散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

橋下市長の池田信夫氏に対する評価の一解釈~“グノーシス的知性”と現実の政治~

2012年07月27日 | 政治
人気のネットサイト「BLOGS」において、上半期最も支持を集めたのは橋下大阪市長の『池田信夫氏に対する評価』であった。「池田氏の知識部分については同意、しかし、政治は実現することが本命、池田氏に欠けているのは実現の手法」という言葉の中に、橋下氏は、鋭い知性・豊かな知識を持ちながら、具体的提案と現実の世界とのギャップにいらだつ池田氏の感性・姿勢を、見ているように思える。その意味では、政治家と知識人との埋めがたい溝であろう。

最新の考古学的事実では、先史時代の戦争による死亡率は人口の最大60%にのぼる。一方、第二次大戦の死者でも世界の人口の2%程度とのことだから、今は平和な世の中だと経済学者にして博学、そして著名なブロガー・池田信夫氏は「人類はずっと戦争を続けていた」で述べる。確かに、氏が引用する資料によれば、死者の数の比率は先史時代が圧倒的に多い。戦争によるものが多いとして、現代と比較すれば、今は平和の時代であるとの主張も理解できる。

一方、「マンガ日本の歴史 第1巻」(石森章太郎、中央公論社1989)には、狩猟時代は食料が乏しくなり、飢え死、争いが描かれ、それが農耕時代になるとムラが結束し、周りのムラとも交流する。一方で、ムラ同士での戦う姿も描かれている。戦わない状態もあったであろうが、戦いはあったはずだから、その意味では人類は戦い続けてきたというのは“真理”であろう。

但し、この“真理”は既に“自明”なことなのだ。一般人向けのマンガ教養書に描かれる程度に!従って、壮大な考古学的実証データは貴重ではあっても、新たな概念として提起できる内容は狭い専門的な範囲に止まるように思われる。

しかし、池田氏は『聖書に始まり、ルソーやマルクスやレヴィ=ストロースに至るまで偉大な思想家が信じてきた「人類は太古には平和で平等だった」という神話が否定されつつある』と言う。更に『いま社会科学と自然科学を横断して、大きな変化が起こっている』『「国家が戦争を生んだのではなく、その逆だ」という仮説は、40年前に人類学者が発見し、20年前に考古学者が提唱した』とも言う。

池田氏が言うのだから、聖書、ルソー、マルクス、レヴィ=ストロースには根拠があるのだろう。しかし、その本人たちが太古に生きていたのではないし、確固たる歴史的な研究を彼らが残したわけでもない。強いて挙げれば、彼らが主張する哲学との整合性を図って理念的に、極限状態として語っているに過ぎないのではないか。それが神話になるほどに、信じていた人たちが多かったのだろうか?おそらく、そう言ったとしても、本人たちが信じていたとは思えないのだ。

一方、ホッブズ「リヴァイアサン」を持ちますまでもなく、『自然状態における万人による万人の戦い』は、その引用を読んで覚えている方も多いだろう。自然状態というのも仮想であり、現実にはない。従って、「万人による万人の戦い」も哲学であり、「人類は太古には平和で平等だった」と対極にある極限状態と言って良い。もちろん池田氏もホッブズには、別のエントリ「戦争が人類の歴史を決めた」で言及している。但し、ルッソー等が主流と言っている。

三木内閣の文部大臣を、民間人として勤めた故永井道雄は筆者が学生の頃(大学紛争の時代)、一般教養の教授であった。3年生の時に朝日新聞の論説委員に転出したが、その最終講義の際、京都大学時代にホッブズの哲学に惹かれ、卒業研究の題材としてもホッブズを選んだと言っていた。要するに、多様な考え方のなかで、個人が選好する問題であって、主流とか傍流とかの問題ではないのだ。

閑話休題。池田氏がここまで拘るのは、暴力が人類の遺伝子に影響をあたえたと言いたいがためだろう。更に、愛情、信仰を生み出すのは功利主義的なゲーム理論に基づいていると言いたいようだ。ここで、考古学、遺伝子学、自由主義的経済学の奇妙な結合が姿を現す。しかし、遺伝子が人類の活動を基本的なところで制御していることは確かであっても、一つの具体的行動が遺伝子の影響と言って何か新たな知見を得るわけではない。

長い期間を経て、様々な経験、様々な考え方によって築かれてきた人類の活動をゲームの理論であれ、経済合理主義であれ、狭い学問の範囲による理屈で単純化し、それが遺伝情報として人類に埋め込まれていると解釈することは、より複雑な活動を単純な事象に還元するだけの見方である。

