教科書的知識からすれば、二月(三月)革命をロシア革命の始まりとして、十月(十一月)革命でボリシェビキ政権がその二月革命で生まれた臨時政府を倒した。
すると、二月に生まれた臨時政府は、十月の時点において、
(Ⅰ)成長途中であった
(Ⅱ)成長できずに衰退していった
基本的にはその二つのいずれかで、ボルシェビキの蜂起に敗れたはずだ。
副題の「破局の8か月」とは、臨時政府が勢いを増しながら崩れていく過程の表現である
。即ち、(Ⅱ)が正解になる。しかし、著者はその過程を丁寧に追う。臨時政府にとってだけの破局か?との問いを引っ提げてだ。
しかし、その問いを投げかける意味が筆者には良く判らないが。
以下、著作の言葉を「」の中に書き、その他は筆者のコメントとする。
(1)「十月革命は根本において誤っていた展望に促されて起こった革命」(Pⅴ)。
この断定が以下の記述に必要とは思えない。
(2)「十月革命クライマックス史観と著作の史観とは違う」(Pⅵ)。
(3)「それは裏返しの十月革命クライマックス史観と呼べる」(Pⅷ)。
“裏返し”の意味が判らない。
(4)「ロシア革命で滅びたものについても考えてみる必要がある」(P?)。
(5)「何よりも先ず、臨時政府について考える」(Pⅵ)。
(6)「ロシア史のなかので二月革命から十月革命までを考える」(Pⅶ)。
これは見掛け以上に困難な課題を設定して取り組んだ著作であり、その意欲は書評(毎日新聞3/5)を読んだ潜在的読者へ十分にアピールするものだった。しかし、読者となったひとりとしては“平凡な、余りにも平凡な”内容に、期待を持ち過ぎたことに対して反省を余儀なくさせられた。
二月革命から十月革命の間に新しい解釈が可能になるような深みのある考察がなされたわけではない。民衆レベルでの政治意識を地域、職業等に分解して理解が進んだわけでもない。エリート集団内の内情を説明しているのが主だ。
それ故か、議論に変化を付けようとして、タラレバが繰り返される。
「WWⅠが起こらなかったならば、ロシアの…」(P10)から始まり、
二月革命に関しては、
「この「私的議会」で議会下院が自ら権力をと決めていれば、ロシア革命の…」(P27)
「仮に皇帝が大本営を離れずに、全力で首都鎮圧を指揮したならば…」(P34)
七月危機については、
「このとき、反政府勢力を徹底的に弾圧すれば…」(P133)
「この共謀(ケレンスキーとコロニーロフ)が頓挫しなければ…」(P160)
こういうことを並べても人は賢くなれないのではと、考えてしまう。
レーニンによって、革命の形態が変わったのだ。
それは本文の次の二つを関連させて考えることができる。
(ⅰ)二月革命は「女たちの叫びで始まった」(P22)。これは自然発生的な現象だ。
これを契機に「1917/3/2、革命ロシアに新しい政権―臨時政府が誕生」(P42)した。
(ⅱ)一方、十月革命でレーニンは意図的に革命を引き起こしたのだ。
「現状の力関係から出発せず、より「弁証法」的に考えていた。つまり、自分自身が動くことで、力関係に変化を及ぼし、展望を変えていく…」(P205)。
この点に関して残念ながら著者は何も気が付いていない。
従って、レーニンの人物像も「泥んこのなかで天衣無縫に遊ぶ幼児」と単純極まりなく描かれるだけだ。
筆者なら「砂場で建物を創って遊ぶ幼児」とでも描くだろう。砂場(社会)の砂(大衆)を水(例えば四月テーゼ)で濡らし、少しずつ固めて移動し、積み重ねて建物にする。砂の性質をよく理解していたのだ。
著者と筆者のレーニン像の違いはジキル博士とハイド氏にようにも見える。
スティーブンソンの原作は19世紀後半の作品だ。社会における見えない亀裂が二重人格者、革命主義者を生み出していたのかもしれない。漱石もまた、「明暗」のなかに不気味な人間像を描いていた。農民社会から自らを隔絶させた貴族社会の自由主義者、社会主義者には手の追えない性格を有する人間像かも知れない。
更に「エリートと大衆の格差」を論じるには、文学的素養も必須であり、それらを織込めば記述にふくらみも出て理解も促進されるだろう。但し、ロシアの場合は民族的・宗教的背景が欧米諸国と異なり、トランプ現象等を念頭においた最近の政治状況には馴染むとも思えない。
ロシアの今後を占うにはプーチン現象との対比が必要だ。その点、著者の問題意識の立て方に安易さを感じる。ロシア革命の教訓は先ず国内問題に対してであり、ロシアの変貌が世界へ影響を及ぼすからだ。
