散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

ウクライナの国家宣言~キリスト教受容の日の意義

2022年07月30日 | 国際政治

東野敦子教授のツイッターより、

この日は、もともとキーウ・ルーシ=ウクライナのキリスト教受容の日としてそれまで祝われていたところ、ゼレンシキー宇大統領が昨年の独立記念日の際に、新たに7月28日を国家祝日とすると発表していたもの。
その後、大統領令により「ウクライナ国家性の日」が制定された。
また、2022年5月31日には、ウクライナ最高会議(国会)も、7月28日に「ウクライナ国家性の日」という祝日を制定する法律を採択している。
ゼレンスキー大統領の昨日の演説には、なぜウクライナ人達がこれほどまでの犠牲を払っても戦い続けるのかが語られています。

筆者は以下のリツイートを送る。
ウクライナ国家建設の宣言ですね!
かつてハンチントンが言った文明の衝突を乗り超えていけるのか?
ポーランド系のカトリックを含む。一方、クリミア等の東部地域はロシア正教系が多く、その融和も課題となる。
ともあれ、プーチンロシアの逆手を取れるように声援を送る!

註 ゼレンスキー演説は以下参照

https://www.ukrinform.jp/rubric-society/3538566-yuerinihaukuraina-guo-jia-xingno-rizerenshiki-yu-da-tong-linggamesseji.html


安倍元首相の死(2)~社会の深淵で何が…

2022年07月16日 | 現代社会

7月8日(金)の昼頃、故安倍元首相が襲撃を受けた事件をテレビで知って以降、暗い気持ちになった。犯人は政治的理由ではなく、個人的、社会的に孤独な中年でマニアックに銃を保持…何でまた?との気持ちであった、

それ以降、強い違和感を持って事態の推移と様々な見解を追っていた。その中で、会田弘継氏(ツイッター:7/11)の言葉に「ズバリ」の衝撃を受けた。以下の記述だ。

『「民主主義の否定」とか「言論への暴力」に違和感を持ったのは、それよりもっと深刻なことが起きている気がしたからだ。』…『「政治制度ではなく、もっと奥深いところでなにかが壊れてしまっているような思いがしています。」

ハッとさせられ、そうだったのか!と感じた。相模原老人施設での殺人事件、京都アニメスタジオ放火事件が挙げられていた。
更に後に、『「未明に米国の友人から届いたメッセージに添えられた以下の詩の引用が、自分の感じていることを幾分か的確に言い当てている気がしたので、書きとどめておく、との発言もあった。

( https://facebook.com/photo/?fbid=10159683 )

筆者も自分の衝撃を思い直し、地下鉄サリン事件(1995年3月20日)から四半世紀の後、社会秩序への集団性暴力が「個人」へと解体したような、そんな気がした。しかし、相模原、京都との違いは、個人の思いが…どのような思考を辿ったか不明だが…政治指導者個人へと及んだことだ。

おそらく、直感的判断であって、熟慮ではないと筆者は考える…(『ファースト アンド スロー』(D・カールマン著)早川書房)なお、著者はノーベル経済学賞を2002年受賞、いかにして人は認知的な錯覚に陥るのか?どのようにすれば合理的な判断ができるのか?」についての研究!

特に、孤独、マニアック、被害者意識、が重なるとファースト思考に陥る可能性が高いように思われる。


安倍元首相の死~社会的孤独な犯人像

2022年07月10日 | 現代社会

安倍元首相が亡くなられた(22/7/8)。ご冥福をお祈りする。

昼頃、心肺停止の報をテレビで知って以降、暗い気持ちで時がたった。犯人のことも僅かながらに伝えられたが、政治的理由ではなく、個人的な気配が感じられた。そこには「社会的に孤独な中年像」が現れるだけで、自分の暗い気持ちは、その像によるものだったのではないか?

