散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

追悼・中山俊宏教授~突然の喪失…

2022年05月13日 | 永井陽之助

中山さんは青山学院大学博士課程卒、米国政治を中心に国際政治にも明るい研究者であった。大学時代に永井陽之助の薫陶を受けた方として筆者は注目していたのだったが…。

ツイッター上での新聞報道、訃報のニュースを見て「えっ」と驚く!何故?誤報では?一瞬、疑いも湧く!しかし、「くも膜下出血」との言葉…誰にでもあり得ること、メディアへの出演も多く、忙しい…パソコン情報だけからもわかる。これも現代的事象か!納得する気持に切り替わる自分に気が付く。

筆者は東工大での教養課程で永井政治学に惹かれ、ゼミ(少人数での講義)のひとりとして授業に参加、更に卒業後、土曜休日に贋学生として二年次の講義(政治理論、現代社会論、国際政治、日米経済摩擦等)を聴講していた。また、永井の青山学院への転籍後(84/10~)も論文等は漏らさず読んだ。しかし、次第にその数は減り…永井の死(08/12)を知ったのは、訃報ではなく、偶然のきっかけからだった。

その後、永井追悼文(中央公論、09/5)の存在を知り、早速、図書館で読むと共にコピーを取る。その執筆者が中山さんであった。氏は永井政治学の何に惹かれたのか?

それは『現実主義』ではなく、『危険な知』に対してであり、また、『啓蒙する知』とは対極にある『挑発する知』が永井政治学の核心にあったと述べる。「人間精神の深奥をふと垣間見た時に見える残忍な表情から立ち上げた政治学…とも述べながら。

一方、筆者が「啓蒙の知」の対極にみるのは、「大衆社会における権力構造」(『政治意識の研究』所収)において、永井がリースマンを引用し、敷衍した「自己認識の知」(=「自己解放の知」)であり、当然、永井政治学の核心もそこにある。

中山と筆者の考え方の違いは、政治学の専門家を目指したものと、生き方としての教養を求めていたものとの、視点の違いに起因すると考えられる。

しかし、中山が永井に、知的に刺激されたのは確かであっても、挑発されたとは思えない。「大学に残ったのは、永井の話を聞くためだけ」と感じる位だからだ。逆に、それ故に、永井政治学の核心に啓蒙の知とは反対の知を見出したのかも知れない。血気盛んな若者は啓蒙に反発して自立を志すからだ。

7年前、トランプが登場した米大統領選挙、日本でも強い関心で沸き、中山さんも米国政治の研究者の立場に立つ。その一つ、清泉女学院大学で開催された夜間講座で話をする。地域住民が「主な対象」だったが、一般にも開放されて筆者もここぞと聴講する。筆者は一つ質問をして、終了後に挨拶、永井さんのことなど少し会話した。丁度、氏の後輩の方から「永井論執筆」の話を聴き、そのインタビューに応えたことを話す。氏はその話を知らなかった様子であった。中山さんと話したのは、これが最初で最後であった。