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平成25年夏から明治20年を振り返る

2013-07-08 20:11:55 | 日記
A.子どもにとって教育は選べない
 ぼくが小学校・中学校で受けた教育は、日本が戦争に負けて、負ける前に学校で教えていた神である天皇を戴く強い日本が戦争に勝つのは当然だという教育を否定して、これからはアメリカのように平等な民主主義でいくのだ、という理念に立った学校教育だった。子どもにとっては、それがどういう考えにもとづき、どういう経緯でそうなっているのかを知らないから、ただそういうものかと思って教室で先生に教えられたことを、親や大人たちも納得しているものだと思い、素直に受け入れて成長した。やがて、高校生になり大学生になって、それが必ずしも日本人のすべてに当然のことと信じられてはいない、ということに気がついたが、ぼくらはむしろ戦争などをやってしまった過去の大人たちは、どうやら間違っていて、新しい時代に生きる若者である自分たちは、アメリカ的な自由と民主主義こそ未来を開いていくと考えた。
 ぼくらが赤ん坊として生まれた時代は、まだ外国に占領されていたのだということを、意識することはなかったし、気がついた時は日本は独立国ということになっていたが、戦争前の教育を受けていた親の世代には、過去を懐かしむ心情が多分に残っていた。学校の朝礼は、気をつけ、前にならえ、と両手を出して整列したし、祭日には日の丸を家の前に掲揚していた景色もあった。戦争の記憶はまだ親たちに強く残っていたし、親族の誰かは戦争で亡くなっていた。でも、ぼくたち子どもは、そんなことは遠い昔の物語で、今は平和で穏やかな世界、周りは貧しいけれども兵隊になって人を殺すような残虐な世界は、夢物語だった。
 それよりも半世紀以上昔、明治のはじめの20年ほどの時代は、ある意味でぼくたち敗戦後の若者と似たような精神の状況があったのかもしれないと、ケネス・B・パイルというアメリカの歴史家の本『欧化と国粋』を読んで、思った。封建的な儒教と身分制度のしがらみを脱した明治維新の革命の中で生まれ、西洋の文明を吸収する新しい時代に成長した若者は、自分の親たちが生きていた旧い世界をあっさりと否定し、自分たちこそ輝く文明の担い手だと信じて、自信に満ちて必死で横文字を勉強し、時代の最先端に躍り出ようとしていた。
 かれらが明治の近代国家形成の後半期に、そして日露戦争を経た大正・昭和の時代に、どういう道を辿っていったかは、高度経済成長を誇ったバブリーなニッポンを生きた団塊世代が、21世紀の現代にそろそろ現役引退を迫られる老人として、なかなか深い教訓を提供すると思う。明治の青年のベースには、幼い頃に受けた漢文の素読があったけれども、ぼくたち戦後の若者には、何があったのだろう?あえていえば、三島由紀夫が妄想した帝国主義的野心の精神的ルーツとしての武士道の無意識、西洋文明に対抗する精神貴族主義の無残な名残りでしかなかった。それもいまや、浅ましいネオリベ的グローバル資本主義、ほんらいは西洋合理主義の精華であるリバタリアニズムの応用にだまされて、伝統を誤解したアホどもに洗脳された有権者の大多数は、経済成長神話の復活を期待して、選挙など馬鹿にして棄権する。
 真夏の参議院選挙のさなか、圧勝を予想される安倍晋三自民党が理念としている世界像は、およそ輝かしい日本の近代百年を展望するのではなく、あの愚かな国家滅亡を実現した短い帝国主義的時代の栄光を回顧する血迷いの幻想に、根拠を置こうとする誤謬である。アベノミクスなどという近視眼的な政策に目が眩んだ国民大衆は、ふたたび国家滅亡の道を歩もうとしているように思えてならない。ぼくらが子どもの時代に受けた教育は、占領政策の余韻を残した偏ったものだったにしても、今の自民党的保守主義が学校教育に持ち込もうとしている理念は、明治20年代の反動以上に始末が悪い。



B.明治20年の出来事を確認してみよう
