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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

悩めない大学生について・・

2014-04-28 19:59:14 | 日記
A.大学生のカウンセリングから
  長い間大学の教師をやっていると、学生の変化というものを感じるときがある。それがどういうものか、簡単に説明するのは難しい。ただ昔は、同世代の若者がみな大学に来るわけではなかったから、大学生というのは日本という社会の中で、比較的恵まれた親のもとで、順調に受験の階段を上って来て、自分と自分を取り巻く人間の世界について、ある程度自分を対象化してみることができ、知的にものを見る能力を備えていると想定して、教育は組み立てられていたと思っていた。しかし、進学率が上昇して同じ学年の子どもたちの半数以上が大学にくる時代になって、何か基底の部分で大きな変化が起きているのかもしれないと思う。それを表面な部分で捉えて、いつの時代も通俗的に言われたような「いまどきの学生は・・」云々という口ぶりではなく、実際に日常的に大学生に接している立場から、それを考えて何がいえるのか?
  最近話題の本のひとつ、最相葉月「セラピスト」はその点で河合隼雄の「箱庭療法」と中井久夫の「絵画療法」を手がかりに、精神医学やカウンセリングの現状を追いかけている。その中から、ぼくには興味深かった、関西のある大学で二十年以上学生相談室で専任カウンセラーをしている高石恭子さんの取材部分から。

 「学生相談室で受ける相談件数は、年間延べ千八百件。そのうち箱庭療法を行うケースは二、三十件で、一人で複数回作る場合もあるが、多くは一回きりである。友だちができない、就職がなかなか決まらない、といった悩みから、精神疾患との向き合い方まで相談はさまざま。カウンセラーは学生が退室すると記録を取り、片付けを行うとすぐに次の学生を迎える。その連続である。一期一会は学生相談の現場でも変わりなかった。
「箱庭療法はやりにくくなっています。絵画療法もそうです。箱庭や絵画のようなイメージの世界に遊ぶ能力が低下しているというのでしょうか。イメージで表現する力は人に備わっているはずなのですが、想像力が貧しくなったのか、イメージが漠然としてはっきりしない。内面を表現する力が確実に落ちているように思います。ストレスがあると緊張は高まって、しんどいということはわかる。だけど、何と何がぶつかっているのか、葛藤が何なのか、わからない。主体的に悩めないのです」
 何に悩んでいるかわからないなら、学生たちはここで何を訴えるのですか。
「最近多いのは、もやもやしている、といういい方です。怒りなのか悲しみなのか嫉妬なのか、感情が分化していない。むかつく、もない」
 むかつく、もない?
「むかつく、というのは苛立ちや怒りの対象があるということです。でも、最近は対象がはっきりせず、もやもやして、むっとして、そしてこれが一定以上高まるとリストカットや薬物依存、殴る、蹴るの暴発へと行動か、身体化していきます。でも、なぜ手首を切りたくなったのか、その直前の感情がわからない。思い出せない。一、二年ほどカウンセリングを続けて、そろそろわかっているだろうと思っていた人がわかってくれていなかったことがわかる。それぐらい長く続けてもわからないのです。悩むためには言葉やイメージが必要なのに、それがない。身体と未分化というのでしょうか、○○神経症と名付けられるのはごく少数派です」
 以前はそうではなかったのでしょうか。
「ええ。私が相談室に入った一九八〇年代は、クライエントにはまだ主体性がありました。抱えている問題を言葉やイメージで伝えることができました。ところが、今は、言葉にならないというだけでなく、イメージでも表現できないのです。箱庭を作りたい、絵を描きたい、夢について語りたい、という学生も減りました。かといって、カウンセラーのほうにも箱庭に誘うゆとりがありません」
 河合(河合隼雄:引用者註)はかつて、箱庭療法がどんなクライエントに実効性をもつかについて、「箱庭という表現によって、その人が内面的な表現ができるかぎり、だれにとっても意味を持つ」(『トポスの知』)と述べていた。だが、その前提が崩れかけているということか。」最相葉月『セラピスト』新潮社、2014、pp.283-284.

