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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

賛成 でも 反対 でも でも・ね

2015-08-31 00:47:55 | 日記
A.この人たちを説得できるか?
  今日(8/30)の「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」主催の国会周辺デモは主催者発表で12万人集まったというが、確かに人でいっぱいで誰が誰やらわからないくらいだった。しかし年配の夫婦らしきペアを多く見かけた。この大規模なデモについて、夕刻来のNHKニュースは何も報道していない。そういえば、今朝の朝日新聞社会面38面に「安保法案「YES」各地で賛同デモ」という記事もあった。

 「参院で審議中の安全保障関連法案に賛成する市民らが29日、各地で街頭活動を行った。東京では新宿区の新宿中央公園を出発した500人以上が「私たちの家族を守るため、平和安全法制に賛成します」と訴え、デモ行進した。同区の会社員女性(47)はネット上で告知を見つけ、母親(83)と列に加わった。職場などで、隣国との領土問題への危機感が度々話題に上るという。「目の前の脅威に、同じ価値観を持つ国々と手をつないで対抗するのは当然の選択。多くの人に法案の意義を伝えたかった」と参加した理由を話した。
 大阪市でも約70人が「YES!安保法案」と書かれたプラカードや提灯を手に行進。広島市や福岡市、長崎市では若者らが「戦争法案とするのはレッテル貼りだ」「徴兵制の復活はありえない」などと声を上げた。」記事はこれだけだがモノクロのデモの写真がついている。

 反対デモが主権者の意思表示として大事である以上、賛成デモももちろん主権者の意思表示として認められ報道されるべきだと思う。「デモをする人」が過剰に興奮した「ちょっとヘンな人たち」で、賛成にしろ反対にしろ普通の市民はそういう行動にはかかわりを持たないのが健全だ、という常識があり、それが今回の安保法制デモでは、そういう常識が少し崩れているからこそ、「賛成デモ」も実現したと考えれば、本来の民主主義なら当たり前の形が今まで実現していなかったことが問題だった。
 ところで、この安保法案に賛成するという人々がどういう理由から賛成しているのかを、きちんと表明してくれるなら、説得する可能性はおおいに出てくる。記事のかぎりでは、「私たちの家族を守るため賛成」「戦争法案とするのはレッテル貼りだ」「徴兵制の復活はありえない」「目の前の脅威に、同じ価値観を持つ国々と手をつないで対抗するのは当然の選択。多くの人に法案の意義を伝えたかった」となっている。これだけならば説得は可能だと思う。
 まず、「家族を守る」というのは家族が何かの脅威によって襲われたり奪われたりする、という前提があるわけだが、その脅威とは誰なの?と訊いて、強盗とか犯罪者と言うなら守るのは警察であって自衛隊の役目ではない。もし、外国軍たぶん中国軍やロシア軍だというなら、それが日本のどこかに侵略を始めた場合、今までの法律にもとづき自衛隊はいくらでも反撃できる。場合によっては米軍や韓国軍も助けてくれるかもしれない。尖閣のような無人島なら民間人の犠牲はなく、国際的非難が侵略国に浴びせられ、集団的自衛権や安保法制を使う必要は全くないから、安保法制に賛成する理由にまったくなりませんよ、と言える。
 つぎに「戦争法案とするのはレッテル貼りだ」「徴兵制の復活はありえない」については、官房長官が強調していることだが、いくら安倍政権でも今すぐ戦争をするとか徴兵制を実施するとかもちろん考えてはいないだろう。「戦争法案」「徴兵制」ばかり叫ぶのは確かにいたずらに危機を煽る言い方かもしれない。しかし、問題はこの安保法制が今までの法律では禁止され絶対できなかったことをできるようにする、ということがポイントだということです。できるようにすることと、実際にやってしまうことはもちろん別です。しかし、法律上できるなら、やるかやらないかはだれが決めるかが決定的に重要で、それが時の政府与党と国会が短時間で決めるというのがとても危ない。
 最後の「目の前の脅威に、同じ価値観を持つ国々と手をつないで対抗するのは当然の選択」について、「目の前の脅威」って具体的に何?尖閣への中国の上陸?与那国島に中国人が潜入?それともISのテロ?「同じ価値観を持つ」ってどういう価値観ですか?アメリカと同じ価値観って具体的にどういうもの? これって昔冷戦時代に「共産主義の野望から自由社会を守る」と言っていた物語と同じじゃないのかな。戦争って大国同士がやったら犠牲が大きすぎるし、世界経済がガタガタになってしまうから、中米戦争も日中戦争ももう不可能なんですよ。だとすると、武力を背景に国境紛争で綱引きをするときに、ちょっと威勢のいいことを言えるかどうか、ということであってね、有為な若者の命を捨てさせるほどの価値はないんじゃないかな。
  要するに、この安保法制は日本に暮らす市民の安全とはほとんど関係なくて、世界中で、とくに中東でISのような勢力を武力で押さえても抑えきれないアメリカが、日本も出てきてもっと手伝えって言ってるだけじゃないのかな。じゃ、しょうがねえかって安倍さんは手伝える形だけつけましたってアメリカに言い訳する。でも、それをやれば、出て来いよって言われたら断れないわけで、自衛隊に犠牲は出るし、東京で爆破テロが起こる可能性は高まる。それでもいいんでしょうかね。積極的に参加するのは外国の戦争にではなくて、デモにじゃないかな。



