忘備録の泉

思いついたら吉日。O/PすることでI/Pできる。

パレスチナ⑭

2019-09-29 10:45:42 | 読書
PLOがベイルートから撤退すると、難民キャンプでは虐殺事件が頻発し、「インティファーダ」と呼ばれるパレスチナ人の抵抗運動が始まる。
武器を持たない人々が石を持ってイスラエル軍に対抗し始めたのである。
犠牲者がいくら出ても完全武装のイスラエル兵に石だけで立ち向かうパレスチナ人の姿が、世界に報道された。

その後も世界の火薬庫は収まることもなく今もなお混迷を続けている。
イラクによるクウェート侵攻。
そして湾岸戦争ぼっ発。
米国での同時多発テロと米国によるアフガン爆撃。
世界中至る所でテロが起き始めた。

2017年、アメリカ合衆国のドナルド・トランプ大統領はイスラエルの首都をエルサレムとして認識・承認した。
これはアメリカの約70年にわたる外交政策の転換で、アメリカ大使館もテルアビブからエルサレムに移転する計画を命じた。
パレスチナの複雑で悲惨な歴史を読み終えて、どうしようもない感情に襲われている。
この狭い地球のなかで人間同士が争わねばならない愚を避けることができるのか否か、環境的な負荷に耐えかねて地球が限界を超えるのか、いずれにしても克服しなければならない課題はあまりにも大きい。
(おわり)


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山を越えないと見えない山があった。

パレスチナ⑬

2019-09-24 16:22:46 | 読書
1982年6月4日、イスラエルはレバノン南部を中心に猛烈な爆撃を行った。
イスラエルはエジプトのことを気にしないで、全軍を北にだけ集中できた。
PLOの兵力は12,000~14,000人、一方のイスラエルは予備役まで入れると50万人近く、そして空軍・機甲部隊とも圧倒的な兵力を誇っていた。
レバノン南部のパレスチナ・キャンプは瓦礫に変わっていった。

戦争に介入してきたシリア軍に対しては、すぐさま反撃し、シリア空軍とミサイル基地を破壊した。
6月8日には国連の停戦案を、PLOとレバノンが受諾したが、イスラエルは拒否をする。
そしてアメリカは、国連安保理事会のイスラエル非難決議に拒否権を行使したのである。
無差別爆撃は続き、レバノンは最新兵器の実験場となっていく。
ベイルートには、パレスチナ人のほかに40万人のレバノン人がいた。
ベイルートにも大爆撃が行われ、徹底的な破壊が繰り返されるなかで、PLOは居場所を失い撤退し、ようやくレバノン戦争が終結した。
(つづく)


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昼間から飲んでも
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パレスチナ⑫

2019-09-19 11:41:57 | 読書
パレスチナ・キャンプのなかに限れば、パレスチナ革命はすばらしいさまざまなものを創出していた。
こうしたことはやがて世界に伝えられ、「テロリストの巣」というイメージとかけ離れた、人間らしい生活や文化がある、と理解され始めるようになっていく。
さらに国際舞台でPLOが躍進し、占領地区内の自治体選挙でもPLO支持派が圧勝する。
イスラエルは国際的孤立を深め、政治的・軍事的存在としてのPLOを壊滅させるほかないと考えるようになっていく。

レバノン内戦が終結した翌年、イスラエルは右派リクード政権が誕生する。
ペギン首相は、好機到来とばかりに占領地に入植地を増やしていく。
こうしたときに、イスラエルとエジプトの和平工作が進められた。
エジプトにとっては、財政赤字解決のために、アメリカの援助が必要だった。
さらにイスラエルとの緊張が緩和されれば、エジプトは膨大な軍事費を国内対策に向けられる。
エジプトのサダト大統領は、ペギン政権の誕生したその年にイスラエルを訪問し、エルサレムの国会で「平和を求める」という演説を行う離れ業を演じた。