この考え方の中に、複雑な世界を解く鍵、凡俗では得られない本質、を発見しようとする“グノーシス的知性”を感じさせる。しかし、還元主義によって得られた知見と思想には、複雑な現実の世界を制約する様々な人間的条件を直視することを妨げる何かがあることも確かだ。すなわち、表現されたその本質を知った人は、その表現を信じることによって、現実の世界の全体像を理解することが可能になる。一方、可能になれば、個々の具体的事象は全体像から解釈することになる。

常に新たな事象が発生し、その都度、政治家は反応を必要とする。池田氏の知識を認めた橋下氏が、その知識を活用しようとすれば、個々の具体的政策は、池田氏の描く全体像の中に取り込まれていく。権力者にとって、それは自己喪失につながるのだ!ここに政治家・橋下市長の池田氏に対する違和感と評価の根源があるように思われる。

        

国民は選択の契機を捉えられるか~橋下氏「野田首相はすごい」発言~

2012年07月14日 | 政治
先日の橋下発言には驚いた。「当初言っていたことを着実に進め、確実に『決める政治』をしている」「野田首相はすごい」。6月末に、消費税率引き上げ関連法案が衆院本会議で可決したことを受けて、「民主党は『4年間は増税をしない』と言っていた。政治のプロセスとして、これが許されるなら、選挙公約は全部いらなくなってしまう」と、民主党政権を痛烈に批判したからだ。

これには色々な意味が含まれている。先ず、思いついたのは、自民、民主に対する大阪維新の会としてのバランスだ。松井知事を初めとして維新の会は自民からの離脱者が多い。従って、維新の会内部での発言の主導権を確保することが狙いになる。

先のエントリでも述べたように、急激に膨張する政治集団においては、オポチュニストが入り込む余地があると共に、政策全般にわたって、意見が一致しないものも多いはずだ。自らが先頭に立って引っ張る橋下氏と雖も油断は禁物である。

例の家庭教育支援条例でも自民党・安部元首相の陰が見える。国会議員で驚くべきことに、「親学議連」が作られ、安部会長、鳩山顧問を中心に、いわゆる文教族で構成されているらしい。しかし、橋下氏は「発達障がいの主因を親の愛情欠如と据えるのは科学的ではない」「基本的に市民を条例で縛る考えは無い」と親学イデオロギーには批判的である。

更に自民は「国土強靭化基本法案」を持ち出している。10年間で200兆円の公共事業を主張し、消費税増税をばらまきに使い、財政再建とは全く反対の方向へ走り出している。道州制により地方の独立を図り、消費税の地方税化を主張する橋下氏にとっては相容れない政策である。

一方、橋下氏の発言では、政策での親近性ではなく、『決める政治』という方法論を“すごい”と評価している。民主の中で対立していても党首=首相というポジションでの権限を発揮し、対立する小沢グループを自民と組んで除籍しことを強調している。

その意味でも維新の会内部へのメッセージとして強烈である。考え方が合わなければ潔く“袂を分かつ”ということだ。

一方、外に対しては「民主党の支持率は急回復する」と述べ、これが少しでも回復と同期すれば、因果関係はなく、相関関係だけであっても『第1の橋下効果』と言える。すると「自民党や民主党の中で、考え方が近い人で再編することを期待する」が現実味を帯び『第2の橋下効果』が期待できる。

自らは一歩ひいて大阪の“化粧直し”(改革とも言う)に専念し、これで化けられれば、即ち、大阪市を解体し、特別区体制を立ち上げれば、市長職はなくなるので、その成果をもって、道州制を掲げて国政へ進出できる。

上述のストーリーは推察であるから、この通りではないにしても、この橋下発言の重要な意味は政治的選択の枠組を提供していることだ。これまで政権党の民主党内部で権力争いがあり、それを取り巻く国会は衆参のねじれがあった。政策では、TPP問題に見られる経済のグローバリゼーションへの対応、財政再建に対する消費税の取扱い、エネルギー問題への取組、それぞれが対立と政局への思惑が絡んでいた。

今回の消費税を巡る野田首相の決断は、この構図を解きほぐす第一歩にできることを、橋下氏は国民へ向けて力説したのだ。

決断によって、各政党、議員は消費税だけでなく、すべての政策に対して、その優先順位を含めて旗幟を明らかにすることを迫られ、互いの政策が方向性として基本的に対立するのか、細かい内容、あるいはアプローチが違うのか再検討が必要になるからだ。

この必要性を必須なことにまで押し上げるのは国民の態度表明に依存する。野田首相の支持率が上がることは、必ずしも消費増税の可否だけではなく、上記の政治的土俵の設定を是とすることも含まれるからだ。当然、政策を軸にした合従連衡と多数への世論形成へと進む。

橋下発言は『国民は政治的な“選択の契機”を捉えられるのか』と私たちにチャレンジしている。