第3009号 29.03.27(月)
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君子は義以て質と為し。礼以て之れを行ない、孫以て之れを出だし、信以て之れを成す。『論語』(衛霊公)
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君子の本質は義理である。正しい義理を根本とし、その義を行うにあたっては、尊卑親疎を考えて礼を忘れず、謙虚な態度で口に出し、終始偽りのない信を貫いて成し遂げる。これが真の君子である。74
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【コメント】昨日は日本中が湧いた感動の日であったと思います。大相撲で新横綱が左肩付近を負傷し、土俵には上がれないであろうと思っていましたが、義に堅い稀勢の里は痛みをこらえ土俵に上がり、千秋楽に二番勝って優勝しました。
万一、再度負傷するようなことがあれば、二度と相撲をとれなくなるのではという危惧もあったやに聞こえてきましたが、真摯なる熱情が本人を動かしたのであろうと思います。
このところ、東京都の市場問題、大阪の学校建設の問題等々で、国民が良薬を求めている時期であっただけに、稀勢の里の快挙は日本中の人々がその感動・喜びに絶叫したようです。
終盤に君が代斉唱をする時、稀勢の里の瞼から涙がこぼれおちましたが、優勝の喜びと国民に喜んで戴いたという心の誠であったと思います。
そしてやりたいことはという問いに、稽古をしたいと言ったその真心を祝福したいと思います。昨日の稀勢の里の御顔は、満身の気力をもって相撲に臨むという横綱の覇気を市井に住む我々に与えてくれました。
話かわって、仕事で定年を終えた高齢者の姿をテレビが紹介しました。仕事をしていれば、職場では仕事仲間と語る機会があるわけですが、仕事を止めた途端かたる相手がなく寂しいと述懐しました。
思うに、一人になったらしたいことが自由にできるから最高の空間だと思うのです。そこで退屈をしている人々に西郷南洲翁が菅臥牛翁にすすめたという『書経・詩経』を御読みになられたら如何ですかとお勧めしたいと思います。
有難いことに私は沢山の漢籍を保存しています。最初に購入したのが『論語』でした。それを契機にまとめて購入したのが20年前でした。訳が分からないまま漢籍を読み続けています。
会社勤務を終えた方々もお読みいただき、その良さに触れられたら満足した人生だったと言える日々がくると思います。
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『臥牛菅実秀』(第541回)
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実秀は、たとい他人の片言であっても、それを大きく受け止め、さらにそれを古教に照応して、巨大なものに鍛え上げて上げていったのだ。
たとえば、波渡(荘内海岸)の漁師、藤平のいったことも、そうであった。
実秀は釣をひどく好んで、青壮年時代は、海磯で明け暮れることが多かった。
波渡の漁師で藤平という男が、大物釣の名人であると聞いた実秀は、わざわざ、その漁師の家を訪ねていった。そして、これまで経験したことを挙げて、この場合はどうすればよかったか、あのときはどうすべきだったかと聞いてみた。
藤平は炉端で黙って聞いていたが、漁師特有の、どなりつけるような高声をふりあげていった。
「釣は、そんなものではない。」
驚いて聞きなおすと、藤平はいった。
「釣は一度、竿をぶっこめば、漁をとるまで止めぬものだ。」
実秀は愕然としてこの一言を聞いた。そしてこの一言を教学に事業に無限に活用伸展させていったのである。
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君子は義以て質と為し。礼以て之れを行ない、孫以て之れを出だし、信以て之れを成す。『論語』(衛霊公)
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君子の本質は義理である。正しい義理を根本とし、その義を行うにあたっては、尊卑親疎を考えて礼を忘れず、謙虚な態度で口に出し、終始偽りのない信を貫いて成し遂げる。これが真の君子である。74
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【コメント】昨日は日本中が湧いた感動の日であったと思います。大相撲で新横綱が左肩付近を負傷し、土俵には上がれないであろうと思っていましたが、義に堅い稀勢の里は痛みをこらえ土俵に上がり、千秋楽に二番勝って優勝しました。
万一、再度負傷するようなことがあれば、二度と相撲をとれなくなるのではという危惧もあったやに聞こえてきましたが、真摯なる熱情が本人を動かしたのであろうと思います。
このところ、東京都の市場問題、大阪の学校建設の問題等々で、国民が良薬を求めている時期であっただけに、稀勢の里の快挙は日本中の人々がその感動・喜びに絶叫したようです。
終盤に君が代斉唱をする時、稀勢の里の瞼から涙がこぼれおちましたが、優勝の喜びと国民に喜んで戴いたという心の誠であったと思います。
そしてやりたいことはという問いに、稽古をしたいと言ったその真心を祝福したいと思います。昨日の稀勢の里の御顔は、満身の気力をもって相撲に臨むという横綱の覇気を市井に住む我々に与えてくれました。
話かわって、仕事で定年を終えた高齢者の姿をテレビが紹介しました。仕事をしていれば、職場では仕事仲間と語る機会があるわけですが、仕事を止めた途端かたる相手がなく寂しいと述懐しました。
思うに、一人になったらしたいことが自由にできるから最高の空間だと思うのです。そこで退屈をしている人々に西郷南洲翁が菅臥牛翁にすすめたという『書経・詩経』を御読みになられたら如何ですかとお勧めしたいと思います。
有難いことに私は沢山の漢籍を保存しています。最初に購入したのが『論語』でした。それを契機にまとめて購入したのが20年前でした。訳が分からないまま漢籍を読み続けています。
会社勤務を終えた方々もお読みいただき、その良さに触れられたら満足した人生だったと言える日々がくると思います。
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『臥牛菅実秀』(第541回)
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実秀は、たとい他人の片言であっても、それを大きく受け止め、さらにそれを古教に照応して、巨大なものに鍛え上げて上げていったのだ。
たとえば、波渡(荘内海岸)の漁師、藤平のいったことも、そうであった。
実秀は釣をひどく好んで、青壮年時代は、海磯で明け暮れることが多かった。
波渡の漁師で藤平という男が、大物釣の名人であると聞いた実秀は、わざわざ、その漁師の家を訪ねていった。そして、これまで経験したことを挙げて、この場合はどうすればよかったか、あのときはどうすべきだったかと聞いてみた。
藤平は炉端で黙って聞いていたが、漁師特有の、どなりつけるような高声をふりあげていった。
「釣は、そんなものではない。」
驚いて聞きなおすと、藤平はいった。
「釣は一度、竿をぶっこめば、漁をとるまで止めぬものだ。」
実秀は愕然としてこの一言を聞いた。そしてこの一言を教学に事業に無限に活用伸展させていったのである。
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