散歩から探検へ~政治を動かすもの

自己認識の学・永井陽之助の政治学を支柱に、自由人による主体的浮動層の形成を目指し、政治状況の認識・評価・態度を語ります。

国勢調査(H27) 基本集計~議論されている基本認識に沿った結果

2016年10月27日 | 現代社会

人口等基本集計は全ての調査票を用いて市区町村別の人口,世帯,住居に関する結果及び外国人、高齢者世帯等に関する結果(H27/10)を集計した確定値になる。
これまでの議論と整合した結果と同じであるのは当然だ。大都市への集中、特に首都圏への集中、少子・超高齢化、世帯数増加を反映している。

以下、主な事項をまとめる。
(1)総人口:1億2709万5千人、対H22年比:96万3千人(0.8%)減
  ・男性:6184万2千人、女性:6525万3千人。女性341万1千人多
(2)日本人人口:1億2428万4千人、対H22年比:107万5千人(0.9%)減
(3)外国人人口:175万2千人、対H22年比:10万4千人増
  ・国籍:「中国」51万1千人最多
(4)世帯数5344万9千世帯、対H22年比:149万8千増
  1世帯当り人員:東京都1.99人最少(昭和45年以降初の2人以下)

(5)年齢人口区分:15歳未満は調査開始以来最低、65歳以上は最高
  ・15 歳未満:1588 万7千人(対総人口割合12.6%),
  ・15~64歳人口:7628 万9千人(同60.7%)
  ・65歳以上人口:3346 万5千人(同26.6%)、対H22年比:3.6%上昇
  ・15歳未満人口の割合(対外国比)
   日本は伊(13.7%)、独(12.9%)よりも低く、世界で最も低い水準
  ・65 歳以上人口の割合を(対外国比)
  ・日本は伊(22.4%)、独(21.2%)よりも高く,世界で最も高い水準

(6)都道府県別人口:東京都(1351万5千人)最多
  ・人口上位9都道府県合計:6847 万1千人・全国の5割以上(53.9%)
  ・首都圏(1都3県)人口:3613万1千人・全国の1/4以上(28.4%)
   対H22年比:51万2千人増
  ・人口増加率:8都県増、39道府県減、沖縄県(2.9%)最多、東京都(2.7%)
   大阪府は増から減へ
(7)市町村人口:300市町村増(17.5%)、都特別区、政令市及びその周辺
        1,419 市町村減(82.5%)、5%以上減約:約半数(48.5%)





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トランプ現象と米国保守主義の思想~レーガン融合主義の破綻

2016年06月13日 | 現代社会
先に紹介した「トランプ現象の底流」は、70年頃の永井陽之助「米国解体論」、松尾文夫「ニクソン論」から連綿と続く米国・草の根保守の不安・閉塞感が、経済のグローバル化とサービス産業・知識産業化及び米国の退潮と共に退化・深化し、トランプに励起される様相を感じとれて面白かった。」
 『トランプ現象の底流、「米国社会の見直し」への視座160423』

トランプだけではなく、サンダースも合わせて視野に入れながら、その現象を理解することが必要であり、それが米国社会を動かす米国社会のダイナミズムの一端に触れるのは確かだ。

しかし、冒頭の「迷路に入り込む米国保守主義」に対して、その議論が共和党に余り向いていないことに引っ掛かるものがあった。トランプ現象に限れば、共和党の問題であるからだ。
当初は泡沫候補であったトランプが、舌先三寸で共和党の正統と思われる候補を蹴散らしたのだ。そこで「オバマがトランプを生み出した」というのは、論理的に十分ではない。
「オバマ政権時代の議会・共和党が生み出した」と言うべきではないだろうか。そうでないと、保守主義が迷路に入ったことの説明にはならない。勿論、オバマも関わることは確かなのであろうが。

迷路の様相を中山は次の様に表現する。
「米国では保守主義のイメージがとてもわるかった…この呪縛から逃れるため…保守主義運動は思想運動と位置づけた。…トランプの台頭は、米国保守の自画像を大きく揺さぶる…保守主義は思想運動だったのかと…」。

「退けたはずの「反動的なるもの―異質なものに対する違和感や恐怖、更に敵意」が少なくとも草の根レベルでは保守主義を突き動かしてきたのではないか…それがトランプ現象として我々の前で繰り広げられて…」。

