忘備録の泉

思いついたら吉日。O/PすることでI/Pできる。

「悠々自適」的 生活

2017-08-31 13:06:38 | 日記
ゆったりと落ち着いて、自分の心の思うままに過ごす。

「悠々自適」的 生活が、少しは送れるようになってきた。

3月末の悪夢は悪夢として残ってはいるが、いつしか薄れて消えてなくなるだろう。

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愛するということ(4)

2017-08-29 10:24:06 | 読書
現在の西洋社会においては、愛はしょせん二次的な現象である。
それは、多くの職業が、人を愛する姿勢を許容しないからではなく、むしろ、生産を重視し、貪欲に消費しようとする精神が社会を支配しているために、非同調者だけがそれにたいしてうまく身を守ることができるからである。
したがって、愛のことを真剣に考え、愛こそが、いかに生きるべきかという問題にたいする理にかなった答えである、と考えている人びとは、次のような結論に行き着くはずだ。
すなわち、愛が、きわめて個人的で末梢的な現象ではなく、社会的な現象になるためには、現在の社会構造を根本から変えなければならない、と。

現代社会は、企業の経営陣と職業的政治家によって運営されており、人びとは大衆操作によって操られている。
人びとの目的は、もっと多く生産し、もっと多く消費することだ。
それが生きる目的になってしまっている。
すべての活動は経済上の目標に奉仕し、手段が目的となってしまっている。
いまや人間はロボットである。
美味しい物を食べ、しゃれた服を着てはいるが、自分のきわめて人間的な特質や機能に対する究極的な関心をもっていない。

人を愛することができるためには、人間はその最高の位置に立たなければならない。
人間が経済という機械に奉仕するのではなく、経済機械が人間に奉仕しなければならない。
たんに利益を分配するだけではなく、経験や仕事も分配できるようにならなければいけない。
人を愛するという社会的な本性と、社会生活とが、分離するのではなく、一体化するような、そんな社会をつくりあげなければならない。
もし愛が、いかに生きるべきかという問題にたいする唯一の健全で満足のゆく答えだったとしたら、愛の発達を阻害するような社会は、人間の本性の基本的欲求と矛盾しているから、やがては滅びてしまう。

「愛するということ」エーリッヒ・フロム
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愛するということ(3)

2017-08-28 14:22:57 | 読書
愛の習練
愛の習練に関する議論に何ができるかといったら、愛の技術の前提条件、愛の技術へのいわばアプローチ、そして、それらの前提条件とアプローチの習練について、論じるだけである。
目標への階段は自分の足で登っていかねばならない。
決定的な一歩を踏み出すところで、議論は終わる。
とはいえ、さまざまなアプローチについて論じることは、技術の習得の助けになるにちがいない。

どんな技術であれ、その習練を積むためにはいくつか必要なことがある。
それは、大工の技術であろうと、医術であろうと、愛の技術であろうと、まったく同じである。
まず第一に、技術の習練には「規律」が必要である。
第二に「集中」が技術の習得にとって必要条件であることは、ほとんど証明不要だろう。
一度でも何かの技術を学ぼうとしたことのある人なら、知っているはずだ。
第三の要因は「忍耐」である。
性急に結果を求める人は絶対に技術を身につけることはできない。
最後にもうひとつ。
技術の習得に「最高の関心を抱く」ことも、技術を身につけるための必要条件のひとつである。
もしその技術がいちばん重要なものでないとしたら、その技術を身につけようとしても、決して達人にはなれない。
技術の習得のための一般的条件に関して、もうひとつ重要な点を付け加えておかねばならない。
私たちは、いわば直接的にではなく間接的に、ある技術の習得に取りかかる。
誰でも、その技術そのものを学ぶ前に、ほかの、しばしば関連がないように見えることを、あれこれ学ばなければならない。
大工の見習いはまず、木を平らに削るコツを学び、ピアノを習う生徒はスケールの練習から始める。
どんな技術であれ、それに熟達したかったら、自分の全生活をそれに捧げなければならない。
すくなくとも生活全体をその技術の習練と関連づけなければならない。

(つづく)
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愛するということ(2)

2017-08-27 09:38:55 | 読書
愛、それは人間の実存の問題にたいする答え
人類全体の誕生にしても、個人の誕生にしても、人間は誕生と同時に、本能が支配する明確な世界から、不明確で、不安定で、開かれた世界へと投げ出される。
確かなのは過去についてだけで、将来について確かなことといったら、死ぬということだけだ。
人間は理性を授けられている。
人間は自分自身を知っている生命である。
人間は自分を、仲間を、自分の過去を、そして未来の可能性を意識している。
そう、人間はたえず意識している。
人は一つの独立した存在であり、人生は短い。
人は自分の意思とはかかわりなく生まれ、自分の意思に反して死んでゆく。
愛する人よりも先に死ぬかもしれないし、愛する人の方が先に死ぬかもしれない。
人間は孤独で、自然や社会の力の前では無力だ、と。
こうしたこと全てのために、人間の、統一のない孤立した生活は、耐え難い牢獄と化す。
この牢獄から抜け出して、外界にいるほかの人々となんらかの形で接触しないかぎり、人は発狂してしまうだろう。

人間のもっとも強い欲求とは、孤立を克服し、孤独の牢獄から抜け出したいという欲求である。
この目的の達成に全面的に失敗したら、発狂するほかない。
なぜなら、完全な孤立という恐怖感を克服するには、孤立感が消えてしまうくらい徹底的に外界から引きこもるしかない。
そうすれば、外界も消えてしまうからだ。

(つづく)

「愛するということ」エーリッヒ・フロム
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愛するということ(1)

2017-08-26 09:32:37 | Library
愛とは、孤独な人間が孤独を癒そうとする営みであり、愛こそが現実の社会生活のなかで、より幸福に生きるための最高の技術である、とフロムはいう。
ところが私たち現代人は、愛に渇えつつも現実には、そのエネルギーの大半を、成功、威信、金、権力というような目標をいかにして手に入れるかに費やし、「愛する技術」を学ぼうとはしない。
人間砂漠といわれる現代にあり、愛こそが、われわれに最も貴重なオアシスだとして、その理論と実践の修得をこの本は薦めている。

「愛は技術である」などと言われても、ピンとこない人が多いのではなかろうか。
多くの人は、愛を、自分の意思ではどうにもならないものと考えている。
多くの人にとって、母性愛のような愛は生得的なものであり、男女の恋愛は「一目惚れ」という言葉にも示されているように、自然発生的なものである。
それを、フロムはあえて「愛は技術である」と言い切る。

また、愛はきわめて個人的な経験であるという一般の観念にたいしても、フロムは挑戦する。
たしかに愛は個人的な経験であり、自分で経験する以外に愛を経験する方法はない。
だが、人間が社会的存在である以上、愛も社会構造の大きな影響を受ける。
したがって、現代人の愛には現代社会の特徴が反映している。
では現代社会の特徴とは何か。
フロムに言わせれば、それは「市場原理」である。
資本主義と言い換えてもいい。
すべてが金に換算され、市場に公平に交換される。
だが、フロムが力説しているように、公平の原理のなかには愛は含まれていない。
フロムがこの本を書いてから50年以上たったわけだが、この間に社会は大きく変化した。
だが、「愛は崩壊した」というフロムの主張は今でも通用する。
この50年間に状況はますます愛にとって不利になっている。

(つづく)

「愛するということ」エーリッヒ・フロム
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