秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

キトラ古墳

2013-08-12 | 古代史のミステリー
8月18-25日、壁画発見から30年になる特別史跡・キトラ古墳(奈良県明日香村)の石室が初めて一般公開されます。
見学は無料、1日約400人限定、事前申し込みが必要でした。
しかし第一次応募で定員に達し受付終了しています。

残念ながら見学できませんが、ちょっと気になる…
ネット検索で知り得た事実をレポートしておきます。


奈良県明日香村で1983年11月に発見されたキトラ古墳。
ちょうどそのころ、高校ラグビーは、同じ沿線にある啓光学園(現常翔啓光学園高)が強かった。
全国制覇5回、準優勝3回を成し遂げた強豪をTV観戦してました。
当時チームを率いていたのが、1980年度より啓光学園の監督に就任した記虎監督でした。

キトラ、記虎、とても珍しい名前で何か関係あるのかなと思ってました。

ところがこのキトラ古墳は、亀虎古墳とも書かれるが「北浦」の転訛といわれていることを最近知り、ビックリ。
旧姓ですから。



古墳の石棺内部、東西南北の壁に四神(青龍、白虎、朱雀、玄武)の絵が描かれていました。
お墓の中に極彩色で描かれた壁画があるのは日本では高松塚古墳とキトラ古墳の二つだけ。
非常に価値の高い文化遺産です。

墳丘は小高い阿部山の南斜面に位置する円墳であり、高松塚古墳の「兄弟」ともいわれます。
しかし壁画など唐の文化的影響が高松塚古墳ほどには色濃くないことから、
遣唐使が日本に帰国(704年)する以前の7世紀末から8世紀初め頃に作られた古墳であると見られています。



最初石室を見た人が亀と虎が目に入ったから亀虎という説は古いらしい。
北浦がなまってキトラ、といっても近くに池や湖ないし…
ところが、この亀と蛇の構図が北朝鮮南浦(ナムポ)にある江西(カンソ)大墓古墳壁画とそっくりと聞くと、あれあれ~?





そしてさらに驚いたことが天井の天文図です。



三重の円同心(内規・赤道・外規)と黄道、その内側には北斗七星などの星座が描かれ、傾斜部には西に月像、東に日像を配した本格的なもの。
この天文図は、中国蘇州にある南宋時代(13世紀)の淳祐天文図より約500年古く、現存するものでは東アジア最古の天文図になる。

68の星座と350の星による本格的な天文図で実際の観測図です。
北極星を中心とした沈まない星は観測場所によって異なり、内規円を調べればどこで観測したかがわかります。
キトラ古墳に描かれていた内規円を分析すると、北緯38.4度付近が観測地。
古墳のある明日香村は北緯34.5度で、ここから見上げた夜空ではない。

朝鮮半島の軍事境界線38度線、平壌は北緯39度!



南浦(ナンポ)特別市 座標: 北緯38度44分 東経125度24分
この地には、高句麗末期の王墓と言われる江西三墓があり、
大墓壁面に描かれている玄武は、キトラ古墳の玄武とそっくりなんだそうです。
1300年前、このあたりは高句麗でした。
668年高句麗滅亡!!



「高句麗の息吹! 江西大墓」

満州と朝鮮半島北部地域の広々とした領土を700年以上もの間支配してきた高句麗。
様々な種族が結集して形成されたこの高句麗は、壮大で華麗な、レベルの高い文化を花開かせました。
その中でも百基以上の墓の中に描かれた壁画は、当時の生活と精神世界をうかがい知ることができる貴重な資料であると同時に、高句麗人の歴史と息吹が感じられる文化遺産としても世界的に高く評価されています。
数多くの高句麗の古墳壁画の中でも、絶頂期の作品とされる江西大墓。
江西大墓は、平安南道江西郡三墓里に位置し、7世紀ごろに作られた壁画古墳です。
墓の墳丘は円形で、大きさは直径51m、高さ9m、内部構造は長さ3mを超える玄室と羨道からなっています。
玄室の四つの壁と天井は、磨き上げられた上質の花崗岩の板石で築造されており、そこに四神図と装飾文様などが描かれてあります。
江西大墓壁画は生き生きとした筆遣いと華麗な彩色効果が美しい高句麗絵画の代表作であり、2004年ユネスコ世界文化遺産に指定され、高い評価を得ています。