B.再び道化をめぐって
  時の政府を占める政治家は現実の権力を行使できる地位にあるという意味では、今現在もっとも強い人だが、人である以上いずれはその地位を失うし、現代の代議制民主主義制度のもとでは、どれほど有能な政治家でも10年首相の地位を維持することはほとんど困難だろう。そして、人々の記憶には登場した時の華々しさよりは、辞める時のぼろぼろの姿が印象深く残る。でも、記憶に残る政治家とは、道化ではないか、というのがここでの話題で、80年代当時の山口昌男の言っていたことが受けたのは、バブルに向かう経済大国の豊かさの中で、人々に余裕があった証拠なのかもしれない、と今にして思う。
  それはそれまでの日本での支配的な文化が、ある意味ではくそまじめで、余裕がなく、表向きの建前が会社から学校から国会まで、空虚な言葉をもてあそぶ一方で、裏の酒場では下品で無節操な本音が囁かれる、という硬直した構造を、山口の天から降ったような人類学用語「トリックスター」「道化」「祝祭」で笑いながら遊んでいいのだ、というメッセージが新鮮に見えたのだろう。

「井上ひさし:そうですね。結局、日本の政治は道化の花があってすなわち実がなるという、その絶えざる繰り返しですね。ある時期がくると必ず道化という花が咲いて、花が散って、それで面白いのは、みんななんか後世に残る言葉、誤伝か、後世の人が付け加えたのかは分からないけど、それぞれ代表的な言葉をふっと洩らす。佐藤首相でいえば、新聞は嫌いだからテレビがこっちへ来いとか、そのお兄さんでいうならば、声なき声というけど、今後楽園球場で野球を見ている奴はどうするとか、なんか散り際にいいと言うか馬鹿みたいなと言うか、そういうことを言って、その後に一つ実がなって、それがひとつの政治になっていく。
山口昌男:そうすると佐藤首相もやはり、楼門の上で見得を切る石川五右衛門の役割を演じてることになるわけですね。
井上:政治家は最高のスターですよね。美空ひばりと同じようなことが、やはりそこで行なわれる。いちばん残忍なのは結局大衆だということになってくる。
山口:そうすると政治家というのは、所詮大衆のノーマルな筋書には入れない人間を指すことになるわけです。たとえば盗賊なら盗賊にひとつの世界があって、どうしても盗賊の思い込みというものがあって、たとえば、何の意味もないんだけども、侵入するときには戸口で小便しなくちゃいけないとか、そういうルールをたくさん持っている。やはり日常生活の中には入りきれない。そういう種類の人間が盗賊だとすると、やはり政治家の場合にも、そういう役割を演じさせるような要素があるんじゃないか。そうすると、あるいは日本の政治家の中にも、一種のポエチカ、詩学みたいなものが、本人も全然気がつかないにせよ、あるのかもしれない(笑)。
井上:大衆はあるところまでは確かに政治にひきずり回されるけど、最後のところでやはりすべて逆転していますね。田中首相のときでもそうです。なんか庶民の宰相なんて言って、わりとみんな悪乗りしましたね。ぼくなんかも、東大よりは小学校の方がいいとか何とか言ってたんですけど、あるところまでいくと大衆は、必ずポンと突き放しちゃう。やはりそれは、人はすべて死んでしまう、いかに神とはいえ、大スターとはいえ、すべて結局は俺たちと同じ髑髏になっちゃうというような、変てこな無常感が大衆を支配しているんじゃないかという気がする。結局、軍神とか生き神様とか、そういうようなことで政府の側が操作していくのは、死という最高のずっこけから目を離させようみたいなところがあるんじゃないか。ぼくもよく分からないですけど。なんか非常にこの頃、大衆というのは実に気持ち悪いという気がする。ぼくもその一人であるわけですけど。
