散歩から探検へ~政治を動かすもの

自己認識の学・永井陽之助の政治学を支柱に、自由人による主体的浮動層の形成を目指し、政治状況の認識・評価・態度を語ります。

回想・自分史・個人史~社会的拘束の中での個人の必然・偶然・選択

2016年12月18日 | 個人史
これまで断片的に回想を記事にしてきた。元来、そういうものであるから、個々の事象を取り上げることになる。しかし、それを歴史の一部にすることは難しい。記憶はあっても記録がないからだ。

では、自伝は歴史か、と云えば、チェスタトンは彼の「自叙伝」(春秋社)を『風聞』から始め、「…差し当たり、自分個人の判断を働かせて確かめることができない話を鵜呑みにして…」、生年月日と出生場所を書いている。

それは戸籍を取り寄せてみれば判るはずだ、と云っても、生年月日を親が18年後に届け出ていた筆者の様な人間は、やはり、役所の判断が鵜呑みであったと思えてならないのは誰でも理解できるであろう。

最近はやりの自分史もまた、「史」だろうか、との疑問が纏わりつく。
「読ませる自分史の書き方」(工藤美代子著、幻灯舎)によれば、五つのポイントの中に「できるだけ本当のことを書く」が入っている。即ち、「不作為の作為」が宿命だとしている。では、本当の「歴史」と言われているものは、すべて本当のことなのか?との反問もでてくるだろう。

記憶だけに頼らずに、記録をできるだけ参照し、個人の判断だけでなく、社会的影響も客観的な資料として提出する等の工夫をして記述すれば、それは自分史ではなく、“個人史”となるのではないか。そんなことを考えて、自分がその個人史を試みる際の考え方をまとめてみた。

『わたしが「個人史」を書く目的』
タイトル
 『経験・思索・志向が重層化する生活世界~自らを探検する醍醐味の創り方』
サブタイトル
 ~「自分」を相対化する複眼的視点を持つ「自分史」を目指す
 ~「自律と自立」の変化とバランスを統合する個人の選択を振り返る
 ~戦後的「個人の自由/社会的圧力」を改めて認識する

考え方と目的
1)自分は生誕から社会的存在=親・家族・社会は所与、個人として認識される
2)個人に係る社会的影響(客観的)~家族、教育機関、政府、国、世界等
3)個人が感じる社会的影響(間主観的)~家族、友人、先生、報道等
4)個人が獲得する「情報」~勉学、読書、趣味等+(家族~報道等)

5)「1-4」に基づく思索・志向(基盤)、経験(潜在的現実の中から顕在化)
6)思索・志向・経験~重層化して生活世界を構成
7)生活世界~多次元性(年と共に多様化・重層化)→個人的体験

8)多次元性はその個人が自覚的に記述して統合的認識が可能
9)統合的認識→他人と共有可能、新たな始まりの契機
10)「1-9」を試みることが「個人史」の意義

以上がこのひと月の間、色々な文献を当たりながら考え、個人史を書き始めたことの中核になる。始めてみると、溢れるように過去が想い起こされてくることに驚く。記憶とはこんなものだったのか!私たち、団塊世代の様々な回想もネット上にてんこ盛りにある。
それでも、回想、自分史を超えた個人史を試みてみたい。

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