gooブログはじめました!

写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

「武士道」と「プロテスタント」の出会いについて

2013-09-12 22:59:43 | 日記
A.オダギリ・ジョーとニイジマ・ジョー
 NHK大河ドラマ「八重の桜」は、前半の京都守護職から戊辰の会津戦争までのところを、鉄砲を撃つジャンヌ・ダルクばりに長~く引っ張ったせいか、明治になってのお話はなんだか気が抜けた感じになって、ラストにさしかかった「あまちゃん」に比べると、あんまり世間の話題になってないようだ。京都でのオダギリ・ジョー演ずるジョーとの結婚から、文明開化を先導する女性という線にもっていくのだろうが、新島襄が作ろうとした同志社大学は、結局彼が生きているうちには実現できず、襄は八重より先に47歳で亡くなってしまうわけだ。
 新島襄(1843~90)は上野国安中藩士の長男として江戸藩邸で生まれる。1863年(文久3)に漢訳聖書抜粋などをよんで感銘をうけ、翌年箱館に行ってロシア正教と接触、そこから単身アメリカへ密航、66年末に援助を受けた教会で洗礼を受けた。アマースト大学、アンドーバー神学校を卒業。渡米中の森有礼の世話で留学免許状と旅券を取得し、岩倉使節団の通訳として欧米視察に同行した。キリスト教布教の志をいだいて基金を携えて1874年(明治7)に帰国し、在米中からの念願だったキリスト教精神にもとづく学校の設立を訴え、翌年同志社英学校を京都に創設した。しかし、キリスト教を警戒する政府や保守勢力の抵抗は強かった。各地に会衆派教会をひらいて精力的な布教活動をおこなったが、明治23年没という人物。
 大河ドラマはどうしてもアクション中心に歴史をなぞって、分りやすく物語を見せようとするので、戊辰戦争の負け組がどうやってキリスト教に惹かれていくのか、というテーマを意志の強い会津女子とハイカラで優しいイケメン男の恋愛、みたいな線で作っちゃうのも無理はない。だが、もう少し突っ込んで考えれば、「武士道」と「キリスト教」との「接ぎ木」にはある意味で、偶然と必然の出会いがあったのだろうと思う。新島襄が仏教勢力が強い古都京都で、キリスト教の学校を作るきっかけとなったのは、八重の兄、山本覺馬の果たした力が大きい、というあたりはドラマでもいちおう描かれてはいる。会津藩士山本覺馬は確かに先駆者の一人だな。



B.新渡戸稲造と内村鑑三の「武士道」
 よく知られているように、札幌農学校は北海道開拓のために、アメリカから知識技術を輸入するために作られた学校だが、クラーク博士がここで教えたのはたった八ヶ月ほどで、有名なBoys, be ambitious!という言葉とは別に「イエスを信じる者の誓約」という文書を残していった。それは、
 「下に署名する札幌農学校の学生は、キリストの命に従いて、キリストを信じることを告白し、且つキリスト信徒の義務を忠実に尽くして祝すべき主即ち十字架の死を以って我等の罪をあがない給いし者に、我等の愛と感謝の情を表わし、且つキリストの王国拡がり、栄光表れ、そのあがない給える人々の救われんことを切望す。故に我等は今後キリストの忠実な弟子となりて、その教えを欠くことなく守らんことを厳かに神に誓い且つ互いに誓う」
 というもので、この誓約書になんと一期生16人が全員署名したという。その中には、元土佐藩士黒岩四方之進(黒岩涙香の兄、後畜産家)、江戸の商家出身の伊藤一隆(北海道庁初代水産課長)、南部藩出身の佐藤昌介(後に北海道帝国大学初代総長)、相模の名家出身の大島正健(後に宗教家、教育家)などがいた。そして二期生18名の中に、東京英語学校から移ってきた3人、宮部金吾(18歳後に植物学者)と南部藩士の三男新渡戸稲造(16歳)、高崎藩士の長男内村鑑三(17歳)がいた。内村の『余は如何にして基督信徒となりし乎』(岩波文庫)に詳しいように、彼等は上級生になかば無理矢理キリスト教に入信させられた。
日本のキリスト教史では、ジェームス・バラの「日本基督公会」(明治5年)の横浜バンド、リロイ・L・ジェーンズの熊本洋学校(明治四年)の熊本バンド、そしてやや遅く明治九年開校の「札幌農学校」は今も銅像が建つウィリアム・スミス・クラークの札幌バンドは、明治初期に日本のプロテスタント布教の基礎となった3つの源流として知られている。前に触れた徳富猪一郎は熊本洋学校から京都の同志社に移ったグループの一員だった。
明治維新の激動の中から武士の子として育ってきた少年、それも戊辰戦争で朝敵側になってしまったり、没落していく士族の子であったこれらの人々は、新しい時代に光を求めるようにキリスト教に近づいて行った。彼らは英語を身につけ、やがて聖書に触れ、さらにアメリカに渡って宣教師になる。その思想のベースには「武士道」があった、という説について、新渡戸と内村をちょっと考えてみる。