山口:死のずっこけということになるとやはり、『珍訳聖書』(新潮社)などにみられる井上さんの関心から言うと、キリストなんてのは大衆によって絶えず再生産されるものだということになりますか。
井上:ええ、ぼくはそうだと思うんです。五つのパンが三千人に満ち満ちてなおかつ七つ残ったっていうのは、変な計算で、七つ残ったってのが面白いんですけど、結局いろんな人が出し合って、その場合三千人がなんとかみんなで分け合って食べたというのが、時を経、時代を経て、そういう奇跡の伝承になった。奇跡というのは、全部そういう感じがする。大衆の作為が必ずあるような気がする。やはりそういうのがないと、大衆というか、われわれは生きていられないような感じもするんですよ。……さっき、盗賊の話が出ましたけど、説教強盗というのは、当時の新聞記事なんか読むと、入ってきて枕元でたばこを吸ってるんですってね。ずうっとたばこを吸ってて、寝てる人がふっと、誰かが枕元でたばこを吸っていると気がついて、目は醒めるけど、しばらく意識はまさかという感じなわけです。でも確かにたばこの臭いはするし、マッチをする音もする。誰か枕元にいるというわけです。平和に寝ている日常の中に盗賊が侵入するという、山口理論で言えばお祭りがあって、そのお祭りに引きずり込む技術ということですね。説教強盗の場合、日常の世界を静かに引き込むのか、盗賊がその一軒の家の寝ているという状態の日常へ入り込むのか、どっちか分からないですけど。そうすると、決して刃傷沙汰はおこんないんですね。やはり日常があんまり長く続きすぎた場合に、どうやってその筋書きを外すかということ。しかもそれはほんとうは大衆の方が外そうとしてるんじゃないか。そしてそれにうまく乗ったのが説教強盗なんじゃないか、人気があったらしいんです。その外し方が上手かったんじゃないかという気がするんですよ。
山口:やはり筋書きを外すというのは、泥棒という存在に対して、大衆が絶えず抱いている期待なんじゃないか。説教という行為によってでもいいですけど、とにかく泥棒というのは道なきところに道をつけるわけですから、その行為はあるいは詩人の遣り口を上回るところがある。本来ありえないところへ、やはりあるはずのないものを持ってきてしまうわけです。泥棒は結局、筋書の踏み外しの古典的な担い手だということになると思うんです。」山口昌男・井上ひさし「近代日本の道化群像」(山口昌男『挑発としての芸術』青土社、1980所収)講談社学術文庫、pp.139-142. 

 そう考えてみると、「説教強盗」みたいな脱力系というか、犯罪という枠組み自体を外してしまうような道化の文化への貢献は、まさにアートなのだということになるが、あの愉快な80年代はもう遠い過去で、今21世紀も15年経過したところでは、どうもこの国はかなり余裕を失って、また昔のくそまじめと冗談が通じない硬直した構造が浸透しているんじゃないのか。

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