休日前夜の結の丘ドーム。
ジムトレーニングを再開した年明けも、
しばらく休んでいたそれまでも、
何ヶ月かの間ずっと、お供たるミュージックは「竹内まりあ」だった。
と書いて、YouTubeの動画を挟もうと検索。
失礼、「竹内まりや」だった。
所詮、付け焼き刃とはそんなもんである。
てなことを言いながら、慣れ親しみかけた竹内まりやさんと、しばし別れることにしたのは、
色々さまざまあって、己にガツンと気合を入れたかったから。
ということで、ランニングのお供に指名したのは、
木村充揮and近藤房之助。
『男唄~昭和散歩』である。
そして、ガツンと気合を入れられながらアルバム一枚分の時を走ったあと、先日読んだ『大衆の反逆』(オルテガ・イ・ガセット)を読み返す。
例によって、エアロバイクを漕ぎながら、である。
といっても端から終いまでを読み直し、ではなくKindle版につけたハイライトとブックマークを辿っては、自分自身が興味を引かれた部分をチェックしつつ、その周辺を再読。
ということで、その中の一文。
つまり選ばれたる人とは、自らに多くを求める人であり、凡俗なる人とは、自らに何も求めず、自分の現在に満足し、自分に何の不満ももっていない人である。
一般に考えられているのとは逆に、本質的に奉仕に生きる人は、大衆ではなく、実は選ばれたる被造物なのである。
彼にとっては、自分の生は、自分を超える何かに奉仕するのでないかぎり、生としての意味をもたないのである。
したがって彼は、奉仕することを当然のことと考え圧迫とは感じない。たまたま、奉仕の対象がなくなったりすると、彼は不安になり、自分を抑えつけるためのより困難でありより過酷な規範を発明するのである。
これが規律ある生 ー 高貴なる生である。
高貴さは、自らに課す要求と義務の多寡によって計られるものであり、権利によって計られるものではない。(Kindle版位置No.965)
このくだりを読むなりすぐに、私の脳内に浮かんだのは中岡慎太郎。
そう、あの中岡慎太郎。
思い浮かべたのはこの言葉。
オルテガ経由中岡慎太郎行きである。
志とは、目先の貴賤で動かされるようなものではない。
望むべきは、その先の大いなる道のみである。
今、貴いと思えるものが、明日は賤しいかもしれない。
今、賤しいと思えるものが、明日は貴いかもしれない。
君子となるか、小人となるかは、家柄の中にはない。
君、自らの中にあるのだ。
(北川竹次郎への手紙より)
賢者は、自分がつねに愚者になり果てる寸前であることを肝に銘じている。
だからこそ、すぐそこまでやって来ている愚劣さから逃れようと努力を続けるのであり、そしてその努力にこそ英知があるのである。
これに反して愚者は、自分を疑うということをしない。
つまり自分はきわめて分別に富んだ人間だと考えているわけで、そこに、愚者が自らの愚かさの中に腰をすえ安住してしまい、うらやましいほど安閑としていられる理由がある。(Kindle版位置No.1086)
うん、ガツンと来た。
いわずもがなのことなれど、私は「選ばれたる者」でも「高貴」でも「君子」でも「賢者」でもない。
足掻き続ける辺境のいち土木屋が、
心の持ちようとして、「ガツンと来た」だけのことである。
こうなりゃしばらく「竹内まりや」のところには帰られそうにもない。