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主権国家体制への転換と第一次世界大戦

2016-10-11 07:06:15 | Library
世界史上に有名な「百年戦争」はイギリスとフランスの戦いであるが、ヨーロッパの有力国は領土拡張を図るとともに、海外にも植民地の獲得を目指し始めた。
自国の領土拡張や植民地支配をめぐって各地で戦争が起こった。
イギリスとフランスの戦いも熾烈を極めたが、その影響は思わぬところに波及していく。

アメリカでの戦いに勝利したイギリスだが、植民地(アメリカ)側の不満が高まり、独立戦争(1775年)が起こってアメリカは独立していく。
フランスでも侵略戦争や植民地獲得戦争の出費が国家財政を破たんさせ、フランス革命(1787年)が起きる。
フランス革命後の混乱を治めたナポレオンは、国民の絶大な支持を受けて皇帝となり、ヨーロッパ全土に征服の手を伸ばす。
しかし、主要国による連合軍によってナポレオン帝国は崩壊し、ヨーロッパ諸国の勢力均衡を原則とするウィーン体制へとつながり、革命前の絶対王政の時代に逆戻りする。
ウィーン体制の本質である保守反動体制はロシア・オーストリア・プロイセンのもとで、ヨーロッパ諸国の自由主義とナショナリズム(国民主義)は抑圧された。
特にロシアは「ヨーロッパの憲兵」といわれて、国境を越えてそれらの民衆運動を弾圧する役割を担った。

一方でこの時期はイギリスが資本主義経済を成長させ、全盛期を迎えようとしており、国内でも自由主義的な改革が進んだので、次第にウィーン体制から距離を置くようになり、「光栄ある孤立」と称してどこの国とも組まず、独自の植民地獲得(1840年アヘン戦争など)を展開しパックス=ブリタニカといわれる植民地帝国を形成する。
また米英戦争を克服したアメリカ合衆国は、北アメリカ大陸での膨張を続け、さらにモンロー宣言(1823年)を発して新興勢力としてヨーロッパ諸国とは別個な行き方をとり、ラテンアメリカへの勢力圏の形成をめざした。

やがてヨーロッパ各国が自国の利害を求めて戦争と妥協を繰り返す時代から、徐々に互いの国益や利害を調整するための外交関係が持たれる時代となっていく。
主権国家体制の確立である。
大国の世界戦略と複雑な外交関係が重なり合ってヨーロッパの歴史は動いていく。

民族主義も高まり、「バン=ゲルマン主義」と「バン=スラヴ主義」はバルカン半島を舞台に激しく対立した。
「バン=ゲルマン主義」とは、ドイツ帝国において1890年代の世界政策展開の背景となった思想である。
ドイツとオーストリアという2つのドイツ人国家を統合し、さらに中世以来のドイツ人の東方植民によって東ヨーロッパからバルカン方面に広がっていたドイツ人居住地域もドイツ国家に併合しようというものだ。
しかしこの主張は、ポーランド、チェコ、セルビアなどを併合しようというものであったから、スラヴ系諸国の「バン=スラヴ主義」と厳しく対立した。
スラヴ系民族の「バン=スラヴ主義」は、バルカン半島のスラヴ系民族の独立と統一を目指す思想であり、その背後にはロシアが存在していた。

ドイツ・オーストリア・イタリアの三国は「三国同盟」を結び、それに対してロシア・フランス・イギリスは「三国協商」を結んで連合国と言われていた。
第一次大戦(1914年)の起きるきっかけは「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれていたバルカン半島の支配をめぐっての諍いからだった。
1914年にオーストリアの皇太子夫妻が、ボスニアの首都サラエボで暗殺されるという事件が起きる。
この事件に対する報復で、オーストリアはセルビアに宣戦布告、オーストリアの同盟国ドイツはオーストリアを支持し、ロシアはセルビアを支持し、同盟国と連合国の戦いに拡大していくのである。

日本はイギリスと日英同盟を結んでいたことを理由に、連合国側に立って参戦した。
この大戦でドイツ側に立って参戦したオスマン帝国は、敗戦を機に消滅した。





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