答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

「ついで」の「ついで」 ~ モネの庭から(その459)

2023年03月29日 | 北川村モネの庭マルモッタン

 

修繕工事の話をするために事務所へ寄ったついでに、つくってひと月ほどが経ったコンクリート舗装の経過観察も兼ねて庭へとあがる。

もちろん、それは事実にはちがいないが、みなさんご存知のように「事務所へ寄ったついで」や「舗装の経過観察」というのは方便でもあって、わたしの場合、それらの本来業務と「庭へあがる」は不可分なセットとしてある。つまり、こと「モネの庭」に限ってはどのような業務であっても「ついで」がなければならず、その限りにおいて、「それは”ついで”とは呼べないのではないか」という指摘は受けつけない。

 

 

 

 

新緑にかぎらず、目に映るすべての色が若々しく眩いのに、池のまわりを独り歩くおじさんからは「春やなぁ」という月並みなことばしか浮かんでこない。まったく、おのれのボキャ貧がうらめしい。

ん?まぶしい?ということは・・・待てよ・・・そうだ、あそこだ。

思いつきにニンマリとしてボルディゲラの庭まで足を伸ばしてみた。

 

 

 

 

 

池のまわりの小径に淡い黄色の花がたれさがっていた。

なんという色だろうか?クリームレモンという名前が思い浮かんだが、そんな色名称があるのかどうかは定かでない。

なんという花だろうか?ミモザという名前が思い浮かんだが、わたしの知っているミモザの花はふわふわなのに、この花はちいさい。葉は、線形だと表現してもおかしくないほど細い。

 

 

 

 

Googleレンズで調べてみると、「アカシア」という答えが出た。

アカシアか?わたしの知っているアカシアとは似ても似つかないが、スマホの画面に写し出されたいくつかの候補と、目の前の植物の花と葉はソックリだ。

疑問を解決するためにヒゲさんに電話をしてみた。

「今、庭へ来ちゅうがやけんど、ボルディゲラの池のまわりにたれさがって咲いちゅうアカシアみたいな花ってなに?」

Googleの出した「アカシア」という答えに疑念を抱きつつ、平気で「アカシア」という名称が口をついて出てくるのだから、このオヤジあつかましい。

「ああそれ、ミモザです。ミモザ◯△▼」

「あーミモザか」

自らがまず浮かべたミモザという名にも疑念を抱いていたのに、相手がヒゲさんなら一も二もなく信用してしまうのだから、このオヤジ節操がない。

ひとしきり庭の感想を述べたあと電話を切り、さて、と思い起こしてみる。彼がミモザのあとにつけた◯△▼の部分が判然としないのである。たしか・・・プロパガンダ・・・いや、それはあり得ない・・・フロバンダ・・・う~ん・・・そんな感じだったが・・・。

それ以上記憶をたどっても時間のムダだとあきらめて、不完全なまま検索をしてみる。

「ミモザ フロバンダ」

画面に出てきたのは「次の検索結果を表示しています”ミモザ フロリバンダ”」。さすがGoogleだ。瞬時に正解へとみちびいてくれた。フロリブンダ

*****

フロリバンダは、細葉のアカシアで樹形が整いやすい品種です。笹のような葉が涼しげで、枝はしだれています。

(『nae-ya』より)

******

マチガイない。ミモザ・フロリバンダである。ではアカシアとの関係はどうなるのだ?こうなると止まらない。調べてみた。

選んだのはずばりそのもののタイトルを持つサイト。『ミモザとアカシアの違いは?お花屋さんで人気*ミモザの種類を総まとめ』。

******

黄色い花を咲かせるアカシアがヨーロッパに持ち込まれたとき、「これはオジギソウ(ミモザ)に似ているアカシアだな」ってことで「ミモザアカシア」と呼ばれるようになりました。

それがいつしか「ミモザ」と略して呼ばれるようになり、もう黄色い花のアレはミモザ!!ってことになってしまったのです。(カクテルのミモザも、ミモザサラダも、黄色いミモザのイメージから作られていますよね)

******

そこには、「最後にとっておきの、混乱する情報」と前置きをして、「アカシアの花」と呼ばれているものが「ニセアカシア」というまったく別の植物であることが多い旨も記されていた。

