新イタリアの誘惑

ヨーロッパ・イタリアを中心とした芸術、風景。時々日本。

上野歴史散歩㊾ 寛永寺。徳川幕府とともに繁栄の歴史を刻み、その崩壊とともに消え去った大寺院。

2023-03-14 | 上野歴史散歩

 ようやく寛永寺にたどり着いた。

 「江戸が東京に代わって決定的に失われたもの」の1つとして必ず取り上げられるものが寛永寺だ。

 徳川家康、秀忠、家光三代にわたる将軍に厚遇された天海僧正が創建した、天台宗の関東総本山である大寺院。その敷地は現在の上野公園全体にわたり、30万5千坪という江戸随一の面積を誇った。

 ただ、徳川幕府の崩壊とその時の上野戦争による戦火で大半の施設は焼失、さらに明治政府によって領地は接収されてしまった。

 ようやく1871年になって寺院復興の許可が下り、かつての子院だった大慈院のあった現在地(東京芸大音楽学部の裏手)に移ったのだが、本堂の建物は川越喜多院の本地堂を移築したものになっている。

 内陣には葵の御紋の入った装飾がなされている。(内部は通常入れないので、BSで放映されたものを活用しています)

 幕末、鳥羽伏見の戦いで敗れ、江戸にもどった15代将軍徳川慶喜が一時身を寄せたのが、この寛永寺だった。本堂裏手にある書院・葵の間で約2か月間過ごし、江戸城無血開城が決まって、水戸へと旅立った場所だ。これも徳川幕府消滅の1つの象徴だった。

 内陣の厨子内には秘仏本尊薬師三尊像が安置されている。が、まさに秘仏のため見る事は出来ない。その代わりの仏像(御前立)が置かれている。これは薬師如来像。

 千手観音像もある。

本堂奥は徳川家の墓地になっていて、4代将軍家綱、5代綱吉、8代吉宗など6人の将軍がここに埋葬されている。

他の将軍は、初代家康、3代家光は日光東照宮、15代慶喜は谷中墓地、残る6人は芝増上寺に眠っている。

 立派な門があった。4脚の門で切妻造りとなっている。

 これはあの「生類憐みの令」で有名な5代将軍綱吉の霊廟勅額門だという。

 細部を見ると非常に丁寧に加工されており、しかも光り輝く金箔や朱の色彩が鮮やかに残っている。

 

上野駅、西郷隆盛像から始まった上野歴史散歩も、ようやく今回で終点の寛永寺にたどり着きました。これが最終回となります。ご覧くださった皆様、本当に有難うございました。

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上野歴史散歩㊽ 両大師の黒門には、上野戦争で空けられた大砲の穴が・・・。

2023-03-11 | 上野歴史散歩

 東京国立博物館の奥に両大師と呼ばれる寺がある。1644年に寛永寺を創建した天海僧正=慈眼大師を安置する堂が建てられた後に、天台宗中興の祖とされる慈恵大師良源が合祀されたことから「両大師」の通称が定着した。

 最初、大きな黒い門のある入り口から入ろうとしたが、鉄柵があって入れない。あきらめかけて博物館側に歩いていくと、もう1つの社殿のある入口が開いていて、入場できた。

 境内はたっぷりとした空間。入ってすぐ右手の阿弥陀堂には三体の仏様がにらみを利かせる。

 社殿にお参りして、右側の通路に向かう。

 特に気にも留めずに小さな門をくぐろうとしたら、脇に標識があった。

 なんと、これは「幸田露伴旧宅の門」だった。幸田露伴の代表作は「五重塔」。この小説の主人公、のっそり十兵衛のモデルとなった大工八田清兵衛は、この両大師の根本中堂を手掛けたと言う縁で、谷中の露伴邸からこの門を移築したのだという。いわゆるしもた屋風な素朴な門だ。

 対して大きな真っ黒い門はなんとも仰々しい。この門は寛永寺の旧本坊表門。上野戦争で戦火にさらされたが、どうにか生き残った。一旦帝国博物館正門として使われた後、1989年にここに移築された。その色から「黒門」とも呼ばれる。

