、同僚の目はパッと見開かれ、輝いていた。「実は私もわからなかった!」
だが、賞の批判や作品の悪口に話が逸れてしまってはつまらない。わたしはその作品を面白いと感じる人がなぜそう感じられたかを、純粋に知りたいだけだからだ。
仕事中にもかかわらず、ああでもないこうでもないと意見を交わす。話してみると「わからない」を語る言葉には意外な豊かさがあることに気づく。
まず、自分が一応その本を読めていて「わからなさ」を言語化できていないと話すことはできない。そして、話すことができても、今度はよい小説の基準、マイナスに思えた表現方法、結末への懐疑・・、口に出してみて初めて、自分の意見の不確かさがはっきりと輪郭を持つ。
たかが本の話なのに自分の恥ずかしい内面を吐露せずに「わからなさ」を語ることは難しいのだった。「わかる」を語るとき、私たちは自分の弱さをさらさぬまま、自信を持って語ることができる。
本を読んでいて「わかる」と思うとき、私たちは幸せに満ちているし、心強さをもらう。読書の一番の醍醐味とも言えるだろう。わかる本への言葉は、究極的には「とにかくいい」「すごい」という感嘆で足りてしまう。作品が心に飛び込んできているので自分から近づく必要がないからだ。
だが「わからない」は自分から近づかなければ、向こうから歩み寄ってきてはくれない。そこに辿り着こうとして届かない言葉や思いはいつも不格好で、その人らしさがにじみ出ていて惹かれる。
というわけで最近の私は、誰かの分からなかった本の話を採取することに夢中なのだ。
つまりそれは、本の話をするふりをして誰かの心の奥底に触れてみたいだけなのかもしれない。(2021年1月発出)
<ブログ主>
オーディオにも似たようなことがある。自分では「いい音」と思っていても、他人が聴くとそうでもないことが多々ある。
その辺の違いをきっちり詰めていくと、相手の心の奥底の一端が見えてくるのだろうが、「ま、いっか」とつい鬱陶しくなって放ったらかしてしまい、そしていつのまにか曖昧模糊となってしまう・・(笑)。
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