 ぼくもこれまで接した学生のうち、何人かはここでとりあげられているような症例に近い学生に出会ったことがある。ぼくはセラピストではないので、ただ慎重に通常の学生に対するような態度で接するのはマズい、と感じて、彼ら彼女らが抱える悩みや困難を、黙って聴くことでどのような解決の道があるのかを探った。ぼくの大学にも学生相談室があったので、ケースによってはカウンセラーや、技術的に対処できる場合は学生支援室に連絡して、それなりに解決された場合もある。しかし、専門家に任せれば必ずうまくいく、ともいえない場合もあった。
 箱庭療法については、ぼくの大学はかなり早い時期から心理相談に取り組んでいたので、身近に箱庭もあったし、ケース研究なども行われていた。ただ、それは素人が関与することを拒んだ世界で、クライエントへの社会的な偏見も強かったから、そのような技法が必要なことは理解できたが、精神分析についてフロイトから接近してみると、果たしてこれで治療としてどこまで意味があるのか、疑問を抱くこともあった。医学も心理学も、社会を抜きにしては結局最終的な治癒はありえない。いや、それはあまりにも社会学的だとしても、心の病を広く捉えたときには、カウンセリングで問題が解決するなどと考えるのは、それこそ素人の偏見だろう。

「高石が学生の特徴について研究した「現代学生と高等教育に求められるこれからの学生支援」(二〇〇九)と題する論文がある。それによると、学生相談の場で出会う学生たちに大きな変化が見られるようになったのは、二〇〇〇年を過ぎた頃からだ。
 変化は、大きく三つある。
 一つは、先に高石が語ったような、「悩めない」学生の増加である。問題解決のハウツーや正解を性急に求める学生と、漠然と不調を訴えて何が問題なのかが自覚できていない学生に二極化しており、とくに後者については、内面を言葉にする力が十分に育っていないために大学に適応できず、対人関係にも支障をきたし、いきなり、自傷、過食嘔吐、過呼吸、過敏性腸炎、つきまとい、ひきこもりなどの行動化・身体化に至ってしまう。手首を切っても、なぜ切ったのか、どんな気持ちで切ったのか、切ることで何が得られるのか、あるいは失われるのか、などを訊ねても答えられない。気づいたら、切っていたのであって、そこには何の反省も後悔もない。「なぜだかわからないけどイライラし、落ち込み、切ってしまうんです」。そういって、カウンセラーの前で茫然と涙をこぼす。
 二十年前はそうではなかった。相談にやってくる典型的な学生像は、「青年期のアイデンティティ模索の悩みや、付随するさまざまな症状(対人恐怖、強迫、離人など)を訴え、カウンセラーが共感的に傾聴していると、学生自らが語りつつ答えを見出し、解決に向っていく」というものだった。だが、二〇〇〇年を過ぎた頃からそのような例は年々減り、精神医学的な診断にあてはまるような心身の症状をもつ学生も少なくなっている。かといって相談者数が減っているわけではなく、むしろ増加している。なんだかわからないけれど苦しいからといってやってくる。
 二つめの変化は、「巣立てない」ことである。
 精神的な疾患など特別な背景をもたないのに引きこもっている学生は、甲南大学で在籍者の0.75パーセント程度いる。一万人規模の大学であれば、数十名から百名近い学生が不登校・引きこもりの状態であっても不思議ではない。近年増えつつあるのが、就職先が内定し、単位も取得しているにもかかわらず、社会に出る不安からうつ状態やパニック症状に陥る、いわゆる「内定うつ」と呼ばれる学生たちである。このため、学生の親からの相談が増加しており、相談室の総利用件数のうち一割近くが親である。巣立てない子、子離れできない親、という現象は、二十年前までの、全人的成長を支援することを目的とした学生相談では対処できない。
 三つめの変化は、「特別支援」を要する学生の増加である。特別支援を要する学生というのは、発達障害やその傾向をもつ人々のことだ。二〇〇五年に発達障害者支援法が施行され、高等教育においても発達障害者への特別な教育上の配慮が義務づけられたことから、これまでは「変わった学生」「困った学生」と思われていた学生たちが、「支援を必要とする学生」とみなされるようになった。学業に支障はなくても対人コミュニケーションに困難をもつ学生は、時としてトラブルに巻き込まれたり、逆にトラブルを引き起こしたりしやすい。このため、大学でも、学生が就学し、卒業して社会人になっていくまで総合的かつ継続的に支援していくことが求められるようになったのである。」最相葉月『セラピスト』新潮社、2014、pp..284-286. 

