忘備録の泉

思いついたら吉日。O/PすることでI/Pできる。

世界の三大宗教からみた「生きる」ということ④

2020-08-27 13:51:44 | Library

仏教

まず、仏教の出発点は、「一切皆苦(人生は思い通りにならない)」と知ることから始まります。
なぜ苦しみが生まれるのでしょうか。

仏教ではこの原因を、「諸行無常(すべてはうつり変わるもの )」で、「諸法無我(すべては繋がりの中で変化している)」という真理にあると考えます。
これらを正しく理解したうえで、世の中を捉えることができれば、あらゆる現象に一喜一憂することなく心が安定した状態になる――と教えます。

つまり、真理を理解すれば苦しみから解放される、とお釈迦さまは説かれました。

まず、お釈迦さまは、私たちの世界は自分の思い通りにならないことばかりである、という真理を説いています。
仏教の「苦」とは、単に苦しいということではなく、「思い通りにならない」という意味です。
この「苦」には、「四苦八苦」と呼ばれる八つの苦しみが挙げられています。

 

このように、仏教では「生き方」の教義が中心で、「死に方」についての教義は不殺生以外は見当たりません。

 

(おわり)

 

 


世界の三大宗教からみた「生きる」とは③

2020-08-27 08:23:48 | Library

キリスト教

 

「生きる意味は何ですか」という質問は大切な問いです。
しかし、この問いを考えるためには、まずもって、その前に言わねばならない事があります。
それは「生きることに意味がある」という事実です。
「生きる意味は何か」という問いは「第二の言葉」に過ぎません。
「生きることに意味がある」という第一の言葉がない限り、その意味を問うことはできませんし、問うてはいけないとさえ思います。
なぜならば「生きる意味」を問い、それに答えることができれば生きることができますが、もし答えることができなければ「生きる意味はない」ことになり、ついには「意味がないなら死んだ方がいい」となるからです。
だから、まず「生きることに意味がある」ときちんと言って、その上で、「じゃあその意味は」、「何のために生きるのか」と問うのです。

この順番は極めて不可逆的な事柄でなければなりません。

キリスト教は復活の宗教です。
それは人は永遠のいのちを生きるということであり、生きることが前提となっています。

死をも超えて人は生き続ける。

キリスト教はそれほど強烈に「生きること」を前提としています。
その中で、人は問い、惑い、時に安心するに過ぎません。
イエスは言いました。
「わたしはよみがえりであり、命である。
わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。
 
また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない」(ヨハネ福音書十一章)。

「生きることに意味がある」。
すべての問いは、この言葉を追い越すことはできません。

このようにキリスト教では「生き続ける」ことが教義の中心です。

(キリスト教牧師の言葉より)

(つづく)


世界の三大宗教からみた「生きる」とは②

2020-08-26 09:08:28 | Library

イスラム教

 

人間は唯一アッラーだけに隷属する存在であり、ほかのいかなる権威にも隷属しないという考え方です。
それはいいかえれば、神以外のあらゆる権威から自由であるということでもあります。
この認識を政治、法律、経済から日常生活にいたる人間の営みのすべてについて貫こうとするのがイスラームです。

神に仕える信徒は、まず宗教的義務を果たす必要があります。
イスラム教では、生きるルールとしての聖典コーラン”があり、すべての行動は聖典に従わなければなりません。
そして聖典に従うということは、一人一人が能力に応じ、自分が主体的に何をすべきかを、聖典の言葉の中に見出すように努力することです。

さらに、詳細を教えてくれるマニュアルとしてのハディースが、人々の確固とした心の拠り所になり、悪いことをしてしまっても良い行いで挽回できる柔軟性も兼ね備えています。
食欲、物欲、性欲に関しても、節度があるからこその快楽という考え方です。

このようにイスラム教徒は、その生き方を厳格にコーランのなかで定められており、自殺することは禁止されています。

 

(つづく)


