「宮城自然農園」ブログ  -GIAN'S ORGANIC FARM BLOG- 小笠原諸島・母島で自然農

小笠原諸島・母島で持続可能な暮らしを目指し百姓をしています。
その中で学んだことを紹介したいと思います♪

「わからないこと」を楽しむ力

2016年08月29日 | 母島 暮らし 子供
■母島は学校が中学校までしかなく、
その後は50km隣の父島の小笠原高校か内地の高校に進学するかの選択に迫られます。

今回の夏休みを利用して中学生の長女は、
幾つかの高校の見学会や体験入学を体験しました。


■長女はどちらかというと芸術・特異系と親は思っているので(笑)、
少し入ったら面白そうな学校を巡っております。


グランドピアノが校内に20台以上もあって、
演劇や芸術、音楽に没頭できそうな所もありました。

これはその高校生が書いた作品です。
あまりに上手でビックリしてしまいました!


思うままに自分の感性を磨けそうな学校だったり、


文化財に指定されるほど美しい古き日本の静粛な雰囲気を持つ学校もあったり、


のっけから様々な動物の頭蓋骨(本物!)を用意して、
学びの楽しさを伝えてくれるところもあったり…

どこもそれぞれが素晴らしい学校でした。

どれも受験や偏差値を重要視しない学校です。

年号の丸暗記や受験勉強で詰め込むのではなく、
本人が意欲的に興味を持ち、
その中から自分で主体的に、
意見を出し合ってお互いに学んで育っていく、
そして、暮らしから多くのことを学ぶことを大切にしていました。

■その中で一緒に参加した保護者の僕の心にもズキュンと響く授業をしてくれた学校もありました。

そこではなんとアインシュタインの相対性理論を背景に、
わからないことはとても素晴らしい出逢いであることを熱弁する教員がいました。

相対性理論自体はとても難しく、半分も理解できませんでしたが、
まったく学校の勉強ができず、
高校を中退した17歳のアインシュタインが
ひとつの事に疑問を持ち、10年かけて考え続け、
ついに相対性理論という世紀の発明にいたる真理性がすごいことは分かりました。

人はいろんな場面で
さっさと答えを出してしまったり、
課題が分からないと面倒になってしまって諦めてしまうものですが、

そこをひとつのチャンス、
自分がステップアップするチャンスと捉えて、
あせらずにその問題に向き合ってみると、
意外と答えはシンプルで、
物事を複雑にしているのは、
人、そして自分自身の凝り固まったアタマであると言うのです。

授業の最後にその先生は、BGMにルイ・アームストロングの「素晴らしき世界」を流しながら、
歌詞にもある、
世界はやっぱり素晴らしくて、美しいものなんだということを、
とても熱意をこめて伝えてくれました。

僕はこんな先生の下で学んでみたいなと心底思いました。



妻に教えられ、大好きになったこの曲、
良かったら聴いてみてくださいね☆



What a Wonderful World
この素晴らしき世界


I see trees of green, red roses too
I see them bloom for me and you
And I think to myself, what a wonderful world

木々は青々としげり
バラの花は赤く色づく
私やあなたのために咲く花たちを見ると
しみじみ思うよ
この世界はなんて素晴らしいんだろうと


I see skies of blue and clouds of white
The bright blessed day, the dark sacred night
And I think to myself, what a wonderful world

青い空と真っ白な雲
そして昼の輝きと夜の闇
しみじみ思うよ
この世界はなんて素晴らしいんだろうと


The colors of the rainbow, so pretty in the sky
Are also on the faces of people going by
I see friends shaking hands, saying how do you do
They’re really saying, I love you

空には七色の虹がかかる
過ぎ行く人たちの表情も美しい
友人たちは握手を交わしながら「ご機嫌よう」と言い
心から「大好きだよ」と言い合う


I hear babies cry, I watch them grow
They’ll learn much more than I’ll ever know
And I think to myself, what a wonderful world
Yes, I think to myself, what a wonderful world

赤ん坊が泣いてる
この子たちが育つのを見ていよう
彼らはこれから先、私よりずっとたくさん学んでいくだろう
しみじみ思うよ
この世界はなんて素晴らしいんだろうと
そう、本当に思うね
なんて素晴らしいんだろう、この世界は


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価値観が反転する機会

2016年08月27日 | 母島 日常 日記
■長女がニュージーランド・ホームステイから帰ってきて、さあ島に帰るぞ!と思っていたら、
帰る予定の便が早々に欠航を決めてしまいました。

そんなわけで夏休みが幸か不幸か伸びてしまった僕と長女(笑)。
なかなかない貴重なこんな時間を有意義に使っていこうと思います。



しかし、この夏は本当に怒涛のような日々を過ごしています。
高校の体験入学や施設公開、
東北と大阪に亡くなった父の墓参り、

仙台の親族との交流
それに付随して各地の友人に再会したり、
行きたいところや、
偶然めぐり合う貴重な機会。


その中でこの夏は、
ふと今までにない価値観の反転を感じることが数多くありました。

デメリットと思い込んでいた事が、
自分や子供の舞台や世界を広げることで、
見事に価値観が反転したのです!!



