新イタリアの誘惑

ヨーロッパ・イタリアを中心とした芸術、風景。時々日本。

世界三大夜景・稲佐山から長崎の街を見てグラバー園へ・・・長崎紀行⑭

2016-11-29 | 長崎紀行

 長崎の夜景は世界三大夜景の1つの数えられる。認定したのは「夜景コンベンションビューロー」で、2012年に香港、モナコと並んで「夜景の素晴らしい世界の都市ベスト3」に選ばれた。
 そこでその光景を眺めに、最大のビュースポット稲佐山に向かった。

 駅前からバスに乗り、ロープウエイに乗り換えて稲佐山まで昇る。この山は標高333m。ちょうど東京タワーと同じ高さになる。テレビ塔も立っていた。

 日没少し前。夕暮れと共に沈んでゆく港。向かいの山並みに点々と明かりが灯ってゆく。

 空が暗くなるのとは対照的に、街の建物が徐々にライトアップされ、自慢の夜景が本領を発揮してゆく。

 長崎は全体が坂の街だけに、高低差のあるダイナミックな明かりの広がりがその特色といってよさそうだ。

 山頂にはちゃんとした展望台が出来ており、この日も大勢の人たちが南国のパノラマに酔いしれていた。

 グラバー園は、時間の余裕がなかったので予定に入れていなかったが、夜間開園をしていると聞いて、急きょ夜8時過ぎに入園した。
 園敷地の最高地点である第2ゲートから入るとすぐに、旧三菱第2ドックハウスがある。そこの2階から眺めると長崎の夜景が眼下に広がっていた。

 自由亭。江戸時代末期に、日本人シェフによる初の西洋料理店としてオープンした店だ。

 三浦環像があった。彼女は東京音楽学校(現東京芸大)卒業後、単身ヨーロッパに渡り,1915年ロンドンでオペラデビュー。プッチーニの名作「蝶々夫人」を計2000回も上演したことで知られている。その歌唱力は、作曲したプッチーニをして「彼女は私の夢を実現してくれた」と称賛するほどだった。

 そのプッチーニの像も近くにあった。

 グラバー園の主グラバーの邸宅。


 伝統芸能館という施設もあった。ここには長崎くんちの時奉納踊りを先導する傘鉾が展示されていた。


 こちらは龍踊りの青龍。

 まるで出来立てほやほやのようだった桃カステラ。おいしそう。

 グラバー園を出たところで、遠くにライトアップされた女神大橋が、まるで幻のように暗闇に浮かんでいた。

 これで「長崎紀行」シリーズを終了します。長崎は短い期間でしたが歴史、宗教、戦争、政治など本当にいろいろなことを考えさせられる時間でした。
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眼鏡橋から出島ワーフまで・長崎の街中散歩・・・長崎紀行⑭

2016-11-26 | 長崎紀行

 朝、駅前のホテルからぶらぶら歩きながら眼鏡橋を目指した。
眼鏡橋は1634年完成の、現存する我が国のアーチ型石橋。街を流れる中島川に架かっている。あいにく曇っていて橋の姿が水面にくっきりとは映らなかったが、どうにか丸い形は出来ていた。

 そんな川岸を修学旅行生らしい中学生が歩いて川を横断していた。 ちょっといい感じ。

 彼らが何かを探し当てたらしく、歓声が上がった。 「どうしたの?」

 「ハートの石を見つけたんです!」。恋心をかなえるというハート型の石が、護岸に埋め込まれていた。

 中島川を渡って走る路面電車も長崎名物。これには滞在中何度もお世話になった。

 川沿いにはカステラの老舗松翁軒のレンガ造りのビルもあった。江戸時代の1681年創業だという。ここのカステラをお土産に購入。

 ぼちぼちお昼時。ちょっと早めだが長崎名物のちゃんぽんを食べなくては・・・。

 元祖の店として有名な四海樓に入った。
こちらは1899年創業という。初代陳平順さんが、長崎の留学生らの貧しい食生活を見かねて、安くて栄養満点の料理を考案した。それがちゃんぽん。


 鶏、とんこつなどで白濁スープを作り、イカやエビなどの入った麵料理は、、さすがにコクがあって大満足。この店の特徴である錦糸卵の彩りもしゃれていた。
 
 入店時、広いレストランスペースが満員で、別室の円卓のある部屋に案内されたが、帰りがけにレストランスペースに出ると、もう数十人が入り口で行列を作っていた。早めに入って正解だった。



