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むかし学校で先生から・・・ぼくは何を教わったのか?

2013-11-11 13:50:15 | 日記
A.ある映画の感想
 最近の日本映画は、マンガが原作の映画化が多い。とくに青少年を主な観客に想定した映画は、ある程度ヒットしたマンガ・アニメの映画化なら観客動員が見込めると考えるからだろう。たまたま「鈴木先生」という映画を見た。これは武富健治という人の描いた連載漫画を、連続TVドラマ(テレビ東京)にして、放映時はさほど視聴率はよくなかったらしいが、その後評判になり同じスタッフ・俳優で映画にしたものという。ぼくは映画しか見ていないので、あくまで映画作品だけの印象なのだが、一見楽しく愉快な青春学園ドラマ、それもマンガやヒーローもののアイテムをまぶした娯楽作、かと思うと、どうもそうではない。
 主人公は東京郊外の公立中学国語教師で、背の高いイケメン長谷川博己が演じているが、黒縁メガネにループタイという少々妙な風体で、独白を繰り返す頭の中も卑猥な妄想や、職務への懐疑にとり憑かれた人物である。しかし、教室では理想の教育を実践する意欲的な教師を演じる彼には、従来の多くの学園ヒーロー教師像が描く熱血の皮の下に、煩悩具足の自己の欠点を自覚するリアルがある。冴えないダメ人間が超能力を得て正義のヒーローに変身するのではなく、ダメ人間のままでなぜかヒーローになっているという作りだ。そういう部分に反応したり、マンガ的に過剰な映像と若い役者たちに共感する観客もあるだろう。
 しかし、ぼくにはそれはど~でもいいし、映画としてもさほど良くできたものとは思えない。だが、この「鈴木先生」の中に出てくるドラマ上の2つのテーマは、かなり気になった。それは生徒会役員選挙と、卒業生による学校乱入事件の描き方である。つまり、「選挙」と「教育」への不信と批判が、若い世代に訴えるものがあるとするなら、考える価値がある。
 生徒会選挙は、中学生にデモクラシーのプロセスを教える大事な行事なのに、その実態は教師も含め仕方なくいい加減にやっているに過ぎない、ということが解っていて、教育を立て直そうとする「空気の読めない教師」の空しい努力が成功するかにみえるが、それを逆手にとって反抗しようとする生徒会長候補が出る。乱入事件の方は、かつてこの学校で受けた理想の教育を信じて世の中に出たものの、現実の生活は理想とかけ離れた惨めなもので、自分を差別される敗北者と認めた青年が、学校と教師への復讐のようにナイフをもって中学に潜り込み、女子生徒を拉致する。さあ、どうする?鈴木先生。
 どちらも、現代日本の学校教育に対する嫌悪、あるいは小学校、中学校、高等学校という世界を潜り抜けてきた青少年たちの実感に沿っている、かもしれない。だとすれば、それは真の敵を見据えているだろうか?「選挙」は民主主義の重要な手続きで、国民の自主自律と決定責任の政治的根拠になるもの、と教えられる。しかし、実態は投票しても目に見える変化はなく、無意味としか思えないので、投票率はどんどん下がる。この現実を見れば生徒会選挙みたいなものは棄権することが認められないのなら、いい加減に人気投票か冗談くらいに考えればよい、となる。学校乱入事件の方も、そんな行為自体は愚かで無意味なものだが、犯人が述べる学校への批判は、それなりに「理想の教育」の失敗を反映している。いくら学校で先生が語る理想を素晴らしいものだと真に受けて努力しても、そんな考えをしていること自体が社会では不利に働き、理想は空想に終わり、一部のエリートや要領のいい奴ばかりが成功していく。学校も教師も理想を語る奴ほど信用してはいけない、というやけっぱち。学校なんて、ただの通過儀礼かせいぜい技術か資格の学習場所で、余計な理想なんか教える方が間違っている、そんなものを信じた自分はバカだったという諦念。
 戦後教育の空虚な理想の担い手、日教組がすべてをダメにした!という言説を、ある意味ではこの犯人の世界はなぞっている。鈴木先生はもはや日教組的教師ではないが、学校教育に追求すべき理想と教育技術を諦めてはいない。その意味で彼は、悩める凡人であるがゆえにもしかしたらヒーローになれるかもしれないのだが、そもそも学校教育にそこまで期待していた方が間違いだったかもしれないのだ。日の丸・君が代に青少年の理想を詰め込もうとする人たちの教育への力の入れようが、冗談みたいなものになってしまうのと方向は反対だが、日常生活世界としての学校空間、短く濃密な時間を生きる若者たちのリアリティに、学校教育と教師がちゃんと目を向けていない、という事実は変わらない。
 もちろんそう考えれば、ぼくも学校という場所で教師をやっている以上、自分への批判でもあるのだが。