一方、会田は伝統主義者の中に移民排斥の排外主義をみてとり、そこに「…リバタリアン、ネオコンに代表される米国保守主義のなかの近代主義的な部分に対する拒否感情…」があることを指摘した後、「伝統主義派の思想には、アングロサクソンの政治思想のなかに生きており…白人文化に思い入れがある」と指摘する。共同通信の記者として米国社会を肌で感じてきた人らしい、鋭い指摘の様に感じる。

会田の指摘に中山は、伝統主義を思想表現から政治表現に変換すると危険な領域に入り込む可能性があると、納得する。迷路は、米国保守主議論(「アメリカン・イデオロギー」(勁草書房)2013)を展開してきた中山の思考回路にも入り込んだ様に思える。

上記の論文集のなかで、中山は「実在する個別事象」だけに偏在し、「大きな物語」に関する追求が欠けている米国研究の状況に対して、台頭する「保守主義運動」を総体として捉える発想を提示する。
そこには政治運動を推進する母体(指導集団)と根っこ(底流のフォロアー)を繋ぐための《アメリカン・イデオロギー》が存在するはずだ。言うまでも“イデオロギー”は「思想表現」を基盤にした「政治表現」である。従って、両者の処理は、政治事象を論ずる学者が、最初に考えるべきことである。

「人間の政治認識は、経験的・科学的観測者の立場から〈偽〉として拒否される〈記号体系〉(例えばイデオロギー)も、人間の実存的認識としては、〈真〉となりうる」(永井陽之助「政治意識の研究」あとがき)からである。

そこで、「大きな物語」とは何だろうか。中山は次の様に云う(P27)。
「保守派もリベラル派も「(未完の)自由の物語」に参入するとの意味では「大きな物語」を共有しているとの見方も成り立つ。そこで、自由を至上の価値とするのが保守派、前提として平等を重視するのがリベラルとなる」。
ここが他の国との大きな違いになる。
しかし、「至上の自由」に集まる集団は様々である。それをまとめたのが、レーガンであった(P76-86)。それは反共主義、リバタリアニズム、伝統主義等の様々な政治的傾向をまとめると共に、ラディカル派を排除する融合主義であった。この“記憶の共有”によって、保守主義運動が着実に台頭してきた。

政治活動の内部で対立があるのは当然だ。問題は、トランプ現象によって、融合主義が打ち砕かれたことだ。共和党の大統領予備選において、候補者が乱立すると共に次々とドロップアウトしたことがこれを象徴する。
融合主義としてまとめた思想に、共和党の政治活動を乱す基本的な欠陥が内在していたと筆者は感じる。しかし、サンダース現象も同じ様に捉えるなら、民主党のリベラル思想も問われることになるはずだ。今後の集中的な研究が待たれる。

      
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地域研究から見出す社会資本“生き心地”~野暮の発露を抑える風土とは?

2016年05月08日 | 現代社会
副題「この自殺率の低さには理由がある」が本のタイトル『生き心地の良い町』(岡檀(講談社)2017)の中味を示唆する。低さの理由はタイトルそのものである。更に、タイトルは著者が“自殺率の低さ”から直観的に感じとったその地域(徳島県海部町)の特色でもある。
 「AMAZON」掲載

海部町が“生き心地の良い町”であることは岡氏の確信であり、その追認のためにデータを集め、理由付けしたのが、研究成果だ。逆に云えば、その確信がなければ、海部町が生き心地の良い町と表現されることはなかったはずだ。筆者もそうだが、多くの人は、「自殺率の低さ=生き心地の良い」であることに違和感はないはずだ。博士論文をベースにした一般書が評価される所以だ。

それは人間科学/社会科学の範疇ではなく、概念の創出であり、クロード・レヴィ=ストロースが云う処の“野性の思考”である。即ち、
「人間は、感覚に直接与えられるもの(感覚与件)のレベルでの体系化という最も困難な問題に先ず取り組んだのである。科学はそれに対して長らく背を向けていたが、今ようやく、それを展望の中に取り入れ始めている。」(「野性の思考」P16)。

このことは、第1章「事のはじまりー海部町にたどり着くまで」の中で、岡氏が描くエピソードにいみじくも表されている。
新聞記事「老人の自殺17年間ゼロ、ここが違う徳島・海部町」を読んで岡氏は「これだと思った」!そして、海部町に関する他の記事を含めて、「わくわくしながら読んだ」と書いてある。ここが精神的に最高潮となった場面と推察する。

ところが、「いきなり海部町に飛びついてはいけない」のである。
「論理的、科学的根拠に基づいて研究対象を選択するように教え込まれていた」からだ。これが現代の社会科学・人間科学の研究の実態だ。若き知性の課題意識とそこから生み出される概念を葬り去る可能性もあった。