******

アカシア蜂蜜のアカシアは黄色いお花のミモザとは関係なく、ニセアカシアの花なのです。

(ちなみに、石原裕次郎のヒット曲「赤いハンカチ」に歌われる「アカシアの花」も、レミオロメンの「アカシア」も、ユーミンの「acacia」も、ニセアカシアのことです)

******

ミモザアカシアの花の下でひとしきり調べたあと、♪アカシアの花の下で・・・♪、裕次郎の往年の大ヒット曲を脳内で口ずさみながら歩き出そうとすると、年配夫婦とその娘とおぼしき3人づれの会話が耳に入る。

「コレ、なんていう花やろね?」

すかさず脇から口をはさむわたし。

「ミモザです」

「え?私の知ってるミモザとちがう」

「はい。ミモザ・フロリバンダっていう種類なんです」

「へ~、そうなんですね。ありがとうございました!」

 

まったくもって付け焼き刃もいいところだが、なんだかとてもよいことをしたような気分になって、意気揚々と引き上げる、「ついで」の「ついで」の帰り途。

 

 

 

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チューリップ頬ふくらませ笑ってる ~ モネの庭から(その458)

2023年03月13日 | 北川村モネの庭マルモッタン

 

仕事柄というやつなのだろう。

休日であっても思いつきで行動することがあまりない。

たいていは前日までに決めた予定に概ねもとづいてやることを決めている。

天気予報を見ていくつかのパターンを想定し、そのなかからチョイスすることもよくあることだ。

と書けば、なんだかいかにも融通の効かぬカタブツを想像するかもしれないが、それはあくまで自分ひとりだけで行動できる場合であり、それに自分以外の誰かがからんでくるとなると、頑なにその予定を主張するわけではない。他者の考えや予定と自からのそれとを天秤にかけ、どちらかよい方を選択することとなる。それが自分自身がしたいことや行きたいところと合致すると、元々立てていた予定などはあっというまに雲散霧消してしまう。そりゃそうだ。人間は他者との関係性のなかで生きる動物であり他者を尊重することなしに自らを主張するのみでは人間関係などは成り立たない。と、口ではエラそうに言いつつも、あからさまに本音を言ってしまえば、自分が「やりたいこと」がイチバンである。となると渡りに船だ。乗らない手はない。

ということで、令和5年シーズンがオープンしたばかりの「モネの庭」へ。

「モネの庭」の春は早咲きのチューリップからである。

 

 

 

 

 

 

 

心なしか、よい写真が撮れているような気がして、下手な俳句などひねってみる。

 

チューリップ 頬ふくらませ 笑ってる(保人)

 

気分だけはゼッコーチョーだ。

春なのである。

 

 

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梅にメジロ ~モネの庭から(その457)

2023年02月15日 | 北川村モネの庭マルモッタン

 

 

 

3月1日の開園に向け、メンテナンス作業も大詰めの「モネの庭」。

わがチームはといえば、請け負った作業がほぼ終わりあとは片づけを残すのみとなったので、仕上げを覧じるべくできあがったモノをながめていると、かたわらにある梅の木にメジロがとまった。

ほう、いいじゃないか。独りほくそ笑んでいると、わたしを見つけたムッシュ・シュバリエ・ヒゲの川上さんが近づいてくる。

ちょうどいい。少し気になっていた部分について打ち合わせをしていたが、どうもメジロが気になって仕方がない。

と、わたしの視線に気がついたヒゲさんが、梅の木を見上げてつぶやく。

「呑気なもんですねえ」

え?オレか?と一瞬ドキリとしたが、どうやらメジロを指しての言葉だったらしい。

協議が終わり、立ち去っていく彼の背中を見送ったあとわたしは、待ちきれなかったようにポケットからアイホンを取り出し、枝から枝へと飛び移るメジロを一心不乱に撮りまくる。

やれやれ。本当に呑気なのが誰なのか。言うまでもなく聞くまでもない。

空のあおに梅花映え、そのあいだをメジロの緑がアッチへ行ったりコッチへ来たり。

梅にメジロ。さやかに見える春の気配だ。

 

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土佐の山間に息づくモネのエスプリ(5) ~おわりに~

2023年01月31日 | 北川村モネの庭マルモッタン

 

昨年12月をもちまして、月刊『土木技術』が休刊となりました。

そこで、100年つづいた土木専門誌に敬意を表すとともに、感謝の意味を込めて、2015年7月、同誌に寄稿した拙文を加筆修正のうえ数回に分けて転載してみることとしました。今日はその3回目です。

前回までの稿はコチラ

#1→『なぜ北川村にモネの庭?