B.フッサールの「世界の構成」について
 中学生だった自分が、世界をどういうふうに見て感じていたか、今はもう遠い昔で思い出せない。しかし、今と同様、そのときはそのときで一瞬一瞬を生きていたはずだから、周りの人たちを他我として関わりあいながら、自我のようなものを構成していたのだろう。まだそれを言語化するほどのリテラシーはもっていなかったが、そういうことを時折考えていたような気はする。フッサールの『デカルト的省察』は読みやすいとは到底言えない本だが、そこで扱われている問題の及ぶ範囲は狭いようで広い。

 「《客観的世界》という存在の意味は、私の原初的世界〔私の自我がいわば独我論的な立場で最初に構成する世界〕を基盤にして、幾つかの段階をへて構成されるのである。その第一段階としては、他我Andereもしくは他我一般、すなわち私自身の具体的存在(原初的自我としての私)から排除された(他者の)自我を構成する層が剔出されねばならない。そしてこの層が明示されると同時に、それが動機になって、私の原初的世界の上に〈普遍的な意味〉の上層が構築され、そしてこの上層に媒介されて私の原初的世界は、ある一定の客観的世界、すなわち私自身も含めた万人にとって同一の世界の現出となるのである。従って本来第一の他者Fremde(最初の非‐自我)は他の自我であり、そしてこの他我が他者〔私以外のすべてのもの〕の新しい無限の領域、すなわちすべての他者と私自身を含む客観的自然と客観的世界一般の構成を可能にするのである。純粋な(まだ世界の意味をもたない)他者から出発して上昇するこのような構成の本質には、次のことが含まれている。すなわち私にとっての他者はいつまでも孤立した状態にあるのではなく、むしろ(もちろん私自身の固有の領域においてではあるが)私自身を含む自我の共同体が、相互扶助的に共存する多数の自我の共同体として構成され、最終的にはモナド共同体が構成されるということ、しかもこのモナド共同体が、(その共同化された構成的志向性によって)一つの同じ共通世界を構成するのだということ、が含まれているのである。」(E・フッサール『デカルト的省察』H. I, 137)

 学校という世界でぼくが出会った具体的な経験は、まったく個別的なもので、友人など他の生徒が出会っていた経験がぼくと同じものであったかといえば、たぶん同じではない。それでも、ある時代、ある場所で一緒にある出来事を経験したという事実は、共同的ゲマインザームであるから、そこから各自が個別に構成していく世界もなんらかの意味で《客観的》世界でははあるはずだ。

「しかし世界はやはりわれわれ全員の世界であり、その固有の意味での客観的世界としての世界は、単に私に対してだけではなく、誰に対しても《常に真に存在する世界》という範疇的形式を備えているのである。〔・・・・〕構成的な経験としての世界の経験というのは、ただ単に私の全く個人的な経験のことではなく、共同体的経験Gemeinschaftserfahrungのことであり、世界それ自身は意味的には〈原理的にわれわれのすべてがそこへ到達する経験の通路をもっている同一の世界〉であり、〈われわれ全員がわれわれの経験を《交換》することによって、すなわちわれわれの経験を共同化することによって、それについての相互理解を獲得できるような同一の世界〉である。《客観的》な証明とはまさに相互の賛同と批判によって成り立つものだからである。(E・フッサール『論理学』FTL. 209)

 同じ顔ぶれの人間が毎日出会う学校という世界が、メンバーの個別的経験を交換する共同体的経験である、とするならば、そこで構成された自我と《客観的》共同性は、学校を作り運営している人々が想定している「理想」に重なるものだろうか。学校教育という社会システムは、子どもの成長にとって役に立つ無駄のない技能知識を与える、と称して人を集めるが、いかに生きるのが正しいかという理想を語りはじめると、子どもたちはそれを《欺瞞》ではないかと疑う。なぜか?学校の外の社会の現実(それもまたひとまとめに構成された観念にすぎないが)が、約束された理想を実現しておらず、そのことを大人たちも教師も実は知っているらしい、と感じるからだろう。でも、もしフッサールの現象学が有効な方法であるならば、なぜ人がそのように自分のありようを考えたのかを、精密に説明できるはずだ。

 「日本語の〈世界〉は〈過去、現在、未来の三世の時間を意味する世〉と〈東西南北、上下など十の方角を示す空間を意味する界〉との合成語ですが、英語のworldやドイツ語のWeltは、who(wer)とold(alt)の合成語で、oldは〈成長した、という語義のラテン語のaltus〉から派生しました。それゆえこの英・独語の原義は〈人の年齢や世代〉を表わし、その後しだいに〈人類の居住地〉を意味するようになりましたが、しかし元来〈成長する、成熟させる〉という意味を含んでいるため〈各自の環境世界は外部から一方的に押しつけられるだけのものではなく、各人各様にそれに意味付与して、形成しうるものでもある〉とする考え方が生まれやすい構成です。フッサールの生活世界の概念には、まさにこの意味が生かされています。確かに乳幼児にとっての生活環境はいわば運命的に与えられたものです。しかし自分で考え、意欲し、努力しうる青年・成人にとってはそうではないはずです。」立松弘孝『フッサール・セレクション』、役者解説、平凡社p.311.

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