その後、アメリカ主導のもとで、PLO抜きの和平工作は進められ、1978年、アメリカのカーター大統領、サダト大統領、ペギン首相の3人による「キャンプ・デービッド合意」が発表された。
このキャンプ・デービッド合意は、エジプトとイスラエルの平和条約締結と、パレスチナ自治交渉という2つの内容をもっていた。
平和条約については79年に調印され、第3次中東戦争でイスラエルが占領したシナイ半島も82年にエジプトに返還された。

もうひとつのパレスチナ自治交渉は難航した。
イスラエルは、80年7月、東西エルサレムを永久首都化する法案を国会で通過させたのである。
エルサレム永久首都化法案は世界のほとんどの国の反対にあった。
エジプトとの交渉も中止せざるを得なくなった。
しかし、キャンプ・デービッド合意は、実質的にイスラエルから南の大敵エジプトの脅威を取り除いた。
イスラエルは、北の大敵(レバノンのPLOとシリア)との全面戦争を行う準備を整えていく。
(つづく)


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パレスチナ⑪

2019-09-18 15:14:29 | 読書
PLO内部の対立問題は、1974年のパレスチナ民族評議会で一応の決着がついた。
「少しの土地でもシオニストの手から解放したら、その土地に民族的権威を樹立していく」という内容の宣言が採択された。
その後、アラファト指導下のPLOは政治的躍進の時代に入った。

次第にレバノンは、パレスチナ人のゲリラ基地になっていく。
そうした状態をイスラエルが認めるわけはなく、ゲリラ活動でイスラエルに犠牲者が出るとイスラエルはレバノンのパレスチナ・キャンプだけでなく、レバノン人の村や町も攻撃した。
1975年、パレスチナ人の乗ったバスが、ベイルート郊外で襲撃され、女や子どもを含む27人が死亡した。
この事件をきっかけに一挙に戦闘が拡大し、レバノン民族運動とパレスチナ人の左派ゲリラ組織の共闘が始まった。
「レバノン内戦」の始まりである。
76年にはPLOが全面介入し、レバノン民族運動とPLOはレバノン全土の80%を支配するまでに勢力を伸ばした。
それまでPLOを支援していたシリアはその状況を見て、レバノンに急進的政権が誕生すると自らの体制を危うくすると考えて、レバノンに介入してPLOと対立した。

レバノン内戦は2万人の死者を出して、1976年11月に終結した。
新しいレバノンの陰の支配者は、シリア大統領アサドだった。
PLOのアラファト議長は、シリアと協定を結び、レバノン南部に「解放区」をもった。
レバノンのパレスチナ・キャンプを中心に、PLOは準国家機構を準備していった。
(つづく)


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パレスチナ⑩

2019-09-16 11:10:01 | 読書
ヨルダンから追放されたPLOは、レバノンのベイルートに本拠を移した。
1973年10月に「第4次中東戦争」が起こった。
イスラエルは敗北したわけではなかったが、勝利なき戦争でもあった。
エジプトは、今こそイスラエルと対等で和平を論じるときだと考えた。
そしてPLOもこうした傾向への対応を迫られていた。
パレスチナ難民が生まれてからこの時、すでに25年が経過していたが、パレスチナ解放は遠のくばかりであった。
「すべてか、無か」というやり方ではなく、イスラエルを承認し、占領地撤退を求めるという現実的要求を考えるべきではないかという議論が起こってきたのである。
そして、ヨルダン川西岸地区とガザ地区にパレスチナ国家を建設するという「ミニ・パレスチナ国家」案が浮上した。
第一次中東戦争の結果、イスラエルがパレスチナの77%の土地を手に入れたことを認め、残りの23%にパレスチナ国家を樹立すべきという案である。
現実派のファタハは、PLOは敗北を重ね続けたのだから、具体的に可能なところから取りかからなければならないとした。
一方、PFLPを中心とする勢力は、「拒否戦線」を組織して激しく対立した。
(つづく)


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きゅんって、
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