散歩から探検へ~政治を動かすもの

自己認識の学・永井陽之助の政治学を支柱に、自由人による主体的浮動層の形成を目指し、政治状況の認識・評価・態度を語ります。

「カルメン」、舞踊的表現~アントニオ・ガデス舞踊団公演

2016年09月19日 | 文化
曇り空、時たま雨が降る中、お祭りで賑わう渋谷。カルメンを芸術的に味わうには悪くない雰囲気だ。随分と昔に見た映画「血の婚礼」のことを覚えている。

スローモーションでのラスト・決闘シーン、舞踊表現とはこういうものか、と圧倒された。それは、フラメンコ独特の靴音のリズム・サパテアードとの対照の妙をも感じさせた。ある面からみれば、歌舞伎の見得にも通じるものかとも思った。

「カルメン」でも生きていたが、それと共に力強いフラメンコ、男の体はしなり、女の柔らかで、強い自己表出は靴音のリズムと共に高揚感と緊張感を生み出す。ガデスの真骨頂と思わされた。



ナタリー・ステージから転載)

その単純な物語はオペラで知り、更に歌手が唄いあげる詩の中に、カルメンのイメージはいわば膠着されている。ハバネラのテープが流れるなかでの踊りは、先ずオペラを想い起させる。これはしかたのないことだ。

しかし、踊り手のエスメラエルダ・マンサーナスの表現に見入っていると直ぐに、それは新たなカルメンのイメージになる。言葉で表現しようとすれば、オペラも踊りも同じかも知れない。しかし、感じ方は異なり、それも次の瞬間は変わっていく。ほとばしる情熱!生粋の愛!生々しい情念!何とも言えないのだ。

見ているうちに、女性の踊りの中に、インドネシア・バリ島のケチャックダンスでの、若き女性のしなやかな体の動きによるゆっくりとした表現を想い出した。内にこもる情熱・愛・情念を表現しているのではないか…それは「チャ・チャ・チャ…」というリズムに乗っていた。カルメンもまた、靴音と手拍子に乗っている様に!

アントニオ・ガデスは、スペイン内戦が勃発した1936年、バレンシア州に生まれ、十代で巨匠ピラール・ロペスに見出され、瞬く間に舞踊界のスターとなり、フラメンコ舞踊を一地方の民族舞踊から、世界の舞台芸術に創り変えた。

2004年、ガデス他界後は、彼の愛弟子ステラ・アラウソ監督がその遺志を継ぐ。新生アントニオ・ガデス舞踊団が結成され、世界中の舞台で絶賛を浴びている。

ガデスの世界観を体現する『フラメンコ組曲』。
フェデリコ・ガルシア・ロルカの作品を舞台化した『血の婚礼』。
筆者が観賞した代表作といわれるメリメの『カルメン』。
以上が今回の公演で行われる作品だ。すべてを見たかったが、時間と金との問題で絞った。

公演会場のオーチャードホールは始めてだ。デパートの裏側にいつの間にかできていた。狭い空間を何とか生かした感じがするが、座席が前後で互い違いになっているのではないため、前の人の頭に遮られて、左に右に頭を振って見ざるを得なかった。最近は映画館でも、こんなことはない。せっかくの公演が十分に楽しめなかったのは、残念だ。


     
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空襲による死亡者・被害者たちの象徴、トト姉ちゃん~花森安治の視座

2016年09月13日 | 歴史/戦後日本
「今度の戦争に、女の人は責任がない。それなのにひどい目にあった」(「花森安治伝」津野海太郎(新潮社)P14)。大橋鎭子へいったという花森の言葉は、『序章』の〈百万部雑誌の始まり〉で紹介され、キーワードでもある。それは、朝ドラでも印象的なシーンの一つとして放映されたと思う。

第二次大戦に関して、それぞれがその言葉だけでは言い表せない事柄について、花森らしく、ズバリと「女の人」、「責任がない」、「ひどい目」と表現する、その意味するところは何であろうか。

筆者は花森の詩「戦場」を紹介し、空襲されたその場を〈戦場〉ではなく、〈焼け跡〉と、死者を〈戦死者〉ではなく〈罹災者〉と表現し、一篇の詩に仕立てたのは、花森の創造力のなせる技であると述べた。
 『米軍空襲による惨状を描いた 詩 「戦場」~花森安治の創造力130815』

そして、「戦場はいつでも海の向うにあった」と書き出し、続いて、今は、「ここが、みんなの町が戦場だった」との表現の中に、生活の場が戦場になることによって、「ひどい目にあった」一般人の姿を描き出したのだ。
 『〈戦場〉はいつでも海の向うにあった~戦後マイホーム思想の原点110815』

町にいるのは、兵士以外の人たちであって、女では必ずしもないが、女は戦争には行かなかった。戦争の責任は男すべてではないが、少なくとも責任ある人間は男だった。だから、「女の人」との言葉に象徴させて、戦場ではない生活空間において、空襲という戦争行為に晒された人たちの悲劇を、花森は自らの責任の中に織り込んだと筆者は想像する。
少なくとも花森は戦争を推進する立場から兵士として戦場へ赴き、大政翼賛会で仕事をしていたはずだ。
即ち、トト姉ちゃんは、その意味での被害者、いやそれ以上に亡くなった人たちを含めて象徴的存在であったのだ。