「海部町を研究対象にするのは、裏付けがなくてはいけない」。岡氏はデータを揃えるのに苦労するが、「私は幸運だった」と述べる。幸運を呼び込んだのは、岡氏の執念と実力であるが、自らの確信を形にする意欲も含まれるだろう。

第2章で五つの「自殺予防因子」を抽出し、最後に海部町の歴史的形成過程を一瞥する。それは江戸時代に遡る。山林資源を基に、材木の集積地として繁栄した処で、農村社会とは異なり、流れ者が集まり、移住者として人口が増えていったのだ。これが緩やかな絆を醸成したと岡氏は推察する。これが本書の中で一番大きな発見だと、筆者は感じた。ここに、それまでの仕事、学問に裏打ちされ、かつ、鍛えられた岡氏の直観力が地域の歴史とスパークしたように思われる。

第3章で、抽出した「自殺予防因子」が自殺を予防する理由を考察する。しかし、そこには「生き心地の良い」は標題でのみ与えられ、インタビューから捉えた現象・言葉を直観力で整理し、紡いでいく氏の技量が展開される内容だ。それは第5章のまとめ、「対策への提言」にも続いている。
(著者は引用していないが、本の表題は下記からの流用と推察する。)
 「「自殺社会」から「生き心地の良い社会へ」」(清水康之,上田紀行(講談社文庫)2010)

その第5章の最後、集団への同調を促す世間的圧力を封じる方法、「説教はしないー野暮ラベルの効用」を興味深く読んだ。
「野暮」といえば反対語の「粋」が頭に浮かぶが、その薦めではなく、野暮なことをしないように強要するわけでもない。それは野暮なことを抑止する、ポストイットのように直ぐに剥がせるラベルなのだ。

ここは筆者の想像だが、九鬼周造「「いき」の構造」に示される様に“野暮―いき”は、京都の文化だ。従って、海部町の地元住民よりは、移住者が聞きかじりで、行動の擁護に使い始め、それを地元住民も含めて根付かせた様に思われる。また、当時の小さな町は、阿部謹也のいう「世間」であり「社会」ではない。利用価値のある言葉は容易に広まったとも思える。

更に、この本のキーワード「生き心地」とそれを支える具体例は、社会資本としての貴重な例示であり、GDPに替わる指標の幸福度の議論にもインパクトを与えるものと考える。

      
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トランプ現象の底流、「米国社会見直し」への視座~中山俊宏対会田弘継

2016年04月23日 | 現代社会
「トランプは西側先進諸国が共通に抱える問題を集約して表現する…」、
「改めて日本は米国をきちんと見ていかなければいけない…」(中山)。
「米国白人45-54歳の死亡率が上昇…原因は自殺、薬物中毒…」
「トランプが刺激しているのは不安、閉塞感…」(会田)。

トランプ現象を説明する記事、評論を探しが、深みのあるものはなく、「探しものは何ですか?…探すのをやめた時、見つかる事もよくある話で…」(井上陽水「夢のなかへ」)の様に、出てくるのを待つ姿勢にした。
 『トランプ現象と米国社会の全体像~1971年、永井の認識方法』

すると、“中山のつぶやき”(対談掲載(公研4月号))に出会った。対談であるから長くはないが、筆者自身の問題意識を基にまとめてみる。

「迷路の入り込んだ米国の保守主義」で共和党を論じることから始まり、「トランプが爆発させた人々の不満」で貧困層の拡大が下層中間層の不安を焚きかけ、“草の根保守”がそれと重なり、トランプ支持に回るとの分析だ。

続いて、「米国の社会主義運動は絶えずに続く」から「米国社会を支えてきた制度に対する不信感」では、サンダース現象を分析する。ウォール街占拠運動(2011/9)が格差という言葉を定着させ、以降も格差拡大は進む。従って、運動の考え方は“経済こそすべて”のクリントンを中道右派として、拡大する。また、政党政治に資本が結びつき、資本に有利なシステムが多くでき、法律も変えられた。

更に、冷戦終焉以降の世代にとって西欧・北欧の社会民主主議がモデルであることを意味し、ソ連共産主義というイメージから離れ、反共リベラル的な発想からは自由で、比較的抵抗なく受け入れられる。

ここで中山が面白いコメント、「米国では社会主義はないと言われるが…労働運動はビッグビジネスに対して欧州よりは戦闘的だったりもする」を付ける。永井陽之助「なぜアメリカに社会主義はあるか」(年報政治学1966)を反射的に想い起こさせる発言だ。この相反する表現を解く鍵は人種問題にある。