すると、二月に生まれた臨時政府は、十月の時点において、
(Ⅰ)成長途中であった
(Ⅱ)成長できずに衰退していった
基本的にはその二つのいずれかで、ボルシェビキの蜂起に敗れたはずだ。
副題の「破局の8か月」とは、臨時政府が勢いを増しながら崩れていく過程の表現である
。即ち、(Ⅱ)が正解になる。しかし、著者はその過程を丁寧に追う。臨時政府にとってだけの破局か?との問いを引っ提げてだ。
しかし、その問いを投げかける意味が筆者には良く判らないが。
以下、著作の言葉を「」の中に書き、その他は筆者のコメントとする。
(1)「十月革命は根本において誤っていた展望に促されて起こった革命」(Pⅴ)。
この断定が以下の記述に必要とは思えない。
(2)「十月革命クライマックス史観と著作の史観とは違う」(Pⅵ)。
(3)「それは裏返しの十月革命クライマックス史観と呼べる」(Pⅷ)。
“裏返し”の意味が判らない。
(4)「ロシア革命で滅びたものについても考えてみる必要がある」(P?)。
(5)「何よりも先ず、臨時政府について考える」(Pⅵ)。
(6)「ロシア史のなかので二月革命から十月革命までを考える」(Pⅶ)。
これは見掛け以上に困難な課題を設定して取り組んだ著作であり、その意欲は書評(毎日新聞3/5)を読んだ潜在的読者へ十分にアピールするものだった。しかし、読者となったひとりとしては“平凡な、余りにも平凡な”内容に、期待を持ち過ぎたことに対して反省を余儀なくさせられた。
二月革命から十月革命の間に新しい解釈が可能になるような深みのある考察がなされたわけではない。民衆レベルでの政治意識を地域、職業等に分解して理解が進んだわけでもない。エリート集団内の内情を説明しているのが主だ。
それ故か、議論に変化を付けようとして、タラレバが繰り返される。
「WWⅠが起こらなかったならば、ロシアの…」(P10)から始まり、
二月革命に関しては、
「この「私的議会」で議会下院が自ら権力をと決めていれば、ロシア革命の…」(P27)
「仮に皇帝が大本営を離れずに、全力で首都鎮圧を指揮したならば…」(P34)
七月危機については、
「このとき、反政府勢力を徹底的に弾圧すれば…」(P133)
「この共謀(ケレンスキーとコロニーロフ)が頓挫しなければ…」(P160)
こういうことを並べても人は賢くなれないのではと、考えてしまう。
レーニンによって、革命の形態が変わったのだ。
それは本文の次の二つを関連させて考えることができる。
(ⅰ)二月革命は「女たちの叫びで始まった」(P22)。これは自然発生的な現象だ。
これを契機に「1917/3/2、革命ロシアに新しい政権―臨時政府が誕生」(P42)した。
(ⅱ)一方、十月革命でレーニンは意図的に革命を引き起こしたのだ。
「現状の力関係から出発せず、より「弁証法」的に考えていた。つまり、自分自身が動くことで、力関係に変化を及ぼし、展望を変えていく…」(P205)。
この点に関して残念ながら著者は何も気が付いていない。
従って、レーニンの人物像も「泥んこのなかで天衣無縫に遊ぶ幼児」と単純極まりなく描かれるだけだ。
筆者なら「砂場で建物を創って遊ぶ幼児」とでも描くだろう。砂場(社会)の砂(大衆)を水(例えば四月テーゼ)で濡らし、少しずつ固めて移動し、積み重ねて建物にする。砂の性質をよく理解していたのだ。
著者と筆者のレーニン像の違いはジキル博士とハイド氏にようにも見える。
スティーブンソンの原作は19世紀後半の作品だ。社会における見えない亀裂が二重人格者、革命主義者を生み出していたのかもしれない。漱石もまた、「明暗」のなかに不気味な人間像を描いていた。農民社会から自らを隔絶させた貴族社会の自由主義者、社会主義者には手の追えない性格を有する人間像かも知れない。
更に「エリートと大衆の格差」を論じるには、文学的素養も必須であり、それらを織込めば記述にふくらみも出て理解も促進されるだろう。但し、ロシアの場合は民族的・宗教的背景が欧米諸国と異なり、トランプ現象等を念頭においた最近の政治状況には馴染むとも思えない。
ロシアの今後を占うにはプーチン現象との対比が必要だ。その点、著者の問題意識の立て方に安易さを感じる。ロシア革命の教訓は先ず国内問題に対してであり、ロシアの変貌が世界へ影響を及ぼすからだ。