『歴史の終わり』(フランシス・フクヤマ著)は冷戦を終えた時期に出版され、世界的なベストセラーとなる。30年後、氏は『リベラリズムへの不満』を書き、会田雄次氏の翻訳で日本からも出版、当然の如く注目されている。
その中で筆者は政治学者の待鳥聡史氏の解説(フォーサイト23/4/22)よって「目から鱗が落ちる」気持ちになる。その内容を以下に記す。
「ポスト冷戦時代」だが、根底の理念は、自由主義(リベラリズム)だ。
即ち、自由で開放的な国際秩序が望ましい基本原理、具体的な方向性は、国際的・グローバル化、国内的・民主化をそれぞれ追求する。
これまでのフクヤマの主要著作に比べれば分量的にコンパクトであり、訳文の明快さも手伝い読みやすいが、古今の政治思想に関する深い造詣と世界を見渡すような視野の広さ、そして今日的課題への鋭敏さなど、彼の知的営為のエッセンスが随所に現れている。
私たちにできることは何か
リベラリズムにとって、現状は極めて苦しいものといわねばならない。今日直面する課題は、従来の共産主義や権威主義との対抗とは性質が大きく異なるためである。
共産主義や権威主義、さらに遡れば宗教権力による支配などは、いずれもリベラリズムとは異なる要素からもっぱら成り立っている。
リベラリズムの側は自らの優位性を主張することで対抗できた。
だが、ネオリベラリズム、アイデンティティ政治、そして情報技術の進展に伴う個々人の自由の侵害は、リベラリズムの主要な構成要素の一部が過剰に強まったことによって生じており、いずれもリベラリズムにとっては獅子身中の虫である。
この状況を打開する方策はないのだろうか。
フクヤマが提唱するのは、古典的リベラリズムへの回帰、より具体的には、古典的リベラリズムを構成する諸要素のバランスをとることである。
彼は『リベラリズムへの不満』の末尾において、古代ギリシア哲学の用語を引きつつ「中庸」の必要性を説く。グレイによる定義は、リベラリズムが個人主義、平等主義、普遍主義、改革主義という特徴を持つとしていたが、これらのバランスを巧みにとり、特定の要素が突出しないようにすることが、最も大切になるというわけである。
中庸あるいは適切なバランスが確保されれば、確かにその効果は大きいであろう。
しかし、フクヤマが認識していながら論じ切っていない問題がある。
いかにしてバランスを確保するか、である。
もちろん彼らしく、個人レヴェルで中庸の精神を養うための教養の復権、といった議論には向かわない。政治制度を通じた権力の抑制と均衡(チェック・アンド・バランス)が役立つことは端々に示唆されている。実際にもアメリカ連邦最高裁判所がリベラリズムに基づく国家の運営に果たしてきた役割は大きい。今日の場合にも、ネオリベラリズムやアイデンティティ政治の過剰、あるいはプライヴァシーの侵害などに対して、一定の役割を果たす余地はあるに違いない。
しかし、それで十分だといえるだろうか。
フクヤマが言及していないこととして、古典的リベラリズムの成功の鍵は、政治、経済、文化、宗教といった社会生活の領域ごとの自律性が高い。ある領域でその構成要素の一つが過剰になっても、影響が他の領域には及びにくかったと指摘されている。
グローバル化以前では、地域ごとの自律性を加えても良いかもしれない。領域ごとの差異が価値基準の多元性を生み出し、それがリベラリズムを構成する特定の要素の突出を抑止していた。
今日、ネオリベラリズム、キャンセル・カルチャーが社会生活のすべてを覆っている。領域ごとの自律性に基づく多元性は著しく後退した。公共部門のチェック・アンド・バランスの仕組みは、このような意味でのリベラリズムの変容に対抗できるだろうか。
待鳥氏は言う。フクヤマだけでなく…、
ある特定領域での多様性、中庸の確保だけではなく、数多くの領域から成り立つ社会が総体として多元性を確保するための構想、リベラリズムの基本原則を共有しつつも領域ごとの自律性を回復させる構想等が、求められる時代になっていると。