話は佳境に入り、「トランプを生み出したのはオバマ」となる。トランプ現象の先駆けは“ディーパーティ運動”であることに両者は一致する。そこで、中山はそれを保守主義運動が解体していく兆候だと捉え、それ以前は“極端な思想”を排除していたとする。その機能がなくなり、そこにトランプが入り込んだ。

リーマンショックでの大企業救済、更にオバマケアによる大きな政府路線に刺激もあった。加えて、オバマは“戦略的忍耐”という言葉で、米国の卓越性が国際政治における解決策を与えないとして没落を容認した、と受け取られた。

“ディーパーティ運動”の継続としての“トランプ運動”との見解に会田も賛意を示す。それは“米国をもう一回偉大な国にしよう”というトランプの言葉に象徴される。従って、“トランプ現象”は一過性ではない。また、経済環境の変化にも起因することから先進諸国に共通の現象になるとの予測が成り立つ。

米国はIT、バイオに象徴される様に技術力は高く、知識産業へ移行する。米国就労人口の八割がサービス産業で、知識産業に携わるのは少数だ。サービス労働者は宿泊、飲食、交通、清掃等の知的労働者に奉仕する仕事に就く。この様に、日本も含め先進国はサービス産業化が進み、製造は国外、中進国へ移行し、財政赤字を積上げる。新たな社会構造の中では、福祉をはじめ工業化時代につくった制度を税金では維持できない。

対談した中山、会田の両氏共に自らの認識を率直に提示し、当然それぞれは仮説であるが、会話は成立し、米国の底流に潜むエネルギーの不気味さを提示し、日本への警告としていることが理解できる。
筆者として不足の点を感じるとすれば、黒人、エスニックグループを含めた人種の問題、団塊世代を含めた個人主義の変貌、ネット社会の影響等とそれらによる国際情勢への影響である。これも優れた研究を見出す他はない。

    
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日本経済低迷の主因~米国在住・冷泉彰彦氏の見立て

2016年04月13日 | 現代社会
年明け後に公表された経済指標はマイナス基調が多く、消費・生産ともに低迷、今年1-3月期のGDPもマイナスとなる可能性が高い。前年同期比の消費は、1月-0.6%、2月-1.5%。3月に大きな回復がない限り、マイナスは必至である。

需要が高まらないから生産も低迷する。鉱工業生産指数は3月+3.9%の見込みを入れても横這いになるだけ。更に、世界経済の鈍化懸念から設備投資も抑制気味となっている。10~12月期に続いて2期連続のマイナスになれば、景気後退が本格的に意識されるであろう。

筆者は一昨年の末、齋藤誠教授が日経に寄稿したアベノミクスの診断・処方について紹介した。改めて教授の説を確認すれば、「政策総動員の熱病」に罹り、「成長よりも生産維持を目標」にすべし、とのことだ。
 『デフレの診断・処方を誤る~2年後のアベノミクス141212』

更に昨年の末、一見は華々しく、円安・株高を導き、デフレ心理を和らげたが、実質的な成果に乏しい3年間と総括した。その後は新アベノミクスにも関心を向けることはなく、経済現象を社会の中に位置づけ、その全体像と先行きを考えることに注力している。
 『「派手な空体語」と「隠せぬ現実」~3年目のアベノミクス151222』

消費税引き上げ延期説も出るなかで、日本経済の低迷について、概要をまとめて問題提起した論考がJMM(Japan Mail Media) No.892に出てきた。それを「表題」にとって紹介する。

そこで、冷泉氏は外部要因(世界経済一般に共通の問題)と内部要因(日本独自の問題)に分けて整理する。重複部分をまとめて簡易化すると以下。

外部要因は、
(1-1)大量生産品は人件費の安い地域へシフトして低コスト化。
(1-2)エネルギー源の多様化が進み、エネルギー価格が安値安定。
(1-3)IT化による事務コストの削減が進む。
(1-4)機械製品・食料品等は生産技術が進展し、コストが下落。
(1-5)電子機器端末の多機能化と標準化、ハードの市場と価格は縮小。
 以上が構造的な変化、結果としての現象は、
(1-6)中、伯、露、トルコ等新興国経済の急速なスローダウン。
(1-7)欧州だけでなく、北米にもスローダウンの兆し。