 路面電車を利用しいてオランダ坂へ向かう。活水女子大に続く石畳の坂は、閑静な通りだ。

 9月後半とはいえ汗がにじみ出る暑さだったが、この通りの風情は涼やかさを感じさせるたたずまいだった。

 坂の多い長崎。街中には一気にビルの5階分まで昇れる斜面エレベーターがあった。名称はグラバースカイロード。これに乗って丘のてっぺんまで昇った。
 てっぺんから眺めると、長崎が「斜面都市」であることを実感する。

 街中で日本ボウリング発祥の地という碑を見かけた。長崎が発祥の地だったとは知らなかった。

 その近くにあった旧香港上海銀行長崎支店ビルのテラスのデザインがおしゃれ。

 この後大浦天主堂などを訪問したが、それは紹介済み。県美術館で休憩後港に出向いた。

 大波止港で港に停泊しいていた帆船を発見した。この船は1855年オランダが徳川幕府に贈呈した船。坂本龍馬がこの船で操縦術を学んだという。今は復元されて観光船としてクルージングに使われている。

 すぐ近くには店の並ぶ出島ワーフがある。

 賑わいを眺めながらしばし散歩。

 駅前を走る路面電車を見下ろして歩道橋を渡り、ホテルに戻った。
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浦上天主堂には今も原爆の悲惨を強烈に訴える像たちが・・・長崎紀行⑫

2016-11-22 | 長崎紀行

浦上天主堂へ向かう。平和公園の裏手から東方面を見ると、山合に天主堂のすっくと立ちあがる姿を見ることが出来る。
 
 この教会は明治期の小規模な建物を経て1914年に東洋一の大聖堂が完成した。しかし、あの原爆投下。爆心地から500mという距離にあった教会は完全に破壊された。

 当時の貴重な写真が残されている。
再建は1959年。さらにローマ法王ヨハネパウロ2世来日時の1981年に改築されて、現在の姿になっている。

 平和公園からいったん坂道を下って、再び坂を上る。天主堂への坂道は「巡礼」の言葉を思い出させるような、はるかな道に思えた。

 建物に入る前に、鐘楼の遺跡に出会う。原爆の爆風で吹き飛ばされて、川をせき止めて留まった姿のままに残されていた。

 天主堂前広場左側に、3体の像が立つ。が、焦げたように変色した像だ。それに、左端の像は顔がない。資料によると、右が聖セシリア、中央がキリスト、顔のない左の像はだれか不明とのこと。
 その変色は、まさに1945年8月9日の〝刻印”だ。

 また、右側の広場にも原爆で無残に色あせた像が並んでいる。

 大浦天主堂で浦上の信徒たちが信仰を告白した「信徒発見」の歴史的事件が起きてから、信徒たちは自らの信仰を隠すことなく堂々と明言するようになった。
 
 しかし、250年前の禁教令はまだ解かれたわけではなかった。改めて弾圧の嵐が巻き起こる。「浦上四番崩れ」と呼ばれるものだ。浦上の信徒たち3000人以上が西日本地区に流刑となり、600人以上が見知らぬ土地で命を落とした。



 この石は山口県岩国に流刑となり,そこで拷問を受けた人たちが、解放後に持ち帰った石。このような石を膝に載せられ棄教を迫られた。

 岩国では「寒ざらしのツル」というエピソードが伝えられる。

 22歳の女性ツルが裸で拷問石の拷問を受け続けた。そのうちに大雪が岩国を襲い、ツルは雪にさらされてそれでも耐え続けたが、18日目についに力尽き。天に召されたという。


 天主堂正面には2体の像がある。左は「悲しみの聖母」。

 
 原爆によって指がなくなってしまった。

 右の使徒ヨハネは鼻が欠けている。

 さらに、完全に破壊された十字架のキリストは復元したものが正面ファザードに据えられている。

 堂内には「被曝のマリア」が小聖堂に安置されている。もともと祭壇にあったマリア像の頭部だけががれきの中から発見されたものだ。


 さらに、天主堂裏には二十六聖人の中の最年少、ルドビコ茨木の像もあった。

 窓を外から眺めていると、ユリの花があちこちに描かれている。

 白百合は聖母マリアを象徴するもの。
 
 様々な個所に祈りの思いが込められていた。
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原爆からも生き残った鳥居と、平和祈念像の意味するもの・・・長崎紀行⑪