 歴史上の出来事:1887年(明治20)、井上外相の主導する条約改正交渉が行き詰まり、井上は辞任。いきさつは閣内から反対を唱えた農商務大臣谷干城が条約改正は国会開設後に延期せよとの意見書を伊藤総理に提出して7月26日に辞職。8月には井上方式に反対する地方代表が続々と上京して元老院や各大臣に意見書を提出するなど首都の空気は騒然としてきた。9月17日井上外相は辞任し、伊藤博文首相がしばらく外相を兼ねることになる。
 4月ロェスレルが独文の憲法私案を法制局長官井上毅に提出。5月井上は、憲法草案私案を伊藤首相に提出し、6月から憲法草案の検討に入り、途中から井上毅も加わって8月に修正草案ができた。9月28日伊藤総理は地方長官を招集し、憲法の天皇親裁に異を唱えるものは断固弾圧せよと訓示した。帝王主権の憲法とその発布の方法が内定していたのである。
後藤象二郎は10月3日、民間政客70名余を芝三縁亭に招いて懇談し、丁亥倶楽部を設け大同団結運動を始めた。
 明治17年にいったん壊滅に瀕した自由民権運動は、20年に入ると条約改正問題に絡んで活況を呈してきた。旧自由党総理の板垣退助は、郷里に引っ込んでいたがこの年、授爵問題で世間を騒がせた。5月、板垣、大隈、後藤、勝海舟に伯爵が授けられたのだが、板垣のみ6月に至って辞爵を表明。(勝はあとで辞爵)旧自由党系硬骨漢は喜んだが、板垣は説得されると変節、7月には授爵して失笑された。だが板垣はこんどは伯爵を利用して8月には、天皇に1万8千語に及ぶ意見書を提出し、専制政府の失政十か条を数え上げた。対等条約を結ぶためにも国約の憲法を作るべきとか、減税要求、陸軍縮小の要求などと並び、伯爵になったくせに華族制度の廃止が主張されていた。
 この板垣建白書は、秘密出版で全国に出回り、全国からの建白運動が盛り上がった。10月には、高知県総代片岡健吉らが、植木枝盛起草の三大事件建白を元老院に提出した。憲法論議の自由、地租軽減、外交の挽回の3つである。これがこの時期の運動のスローガンになる。大同団結運動は、後藤が先導した丁亥倶楽部に代表される自由民権諸派旧幹部の妥協的合同と、新しく登場した血気盛んな壮士や学生とによって担われ、東京市内に潜入した壮士は2000人を越えたといわれる。政府はこれに恐懼し、山縣有朋内務相と警視総監三島通庸は、計画されたデモの前夜12月25日、保安条例を発して弾圧に出た。28日までに570人が皇居外三里の地に放逐された。拒否した片岡健吉らは投獄。
 8月19日、101年ぶりの皆既日食、関東・東北一帯で話題となった。島津久光死去71歳。この年の出版物:二葉亭四迷『浮雲』第一編、徳富蘇峰『新日本之青年』、中江兆民『三粋人経綸問答』、山田美妙『武蔵野』、音楽取調係編『幼稚園唱歌集』。
発行部数順東京の新聞:改進新聞、やまと新聞、郵便報知新聞、読売新聞、時事新報、絵入自由新聞、朝野新聞、東京絵入新聞。
 改称:訓盲唖院→東京盲唖学校、図画取調掛→東京美術学、音楽取調掛→東京音楽学校。
キリスト教系女学校創設:17年東洋英和、18年福岡英和、19年横浜・松山・宮城・広島・山陽英和、20年普連土・静岡英和。
 1889(明治22)年、2月21日紀元節に大日本帝国憲法発布。同日式典直前に森有礼文部大臣官邸前で刺殺。2月11日新聞「日本」創刊。
 憲法発布式典前、国民は奉祝に沸いていたが、誰も憲法の中身を知らなかった。欽定憲法の作成に関与したごく少数の高官以外は、その条文を読んでいなかった。にもかからわず、日本全国が浮かれ騒いでいたという。中江兆民は「賜与せらるるの憲法、果たして玉かはた瓦か、いまだその実を見るに及ばずして、まずその名に酔う。わが国民の愚にして狂なる。何ぞかくのごとくなるや」と嘆いた。発布後その全文を読んだ中江は一読して、嘲笑い投げ捨てたという。首相黒田清隆は、夫人タキをホステスに首相官邸で夜会を催し、内外の高官、知名士を招いて祝宴を張っていた。
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