忘備録の泉

思いついたら吉日。O/PすることでI/Pできる。

講演ネタ(パレスチナ問題)

2016-10-31 10:41:31 | 読書
パレスチナ問題を生んだのは、イギリスの無責任な「三枚舌外交」である。
第1次大戦時のこと、この付近一帯はオスマントルコ帝国が支配していた。
オスマントルコと戦っていたイギリスは、アラブ勢力を味方に引き入れるため、「戦後、アラブ国家の独立を認める」と約束する。
これが1915年の「フサイン・マクマホン協定」だ。

その一方で、イギリスのバルフォア外相は戦費調達のため、ユダヤ資本であるロスチャイルド家の協力を得ようと、「パレスチナにユダヤ人のナショナル・ホームを設立する」と約束する。
これが1917年の「バルフォア宣言」

こうした二枚舌をつかって、双方に違う約束をしたうえで、戦後この地域の支配権をイギリスとフランスで分け合う、という秘密協定も結んでいた。
これが1916年の「サイコス・ピコ協定」だ。

これらの三枚舌外交が、パレスチナ問題のそもそもの発端になっている。
特に長い間、キリスト教社会で迫害されてきたユダヤ人は、戦後、国際世論の同情論にも後押しされて、イギリスが建国を約束したイスラエルに次々と移住してくる。
第2次大戦後はますますその人数が増えていった。
ところが、そこはもともとアラブ人たちが住むアラブ人の土地だから、紛争にならないわけがない。

手に負えなくなったイギリスは、1947年、パレスチナ問題を国連の手にゆだねる。
国連による「パレスチナ分割」が行われ、イスラエルは分け与えられた土地で建国を宣言する。
しかし、これを認めないアラブ諸国との間で、その後の長期にわたる中東紛争が始まった。
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講演ネタ(産業革命)

2016-10-27 08:46:34 | 読書
産業革命が18世紀後半のイギリスではじまったのは偶然ではない。
まず、イギリスは17世紀以来、オランダ、フランスとの植民地争奪戦に次々と勝ち、世界各地に広大な植民地を築いていた。
これらの植民地は、イギリスに莫大な利益をもたらし、それが産業革命の資金源になったのだ。
産業革命の原動力になったものとして、もうひとつあげられるのが、インド産の綿布だ。
インド産の綿織物は品質が良く値段も安いのでイギリスの伝統産業である毛織物はさっぱり売れなくなった。
そこでイギリスの業者は国内で綿布をつくれないかと工夫をし、綿花を紡いで糸にする紡績機や、糸から織物をつくる力織機などを発明した。
さいわいイギリスには新しく機械を導入できるだけの資金力があったので、綿糸と綿布の大量生産を構築していった。
こうして品質でも価格でもインド製品を圧倒するようになっていく。
これが後に世界に伝播する産業革命の幕開けである。
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講演ネタ(モンゴル帝国)

2016-10-26 09:35:34 | 読書
チンギス・ハンは、13世紀にモンゴル帝国を建国し、やがて世界地図をぬりかえた。
彼の大征服事業のかげには、トルキスタン地方のウィグル人やイスラム商人たちの活躍があった。
彼らは、モンゴル帝国が出現する前から、シルクロードを通って東西を行き来しており、中国やモンゴルとの交易で利益をあげていた。
しかし東西交易路の治安の悪さは悩みの種であったし、統一前にはアジアの国々を通るたびに通行税をとられていた。
そんなわけでシルクロードの商人たちは、この地域をひとつにまとめてくれる大国の出現を歓迎した。

いっぽう、チンギス・ハンにとっても、彼らの存在はなくてはならないものだった。
彼らは遊牧民に生活物資を運んでくるだけでなく、関税によって利益をもたらす存在でもある。
そのうえ彼らは、各地の情勢の貴重な情報源でもあった。
彼ら商人は、ユーラシア大陸をまたにかけて活動していたので、各地の情報をチンギス・ハンはいちはやく仕入れて、攻め込むチャンスをうかがうことができたのだ。

モンゴル帝国の創始者チンギス・ハンは1227年に息をひきとるが、その後もモンゴルの嵐は世界中で吹き荒れた。
その猛威はアジアにとどまらず、ヨーロッパにもおよぶようになる。
遠征軍の向かうところ敵はなく、ロシア全域を征服すると、1241年にはポーランド・ドイツの連合軍を破り、ハンガリーに侵攻して全土を支配した。
軍事力や戦術が格段に違っており、厳格な指揮系統をそなえて集団で攻め込むモンゴル軍にとって、騎士の集まりであるヨーロッパの軍は敵ではなかった。
当時のモンゴル皇帝が亡くなって、次の皇帝を決めるために本土に引き返さなければ、ヨーロッパ全域が支配されていたかもしれない。
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講演ネタ(オランダ)

2016-10-25 09:14:29 | 読書
オランダはスペインと戦い、1581年に「ネーデルランド連邦共和国」として独立、その後驚異的な経済成長を遂げて、黄金時代を迎えた。
小国オランダが、17世紀には世界経済への覇者へとのしあがったのである。
わずか7州で独立した小国がなぜそこまで発展したのだろうか。

当時北ヨーロッパ経済の中心地だったのは現ベルギーにあるアントワープだったが、戦争で荒廃し大商人が北部へ移ってきて、アムステルダムが空前の経済発展をとげることになる。
さらにオランダは、ポルトガルとスペインが独占していたアジア進出にも乗り出す。
そこにはスペインの無敵艦隊がイギリスに敗れ、スペインの圧力が弱まっていたという事情があった。
オランダは1597年から1601年にかけて、15船団、計65隻をジャワ島に送り込んだ。
目的は香辛料貿易で、この時期、日本にも到着している。
1602年には、オランダ企業同士の争いを避けるために、それらを統合した「オランダ東インド会社」を設立した。
同社には、商業活動の権利だけでなく、条約の締結権や軍隊の交戦権といった特権が与えられ、資本力でも諸国を圧倒した。
こうしてオランダはイギリスやポルトガルの追い出しに成功し、香料貿易をほぼ独占し、世界経済の覇権を握ることとなる。
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講演ネタ(スペイン)

2016-10-24 08:21:26 | 読書
16世紀、世界中に植民地を持ち、ヨーロッパでも絶大な勢力を誇っていたスペインは、「無敵艦隊」と呼ばれる大艦隊を擁していた。
リスボンからイギリス上陸をめざした「無敵艦隊」は、130の艦船と3万の兵、砲2000門という堂々たる編成だった。
それに対し、イギリス艦隊はわずか80隻。
戦力的にはスペインが圧倒的に優位に立っていた。
ところが大方の予想に反して、無敵であるはずのスペイン艦隊は、イギリス海軍に敗れてしまう。
勝敗を分けたのは機動力の差だった。

スペイン艦隊は1000トン級の大型船で、射程の短い重砲を装備していた。
スペイン軍は、敵船に接舷して陸兵を斬り込ませる白兵戦を主戦法としていた。
大量の陸兵を乗船させていたので、その分機動力はおろそかになっていた。

対するイギリス艦隊は、小型だが機動性にすぐれた船をそろえ、射程距離の長い軽砲を主力にした。
艦隊を指揮したのは、海賊上がりの船長らである。
結果、戦いはスペインの大敗に終わった。
スペインに帰り着いた船は、わずか54隻にすぎなかった。
この敗戦で、スペインの国力・権威は一気に揺らぎ、衰退の道を歩み始める。
一方、戦いに勝利したイギリスは、制海権を握り、海洋帝国への礎を築くことになった。
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