★2015/8/31 追記
今夏発表された内容によると、北緯34で観測された古代中国の天文図だそうです。
カノーブス星座が記されているから決め手となったらしいです。
http://www.nhk.or.jp/ohayou/marugoto/2015/07/0716.html

4 コメント

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Unknown (TM)
2013-08-12 19:58:08
すっご~い。よく調べてくださいました。とても勉強になります。江西大墓壁画を見てみたいものです。

キトラ古墳石室見学は残念でしたね。私も、京都大谷廟へのお参りを兼ねて、古墳を見に行きたいと思ったんですが、青森旅行もあったので体調を考えて無理しないことにしました。ちょっと残念です。
TMさんへ (ulala)
2013-08-14 08:19:56
ペルセウス座流星群見たくて、この2日間夜空を少し眺めました。
しかし見えるとされる北東は街の明かりが影響して見えにくく、結局一つも見られなかった。
流星だけでなく、星座って真っ暗な夜空だった昔の人にとっては今以上に意味があったのでしょう。
かつて見た夜空を壁画で再現しようとしたのは、やはりその地で暮らしていた人。
となるとキトラ古墳の埋葬者は高句麗の人?
確か聖徳太子の家庭教師は、高句麗から招かれた僧でしたね。
草原の契丹展見たときもすごいなぁと思いましたが、それよりも前の王朝ですもんね。
いいランキングの上がり方 (りひと)
2017-06-15 12:23:08
奈良には、そういう知識を持った方がいたんでしょうね。それもかなり早くですからその理由が見えて来るといいですね。私の中では調布もそうなのですけど高句麗とか高麗とかその国が出来る前にその息吹が感じるのですからわけわかりません。ただ奈良では少数派だったのは周りの発掘でも明らかですね。なのでどこなら多数派になるのか?そこを見ていかないといけないように思いますね。旧石器くらいからの遺跡がある所なら可能性ありそうに思います。縄文海進で沈んでしまったのなら仕方ないのかもしれませんが、大抵山岳や谷とか割と高い地の近くなんですよね。それで時代も分かるように思います。歴史の中で高麗って名字与えられた人もいるんですよ、そしてそれが嫌で戻したりというフクシンさん。お名前も貰っても戻すという例は他にないかな?高の一族と思うと変に外国へ飛んでしまう事もなく理解出来るようにも思います、日本独特の一族の文化であったら凄いですよね。歴史の文章の中に変に修飾が多くある(そもそも聞いてもいないのに)所は、現実でも嘘付く方の心理と似ているかと。説明し過ぎている所はかなり怪しく思います。

私の中では高は赤なんですよね。高安って安日彦の安だったら最高なお名前ですね。キトラがそこに繋がると面白いなあとは思っています。5390
りひとさんへ (ulala)
2017-06-17 14:01:01
お返事になってないかもしれませんが、この記事書いた一年前に契丹展を見に行き感銘受けました。
4世紀から14世紀にかけて、満州から中央アジアの地域に存在した半農半牧の民族・契丹。
きっと高句麗とか高麗も多大な影響受けてると思います。

「かつて中国はヨーロッパから見て2つ名前があったそうです。
シルクロードの陸ルートでたどり着いた中国が契丹が語源のキタイ、カタイ。
一方海のルートで陶器などをもたらした中国がチャイナ。
英語の Cathay キャセイ は、中国「Catai(カタイ)」と呼んだマルコポーロ由来らしいです。

http://blog.goo.ne.jp/goo3820/s/%E5%A5%91%E4%B8%B9

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