内部要因は、
(2-1)人口減・債務累積による投資、消費の減退。
(2-2)高人件費にため、大量生産拠点の地位を奪い返せない。
(2-3)「現地生産化」により生産量と雇用が流出。
(2-4)エレクトロニクス産業は重電(法人・公共需要)と部品産業へ逃避。
(2-5)長期的でリスクを選好する資金が国内に決定的に不足、
     一方、国際的な資金調達にも躊躇。結果として、
     技術や人材に比べ、慢性的な資金不足のため産業が拡大できない。
(2-6)リスク選好資金の不足のため、金融業の発展を阻害。
(2-7)プログラムやコーディングを担う人材の社会的・経済的地位が低い。
     従って、高付加価値を生み出す人材の育成ができない。
     一方で、「ハード製造復興」のセンチメントが根強い。
(2-8)農業、事務部門、サービス業において生産性が低い。
(2-9)資本主義の根幹にある制度インフラに実効性が伴わない。
(2-10)実用的な英語教育が実践できていない。
(2-11)非就労人口の世論形成への関与が増大。

整理されていない部分、米国的な見方の部分が目立つように感じる。しかし、問題提起としては一つの全体像を提起している。日本の中でも先ずは全体像の整理、味方を多くの学者、研究機関が提起することが必要であろう。

      
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定常の中で生活を営む術~成長ではなく質の向上を-日本がモデル

2016年04月10日 | 現代社会
特集『低成長時代をどう生き抜くか』(Foreign Affairs Report 2016/3)」の諸論文の中で、筆者は「長期停滞を恐れるな――重要なのはGDPではなく、生活レベルだ」(ザチャリー・カラベル(エンベスネット))に注目した。

表題「定常の中で生活を営む術~成長ではなく質の向上を-日本の様に」は筆者の意訳、英文表記は以下で邦訳も意訳であるから、筆者なりに考えてみた。
「Learning to Love Stagnation-Growth Isn't Everything-Just Ask Japan」。

Loveの訳として”楽しむ”が第一感で思い浮かんだが、少し軽いと感じて”営み”としてみた。逆にLearningを真面目に訳さずに“術”にしてみた。成長は量であるから邦訳の対比は倣ったが、文言は“質”にしてみた。

問題はStagnation (停滞)。
低成長でも、経済学的には停滞で正しいのだろう。しかし、一般的な言葉のイメージでは、止まって、淀んでいる様子を表現し、方丈記「淀みに浮かぶ泡沫はかつ消えかつ結びて、久しく止まりたるためしなし」を想い起こす。

そこで、最近読んだ、経済学者・齋藤誠氏の近著「経済学私小説 〈定常〉の中の豊かさ」(日経BP社)から“定常”を借用させてもらった。カラベル氏の着想も齋藤教授の問題意識と重なる部分があると思われる。筆者の発想としては一連の「成長から成熟へ」と同じであり、表現は異なっていても注目した所以である。
 『様々な「成熟時間の腐蝕」、現代的状況~成長から“成熟”への軌跡(13)140826』

ネットに掲載されているのは目次と概要だけで、後ほど、国会図書館で全文を読むつもりでいる。目次に概要を細切れにして当て嵌めると次の様になる。

 1.アメリカの格差と所得の停滞
  ・先進国は依然としてデフレから抜け出せずにいる。
  ・所得格差の危険を警告する声がますます大きくなる。
 2.失速した新興市場
   ・中国は投資主導から消費主導型経済への不安定な移行時期へ。

 3.GDP依存の弊害
  ・経済の先行きが各国で悲観的観測。
  ・この見立ては基本的に間違い。
  ・GDPはデジタルの時代の経済を判断する適切な指標ではない。

 4.低下する財とサービスの価格
  ・世界的に生活コストが低下している。
  ・賃金レベルが停滞しても、生活レベルの維持向上は可能。

 5.日本シンドロームからポスト成長モデルへ
  ・デフレと低需要は成長を抑え込むが、繁栄を損なうとは限らない。
  ・身をもって理解しているのが日本。
  ・世界は「成長の限界」、だが、繁栄の限界は未だ視野の外に。
 6.「成長の限界」VER2

カラベル氏は「4.低下する財とサービスの価格」に着目する。スタグフレーションにはならないわけだ。石油価格が大きく下落して、この冬の灯油料金は大きく下がった。数量的・平均的には、賃金上昇と同じ効果だ。

しかし、財とサービスの価格が下がった理由が問題であろう。成長が限界に達しても生活レベルという意味での繁栄は限界にきていない。それを理解しているのが日本だと言われると、ドキッとするわけだ。

