新イタリアの誘惑

ヨーロッパ・イタリアを中心とした芸術、風景。時々日本。

ストラスブール街歩き④ イル川沿い散歩 マリーアントワネットがフランスの地に初の一歩を印した地。美しい教会。

2019-02-06 | フランス・ストラスブール

 夕方、ストラスブールを流れるイル川沿いを南に向かって歩いた。川が二股に分かれる地点にとてもスマートな2つの尖塔が立ち上がる。

 サンポール聖堂。1892年完成のすっきりした建築だ。

 冬の日没はあっという間に忍び寄る。あっけないほどに素早く日は落ち、

 名残の灯りが裸の樹木をシルエットにして浮き上がらせた。

 道沿いに白い教会の塔が、黄昏の空に突き刺さるように伸びている。

 枝に取り付けられた星がまたたく。

 家並みに陰影が付き始めた。
 暮色の中のイル川もたっぷりの趣を宿している。

 川沿いのガードレールにも照明が仕込まれており、それが光り出した。

 川に架かる幾つもの橋の欄干に沿って点けられた照明が点灯した。この橋は大聖堂の側面につながる橋だ。

 その先のライトアップされた建物はローアン宮。1742年完成のロマン様式の傑作だ。

 1770年4月、生まれて初めてフランスの地に一歩を印した少女が、この館で一夜を過ごした。彼女の名はマリーアントワネット。

 ハプスブルグ帝国の首都ウイーンからフランス王室に嫁入りするための旅路だった。340頭もの馬車を連ねた盛大な騎馬行列はまさに壮麗の一語。この行列を、ストラスブール大学に在学中だったゲーテも目撃していたという。

 マリーアントワネットは、この館で身に着けるものをすべてフランスのものに換えてパリを目指した。この時、司祭のルネ・ロランは「この見事な素晴らしい結婚から黄金の日々が生まれることでしょう」と祝福の言葉を述べた。だが、彼女には「処刑台の死」という過酷な運命が待ち受けていた。


 ローアン館を過ぎて振り返ると、川の水面にイルミネーションの光がちりばめられて煌いていた。

 プティットフランス地区に通じる通りには、風格のある建築群がずらりと並ぶ。

 いずれもアルザス風の建物だ。

 中でも教会の塔はひときわ目をひく。

 色彩も含めて多彩な趣を醸し出す夜景を、存分に堪能したストラスブール最終日の夜だった。




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ストラスブール街歩き③ ゲーテの恋。だが彼女を捨てた悔恨の情が作品に反映される

2019-02-02 | フランス・ストラスブール

 グーテンベルグ広場から少し戻って旧魚市場通りを歩く。ここで探したのはゲーテの家だ。
 1770年4月、20歳のゲーテは急行列車に揺られてフランクフルトからストラスブールに到着した。ストラスブール大学に入学するためだ。

 その時住んだのがここ旧魚市場通り36番地の家だった。「美しい長い通りで、人馬の往来が絶えず、徒然なる心を慰めてくれた」と書き残している。

 その家は今もあった。しかも2階部分にはゲーテの横顔のメダイヨンが掛かっていて、見つけるのに苦労はしなかった。

 ゲーテはこの年の10月、ストラスブールから30キロ離れた村、ゼーゼンハイムを訪れ、村娘フリーデリーケを見初めることになる。
 ゲーテは、18歳の村娘と恋に落ちた。「この時、田舎の空にこの上ない愛しい星が輝きだした」。
 だが、ゲーテは大学卒業と同時に純真な娘を置いたまま、フランクフルトに帰ってしまう。

 彼の心の中にはその悔恨の念が常に付きまとっていた。作品「ファウスト」の中に登場する悲劇的な運命の娘グレートヒェン(ファウストの野心の犠牲になる娘)はまさにフリーデリーケの投影だとされる。
 