#2→『再現性を優先した庭づくり

#3→『試行錯誤の庭づくり

#4→『独自性を加えた庭づくり

ー・ー・ー・ー・ー

 

 いち土木現場技術者として、あるいは一人の北川村民として、また(自称)「日本一のモネの庭ウォッチャーとして、「モネの庭」に関わり、この庭を通じて多くの人と知り合い、様々な体験をさせてもらうことができました。もとより、庭の良し悪しなどというものは、構造物の構築や基盤の造成、樹木の植栽などを受け持つ施工者よりも、その後の維持管理を担当して庭を育てていく庭師たちの手に、その成否の大半が委ねられています。そういったなかにおいては、私の存在など取るに足らないものに過ぎません。しかし、「モネの庭」に関わってきた年月が、私の土木技術者としての幅を広げてくれるなど、貴重な財産となって私の身体のなかにあるのは確かな事実です。そのことを、日仏の関係各位に感謝するとともに、今後も関わりつづけさせていただけたらありがたいと、あらためてそう思っています。

 さて、開園初年度には入園者数が20万人を超えた「モネの庭」も、現在ではその数が激減し、約4分の1となっています。しかし、それに反比例するかのように、庭そのものは年々その魅力を増しています。そのことを如実に物語るのが、2010の開園10周年を祝い、はるばるフランスから来園してくれたユーグ・ガル氏(クロード・モネ財団理事長)の言葉です。それを紹介して拙文の締めくくりとしたいと思います。

「北川村のこの庭は、けっしてジヴェルニーのコピーではない。モネの描こうとしたエスプリがここにはある。」

2015年初夏、色とりどりの睡蓮が咲き誇る「北川村モネの庭マルモッタン」より。

 

ー・ー・ー・ー・ー

この拙文を土木技術に寄稿してから、はや7年半が過ぎました。わたしが「モネの庭」にかかわり始めてからの年月はというと、23年が来ようとしています。

あらためて振り返ってみると、いろいろな失敗や成功、さまざまな反省や愉悦、あれやこれやをひっくるめて色々様々あったわけですが、それらを自分自身のアタマのなかで整理しながら、こうやって文章に残しているかというと、そういった行為は皆無に等しいのが実際です。個々の例をあげても、これから5年後に作庭した「ボルディゲラの庭」(いわば「その後の光の庭」)にかかわる顛末(を現場技術者的観点で整理するとどうなるか)しかり、20年前の「遊びの森」造成工事やそれにつづく背後地の周辺整備工事(にもし現代のICT技術を活用するとなるとどのような方法で行うか)の再検証しかり。想像するだけで、当のわたし自身が興味津々となるような事柄があるにもかかわらず、です。

そういったことを考えれば、それらをここで披露できればと思いもしますが、思うだけで実行力が伴わないのはいつものこと。今日のところはとりあえず、「近いうちに」という曖昧な言葉で、約束にもならない約束をしておしまいにしようと思います。では。

 

 

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土佐の山間に息づくモネのエスプリ(4) ~独自性を加えた庭づくり~

2023年01月30日 | 北川村モネの庭マルモッタン

昨年12月をもちまして、月刊『土木技術』が休刊となりました。

そこで、100年つづいた土木専門誌に敬意を表すとともに、感謝の意味を込めて、2015年7月、同誌に寄稿した拙文を加筆修正のうえ数回に分けて転載してみることとしました。今日はその3回目です。

前回までの稿はコチラ

#1→『なぜ北川村にモネの庭?