「成長から“成熟”へ」を考えた際に、成長が相似型に大きくなるイメージに対して成熟は変化・脱皮のイメージと想定した。更に、動植物の変化・脱皮はその形、行動に関わるが、人間の場合は個人の知識・智恵をベースに社会的・文化的活動に関わるものとしてみた。
従って、人間としての成熟とは、内面的なことの表出が主になるはずだ。

カラベルの論文が「ポスト成長モデル」と「成長の限界VER2」についてどのように展開されているのか、興味深い。

      
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主権者教育とは何だろう?~教育と実物過程の乖離の間に

2016年02月24日 | 現代社会
有権者の年齢を20歳以上から18歳以上に引き下げる話に始まり、高校生のみならず、小中学生にまで、いわゆる主権者教育を実施しようとの気運があるようだ。川崎市においても教育委員会が腰を上げて取り組むこと、市議会においても「主権者教育」の議論をしていることを若手の重冨議員のブログで知ることができた。

それによれば、教育委員会は「若者が有権者として求められる力を身に付けるための教育」との考え方で「自分の意思が社会を創る」という冊子を作成し、小学校・中学校を含み全校で活用する。
そこで重冨議員は「この主権者教育ですが、そもそも何か?」と問いかける。

主権者教育とは、「主権者を教育する」との上から目線の言葉である。一体誰が?主語の無い言葉なのだ。では、主権者を主語にすれば…「主権者は教育される(を受ける)」となる。しかし、権利行使の主体であるから主権者と呼ばれる。従って、矛盾を孕む言葉なのだ。主権者を客体視するからだ。主権者各人の絶えざる自己啓発が主体となべきなのだが…教育することが既得権益になっている文科省系の関係者にとって、そうはいかないのだろう。

そこで、主権者教育とは、先々に主権者となる人たちを、その権利行使に向けて教え込むことに他ならなくなる。川崎市教育委員会が小中学生に対しても実施する所以であろう。ここで奇妙なのは、主権とは、政治における国民の権利一般ではなく、就中、選挙での投票権に集約されているかの様な気配があることだ。

因みに「総務省HP」には以下の階層で主権者教育が現れる。
=トップ > 選挙・政治資金 > 選挙 > ニュース一覧<投票制度・選挙制度・啓発その他> > 主権者教育のための成人用参加型学習教材について
なるほど!総務省は選挙を司るのであるから、主権者=投票者になるのだ!

最近のNHKニュースで、学校において「模擬投票」を主権者教育として行っている例が報道された。先生達が立候補者となって、選挙公約(マニフェスト)を掲げ、それを生徒が評価して投票をしてみる。例に違わず、最後にインタビューがあって、糞真面目な言葉を投票者がコメントしていた。
これは公共放送を司るNHKにとって“絵”になる内容であるから仕立てあげたものに違いない。

但し、ここに描かれた良き主権者の例は、候補者のいわゆる公約を政見放送、演説会、街頭演説、選挙公報などで、比較検討して投票する人である。この考え方には、日頃は政治について何も考えなくても、選挙の際に、選挙に向けた各候補者の選挙公約を理解して判断はでき、それで良いとの発想が含まれている。

筆者には“架空の政治”を想定しているとしか思えない。
“政治の実物過程”が「公約―投票」に集約するわけではない。それは人が人を動かす、金を動かす、情報が飛び交う、集団が形成される等の混沌とした過程であり、そのなかから実行に向かう政策が姿を表し、また、起こるはずのない事件が突発する過程でもある。

最近、民主党と維新の会の合体問題が進行し、今晩のニュースでも、民主党の党名変更で維新の会との合流が今週中に決まるとの報道だ。米国ではトランプ旋風が吹き、クリントン女史が妥結したTTP交渉を否定的に捉える発言をする。オリジナルな事件・発言等が次々に出てくる。それが現代における政治の実物過程なのだ。

私たち一般人は、勿論、すべての政治事象に関心を持てるわけではないが、マスメディアであっても、ネットメディアであっても情報ソースとは付き合っているから、知らずの内に情報がたたき込まれる。その蓄積が知らずのうちに、自らの政治的思考を方向づけ、ある面で、政治的選択をしているのだ。

従って、選挙の際に、白地のうえに立候補者の選挙公約を書き並べて比較することなど、到底できない相談なのだ。その前までに受けた情報の蓄積によって、自らの投票行動は、自ら自覚することなしに、決まっていることが多いのだ。