 そんなゲーテについて、ゼーゼンハイムの村人たちは「ゲーテ?ああ、司祭さんの娘を誘惑したままでドイツに行ってしまった若者のことかい?」と、皮肉たっぷりに語るという。

 この通りには「ストラスブール クリスマスの都市」というネオンサイン入りのイルミネーションが設置されていた。

 次にプティットフランス地区に進もう。

 ここには木骨組み造りの家々が立ち並ぶ特徴的な街並みで知られる。

 石造りの土台から家屋部分がせり出す持ち出し構造になっている。

 また、屋根の勾配が急で、白川郷の家屋を連想させる趣だ。

 屋根に大きな開口部を持つのは、屋根裏部屋で皮を乾燥させるために大きな通風孔が必要だったことからきている。

 こうした建物はドイツ的な特徴で、「典型的なドイツの街を見たいのであれば、ストラスブールに戻らなければならない」と評する建築史家がいるくらいだ。


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ストラスブール街歩き② クレベール広場。30mの巨大ツリーや、しゃれたデザインの書店も 

2019-01-30 | フランス・ストラスブール

 11月22日通りを進んで行くと、クレベール広場に到着する。この広場ではクリスマスマーケットが盛大に開かれていた。

 ここで見つけた書店。とてもしゃれたデザインの店になっていた。

 ここのトラム停留所「homme de fer」は円形の屋根付きで分かりやすい。

 広場の一角にはデパート ギャラリー・ラファイエットがあり、夜はピンクのイルミネーションで目立っている。

 広場中心の市庁舎も夜はライトアップ。

 屋根の上には彫像も飾られていた。

 広場の名前は、ナポレオン時代の名将クレベール将軍の名前をとって付けられている。将軍はこの像の下に眠っているとか。

 何といっても目立つのは広場中央に飾られたクリスマスツリー。30mもの高さがある。アルザスはツリー発祥の地で、ストラスブールのクリスマスマーケットには1570年からこうしたツリーをたてる催しが続いているという。

 同広場から南に下ると、間もなくグーテンベルグ広場に達する。

 グーテンベルグといえば活版印刷の発明者。ドイツ・マインツ出身だが、ストラスブールに亡命しており、その時期に活版印刷の基本技術を発明したとされる。

 グーテンベルグの像は大聖堂の尖塔を見る角度に立っていた。

 ここから左に曲がるとカテドラル通りに入る。赤黒い威容を誇る大聖堂は目の前だ。

 正面の大聖堂が圧倒的な迫力で迫ってくる。

 ここから右の横町の先は子豚市広場と呼ばれる。木骨組造り(ハーフティンバー)の家が広場を囲んでいて、クリスマスシーズンは最も賑やかな場所となる。

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ストラスブール街歩き① フランスとドイツとの国境の街。半世紀で道の名前が4回も変わった

2019-01-26 | フランス・ストラスブール
 
ストラスブールはフランスの東端、ドイツとの国境に位置する都市だ。ラテン民族とゲルマン民族がぶつかり合う文明の衝突点だった。従ってヨーロッパの歴史を振り返ると、何度もこの地が戦いの場となってきたことが明らかになる。そんな歴史を踏まえながら街を歩いた。

 まずは国鉄駅から散策をスタートさせよう。

 駅舎はドームのようなガラスに覆われている。というより旧駅舎をすっぽりドームで包んでしまった。

 だから、外から見ると楕円形だが、中はそっくり以前のままの建物が残されている。

 その2階部分には、バラ窓形のイルミネーションも。

 駅のプラットホームは半円形の屋根がスマート。

 ホームのガードレールが洗練されたデザインで、まるで美術館構内みたい。

 街に向かって歩き出すと、すぐイル川がある。この川はヨーロッパ大陸を横断して流れるライン川の支流だ。駅発のトラムに乗れば数10分でライン川を越えてドイツ領であるケールという街まで直行できてしまう。もちろんパスポートなど不要。互いの街を通勤している人もいるという。
 イル川を渡って旧市街に入る。このトラムを使えば市内散策を自由自在。1日券4・5ユーロを買って使い倒した。