 「札幌農学校を卒業した新渡戸は、学校の規定に従って開拓使御用掛に任命されました。その後、東京帝国大学へ進学しますが、物足りなさを感じて私費でアメリカへ留学。そこでキリスト教の一つの宗派であるクェーカー教の集会に出るようになり、入信します。この縁で、後に妻となるメリー・エルキントンとも出会いました。
 クェーカー教はキリスト教の一派ですが、プロテスタントともカトリックとも異なる第三派を任じており、非常に純粋な信仰で知られます。戦争には絶対反対。インナーライト(内なる光)と呼ぶ、信者それぞれの洞察力に重きを置きます。
 クェーカーというのはクェークする(震える)人という意味で、深く瞑想している信者は一種の高揚状態になり、体が震えてくることからきています。その震えの中で、神の声が聞こえたり、自分の中の霊性が目覚めたりすると考えられているのです。ですから礼拝には神父や牧師などの説教者はおらず、みんなが静かに瞑想しているというスタイルです。数はそう多くはありませんが、現在イギリスのほかアメリカ、アフリカにも信者がいます。
 新渡戸は帰国した後に教育者としての道を歩み、京都帝国大学教授、旧制第一高等学校校長、東京女子大学初代学長を歴任しました。大正九(一九二〇)年には国際連盟の事務局次長にも就任しますが、何といっても忘れてはならないのは、明治三二(一八九九)年に英語で『武士道』を出版して、世界に向けて日本の精神を紹介したことでしょう。
 新渡戸は『武士道』を書くことになった動機を序文で書いています。要約すると、本を書く約10年前に、ベルギーの法学大家から、「日本には宗教教育がないなら、どうして道徳教育を授けるのか」と聞かれて、即答できなかったこと、そして直接の動機は、妻メリーから日本の思想や文化に通底する価値観について尋ねられたことだといいます。
 この二人の問いに向き合った時、彼は日本には武士道なるものが存在しており、それが日本の道徳規範になっていることに気づきました。そこで日本の道徳と武士道の関係を整理したうえで、広く西欧諸国の人々に日本の武士道を知ってもらおうとしたのです。
 当時の日本が日清戦争に勝ったばかりだったこともあり、『武士道』はアメリカに留まらず世界中で関心を呼びました。ドイツ語、フランス語、ポーランド語、ノルウェー語、ハンガリー語などにも訳されています。
 弱冠一六歳で洗礼を受けた新渡戸は、武士道についてはどう考えていたのでしょうか。また、キリスト教との関係をどのように捉えていたのでしょうか。『武士道』の記述や多くの研究書をまとめると、次のようになります。
 新渡戸は武士道を説明するにあたって、その要素として五つの道徳律を挙げました。「義」「勇」「仁」「礼」「誠」です。他にも名誉、忠義、克己を重要なものとしています。「義」が第一にくるのは、武士にとって義こそ基本的道徳であるからです。原文の英語では”Rectitude or Justice”(清廉潔白もしくは正義)としており、分りやすく言うと「人間の行うべきみちすじ」となります。」笹森健美『武士道とキリスト教』新潮新書505, 2013.pp.42-44.

