答えは現場にあり!技術屋日記

「三方良しの公共事業」をモットーに、辺境の高知のそのまた辺境から、土木技術者のオジさんが泣き笑いの日々を届けます。

デタッチメントとコミットメント ー 内田樹『街場の憂国論』を読む

2014年02月16日 | 読む(たまに)観る

 

街場の憂国論
内田樹
晶文社(犀の教室)

 

お久しぶりです内田樹さん、なのである。

 

今回の『憂国論』は安藤さんが僕のブログから選び出したものを編んだ「政治ネタ」のアンソロジーです。使用されている素材は2011年から2013年にかけての2年間、

 

と「あとがき」にあるように、「政治ネタ」がそのほとんどを占めている。

いわゆる「政治ネタ」について、書きたいことは山ほどあれど、ある時期から「ここでは止めておこう」と決めている私だし、

この人の書く「政治ネタ」については、私の中では是々非々で、全面的に同意するというわけにはいかない(ま、なんでも「全面的」というのは有り得ないんですがネ)。

が、しかし、心持ちの有り様であるとか、物事に臨む態度であるとか、そういう基本的な事柄についての内田さんの考え方には、

いつもながらではあるけれど、「うんうんそうだよそうなんだよな」と頷かされることが多いのである。

例えば『日本のメディアの病』と題された2011年7月5日の稿。

 

 生き延びるためには複雑な主体でなければならない。変化に応じられるためには、生物そのものが「ゆらぎ」を含んだかたちで構造化されていなければならない。ひとつのかたちに固まらず、たえず「ゆらいでいること」、それが生物の本態なのである。

 私たちのうちには、気高さと卑しさ、寛容と狭量、熟慮と軽率が絡み合い、入り交じっている。私たちはそのような複雑な構造物としておのれを受け容れ、それらの要素を折り合わせ、共生を図ろうと努めている。そのようにして、たくみに「ゆらいでいる」人のことを私たちは伝統的に「成熟した大人」としてみなしてきた。P.218~219)

 

 メディアは「ゆらいだ」ものであるために、「デタッチメント」と「コミットメント」を同時的に果たすことを求められる。

 「デタッチメント」というのは、どれほど心乱れる出来事であっても、そこから一定の距離をとり、冷静で、科学者的なまなざしで、それが何であるのか、なぜ起きたのか、どう対処すればよいのかについて徹底的に知性的に語る構えのことである。

 「コミットメント」はその逆である。出来事に心乱され、距離感を見失い、他者の苦しみや悲しみや喜びや怒りに共感し、当事者として困惑し、うろたえ、絶望し、すがるように希望を語る構えのことである。

 この二つの作業を同時的に果たしうる主体だけが、混沌としたこの世界の成り立ちをいくぶんか明晰な語法で明らかにし、そこでの人間たちのふるまい方についていくぶんか倫理的な指示を示すことができる。(P.220~221)

 

いわずもがなではあるが、私が激しく共感するのは、「日本のメディアの病」という論ではあっても、「日本のメディアの病」についてではなく、

振り返っておのれはどうなのだろう、という私自身の「置き換え」である。

正しいオヤジとして、「かくありたい」し「かくあらねばならんな」と、そう思う故である。

 

ところでこの稿、たしかにかつて氏のブログで読んでいるはずなのだが、これほどの共感を持って読んだ記憶がなく、覚えているのは別のセンテンス。

「うんうんそうだよそうなんだよな」と頷きつつ読む一方で、

なんだかんだエラそうなことを言ってはみても、その時その場所の気分で、ビビッとくるポイントが違う自分が、なんだか可笑しい日曜日なのである。

 

 

 

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