現在の政治的情報環境から自らを先ず、解き放つことから自らに対する主権者教育は始まる様に思える。それは情報を選択することを意味する。しかし、色々な情報に接しないと選択もできない。従って、小中学生の頃から旺盛な好奇心で情報に接することが必要になる。そこから選択の契機が掴めるはずだ。

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「難民を見ない国」・日本、合格率0.2%の狭き門~「未来世紀・ジパング」から

2016年02月17日 | 現代社会
先の70年代のインドシナ難民の記事を更に追って、現在日本における難民への対応を探ってみた。表題の「見ない国」は残念ながら、言い得て妙なのだ。日経論説委員・太田泰彦氏の2015/3/15記事での表現である。但し、実務にあたっている人たちにとっては、それどころではないことは確かであろう。

合格率とは、法務省への難民認定の申請者数に対する被認定者数を示す数値だ。公式に難民と認定する人数は極めて少なく、昨年度は約5千人に対して、11人、“約0.2%”の狭き門だ。
そうは云っても、10年前の2005年は申請者384人だから、申請人数は増えていることは確かだ。
しかし、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によれば、2013年末の時点で、紛争、迫害や人権侵害のために移動を強いられた人の数は5120万人に上る。その一年前に比べて600万人も増えており、シリア紛争が原因だと云う。

氏は、世界の難民の実情について、私たち日本人はあまりにも無知で、あまりにも鈍感ではないだろうか、現在の日本は「難民受け入れ後進国」であると云う。日本政府による「難民」の定義が、他の先進国に比べて厳しく、難民条約を狭く解釈しているからでもある、と氏は指摘する。

氏は「社会の側がそう呼ぶから、市井の人々が難民になる。日本人は受け入れ実績が少なく「難民慣れ」していないのは事実…異質を嫌うのは日本社会の特性…難民という言葉は、時に偏見をもって語られがちだ」と述べる。
そこから、「難民を見ない国・日本」との言葉が出てくるが、「見えない」、あるいは「見て、見ぬふり」も含まれている様な気がする。

異質を嫌うという点において、永井陽之助は日本人の国際関係観=平和観が「自然村」秩序観の投射であると「平和の代償」で述べる。即ち、「外国人は、都市のヨソ者であるが故に、警戒と親密の入り混じった態度で接し…大勢に受動的に反応するか、感情的に反発するしかない」。

先の記事で述べたインドシナ難民についても、初めの受入は年間で2,3人、その後、他の国々から批判があって、結局、その後に受入人数を増やして最終的には1万人を越える数字にまで達した。それでも米、豪、加、西欧諸国と比べれば、少ない数値にしかならない。
 『難民受入・国際化・“compassion”~永井陽之助1979年』

枠を広げて<難民>を考えれば、急増する老人ホーム入所希望者もその枠組に入る可能性が大きい。川崎市で発生した老人ホームでの死亡事故が殺人事件として取り扱われるようになった。3名が同様な事故死であったが、今の処、1名だけが被害者になっている。所謂、格差問題が福祉的に改善されるのではなく、排除の発想で対応するようになれば、世の中はますます混沌としてくるに違いない。

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政策形成の方法論、福島復興政策の再検討~澤昭裕氏と齋藤誠教授の一致点

2016年01月19日 | 現代社会
一橋大におけるご自身のHPに掲載された、齋藤教授の「澤昭裕氏の論考」に対する読後感は、澤氏の主張に100%賛成はしないと云いながら、その姿勢に共感して次の様に述べる。

「異なる議論がぶつかり合って,前向きな妥協を積み重ねながら,誰もが根本的なところでは賛成しないが,次善の政策として多くの人々が納得しコンセンサスを形成できるものを見つけ出すことについて,私は,私たちの社会の可能性に,いぜんとして希望を持ちたい。というか,希望を持っている。」
「澤氏の論考にある勇気ある提言は,そうした私の希望が幻でないことを雄弁に語っているのでないだろうか。」

教授は澤氏が亡くなるとは思っていなかったはずだが、不謹慎であることを省みず思い浮かんできたことを言葉にすれば、全く偶然のことで、今となって上記の言葉は澤氏に対する見事な弔辞になっていると感嘆せざるを得ない。

それは教授が澤氏の次の提案に両手を挙げて賛成する処から出てくることだ。
「16年度は根本的な課題について,「全てのタブーなく」議論する時期だ。政治や行政,そして社会がタブーに逃げ込めば,福島で自立しようと考えている人たちの行き場や頼り所がなくなり,復興を遅らせてしまう。」