その当時、昔の仲間と仕事の企画を立てていたと上記の本には書かれている。しかし、それはある意味では戦前の延長線ではないか?ふと、花森は感じたかも知れない。

一方、大橋はどうだ!空襲による被害者が生活の場を築こうとし、それも女の人たちを対象とした雑誌作りなのだ。そこには、新たな展望に立った仕事がある、と考えたとしても不思議はない。

本は副題に「日本の暮らしをかえた男」とある。
確かに、ひとりの人間としてなしたことは、それに値するかも知れない。一方、戦後復興から高度経済成長へと、まっしぐらに進んだ社会において、その経済状況に同期して「暮らしの手帖」の内容が読まれた側面も強い。

そこで花森の仕事がどの程度に貢献したのか、必ずしも定かではない。確かに百万部まで発行数を伸ばしたことは、驚くべきことに違いはないが、多くのファンは上層階級からそれに近い中層の人たちのようにも思う。




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日ロ平和条約を結べるか~「永井構想・北方枢軸」から50年

2016年09月07日 | 永井陽之助
「日本は第一に、基本的に現状維持国家であり…。日本は西側の諸国と友好関係を結び、次第に、経済的にも、政治的にも現状維持国に転化してきたソ連、東欧諸国との友好関係が開かれていく必然性を持っている。
それは客観的な利益領域の共通性を持つからであって、対ソ外交は、モスクワ=東京=ワシントンを繋ぐ北の枢軸に発展する…」(「平和の代償」P109)

これは今から50年前(1966/3中央公論)に発表された「日本外交における拘束と選択」での基本的な選択の部分として論じられた政策提案である。この論文自体は現実主義対理想主義の論争を巻き起こした一つとして、有名である。一方、この構想が当時、どの程度議論に上ったのか、定かではないが、それほど注目されなかったように感じる。

それは、その論文の直ぐあとにも書かれているように、「…以上の北方枢軸の構想は一つの難点を持っている…」からだ。南北問題において、日本が北に帰属し、東南アジア地域、A・A(アジア・アフリカ)諸国に背を向ける印象を与えることになるためだ。

確かに、歴史的にみれば、その後の日本は東南アジアへの進出を図った。また、アジアNEIs諸国の第一世代である「四匹の虎(韓国、台湾、香港、シンガポール)」は、この頃から高度成長が始まっており、タイ、インドネシア、マレーシアなどが続く(「戦後世界経済史」猪木武徳(中公新書2009))。

従って、政治的にも難しい北方枢軸は“現実的”ではなかったのだと思う。しかし、この構想は迂回的アプローチを重視するという意味で、他のいわゆる現実主義者とは異なり、永井独特の発想を示したものと感じる。

海を挟んで米中ソに囲まれた日本が取るべき、長期的課題をイメージする中で生まれた着想になるからだ。従って、世界政治がめまぐるしく変転し、ソ連がロシアになり、中国が市場経済を導入して真の大躍進を遂げた50年後の今日においても、その意味は基本的に変わらないように見える。

また、その構想は、「日本外交中期目標を、中国との国交回復と、正常な外交関係の確立におく。…中国との国交回復のため、対ソ接近は、迂回的な外交アプローチなのである。」(「平和の代償」P106)とのことだ。

最近、ウラジオストクで開かれた「東方経済フォーラム」において、安部首相が「重要な隣国の日ロが平和条約を締結していないのは異常な事態だ」と云い、「極東でのエネルギー開発、産業振興など8項目の協力プラン」を提案し、その地を「アジア太平洋に向けた輸出の拠点として、毎年、首脳会談を開催しよう」と呼びかけたことは、日本の首脳が北方領土問題だけでなく、世界政治の中の日ロの位置づけを真剣に考え始めたとの印象をプーチン大統領に与えたようだ。

一方、プーチン大統領は端的に、「互いに歩み寄ろう」と述べた。
平和条約の締結後、色丹島と歯舞群島を引き渡すとした1956年「日ソ共同宣言」を重視することの確認である。しかし、引き渡しの条件や島の主権について検討する可能性を示唆し、無条件引渡しはないことを宣言したことが目新しい。

日ソ共同宣言は、1956/10/9に日本とソ連がモスクワで署名し、12/12に発効した外交文書(条約)である。これにより両国の国交が回復、関係も正常化したが、国境確定問題は先送りされた。その後、この日ソ共同宣言は、1993年のボリス・エリツィン、2000年のプーチン両大統領が来日時に有効が確認され、2001年に両国が発表した「イルクーツク声明」でも法的有効性が文書で確認された。

以上をまとめると、主として日本が経済協力することは、安倍首相が思い切って風呂敷を広げた処だ。領土問題に関しては、日ソ共同宣言をベースにすることは何度目かの再確認に過ぎない。そこから平和条約に進む道は、プーチン大統領によって、無条件でないことが明確にされた。経済のボールを投げた安部首相に、領土のボールが投げ返されたことになる。

風呂敷の中身を頂く一方、宿題を包んで返されたという処か。安部首相が本気であれば重い宿題とは考えられないが…。尖閣諸島の領有権を棚上げにしたまま日中友好平和条約を締結したことを如何なる意識で「歴史の教訓」とするのか、日本が試されるときでもある。

     
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