スペインのカタルーニャ州で分離独立がいっそう拡大しているようです。
そこに住んでいないと、なかなか実体は分らないもので、そういうとき私たちは報道でしか知ることができません。しかしその報道が「ひずんでいる」場合には、問題が「ひずんでいる」まま伝わってくるのでした。
尤も、何をもって「ひずんでいる」とするか、異論があるでしょう。
- そのまま実体を伝えることを「ひずんでいる」とする人もいて、そこには「しっかりした思想がない」と言うのですが、その思想自体が「ひずんでいる」のかも知れません。中国・朝鮮半島を見ていると、あるいは内地から沖縄を観察していると、よくわかることなんでしょう。
- 確かに「奇妙な思想がないまま」実体を報道していると、細かい点で「ひずんでいる」ことがあることでしょう。
- しかし「間違った思想がないまま」実体を報道するほうが、多少「混乱」はみられるものの、全体的には「ひずんでいる」とは言えないのでした。
あくまでも相対的なものの見方ですが。
スペインテロ 3つの事件…組織的犯行か
今回のテロは3つの事件が関係している可能性があり、異様な広がりを見せている。バルセロナでは観光客が集まる広場周辺や目ぬき通りに車が突っ込み13人が死亡、100人以上がケガをした。実行犯は逃走した。:日テレ 2017年8月18日 17:51
分離独立のためのカタルーニャ州住民投票(2017/10/01)は
スペイン政府が認めていない違法な投票で反対派がボイコットしたため投票率が低かったものの、投票した人の圧倒的多数が独立を支持したようです。
州内では2年前の知事選挙のころから分裂気味であり、次でそれを御覧ください。
スペイン・カタルーニャ州、新首相を承認 「独立」推進:日経 2016/1/12
2年ほど前のこのころから
極左勢力との連携さえみられ、なんとなく分裂の雰囲気を醸し出しておりましたが、通常の対立とも見られていました。
そうこうしているうちに、IS犯行とみられるテロが起きました。
<スペインテロ>実行役を射殺 テロの死者数は15人に:毎日新聞 2017/8/22
バルセロナテロ攻撃事件(2017年8月17日16時50分):Wikipedia
こういった背景のもと
今回のカタルーニャ州分離独立の(違法な)住民投票があり、州議会が独立を宣言し、中央政府が自治権を制限し州知事を解任しました。
こういったスペイン内政上の問題をみるにつけ私は、次のようなことを感じました。
- 韓国人は常に「2極分化」で物事をとらえており、社会や国の全体がどちらか一方に走りたがります。
韓国では、日常的なトラブルは別として、大きなことでは反対することさえ許されず、これを「多様性がない」と称します。朴槿恵問題で言えば、国全体が「弾劾・罷免」に走り、朴槿恵支持派を社会的に抹殺しようとしていました。こういう環境下では、相当な覚悟をもたないと、朴槿恵を支持できませんね。
私には何の関係もないのに、こういった「社会システムに懐疑的な意見」でさえ「朴槿恵を支持しているからだろう」と断定して悦に入ります。きっと韓族が軽んじられるのにも一理ある、となるでしょう。
これは「報道の問題ではなく、一色を求めたがる韓国社会の問題」でした。
- ところがスペインのカタルーニャ州分離独立問題では、韓国にはなかった「混乱」がみられます。
深刻な社会の分裂があり、スペイン社会は韓国のように一色ではなかったのです。
報道が問題になるのは、社会が一色から脱出してからですが、韓国ではまだ一色の段階を脱せず、問題は報道の問題であるというより社会システムにあります。
中国では、多様なものの見方を暴力で鎮圧する弾圧主義ですが、韓国では多様なものの見方を社会システムで抹殺しようとします。これが大きな違いですね。
スペインの場合、カタルーニャの分離独立だけではなく、IS過激派が入り込んだ複雑な分裂をどう伝えるかの問題であって、一色を求めたがる韓国のような社会問題ではなく、民主社会での報道上の問題だったのです。
韓国社会には、降ってわいたような僥倖(ぎょうこう)として、ISが入り込む余地がありません。なにしろ異論さえ存在できないのですから(大笑)。
韓国人たちは
「自分たちが見本を示しているのに、どうして日本でも反安倍に走らないのか」とピントはずれの見解を示すのですが、もちろん「なぜピントはずれ」であるかを理解する能力などありません。←もちろんこのほかの能力のことを言ってはおりません。
韓国で大統領を弾劾し罷免し得た力は、「民主主義」ではなく、多様性を否定する「2極分化」、だったのです。
私は、「社会的欠陥をどうして見本にできるのか」としか言えません。
韓国人が自分たちの制度を「民主主義」だと錯覚し、「欠陥のある社会制度だ」とは思っていない証拠でしょうか。
「改善」が許されていない韓国では、このようにピントはずれに走ってしまう欠陥があるのですね。
一言でいうならば「韓国社会には、多様性がまったくない」のでした。
「多様性がない」から「異論を許さない」のか、それとも「異論を許さない」から「多様性がない」のか、どちらでしょうね(笑)。
「異論を認めないが、多様性がある」のは想像にしくいところから、韓国社会は「異論は認めながら、多様性がない」のでしょうか。
つまり韓国人社会は、「個人での異論を認めながら、全体的には多様性を欠く」のなら、納得できますね。ただし「全体的に異論をみとめない」2極分化を忘れることはできません。
韓国社会では
10年後には「まったく正反対の論調」に走ります。10年前には「社会の共通意見」だったのに、それが「異論」となってしまいます。
何でも反対≒何でも賛成と同じ
敵対する人には何でも反対、身内では何でも賛成。
考えると言う作業を略せるのは、ありがたいですね(笑)。
韓国社会で、長年にわたって共通するのは「多様性を認めない」こと。
10年毎に豹変するものの、変わらぬ真理は「多様性がない」ことでした。
これらによって、「韓国社会には、多様性がない」「韓国社会では異論が許されない」ことがよくお分かりだろうと思います。
「何が異論か」その内容が10年ごとに変わるとしても、「異論が許されない」のは永遠の真理でした(大笑)。
さてさて、皆様はどう思われますか。