 駅から旧市街の繁華街クレベール広場までは「11月22日通り」が繋いでいる。

 この通りはその名前がある意味ストラスブール現代史を象徴している。というのは、1912~14年にかけて建設されたこの通りは最初「新大通り」と命名された。

 しかし1918年、「11月22日通り」に名前が変わる。
 だが、1940年には「6月19日通り」と改名され、
 さらに1944年にはまた「11月22日通り」に戻ったという歴史を持つ。

 なぜなのか。それには国際情勢が大きく関係している。まず「新大通り」が建設された当時はストラスブールはドイツ領だった。しかし、1918年第一次世界大戦によってフランスがドイツに勝利し、凱旋記念日の11月22日が通りの名称となった。
 だが、また戦争が始まる。1940年6月19日、ナチスのドイツ軍がストラスブールに進駐して「6月19日通り」となり、第二次世界大戦で再びフランスが勝利して「11月22日通り」に戻るという、半世紀に4回も名前が変わった特別な通りだ。

 もちろん、こうした歴史はこの半世紀だけではない。
 「明日から母国語が使えなくなります」という授業の模様を描写したドーデの小説「最後の授業」は、1871年普仏戦争でプロイセンがフランスに勝利してフランス語が禁止される前日の授業の物語。これもアルザス地方が舞台だ。
 「ヨーロッパの平和は独仏の和解が不可欠」との主旨でこの地に欧州議会が置かれたのもそうした歴史が背景になっている。

 同通りの中ほど「12番地」の建物にプレートがあった。

 「星の王子様」などの作品を残した作家サン・テグジュベリが、ストラスブールの第2飛行連隊に入隊した時に住んでいた場所がこの建物だ。



 
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ノートルダム博物館下 いずれも一癖ありそうなストラスブールの親方像に興味津々!

2019-01-23 | フランス・ストラスブール
 ノートルダム博物館には大聖堂から移されたものがいろいろ収蔵されている。

 これは西正面タンパンの上に飾られた装飾のオリジナルだろうか。中央玉座にソロモン像、その上に聖母像があったはずだが、ここではソロモン像の頭以外は失われてしまっている。

 ちなみに実際の大聖堂正面を見ると、確かにソロモン像、聖母像が復元されて飾られている。

 彩色された群像が面白かった。抱きあう2人の像。キリストと使徒だろうか。

 キリスト誕生のシーン?いや、赤ん坊を抱いている女性がかなり年配そう。マリア様はこんな年寄りじゃないはずだし・・・。

 こちらの方がマリア様らしいよね。

 これは東方三博士の礼拝だろうけど、かなり国際色豊かな顔ぶれ。

 とってもノーブルな顔立ちの女性像。現代的な感じ・・・。

 別の部屋にはストラスブールのいろいろな職業の親方衆を彫ったという群像が並んでいた。

 髭がとてもお似合いな親方。

 飛行帽をかぶっている?いやいや、中世に飛行機はまだなかったはずだし・・・。

 中世の「考える人」。

 この人たちは相当悪っぽい雰囲気を醸し出しているけど、高利貸しかな?
 とにかく親方衆はいずれも一癖ありそうな人たちのオンパレードで面白かった。

 「日時計の占星術師」とタイトルがついた像もあった。ターバンを巻きひげを蓄えたアラブ風の容貌だ。この像が造られる少し前、1453年にローマ帝国が崩壊した後、アラブ世界との交流が深まっていたが、そうした影響を受けものだろう。

 この博物館で見つけた面白い階段を少々。角ばった形ながららせん状に上下する階段。

 こちらは見事にらせん状に渦巻く中世の階段。実は階段の面白さにも興味を持って、現在収集中です。



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