2016-11-19 | 長崎紀行

 原爆資料館から南に向かってゆくと山王神社がある。その2番目の鳥居が、全体の三分の一だけ残った形で立っている。1945年の原爆投下時に、この鳥居だけが爆風にも耐えて生き残り、今までその姿をとどめているという。「無残」とも、「よくぞ」とも感じられる姿だ。

 神社の階段下には「浦上街道の碑」があった。この街道は西坂から時津村までの12キロの道のりで、二十六聖人が刑場となった西阪に向かうときに歩いた道でもある。

 鳥居を陰から見ると、また違った印象深い雰囲気が漂う。

 神社境内にはクスの木がある。このクスの木も爆風と熱線によって大打撃を受けた。ところがこのクスは強かった。枯死もせず、逆に2か月後には新芽を芽吹くというたくましさで、市民たちに生きる勇気を与えたという。

 近年、老化もあって弱っていたが、大規模な蘇生策によって今も命を繋げている。

 七五三木が渡された、いわば神木だ。

 松山町電停から高台の平和公園へは、長いエスカレーターを利用すればすんり到着できる。

 正面奥に平和祈念像。高さ9・7mと威圧感たっぷりだが、長崎出身の彫刻家北村西望作の像には様々な想いが込められている。

 垂直に上がった右手は、原爆の脅威
 水平な左手は、平和
 横になった足は、原爆直後の長崎の静けさ
 立てた足は、救った命
 閉じた目は、冥福を祈る姿

 それぞれに思いが表現されているという。1955年8月に完成した。


 「のどが渇いてたまりませんでした」。平和の泉には、9歳の少女の手記を取り入れた碑があった。

 平和記念像を中心にして広々とした公園の各所に世界各国から贈られた像が立っている

 男の子を抱き上げる女性像「人生の喜び」は、チェコスロバキアから。

 「Aコール」。平和と調和を求めて戦う女性像。ブルガリア。

 ハトと少女の「乙女像」。中国。

 こちらは動員学徒の碑。他にもいろいろの像やモニュメントが立ち並んでいた。

 この公園敷地は、原爆投下時長崎刑務所浦上支所があった所。被曝によって収容されていた受刑者や看守など1341人全員が死亡したと、記録されている。
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原爆が投下された現場と原爆資料館の巨大原爆模型・・・長崎紀行⑩

2016-11-15 | 長崎紀行
 これまで長崎のキリシタン関係の場所と歴史をたどってきたが、長崎にはもう1つの大きなテーマがある。原爆だ。

 まずは原爆が投下された場所へと向かった。路面電車の浜口町停留所で降りてすぐ。林に囲まれた広場がある。
 1945年8月9日午前11時2分。広場の北側にある黒い石柱の上空5000m地点で原爆は爆発した。
 これによって同年末までに失われた命は73884人。中心から1キロ以内の死亡率は88%にも上った。

 中心地碑の隣りにはもう1つの遺構が立っている。原爆で破壊され、わずかに残った浦上天主堂南側部分の一部がここに移築された。

 屋根部分にはフランシスコ・ザビエルの像。

 ちょうど姿を現した太陽の光を浴びて、ザビエルが黒く浮かび上がった。

 こちらは被爆後50周年に建てられたモニュメント。


 そこから東に向かうと長崎原爆資料館がある。金色の群像を眺めながら館内へ。

 展示室は環境や景観に配慮して地下を中心に構成されている。螺旋階段の壁に沿ってとても長い千羽鶴が下がっていた。

 展示室入口正面には、壊れた時計。原爆投下時の11時2分で止まったままだ。

 奥には浦上天主堂の入口が再現されていた。指の架けたマリア像などが実物そっくりに復元されている。

 びっくりしたのは長崎に投下された長崎型原爆「ファットマン」。長さ3.25m、直径1・52m、4・5トンという巨大な爆弾だ。

 これによって完全に破壊された爆心地付近の記録写真も掲示されてあった。

 また、現在の新型核兵器の模型も。

 被曝によって破れた服。

 原爆の規模が分かるジオラマや核兵器に関する最新資料まで展示されてあった。

 こうした展示を見て終わった修学旅行生たちが、前庭で熱心に説明を聞き入っていた。

 館内に、破壊された浦上天主堂を描いた絵があった。静まり返る原爆投下後の荒れ地に立つ遺構の、厳粛なたたずまいが胸に突き刺さる。
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