社会人になって働いて収入を得て独り立ち。
それまでは親の保護の下に生きてきたが、これからは自由だ、と思い社会人生活をスタートさせた。
職場で指導を受けた先輩や上司にも恵まれたが、20歳のときに入門した少林寺拳法にのめりこんだ。
25歳の時に会社に支部をつくり仲間をつくり近所の子どもたちにも少林寺を教えた。
仕事をおろそかにしたつもりはないが、稽古日には定時退社をこころがけ、どうしようもないときは稽古が終わってから職場へ復帰した。
それが許された時代であり、職場でもあったことは、私にとって幸せだった。
ちょうどそのころ結婚を意識して付き合っていた彼女に災難が舞い込んだ。
同じ会社で看護婦をしていた彼女に、共産党シンパの疑いがかけられたのだ。
当時、会社内にも共産党支部がつくられており、会社側は過剰にその拡大に警戒していた。
疑惑の原因は彼女が以前勤めていた病院が共産党の支配下にあったということだった。
いったん色メガネで見られるとそのメガネの色を変えることは難しい。
それにまつわるトラブルが続出し、彼女から相談を受けた私は、職場の先輩でもあり労働組合の役員をやっている方に相談した。
ふたりで話を聞いてもらい、先輩の働きによって会社側の誤解も解けた。
それが縁で組合活動にまったく縁がなかった私は、職場委員、代議員、代議員議長と恩返しのつもりで務めていった。
先輩はそれから労働組合の委員長に就任し、私も執行部入りを何回も進められたが断り続けてきた。
しかし、30歳の時、とうとう断りきれずに専従者として執行部入りをした。
それから私の人生は180度転換し、そしてあるハプニングにより35歳で委員長に就任した。
労組活動は自分の都合どうりには動かず、仲間に助けられ続けてきた少林寺拳法の支部もとうとう40歳で閉めざるを得なくなった。
寂しかったし、残念だった。
委員長の重責はすさまじかったが、得るところも多かった。
わずか3千人の組織だが、市会議員、県会議員、市長と3人の政治家を組織内に抱えており、選挙のたびに歯を1本ずつ無くしていった。
苦労は人を育てるというが、こんな私でも、10年間委員長職を全うできたのはそのせいだと思う。
50歳になって大荷物も片付いたのでそろそろ退任を考え始めた矢先、上部団体から県組織の委員長就任要請がきた。
会社からもこれが職場復帰の最後のチャンスだと誘いがあったが、悩んだ挙句、慣れ親しんだ労働運動の道を選んだ。
県内100を超える労組のリーダーとしてあるべき姿を追い求めてまた新しい毎日が続いた。
53歳のときに想定外の県連合の事務局長兼任、そして55歳で会長就任、50代にしては目まぐるしい10年が続いた。
20万人のトップとして恥ずかしくないリーダーになろうと、ここでももがき続けた。
私の歩んできた道はおそらく後世の人たちが検証してくれると考えるが、後ろ指を指されるようなことだけはしてこなかった。
それだけは自慢できる。
会長就任後、1年ほどして出あったのが「自死遺族を支えるボランティア」の講演だった。
そして、「こころの相談」ができるようにと始めた専門教育とボランティア、そこから派生してできていく仲間たち。
そんな仲間たちと「エンカウンター合宿」に参加し、その合宿で私は大きな影響を受けた。
63歳のときだった。
合宿2日目の夜、私は一睡もできないまま朝を迎えた。
どういう経過からか定かではないが、「ほんとうはあなた何をしたいんですか?」という質問が私に向けられた。
“ほんとうの自分”(?)…窮屈な鎧兜をつけて生きてきた自分はほんとうの自分ではない…“ほんとうの自分”(?)…。
合宿を終えて日常に復帰してもその質問が頭から離れなかった。
そこから見出した自分自身の答えのままに今は生きている。
“広告コピー秀作集”
学術上、クマンバチは飛べない。
それを知らないから飛べるんだって。