#2→『再現性を優先した庭づくり

#3→『試行錯誤の庭づくり

ー・ー・ー・ー・ー

 

 2008年に完成した「光の庭」(現在の名称は「ボルディゲラの庭」)は、それまでつくったどの庭とも異なったアプローチから始まりました。そのコンセプトは、「本家のコピーとして誕生した北川村モネの庭でモネの絵画を基としたオリジナルの庭をつくる」。文字どおりゼロからのスタートでした。しかし、ひと口に「モネの絵画」といっても彼が残した作品群は膨大な量です。南国土佐の高知、そして柚子の郷北川村、などの地域性や北川村モネの庭の立地条件も考慮に入れると、いったいどの絵が最適か。いくつかの候補作品をピックアップした上で絞り込まれたのが、モネが43歳でジヴェルニーに転居する直前に、友人であるルノアールと南仏や北イタリアなどの地中海沿岸を旅した時に描かれた連作群でした。豊穣な熱帯植物に囲まれた温暖な気候の中、彼はそれまでとは異なった風合いの作品を多く残し、その体験は、その後のモネの作風に色濃く影響を与えたと言われています。その作品群の世界を表現しようとしたのが「光の庭」でした。

 

北イタリアの都市ボルディゲラの風景を描いた連作『サッソーの谷』

”Monetーou le Triomphe de l'Impressionnisme"(Daniel Wildenstein)より

 

「遊びの森」の背後地にある起伏に富んだ谷地形を利用してつくられたその庭には、ヤシやオリーブ、ユッカといった地中海地方でおなじみの樹木に加え、ディクソニア・アンタルクティカなどの熱帯性植物が植えられました。それらで表現しようとしたものをモネ自身が友人に宛てて書いた手紙から引用します。

「行けども行けどもオレンジ、ヤシ、レモン、それに見事なオリーブの木がつづいている。(中略)オレンジやレモンの木が青い海を背景に浮かび上がっているところを描いてみたい」

「ボルディゲラは今度の旅でぼくたちが見た最も美しい場所のひとつだ。(中略)ここではヤシの木と、いささかエキゾチックな要素に取り組んでみようと思っている」

「ぼくが描こうとしているのは、まさにこの夢のような光。この輝きなのだから。(中略)あらゆるものが玉虫色にきらめき、パンチ酒のような赤色の炎をあげている。すばらしい風景だ。そして日毎にそれは、より美しくなっていく。ぼくはこの土地にすっかり魅了されている」

 キーワードは「光」。それを表すうえでレモンの黄色は欠かすことができません。そこで、レモンの代用として北川村特産の柚子を使って地元色を出すことを、新しい庭づくりの打ち合わせのために来村していたグァエさんが提案してくれました。その提案を受け、早速4件の地元農家に協力を依頼、無償で30本近い樹木の提供を受けて柚子を移植し、その色彩を演出するなど、北川村色を打ち出すことにも努めました。それらを含めて何よりも留意したのは、モネの絵にあるエスプリを表現すること。そのために、例えば実際の絵には存在しない池を掘ったり、石を積んで小径をつくったり、またそれとは逆に、絵にあるものをそっくりコピーした部分をつくるなどして「光の庭」が誕生しました。

 

 

完成直後の「光の庭」

 

 

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土佐の山間に息づくモネのエスプリ(3) ~試行錯誤の庭づくり~

2023年01月28日 | 北川村モネの庭マルモッタン

昨年12月をもちまして、月刊『土木技術』が休刊となりました。

そこで、100年つづいた土木専門誌に敬意を表すとともに、感謝の意味を込めて、2015年7月、同誌に寄稿した拙文を数回に分け転載してみることとしました。今日はその3回目です。

前回までの稿はコチラ

#1→『なぜ北川村にモネの庭?

#2→『再現性を優先した庭づくり

ー・ー・ー・ー・ー

 

「水の庭」そして「花の庭」などの、「モネの庭」の中核を成す庭園をつくりあげ開園へとこぎ着けた1期工事のうち、建物以外は弊社が受け持ち施工をしました。じつを言うと私は、そこまではほとんど関わっておらず、現場技術者として新設や維持修繕の設計施工に携わるようになったのは、2000年の開園直後からのことでした。そこでのいくつかの体験を、技術者としての視点から紹介してみます。