 この部分、ぼくには「巣立てない」ことや「特別支援」については、とくに異論はないが、「なにが悩み苦しみなのかが、自分自身わからない」という事態については、社会学的にとても興味がある。それはむしろカウンセリングを求める1%の病理的な学生にではなく、「ふつうの」80%の学生も多かれ少なかれそうなのではないか、と感じるからだ。かつては進路に悩み、友人に悩み、家族に悩み、恋愛に悩むのは「若者の特権」と言われた。み~んな悩んで大きくなっていったという言い方もあった。しかし、今の大学生を見ていると、一見さして悩んでいるように見えない。どころか表向き明るく元気でニコニコしている。綺麗に着飾り、友人とは楽しく語らい、愉快に冗談を飛ばして受けを狙っているようにしか見えない。しかし、一歩踏み込んでみるとかなり深刻な悩みがありそうなのだ。でも、それを人に見せることは自ら禁じている。どうしてそうなるのか、何かちょっとしたきっかけで、それが垣間見える瞬間がある。元気そうに活動している学生ほど、実は深い闇のような部分を抱えている。多くの大人たちはそれに気づかず、頭から教訓を垂れたり、自分勝手な解釈で理解の道を閉ざしてしまう。若者たちはそれを感じた瞬間に、ああまた同じだ、とヒいてしまう。ここを超えないと始まらないということだけはわかる。



B.マッコイ・タイナーのジャズ
 たまたま、マッコイ・タイナーを聴いている。50年代のモダン・ジャズ黄金期を考えてきて、そのあとの60年代以降のジャズについては、その延長上で考えてしまったが、マッコイ・タイナー「ザ・ワンダラー」やハービー・ハンコック「ウォーター・メロンマン」を聴いてみると、ジャズの進化がどういう軌跡を辿ったかが、なんだか忘れていた気がして気になった。でも、時間がないので、これについてはまた。 とりあえずマッコイの経歴だけフォロー。
 アメリカ合衆国のジャズ・ピアニスト。ジョン・コルトレーンのレギュラー・カルテットでの活動や、バンドリーダーとしての活動で有名。ペンシルベニア州フィラデルフィア生まれ。母の勧めで、13歳の時にピアノを始める。その後、近所にバド・パウエルが引っ越してきて、大きな影響を受けた。1955年にジョン・コルトレーンと出会い、1960年にコルトレーンのバンドに加入。ジミー・ギャリソン(ベース)やエルビン・ジョーンズ(ドラム)と共にコルトレーンを支え、『コルトレーン』『バラード』『至上の愛』『アセンション』など多くの作品に参加。また、1962年にはバンド・リーダーとしてインパルス!レコードと契約し、初のリーダー・アルバム『インセプション』発表。しかし、コルトレーンがフリー・ジャズに傾倒するのを良く思わず、1965年12月に袂を分かつ。1967年、ブルーノートと契約し、『ザ・リアル・マッコイ』などのリーダー・アルバムを発表。ブルーノートからの2作目『テンダー・モーメンツ』(1967年)は、他界したコルトレーンに捧げた曲「モード・トゥ・ジョン」を収録。1971年後半には、ソニー・フォーチュン(サックス、フルート)、カルヴィン・ヒル(ベース)、アル・ムザーン(ドラム)を従えたレギュラー・カルテットを編成し、同年マイルストーン・レコードに移籍。1972年には来日公演を行う。その後も、様々なレーベルから作品を発表。

 
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