世界の三大宗教からみた「生きる」とは①

2020-08-25 07:59:57 | Library
世界の三大宗教とは、「イスラム教」「キリスト教」「仏教」のことです。
 

イスラム教

預言者ムハンマドが開祖です。
メッカを支配していたアラブ人の部族に生まれ、40歳のとき、大天使からアッラーの啓示をうけ、説教を開始しました。
しかしアラブ人は多神教を信じる者が多く、また偶像崇拝を禁ずるイスラム教は商人や貴族の不利益を生みます。
そのため強い反感を買い、迫害されてしまいます。

新たな活動の場を求めて、メディナへ移住し、メッカ連合軍とイスラム軍の聖戦を経て、信者を増やしていきました。

キリスト教

神の子イエス・キリストが開祖です。
貧しいユダヤ人の子どもとしてエルサレムに生まれました。
成人後、ヨハネの洗礼を受けると宣教活動を始めます。

神の啓示により最後の審判が近いので、悔い改めなさいと人々に訴えました。
しかしイエスの行動は、正統なユダヤ教に反するものだとされ、十字架にかけられ処刑されます。
イエスは人々の罪を代わりに背負い、自らの命をもって罪をつぐなったのです。

仏教

ブッダが開祖です。
悟りを得た人物をすべてブッダと呼ぶ場合がありますが、釈迦1人をブッダとするのが一般的です。
北インドの小国の王族に生まれました。
とても恵まれた生活をしていましたが、老病死という人生の3つの苦しみの存在を知りました。
その苦しみの解決策を探すために、国も家族も捨てて出家します。

死と隣り合わせの修行をするも悟りは得られず、仲間も一度は離れていってしまいますが、座禅を続けようやく悟りの境地にたどり着きます。
80歳の死のときまで人々に教えを説いてまわりました。

(つづく)


なぜ哲学は、「死なないほうが良い」ことを論証できないのか③

2020-08-23 10:31:57 | Library
しばらくの間、存在していないよりも悪くなるが、回復するケースもある。
自殺しない限り、送る価値のある人生へと戻れるし、その人生をたっぷり送れる可能性もある。



人生がとても順調だったのに、あるときから人生最悪の期間を過ごし、その後回復するが価値のレベルは低いし、その期間も少ないケースもあるだろう。
このケースでB点で自殺したとしたらどうだろうか。
第Ⅲ幕の価値の低さと短さゆえに自殺した方がよかったと考えるのか、それとも長い間の苦しみから解放されたという喜びに包まれるほうを選択するのだろうか。

自殺を考えている多くの人にとって、より正確なグラフは下図のようになるのではないか。
失恋した。失業した。受験に失敗した。事故にあい車椅子生活になった…etc
そこで以前の人生と比べたり、夢見ていた人生と比べたり、周りの人の人生と比べたりして、今の人生は生きる価値がないと思いこむ。
だが、事実はそうではないことがよくある。
期待していた人生ほど生きる価値がなかったとしても、やはり存在しないよりは良いのだ。

いろいろな線を引き、このケースやあのケースでは未来がこうなると予測して自殺は理にかなっている、と断言するのはたやすいかもしれない。
だが実生活では、物事がたしかにこのようになるという保証などない。

この本では、生と死にまつわる事実について自ら考えるように、読者を促している。
死とは何か、私たちには魂があるのか、死は悪いものなのか、永遠に生きるのは良いことなのか、死ぬという事実をどう受け止めるべきか、死ぬという事実を踏まえてどう生きるべきか、自殺は許されるのか、など、死について考えるときに避けて通れない具体的で大切な問題をていねいに取り上げている。

「死にたい」「生きていることが辛い」「生きている価値が私にはない」などという悩みの声を聴くことがある。
そういう人に「死んではいけない。生きるべきだ」と諭すことはたやすいが、究極に追い込まれている相手の心に響いていく言葉がまだ見つからない。
哲学的に考えれば考えるほど難しいという意味がよく分かった。

(参考文献「DEATH」シェリー・ケーガン著)