 2000年4月にオープンした北川村モネの庭マルモッタンは、関係者の予想をよい意味で裏切り、想像をはるかに超える入園者数を記録しつづけて、一躍、高知県東部を代表する観光地となりました。そこで、来園者の多くから挙げられた要望は、「子供が遊ぶことができる場所や施設がほしい」というものでした。それに応えてその翌々年にできあがったのが「遊びの森」でした。この庭は1期工事とは異なり、詳細設計というものが遊具と東屋以外には存在せず、平面図をもとに発注者である村の担当職員と協議しながら庭をつくりあげていくというスタイルで工事を進めていきました。なかでも特徴的で、手探りで進めたのが基盤造成です。

 庭の予定地は、戦前には田んぼ、戦後の食糧難時には芋畑として耕作されていた圃場で、その後放棄放棄地となって里山化していた場所でした。放棄されてから数十年を経て、一見すると雑木林となっていましたが、元々が圃場なので地形がアンジュレーションに欠け、そのまま作庭したのでは、平板でおもしろみに欠けます。そこでまず手がけたのが、元来の地形をイメージして元々あったであろう等高線を平面図上に復元することです。その作業が終わると、その等高線にもとづいて現地に自然地形然とした丘陵地を造成しました。さらにその後、園路などの位置を現地にプロットし、重機による切り盛りによって造成していくという方法で工事を進めました。

 

遊びの森入り口付近

 

 通常の土木工事では、山を切り取ることはあっても、元々あったであろう地形を想像して復元し、その復元したものを切り取るというような迂回した方法を採用することはまずありません。ひと口に自然地形の復元といっても、それはあくまでも想像やイメージであるため、現場監督である私自身の頭の中にしかないそれを作業者に伝えるのは至難の業で、山を復元したつもりが、ボタ山のようないかにも人工的なものになってしまい、壊してやり直すなど悪戦苦闘をしながら作業を進めました。

 

盛土により復元した元地形をあらためて切り盛りして造成

ここに見える樹木はすべて造成地に新規植栽したもの

 

 当初から現在に至るまでの全ての工事、並びに維持管理を通じて最大の難敵となったのは土質です。海岸段丘を構成するその地山は、玉石混じりの密実な粘性土で、その下には砂岩系の未固結体積物が分布しているため排水性が極端に悪く、植物の生育には適していません。そこでこの工事では、波状管による暗渠を縦横に配置して地下排水として、植栽の根腐れ防止には酸素管を使用してその対策としました。失敗したのはその地下排水です。工事中また造成当初は順調に機能していたのですが、完成後数年が経過すると、樹木の根茎が水分を求めて有孔管にあけてある穴からパイプの中に侵入し、地下排水が機能不全に陥りました。幸い、当初のフラットな畑地から傾斜のある地形に造成していたため、それによって表面排水が滞留してしまうということにはならなかったのですが、以後、公園の排水設計を考えるうえでの貴重な体験となりました。

 

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土佐の山間に息づくモネのエスプリ(2) ~再現性を優先させた庭づくり~

2023年01月27日 | 北川村モネの庭マルモッタン

昨年12月をもちまして、月刊『土木技術』が休刊となりました。

そこで、100年つづいた土木専門誌に敬意を表すとともに、感謝の意味を込めて、2015年7月、同誌に寄稿した拙文を加筆修正のうえ数回に分けて転載してみることとしました。今日はその2回目です。

前回はコチラ→『なぜ北川村にモネの庭?

 ー・ー・ー・ー・ー

 

 クロード・モネ財団から承諾を得て、「モネの庭」の名称を無償で与えられたという経緯もあって、当初の庭づくりのコンセプトは、とにかく再現性にこだわったものでした。とはいえ、既に造成が完了していたワイナリー用地を、その時点からジヴェルニーの完全コピーとするのは不可能です。そこで、本家の庭を構成する3つの要素、「モネの家」「水の庭」「花の庭」をいかにしてこの地に再現するかに腐心した結果、下図のような配置になりました。

 

[ジヴェルニーのモネの庭にある園内図]

左上が入り口で「モネの家」、その前に「花の庭」、一般道の地下をくぐって「水の庭」へと至る。

 

 

北川村のモネの庭園内マップ(2015年当時)

 

