新イタリアの誘惑

ヨーロッパ・イタリアを中心とした芸術、風景。時々日本。

エドゥアール・マネとその時代を歩く① マネの生家はルーブル美術館のすぐ近くにあった

2017-02-25 | マネと印象派

 世界の名画を一堂に集めた、フランスが誇るルーブル美術館は、パリ1区セーヌ川のほとりに建っている。

 川を挟んで対岸には、多数の芸術家を輩出し続ける国立美術学校(エコール・デ・ボザール)。

 それと向かい合うように、しっかりした門構えの奥に一軒のビルがたたずむ。プティ・オーギュスタン街5番地。


 ここで、後に近代絵画の歴史を一変させる偉大な画家が生を受けた。名はエドワール・マネ。1832年1月23日のことだった。

 父・オーギュスト・マネは司法省の高級官僚であり、母方のフールニエ家は外交官の家柄だった。

 現在はボナパルト街となった通りは、ずらりと背の高いビルが並ぶ高級住宅街。

 マネの家も門の中に庭を持つ豊かな暮らしを連想させる建物だ。

 ここからすぐのルーブル美術館は1793年に開館し、3年後にはいったん閉鎖したが、ナポレオン1世が各国から収奪した美術品を加えて、1801年に再オープンしている。
 向かいの国立美術学校も含めて、モネは周囲に芸術的環境に恵まれた中で子供時代を送っていた。


 両親は息子が法律家になることを望んでいたが、マネは芸術に傾倒し、学問を嫌った。海軍兵学校の受験に2回失敗すると、父親はようやく息子の希望を受け入れるようになった。

 絵の勉強を始め、詩人のボードレールやファンタン・ラトゥールなど、パリの若い知識人との交流の中で、彼は戸外での作品制作を始めるようになる。

 今はなくなってしまったクリシー大通りの店「カフェ・ゲルボワ」の常連たちをモデルに何枚もの作品を描いた。


 その一枚がこれ。「カフェ・ゲルボワにて」だ。ここは印象派の集合場所の1つだった。まずマネが通い始め、次にドガ、モネ、ルノワール、バジールなどが集まり、芸術論議に花を咲かせた。

 
 そして1861年、「スペインの歌手」がサロンに初入選(佳作)。マネは画家としての順調な第一歩を歩みだした。
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