安倍氏は心肺停止で大学病院へ運ばれたが…回復の見込みがどの程度?と思いながら、読みかけの分厚い本(江藤淳は甦る)を読み続け、3時頃にテレビを点ける。ニュースで安倍夫人が奈良へ向うとのこと、やはり、ダメだろうとの気持ちになる。

先に自分史を書いたとき、浅沼稲次郎刺殺事件(当時、小学高学年)を想い出す。友人が卒業ノートに「17才を見たら右翼と思え!」と書いていた。しかし、そのような意味での政治的確信犯の姿は、今回は到底浮かんでこない。あの時は…犯人・山口乙矢が確信犯として壇上に駆け登って短刀で浅沼の腹を刺す場面…写真が雑誌に掲載されていた!

翌朝、土曜日、ツイッター上、当時の池田勇人首相による国会での「浅沼追悼演説」を紹介する方がおられた。その素晴らしい演説を改めて想い起す。今回の事件で発言した政治家並びに政治関心層の政治感覚は、当時の“庶民的政治感覚”からかけ離れたものへ変質した様に思える。

先進国・日本の選挙運動風景から、期日前投票を終えた筆者は、美辞麗句で飾られた多くの政治家及びその志望者と、圧倒的多くの、無言で孤独な個人の集合体を改めて思い浮かべる。それが犯人像、社会的孤立の中年像と結びつき、事件から暗いイメージを感じたように思える。


中山俊宏教授を再度、追悼する~ファッションとは隠れること

2022年07月07日 | 政治

中山教授が亡くなられた際に、学者を中心に様々な方がTwitter上で氏を追悼された。その中でひとりの方が氏のダンディさを『リーダーの仕事の装い』(日経新聞2021/11/29)掲載の氏のスタイル「ファッションとは隠れること」を引用されていた。

実は自分も引用したかった。だが、ファイルを残しておらず、何も書けず、残念な思いを残していた…ところが、今になってファイルを発見!単に整理が悪く、ファイルが積みあがって埋もれていたのだった。気を取り直して読み直すと、現代の国際的知識人のポジションが導くスタイルと、中山の個人的ダンディズムの見事な結合と読めた。お目にかかったのは一度だけだったが、特に目立った服装ではなく、それを受取る感性が筆者には乏しかったと言う他ない。…という分けで、以下、本文を引用する。

国際政治学者、慶応義塾大学総合政策学部教授の中山俊宏さんが好むのは、「際立たない」装いだ。周囲にすっと溶け込む、ダークスーツと無地のネクタイ。ディテールやカットが個性的なテーラー仕立てのスーツを、実にさりげなく着こなす。アンダーステートメント(控えめな表現)な装いに徹し、「ダンディー」「おしゃれ」などと言われることは嫌い――。「こだわらないことが、こだわり」と語る中山さんの服装に対する考え方の原点は、1980年代半ば、青山学院高等部時代にあった。

「スーツの着方ということに限定すると、私にとっての一番は国連事務総長だったコフィー・アナン氏。私は96、97、98年とニューヨークの国連日本政府代表部で働いていて、当時はまだスーツのことをよく知らなかったのですが、アナンさんのスーツは一目見て、すごくきれいだなと感じていました。しわ1つなく、お尻にかかる上着のラインもネクタイも完璧。ブリオーニの仕立てでした。最近知ったのは、事務総長になるからにはブリオーニぐらい着てください、と周囲に言われて作っていたそうです。私が見た時はテーラーにアドバイスされるままに着ていた、最初のころだったのでしょう」

「でも、私はどちらかというと、たかが服というスタンスなんです。服を下に見ているわけでもないし、服が好きなのも明らかなのですが、自分にとって装いは、大きい男は小さい服は着ない、小さい男は大きい服を着ないという、その一言に集約される。サイズが適度に合ったものを適度にきちんと着る。そこを押さえていれば人が何を着ていようが自由」

――たかが服、されど、という部分はどうですか。エグゼクティブになればその人の格に合う服が必要ではないかとも思うのですが。
「その場合はまさに、際立つ、のではなく、あえて何も気づかせない、ということが大切なのではないでしょうか。『すれ違った時に振り返られたらだめ。それは何かスタイルで失敗している』という話がありますよね。さりげなさに執拗なまでにこだわること。社会的な地位が高くなればなるほど、過剰な装飾などせずに際立たない。ただ、すっと、スタイルや体形に合ったものを着る、ということが非常に重要になってくる気がします」