 ジヴェルニーでは建物(モネの家)を出るとそのまま「花の庭」へと入りますが、北川村では建物からデッキに出ると眼下に「花の庭」が広がるというロケーションになっています。また本家では地下道をくぐって行く「水の庭」が、ここでは丘を登った上にあるというのも、その配置上で大きく異なるところです。

 そのようなことを考えると、ジヴェルニーにある庭を北川村で再現するという表現は適切ではないのかもしれません。しかし、「再現性の追求」とは、何も姿形をコピーすることのみにはとどまりません。「北川村モネの庭」では当初から、「モネのエスプリ(※)」を意識した庭づくりが進められており、その象徴ともいえるのが「青い睡蓮」でした。

 43歳になってからジヴェルニーに居を構えたモネは、自らの手で作庭すると同時に、その庭を対象とした数々の絵画を、亡くなる寸前まで描きつづけました。そのなかで最も有名なのが睡蓮の連作です。その作品群の中には「青い睡蓮」を描いたものもあるのですが、じつは本家の池には「青い睡蓮」がありません。

 睡蓮には温帯性のものと熱帯性のものとがあり、「青い睡蓮」は熱帯性にあたります。フランス北西部ノルマンディー地方に位置するジヴェルニーでは、その気候特性から熱帯性の睡蓮が育てることができませんでした。つまり、モネの「青い睡蓮」は、ジヴェルニーでは見たくても見ることができなかった睡蓮を、想像上で描きあげた作品だったのです。北川村では、その「青い睡蓮」の苗をフランスの植物園から購入し、咲かせることに成功。モネが描いた「青い睡蓮の池」を現実のものとしました。

 

青い睡蓮(熱帯性)

右下にある白は温帯性睡蓮

 

 開園当初は「マネの庭」などと揶揄されることも多かった北川村の「モネの庭」ですが、その実際は、一貫して単なるコピーにとどまらない表現を模索しながら庭づくりをしていったのです。

 

※エスプリ

仏語。esprit.

精神、知性、霊魂、心のはたらき。

物質(matiere)と対比される。

 

 

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土佐の山間に息づくモネのエスプリ(1) ~ なぜ北川村に「モネの庭」?

2023年01月26日 | 北川村モネの庭マルモッタン

 

昨年12月をもちまして、月刊『土木技術』が休刊となりました。

100年つづいた土木専門誌に敬意を表すとともに、感謝の意味を込めて、2015年7月、同誌に寄稿した拙文を加筆修正のうえ数回に分けて転載します。

 ー・ー・ー・ー・ー

 太平洋に向かって突き出た高知東海岸を、その突端にある室戸岬に向けて高知市から車を走らせると、発達した海岸段丘が連続したあとに、河川とそれによってできた扇状地が出現するという風景が繰り返しつづきます。そのひとつ、大野台地を過ぎ、奈半利川がつくった扇状地を、北東に進んでまもなく行った小高い山の上にあるのが「北川村モネの庭マルモッタン」です。

 印象派を代表するフランスの画家クロード・モネが、じつは優れた造園設計者であり技術者だったという事実は、それほど多くの人に知られてはいません。1883年、43歳のモネは、ノルマンディー地方にあるジヴェルニーに移住し、86歳でその生涯を閉じるまでをその小さな村で過ごしました。彼はそこに、自らが理想とする庭園をつくり、「生きたアトリエ」として「睡蓮」の連作を始めとする作品を描き続けるのと同時進行で、庭園の設計施工維持管理のために創作以外のほとんどの時間をあてていたといいます。

 そのモネが亡くなった後、1976年までの約50年間、庭とその敷地は放置されたままになっていましたが、その後クロード・モネ財団の手により復元され、現在ではフランスを代表する観光地となっています。

 

 

「モネの庭」前方にある丘からジヴェルニー村をのぞむ

 

 そんな「モネの庭」と同じ名称を冠した庭が、なぜ高知の、人口約1,400人の山村にあるのか?