 修復が行われてかなりきれいになっているが、一か所左門扉に円い穴が開いているのを見つけた。

 直径10cmもの大きな穴。まさに上野戦争の時、大砲の弾が貫通した痕だ。

 また、黒い塀の中で鮮やかなオレンジの紋(十六菊の紋章)が際立っていた。これは宮様の住まいだったことを表している。

 もう1つ戦争から残ったものが、鐘撞き堂。

 堂の屋根付近にキリンの木彫が残されていた。これも建築時は徳川家の威信を表す象徴として彫られたものだろう。

 

 

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上野歴史散歩㊼ 近現代の日本芸術界をリードする芸術家を生み出してきた東京芸術大学

2023-03-07 | 上野歴史散歩

 先日紹介した黒田記念館の左横の道を進むと、東京芸術大学に行き着く。

 大学は旧東京音楽学校と美術学校とが統合されて1949年に設立された。国内の最高レベルの芸術家を育成する場所で、世界的な活躍をする人を多数輩出している。

 校舎は2つに分かれていて、通りの北側が音楽学部の建物だ。 ここの卒業生では以前奏楽堂の項で紹介した滝廉太郎を始め、山田耕筰、団伊久磨など。

 現在も活躍中の坂本龍一も、ここの卒業生だ。

 少し進むと左側に美術学部が見えてくる。入口には旧東京美術学校玄関が残されている。立派な門構えで1913年の設立。都の歴史的建造物に指定されている。

 構内には大学美術館がある。日本近代美術を中心としたコレクションが約3万点も所蔵されており、同大学卒業生の卒業制作なども多数に上る。

主な卒業生には横山大観、藤田嗣治から現代の村上隆まで多士済々だ。

 中でも異色の存在として岡本太郎も見逃せない。

また、国の重要文化財に指定されている作品もいろいろ。

 上村松園の「序の舞」や

 高橋由一の「鮭」など、教科書で見た覚えのある作品も目白押しだ。

 また、同美術館の階段も「作品」といってよいほどの面白さだ。

 美術学部敷地の東端には別の門がある。これは元々学部正面にあったものだが、大学美術館の建設に伴いこの角地に移転された。レンガ造りが歴史を感じさせる。

 

 

 

 

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上野歴史散歩㊻ 見る者の心をつかみ取る、エゴン・シーレの「目」と「指」

2023-03-03 | 上野歴史散歩

 エゴン・シーレの、あの極度の緊張と衝撃を与える絵画の源は、彼の描く目(顔)と指(手)からもたらされるものと思える。

まずは目。ほとんどすべての目は怒りまたは悲しみに満ちている。それは同じウイーンの代表的画家クリムトの描く目との対比でもはっきりと表れる。

 クリムトの作品「死と生」。ほとんど恍惚とさえ言える柔らかな表情で、いや目を開けてさえいない絵も多いのとは対照的だ。

また、同時代にパリで活躍したモディリアニも人を多く描いたが、これとも対極的な違いを見せる。

 妻ジャンヌの肖像画。モディリアニは目そのものさえ描かずに人物を表現した。

 そうした比較を行うまでもなく、シーレの描く目(顔)の特別なもだえのうねりには圧倒的な魂の表出を感じてしまう。

 参考までに、モディリアニもまた36歳という若さで病死した。シーレの死のほぼ1年後、1920年1月のことだ。それも、モディリアニの死の翌日妻のジャンヌ・エピュテルヌは妊娠8か月の身で投身自殺。シーレ一家の最期とほぼ同じ運命をたどった。

 そして指。どの手、指もやせ細り、とんがっている。

世界で最も有名な人物画「モナリザ」を見てみよう。

 スフマート手法で描かれたモナ・リザの指は、柔らかく肉感的な温かさも感じさせる。いわば‟微笑み“の手なのに対して、シーレは叫びそのものだ。一片の妥協も許さないという主張が、その指先からほとばしっている。

