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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

暑い国、寒い国が必要とする仏教

2013-08-26 03:45:57 | 日記
A.猛暑による死者
 この夏は各地で最高気温記録が更新され、冷房装置が不十分であったり、水分を採らなかったりで死者が出ている。地球全体が温暖化しているといわれるが、日本よりももっと熱帯に近い国で熱中症の死者が増えているという話はあまり聞かない。たぶん暑い国では、気候・風土に合わせた生活環境や習慣が定着しているはずだから、クーラーなどなくても暑さへの過ごし方は永年知っているのだろう。日本でも亜熱帯に近い沖縄などは、暑いので家屋の構造が違う。
 宗教に対する考え方も、熱帯と亜寒帯、あるいは寒冷地では当然異なるはずだ。寒い場所では、冬の寒さに備えて食糧を備蓄し、燃料を蓄え、衣類も防寒用にいろいろ用意している。日本のような四季折々暑くもあり寒くもあるような土地では、夏用と冬用をこまめに取り替えて過ごしてきたわけだろう。裸でも暮らせる世界なら、モノを溜め込み衣食住を豊富に飾る贅沢は、必要がない。
 仏教はインドで始まったから、南に伝わるほどモノへの執着はたやすく薄くなる。逆に北へ向った仏教は、サンガの出家修行者は、いろいろ用意するものも必要になり、いやでもある程度物欲をもたないと死んでしまう。というのは、ちょっと単純かもしれないが、文明のあり方は相当違うと考えてもよいかもしれない。少なくともエネルギーを大量に消費する文明は、寒い土地のほうが発達するだろう。 



B.暑い国の仏教
 ふたたび仏教の発展史について、とくに大乗仏教の誕生以後の概要を釈徹宗氏の説明を読んでみる。
 「釈尊がその八〇年の生涯を閉じたのち、すぐに結集(けつじゅう)と呼ばれる会議が行われました。教団の中心人物たちが集まって、釈尊の教えをお互いに確認し合ったわけです。そんなことをしながら、次第に仏教のオーソドキシーが出来あがっていきます。
 しかし釈尊滅後、百年ほど経つと、保守派(上座部)と改革派(大衆部:だいしゅぶ)とが対立します。戒律や生活様式の伝統を厳守しようとする保守派と、事情に合わせた柔軟な対応を主張する改革派とに教団が分裂します。これを根本分裂といいます。ガンジス河の北に「ヴァッジ」という国があって、当時既に選挙で指導者を選び、合議制で政治を行っていたそうです。首都のヴェーサリーは、さまざまな民族が交叉する商業都市で、自由主義的気風をもっていたと言われています。大衆部は、このヴェーサリーの修行者たちが中心でした。
 かつては、大衆部の人たちが大乗仏教へとステップアップしていった、と言われていました。しかし、現在では「ストゥーパ(釈尊の遺骨を納めた塔)」に参拝する在家信者たちが中心となって大乗仏教運動が起こった説が有力です。いずれにしても、複合的要因が重なったのではないでしょうか。
・大衆部(革新派)の動き。
・ストゥーパに集まった在家ブッディストたち。
・西アジアや南インドなど、異文化の混交。
などがクロスしながら、仏教の自己批判・自己変革が進んだと思われます。この動きを、律法を守ることが重視されたユダヤ教から、愛の実践中心を説くキリスト教への展開になぞらえる人もいます。あるいは、教条的カトリックに対する純粋信仰運動としてのプロテスタント誕生になぞらえる人もいます。まあ、わかりやすい喩えではありますが・・・。
 仏教の理想をひとことで言うと、〈無執着〉です。なにものにも執着しない、ここを目指します。だから出家者は所有物を最小限にし、社会生活から遠ざかるのです。執着は煩悩(悟りを邪魔する欲望)を生み出します。なんとしても煩悩を消滅させねば・・・。
 大乗仏教者たちは、保守派の出家者たちに「キミたちは煩悩を切り捨てることに執着しているのではないか」という指摘をします。
 上座部にとっては、痛いところを衝かれました。なかなか見事なリクツです。「いろんなシガラミからは脱却したかもしれないが、仏教という新しい別のイガタにはまっている」そう指摘されたわけです。ここに至って、仏教は仏教自身を解体しなければならない、というとんでもないパラドクス(矛盾)にぶち当ります。
 そして仏教はついに〈空〉の完成へと到達するわけです。ようするに、普通の生活をしていても、それに固執さえしなければよいのであります。
 大乗仏教は、智慧に対して慈悲、理知に対して信仰、というスピリチュアルな情念、つまりパトスの噴出がその推進力です。
 正統派の出家者たちによって、仏教がものすごく理知重視になってしまいました。それに対して、人々の宗教的パトスがどばっと噴出したのが大乗仏教運動ではなかったかと思います。
 いくら高邁な思想であっても、「仏教に出会うことによって、救われる。生きていける」という部分が抜け落ちてしまっては、宗教としては死に体です。大乗仏教は、出家者中心の形態に疑問を提示したり、理念に偏っていた仏教に宗教的パトスを吹き込んだわけです。言葉を変えれば、仏教の大衆化であるとも言えます。
 結果、さまざまな民族信仰が交じり合うこととなりました。たとえば、さまざまな如来が理念のシンボルとして登場します。阿弥陀仏や阿閦仏、毘廬遮那仏などはその代表です。古来の神々がブッダとして語られたりもします。
 ということで、ブッダが充ち満ちた世界観が出来上がります。高度に洗練された理念と、土俗のカミを信仰するという大衆化された形態、この二面性が大乗仏教の魅力です。
 この大乗仏教(マハーヤーナ)は、縁起思想をつきつめた〈空〉、まるで精神分析のような〈唯識〉、すべての人が悟りを開く素質を持つとする〈如来蔵〉などを足がかりに菩薩としての生き方を展開していきます。
 テーラヴァーダ
 大乗仏教が起こると、一気に上座部仏教(テーラヴァーダ)が駆逐された、・・ということにはなりません。上座部仏教の方は、スリランカを基点として、ミャンマー(ビルマ)、タイ、カンボジア、ラオス、ベトナムなどで発達します。これらの国々では、一時、大乗仏教が席巻したのですが、けっきょく上座部仏教にもどります。これが合っているんでしょうね。現在でも、パーリ語の経典に基づき、できる限り釈尊の原・仏教形態を維持しようとしています。以前、NHKスペシャルで「ブッダ・大いなる旅路」というシリーズを放送しましたが、確かに、日本のような「思想と儀礼中心の仏教」などと比較しますと、社会の中で仏教が大きく機能しています。
 上座部仏教は、生と俗の境界が明確です。出家者と在家者の在り様がはっきりしてます。出家者は、経済活動や社会的義務を放棄し、家族を棄て仕事を棄て、ひたすら自分の修養を心がける生活をします。そのような聖者の道を歩む出家者を、在家者がサポートするという形態です。在家者は出家者をサポートすることが功徳となるわけです。この形態は、気候・風土・民族・文化性によるところも大きいと思われます。暑い国でないとだめですね。寒い時期がある場所だと、所持品を最小限にした生活などできないですから。布一枚で生活できるくらいじゃないとだめです。それに、聖者の生活を尊敬したり、輪廻の世界観をもっているなど文化土壌が必要です。」 内田樹・釈徹宗『いきなりはじめる仏教入門』角川ソフィア文庫、2005.pp.108-114.(釈氏の書いた部分)
 