続けて教授は言う。
「これほど重要な社会課題に対して,すべての人が完全に賛成できるような政策提言など存在しない方が当然だと思う。澤氏と私の間に主張の違いがある方が,政策議論として健全な姿であろう。」

教授の目指す政策論争は何も福島復興政策だけの話ではないことは抽象論として、容易に理解できる。今日、重要な政策であるほど、様々な利害関係者が存在し、そのもつれ合いで現状維持か、あるいは、パイの分け合いによる痛み分けに終わることが多々ある。

そして、その「現状維持によるツケ」あるいは「パイの負担」が将来世代に押し付けられるのが現在の政治社会での最大の問題なのだ。そうは言っても、具体的に何をどうするとなると、様々なしがらみの中で、直ぐに案も出せず、日常性への埋没の中で時間だけが過ぎてゆく。

澤氏が「タブーに挑む」という正面からのアプローチを採ったことは、その意味で具体論を展開する前提条件を明確に指し示したことになる。このことが、教授の琴線に触れたと思われる。

「タブーに挑む」という意味で、澤氏がリスクコミュニケーションのあり方として、「福島=絶対危険」という非科学的な判断を流布させ、不安を募らせることへの批判に、教授は同意すると共に、逆に「福島=安全」を強調することにも違和感を持つことを表明する。

その「福島=安全」を主張する人たちの一部が、時として攻撃的なとさえ見えるような姿勢を示す、との批判的な指摘から読み取れる。この態度は、「福島=絶対危険」の主張をする人たちの政治的イデオロギーに巻き込まれていることを示唆している。

これは、かつて永井陽之助が米国の「反共イデオローグ」を批判した際に、その考え方をアメリカン・イデオロギーと命名したことに良く似ている(『何故アメリカに社会主義はあるか』1966年)。

閑話休題。
教授の態度が優れているのは、そのタブーを避けることなく、正面から取組むことで、澤氏と対峙できる政策論を提起していることだ。そこから更に両者によって展望を切り拓く機会が無くなり、政策形成モデルを創り出す機会も失ったことは痛恨の極みなのだ。その意味で、澤氏の突然の死は、私たち社会にとっても大きな損失と認識すべきことだ。

      
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アイヒマンとオーム真理教・菊池直子~思考は善悪を区別するために

2015年12月20日 | 現代社会
映画「ハンナ・アーレント」の最後の場面、彼女は勤務する大学の教室において、「思考がもたらすのは知識ではない。善悪を区別し、美醜を見分ける力、…私が望むのは、考えることで人間は強くなること」と語る。
 『強靱なヨーロッパ精神の発露~映画「ハンナ・アーレント」を観て131211』

また、彼女は「エルサレムのアイヒマン」(みすず書房)の彼女自身のあとがきの中で、「…彼は愚かではなかったが、自分の行為が全然わかっていなかった」と指摘する。それは、アイヒマンが、彼女の云う意味での“思考”を欠落させていたことを意味する。
続けて「完全な無思想性―これは愚かさとは決して同じではないー、それが、彼があの時代の最大の犯罪者の一人となる素因だった」とする。
 『ハンナ・アーレント(4)~アイヒマンとは、映画鑑賞の手引131126』

アーレントによるアイヒマンの素描は、先の高裁判決で無罪を勝ち取ったオーム真理教・菊池直子にも当てはまると筆者は感じる。菊池は被告人質問において「何をしているか聞かされていなかった」とあらためて無罪を主張したからだ。

アイヒマンは、ナチスドイツの組織の一員として仕事をしただけであって、殺人を行ったことはない、と主張した。菊池もまた、組織の一員として命令に従って、他の事は判らずに、いわれるままに仕事を行っただけだと陳述したと云う。

1審判決によると、菊地は1995/4に山梨県内の教団施設から東京都内のアジトまで爆薬原料の薬品を運んだ。翌月、元幹部らが爆弾を仕掛けた小包が都庁の知事秘書室で爆発し、職員が重傷を負った。この事件は教団に対する捜査のかく乱が目的だった、とのことだ。しかし、菊池は運んだ薬品がテロに使われる認識はなかったのだ。また、その仕事について聞き出すこともしなかったのだ。

教団に対する警察の捜査が及んでいたことは、幹部の一員である菊池は知っていた。それなら、自らの行為に緊張感を持っていたはずだ。そこで、自らの行為に対して判断を下さずに受け入れたとすれば、善悪について、何も考えようとしなかったことになる。アーレントは、この思考を放棄する状態を無思想性と呼び、現代において、それは<陳腐>なことだと表現したのだ。

      
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