それまでは親の保護の下に生きてきたが、これからは自由だ、と思い社会人生活をスタートさせた。
職場で指導を受けた先輩や上司にも恵まれたが、20歳のときに入門した少林寺拳法にのめりこんだ。
25歳の時に会社に支部をつくり仲間をつくり近所の子どもたちにも少林寺を教えた。
仕事をおろそかにしたつもりはないが、稽古日には定時退社をこころがけ、どうしようもないときは稽古が終わってから職場へ復帰した。
それが許された時代であり、職場でもあったことは、私にとって幸せだった。
ちょうどそのころ結婚を意識して付き合っていた彼女に災難が舞い込んだ。
同じ会社で看護婦をしていた彼女に、共産党シンパの疑いがかけられたのだ。
当時、会社内にも共産党支部がつくられており、会社側は過剰にその拡大に警戒していた。
疑惑の原因は彼女が以前勤めていた病院が共産党の支配下にあったということだった。
いったん色メガネで見られるとそのメガネの色を変えることは難しい。
それにまつわるトラブルが続出し、彼女から相談を受けた私は、職場の先輩でもあり労働組合の役員をやっている方に相談した。
ふたりで話を聞いてもらい、先輩の働きによって会社側の誤解も解けた。
それが縁で組合活動にまったく縁がなかった私は、職場委員、代議員、代議員議長と恩返しのつもりで務めていった。
先輩はそれから労働組合の委員長に就任し、私も執行部入りを何回も進められたが断り続けてきた。
しかし、30歳の時、とうとう断りきれずに専従者として執行部入りをした。
それから私の人生は180度転換し、そしてあるハプニングにより35歳で委員長に就任した。
労組活動は自分の都合どうりには動かず、仲間に助けられ続けてきた少林寺拳法の支部もとうとう40歳で閉めざるを得なくなった。
寂しかったし、残念だった。
委員長の重責はすさまじかったが、得るところも多かった。
わずか3千人の組織だが、市会議員、県会議員、市長と3人の政治家を組織内に抱えており、選挙のたびに歯を1本ずつ無くしていった。
苦労は人を育てるというが、こんな私でも、10年間委員長職を全うできたのはそのせいだと思う。
50歳になって大荷物も片付いたのでそろそろ退任を考え始めた矢先、上部団体から県組織の委員長就任要請がきた。
会社からもこれが職場復帰の最後のチャンスだと誘いがあったが、悩んだ挙句、慣れ親しんだ労働運動の道を選んだ。
県内100を超える労組のリーダーとしてあるべき姿を追い求めてまた新しい毎日が続いた。
53歳のときに想定外の県連合の事務局長兼任、そして55歳で会長就任、50代にしては目まぐるしい10年が続いた。
20万人のトップとして恥ずかしくないリーダーになろうと、ここでももがき続けた。
私の歩んできた道はおそらく後世の人たちが検証してくれると考えるが、後ろ指を指されるようなことだけはしてこなかった。
それだけは自慢できる。
会長就任後、1年ほどして出あったのが「自死遺族を支えるボランティア」の講演だった。
そして、「こころの相談」ができるようにと始めた専門教育とボランティア、そこから派生してできていく仲間たち。
そんな仲間たちと「エンカウンター合宿」に参加し、その合宿で私は大きな影響を受けた。
63歳のときだった。
合宿2日目の夜、私は一睡もできないまま朝を迎えた。
どういう経過からか定かではないが、「ほんとうはあなた何をしたいんですか?」という質問が私に向けられた。
“ほんとうの自分”(?)…窮屈な鎧兜をつけて生きてきた自分はほんとうの自分ではない…“ほんとうの自分”(?)…。
合宿を終えて日常に復帰してもその質問が頭から離れなかった。
そこから見出した自分自身の答えのままに今は生きている。
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学術上、クマンバチは飛べない。
それを知らないから飛べるんだって。