 なるほど、上座部仏教が生き残った場所は、いずれも熱帯、亜熱帯に属する南方の国である。北に向った大乗仏教を輸入した国における「思想と儀礼中心の仏教」言い換えれば、個人を飛び越して国家・共同体・イエに包摂された仏教にたいして、温かい国へ普及した仏教は、世俗は世俗、出家者は出家者の世界を分け、しかもそこを出家という行為によって出入り可能なものとし、出家者が作るのは隔絶された山の中に籠るだけでなく、托鉢のような形で姿を現し、俗なる世界の中に聖なる空間が散りばめられる。
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真善美の探究 (Unknown)
2014-10-21 15:25:26
【真理と自然観】

《真理》

結論から言って, 真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。

“ある時, 何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのか, と。すると友人は, 何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”

私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし, 単純にからっぽという意味でもない。私という意識, 世界という感覚そのものの原因のことである。この時, 我々は『空・から』という言葉によって人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。我々の世界は質感。また質感の変化からその裏側に真の形があることを理解した。そして我々はこの世界の何処にも居らず, この世界・感覚・魂の納められた躰, この意識の裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。



《志向性》

目的は何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路, それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは或感覚を具現する場合の方向付けとなる原因・因子が具現する能力と可能性を与える機構, 手段によって, 再具現可能性という方向性を得たものである。

『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは, 表象下に複数の因子が存在するということである。』

『因子は経験により蓄積され, 記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』

我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し, 再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でもその具現の条件となる感覚的対象がない場合これを生じない。但し意識を介さず機構(思考の「考, 判断」に関する部分)に直接作用する物が存在する可能性がある。



《思考》

『思考は表象である思と判断機構の象である考(理性)の部分により象造られている。』

思考〔分解〕→思(表象), 考(判断機能)

『考えていても表面にそれが現れるとは限らない。→思考の領域は考の領域に含まれている。思考<考』

『言葉は思考の領域に対応しなければ意味がない。→言葉で表すことが出来るのは思考可能な領域のみである。』

考, 判断(理性)の機能によって複数の中から具現可能な志向が選択される。


《生命観》
『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』

『再具現性を与える機構としての己と具現を方向付ける志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』


生命は過去の意識の有り様を何らかの形(物)として保存する記録機構を持ち, これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。

生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり, その志向が作用して具現機構としての肉体に変化を生じる。この為, 廃れる志向が生じる。


*己と自の発展
己は具現機構としての躰。自は記録としてある因子・志向。

己と自の発展とは, 躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識(現象)から新しい志向が生み出され, その志向が具現機構である肉体と意識に連動して作用する。生命は然の理に屈する存在ではなくその志向により肉体を変化させ, 然としてある意識, 世界を変革する存在である。

『志向(作用)→肉体・機構』



然の理・然性
自己, 志向性を除く諸法則。志向性を加えて自然法則になる。

然の理・然性(第1法則)
然性→志向性(第2法則)



【世界創造の真実】

世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。だから自我は客体認識の反射作用としてある。これは逆ではない。しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと。なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。これは神と人に共通する倒錯でもある。それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。

しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?

言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。あれは空, それは山, これは自分。しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。自分というものはない。自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。

これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。

例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。

そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。

愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。そんなものはどこにも存在していない。神, 霊, 悪魔, 人。そのような名称に対応する実在はない。それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。

私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。これこそが神の世界創造の真実である。

しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。

「お前が世界を創造したのなら, 何者がお前を創造した?」

同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。

「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」

神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。

あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。



【真善美】

真は空(真の形・物)と質(不可分の質, 側面・性質), 然性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し, その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり, 自己の発展とその理解。


善は社会性である。直生命(個別性), 対生命(人間性), 従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立。対には干渉のし難さから来る閉塞。従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。

△→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)

千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し, 尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することなく状況によっては退き, 適した人間に委せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。


美は活活とした生命の在り方。

『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』

予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め, それを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。予知の悪魔に囚われて自分の願望を諦めることなく認識と相互してこれを成し遂げようとする生命の在り方。


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