 誰しもがいぶかしがるその理由を説明することから、この稿を始めたいと思います。

 

 北川村は、古くからの柚子の産地で、かつてはその出荷量が日本一になったこともあるほどに生産が盛んです。とはいえ全国的に見れば、ほとんどその名を知られていない高知の片田舎の山村です。モネとはまったく縁もゆかりもなかったその村に「モネの庭」ができたのは、バブル崩壊がきっかけでした。

 そのころ村では、特産の柚子を活用しようと、ワイナリーを誘致してユズワインを生産し、そこを拠点として若者の定住を促進するなどの施策を進めていました。しかし、進入道路ができ、ワイナリー用地の造成が完了し、その後背地に自然公園の整備が進んでいたころにバブル崩壊をきっかけとして事業が挫折。その代替案として突如浮かび上がったのが、フランスにある「モネの庭」を当地でつくろうという、小さな村にとっては突拍子もないとも言える大きな計画でした。

 実現へのコネをもっていなかった村は、とりあえず若手職員をフランスに派遣し、モネの庭関係者との接触を図ったのですが、案の定、最初は門前払いに近い対応で、「他の庭を紹介しよう」と体よく断られます。当時、クロード・モネ財団へは、ガーデニングブームの影響からか、日本の自治体や企業など複数から同様の申し入れがあり、それらは金額面などでかなりの好条件を提示していたようなのですが、数度の交渉の末、「村おこし」の熱意が関係者の心を動かしたのか、当初は他と比べてまったくアドバンテージがなかった北川村がクロード・モネ財団からの協力を得る承諾をもらい、「印象派」の由来となった代表作『印象・日の出』をはじめとして世界最大級のモネのコレクションを収蔵していることで知られるマルモッタン・モネ美術館の名称を冠に抱き、門外不出だった「モネの庭」の名称を無償で与えられることになりました。そこから「本家」の管理責任者であるジルヴェール・グァエ氏の指導や助言をもらいながら庭づくりがスタート。「世界に2つしかないモネの庭」のうちのひとつ、「北川村モネの庭マルモッタン」の誕生です。

 

 

完成間近の「北川村モネの庭」(2020年4月)

 

 

 

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土佐の山間に息づくモネのエスプリ(0) ~ 序に変えて

2023年01月25日 | 北川村モネの庭マルモッタン

 

月刊『土木技術』(発行・土木技術社、企画製作・理工図書)が昨年12月をもって休刊となりました。昨年で100周年というから、ずいぶん長いことつづいた土木専門誌ですが、推測するに、長い出版不況と土木就業者数の減少という流れには逆らえなかったということでしょうか。

じつはこのわたしも、『土木技術』にはつごう2度ほど寄稿させてもらったことがあります。

1度目が2014年で、タイトルは『ゆうこさんを探せ』。2011年に自らが携わった台風災害からの国道493号応急復旧の体験を軸に、「建設現場からの情報発信」論を展開したものでした。

2度目は翌2015年。理工図書の柴山社長(当時)の直々の依頼を受け、前回とはがらりと趣向を変えて『土佐の山間に息づくモネのエスプリ』と題して、「モネの庭」が誕生した経緯やそれぞれの庭の特色などを、工事中のエピソードを交えて紹介しました。その回はそれだけにはとどまらず、4ページにわたって拙撮の写真をオールカラーで掲載してもらうなどの大特集、すべては向こうの求めに応じただけだったにせよ、今になって思い起こしてみれば汗顔の至りです。

最初に書いた『ゆうこさん・・・』の方は、拙講をお聴きになった方にはおなじみの話であり、そこから展開した持論は、このブログでも何度も繰り返してきたことですが、『土佐の山間に・・・』は、今となっては『土木技術』のバックナンバーでしかお目にかかれません。今さらそれを、わざわざ探し出して購入する奇特な人などいるはずもないでしょうから、お世話になった柴山さんと『土木技術』に敬意を表して、あらためてここに再掲して埋もれた拙稿に陽の目を見せることを思い立ちました。

明日から何回かに分けて掲載します。御用とお急ぎでない方は立ち寄って読んで行ってもらえたら幸いです。

 

 

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名残りの 〜 モネの庭から(その456)

2022年12月10日 | 北川村モネの庭マルモッタン

 

もう数輪しか残っていないという意味から言えばまさに名残りの睡蓮なのだけれど、名残りという言葉の儚さからは程遠く、でーんとして自らの存在を主張する花。

どっこい生きている。

 

 

 

 

 

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