 もう1つ、ロダンの作品「大聖堂」を見てみよう。柔らかく光を包み込むイメージ。希望を感じさせる手、指だ。

 だが、シーレの手はまるで光を拒絶しているかのように見える。

 このように、シーレはわずか28年の生涯を孤高のままで駆け抜け、全く独自の世界を築いて去って行った。
 最後に、ウイーンの心休まる風景を掲載してエゴン・シーレの特集を終えることにする。

 

 

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上野歴史散歩㊺ 全員20代で命を終えたエゴン・シーレと2人の女性。そしてウイーン世紀末の美術も・・・

2023-02-27 | 上野歴史散歩

 エゴン・シーレの短い生涯の中で重要な役割を果たした女性がいる。その筆頭はワリー・ノイツィル。シーレは彼女の肖像画も描いている。「ワリー・ノイツィルの肖像」。

 実は今回の美術展でメインポスターに採用されている自画像「ほおづきの実のある自画像」とは、対となる作品だ。

 私がレオポルド美術館でシーレ展を見た時には、この2枚の絵がウイーンの街中にセットとなって張り出されていた。

 シーレがまだ世に知られていなかった1911年、シーレは母の故郷クルマウに住み始めたが、この時から当時17歳だったワリーと同棲を始めていた。

 二人はクルマウからウイーン郊外のノイレングバッハに移住。ここで〝事件”に遭遇する。彼が少女を誘拐し、わいせつ行為をしたーなどの疑いで拘留されてしまたのだ。

 結果的には3日間の禁固刑で終わったが、周囲の人々の怒りと疑惑は募るばかり。シーレは心に深い傷を負った。そんな彼を支え、励まし続けたのが、ワリーだった。

 だが、1914年ウイーンに移って、アトリエの向かいに住むエーディト・ハームスと知り合う。

 シーレは貧しい家の娘だったワリーではなく、良家の子女であるエーディトに心を奪われてしまう。

 そして1915年、エーディトと結婚。ワリーは彼の下を離れた。

 だが、シーレはワリーへの未練も持ち続けた。

 「死と少女」。抱き合う男と女、まるで糸のように細い腕でしがみつく女はワリー。対して腰をかがめうつろなまなざしで見つめつ男はシーレ自身だ。ぬくもりのない愛が、荒涼とした岩山のような背景に囲まれて浮かび上がる。

 ワリーは別れの後、志願して従軍看護師となり戦地に赴いて、熱病で死去。わずか23年の生涯を終えた。

 一方エーディトとの結婚後、1918年には妊娠が判明する。まもなく生まれようとする新しい命の前に、一枚の絵を描き上げた。「家族」。

 近い未来に実現するであろう新生活。その夢をも含んだ3人の姿。だが、暗く沈んだその絵の中に喜びや希望といった光は見いだせない。

 実人生の運命もまた、悲惨だった。

 エーディトはスペイン風邪にかかり、出産も叶えられずに10月に死亡、シーレもまた妻の死の3日後10月31日、同じ病で、赤子の姿を見ることもなくわずか28年の人生を終えた。

 スペイン風邪はある意味今日のコロナ禍よりももっと世界を震撼させた病気だった。同時進行していた第一次世界大戦犠牲者よりももっと多い、3千万人~4千万人ともいわれる死者を出している。

 こうしてシーレの生涯は終わったが、同じ年の2月、クリムトも死亡。さらにハプスブルク帝国の最終形態であったオーストリア・ハンガリー帝国もまた1918年10月27日、連合国に降伏を宣言。帝国自体が消滅した年でもあった。

 これによって、ウイーンに花開いた華麗な世紀末美術も完全に終焉を迎えたのだった。

 私がウイーンを訪ねたのは3月の寒い季節だった。ハプスブルクの、華やかだがどこか物寂しい雰囲気が漂う街をさ迷いながら、夜の気配の中にある種の死の影を想い浮かべたのも、数日間クリムトやシーレの作品を見すぎてしまったせいだったのかもしれない。

 

 

 

 

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