 新渡戸のアイデンティティの基礎には、武士の子としての「武士道」倫理が厳然としてあって、それに世界を創造した神という信仰が繋がることによって、彼の信念はさらに強力になったのであって、かれにとっては過去の信仰を捨てて新しい宗教に転向したのではない、ということになる。なるほど。

「内村鑑三もまた、武士道とキリスト教について、多くのことを述べています。内村も卒業後は開拓使御用掛を務め、後に私費でアメリカ留学。帰国後は教師や新聞記者の職などにつきながら、数々の著作を発表しました。明治三三(一九〇〇)年には日本で最初の聖書雑誌である『聖書之研究』を創刊。これは内村が亡くなるまで続くライフワークとなります。
 内村鑑三は、「無教会主義」を打ち出したことでも知られています。これは独特のキリスト教信仰で、最大の特徴は、その名の通り教会制度を否定したこと。「イエス・キリストの時代に協会はなかった」という考えから、教会もなければ、牧師も説教師もなし。信者の集まりで講義する「資格者」はいますが、あくまでも聖書のみを読み、信者はその内容に従っていきます。
 カトリックの教会にはプロテスタントよりはっきりした階層的教会組織があり、バチカン市国を守る法皇、次いで大司教がその頂点にいます。内村はそうしたヒエラルキーも元来聖書の中にはないはずだといって、一切を否定しました。教会の権威の下に行う聖餐式や洗礼式もいらないという立場です。あくまでもイエス・キリストだけを崇めたのです。
 その代わり、内村とその周りに集った人々は聖書の研究に打ち込みました。その熱心さの一例を挙げると、信者に講義する「資格者」は新約聖書が書かれた言葉であるギリシャ語やヘブライ語も読めなければならないとしたほどです。
 (中略)
 内村は加えて、武士道の持つ倫理観を非常に高く評価し、このように記しています。
「われらは人生のたいていの問題は武士道をもって解決する。正直なる事、高潔なる事、寛大なる事、約束を守る事、借金せざる事、逃げる敵を追わざる事、人の窮境におちいるを見て喜ばざる事、これらの事についてキリスト教を煩わすの必要はない。われらは祖元伝来の武士道により、これらの問題を解決して誤らない」(『内村鑑三信仰著作集』第二三巻)
 しかし、武士道だけでは不完全で、キリスト教が必要だと彼は説くのです。
「神の義につき、未来の審判につき、そしてこれに対する道につき、武士道は教うるところが無い。そしてこれらの重要なる問題に逢着して、われらはキリスト教の教示を仰がざるを得ないのである。キリスト信者たる事は、日本武士以下の者たることではない。・・・武士道を捨て、またはこれを軽んずる者が、キリストの善き弟子でありようはずが無い。神が日本人より特別に求めたもう者は、武士の霊魂(たましい)にキリストを宿らせまつりし者である」(同前)

 キリスト教が求める倫理性は、武士道がすでに実践してきたものであって、日本人にとって何ら珍しいものではない。違うのは武士道には宗教上の救いがない点で、だからこそキリスト教が必要だと考えたのです。宗教上の救いとは、生きていくうえで自分自身にどのように向き合えばいいか、また死後の世界についての教えです。」笹森健美『同書』pp.46-51.

 こうした考え方は、明治初年にキリスト教に入っていった士族には共通している心情だったのだろうと思える。しかし、それゆえに日本のキリスト教は1%の壁を越えられなかったのだとも思う。誇り高く高潔で、徹底して自己の身を処するうえで厳しさと責任感をもつ人間、それは切腹も覚悟した武士道によるのだろうが、そんな武士は日本人の0.01%しかいないわけで、民族の精神という点では、残念ながら多数派とは言えない。それをまた日本人はみな武士道精神があるかのように誇大宣伝するのは歴史的に間違っている。でも、別の角度から見ると、日本のキリスト教がエリートの域を超えない理由でもあるのかもしれなくて、朝鮮半島のキリスト教の場合と比較すれば、民族の経験がまったく違うのだと思う。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 婚外子・事実婚・子どもの幸... | トップ | 福田美蘭展を見て »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事