■自分自身もそうですが、
子供と接していても、
どうかな~と思っていた部分。

例えば長女の超積極的で超人懐っこい性質。

日本では時にデメリットとなる場合が多いこの個性も、
海外では最大のメリットとして発揮されたようです♪

帰国して迎えにいったときの引率者のお話を聞いたときに、
それは激しく感じました。



また、とある九州のパフォーマンス集団の候補生に100人以上の中から一人選ばれた、
親族の高校三年生のとある男の子の話。

生活面や勉強面ではとても難儀していた彼ですが、
本番の舞台や演奏、ダンスなどでは他を圧倒するセンスを持っていたそうです。

学校の数字には決して評価されない部分が優れている少年。

やはり人はその人なりに輝ける舞台があり、
いろんな場面でうまくいかなくても、
必ず輝く部分があるということを気付かせてくれました。

これは自分自身や子供の子育てにも様々な勇気をくれることになりました。




■あとは内地滞在ならではの発見です。

ふと友人に進められてみた舞台で久々に感動して泣いてしまいまったりしました♪

去年、母島の学芸会で長女が主演を演じた
ミヒャエル・エンデの名作「モモ」。

現代の効率と経済主義のわれわれに人の本質と幸せを訴えるテーマと思っているこのすばらしい作品。
以前から大好きな話が舞台で見れると来れば行かないわけにはいきません!!
早速池袋の会場に長女と行ってきました♪

あの濃い内容をひと時も飽きることなくすさまじいテンポと、
圧倒的な演技、演出、
プロの力を見せつける脚本。

人の弱さの象徴でもあり、物語の悪役の「灰色の男たち」の抜群の雰囲気…
本当に圧巻でした!
見れて本当によかった☆


そして今回は僕の趣味であるプロレス観戦に長女を巻き込みました(笑)。
舞台は新日本プロレス スーパーJ-CUP2016!
団体の枠を超えた、軽量級ジュニアヘビー級の祭典です。

息を呑むほどの見事な空中戦!
荒々しい反則ファイト!!
メキシコの楽しいルチャ♪
王者が見せる貫禄の試合!!!
久々に見たプロレスもプロとしての素晴らしさを心底感じました♪



色んな場面で外の世界はやはり刺激的です。
色んな事を気付かせてくれます。

またおいおい、そんなことをこの場で綴っていければと思います。

さあ、今度は無事に島に戻れるといいなぁ~
来週の無事の公開を祈ります☆

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かわいい子には旅をさせよ!?

2016年08月20日 | 母島 暮らし 子供
■今、島を離れ、内地に来ています。
中1の長女は今回の夏休みに
なんと単身で2週間のニュージーランドのホームステイにチャレンジして来ました。


彼女が初の国際線フライトで日本を発った数日後、
お願いしている方から国際電話で報告を母島で受けたときの、
じんわりとした感動を今でも思えています。

・1番元気です!
・英語も発音がとても良い。
・何よりとても積極的で良いです。学校で積極的に発言している。
・ホームステイ先の家族、ルームメイトともいい感じに楽しんでいる♪
・自然の中でそれを味わい楽しむ術を心得ている
・何も心配要らない子です。

一応、女の子ですし、
初めての海外を親とではなくホームステイという形を選択した彼女。
親としてはそれはもう心配でした。

しかし、何も恐れない、
何も分からない時期ですが、
だからこそ柔らかく、色んなことを吸収できるこの時期に
英語が大好きな本人が望む経験をさせてあげたいとも思っていました。



■僕は母島に残り、長女の帰国に合わせて内地入りしました。
バンコクを経由して疲れたであろう13時間以上のフライト。

日本の成田は台風が直撃し、着陸が危ぶまれました。
※結局は台風が早まり、変更はありませんでした。
朝6時の飛行機の無事の着陸を見て、心底ホッとしました。

その後、成田空港で楽しそうに同世代の友人たちと到着ロビーで見た長女の元気な姿は、
あまりにもそのままで吹き出しそうになってしまいました(笑)。

その後、NZ$を日本円に戻すのも自分ひとりで係員に聞きながらこなし、
滞在先に自分で路線を見つけて進む姿に彼女の逞しさを感じることができました。

帰りの電車の中で、
「今すぐニュージーランドに戻りたい!」
「でも母島にも帰って妹に会いたい!」
「NZを離れるとき、自分もホームステイ先の家族も大泣きだった」
とマシンガンのような嬉しい報告を受けて、
無事に帰ってきて、
良い経験をして来れて本当に良かったなと感じました。


■僕自身、中学生のときに外国にホームステイなんて発想すらありませんでした。
正直、うらやましい限りです(笑)♪

長女は数年前から積極的に外国人に話しかけ、
学校のALTや夜の英会話サークルに積極的に参加していました。
学校の成績も英語だけは好成績です☆

元々、人が大好きで、アクティヴな性格なので、
こうした海外は本人にとても合っているのかも知れません。

親としては彼女が自分の特性を生かし、
人生をより楽しみ、強く生きてくれることを願っているので、
これからも彼女の糧となるチャレンジは惜しまずにサポートして行こうと思っています。



成田空港で長女の面倒を見てくれた女性が
「彼女はとてもいいキャラなので、ずっとそれを生かして、
1年くらい海外にいればすぐに英語はマスターして、
インターナショナルに活躍できる子ですよ~」
と言ってくれたのが、親としてもとても嬉しかったし、安心しました。

長女は世間一般の子よりは、
要領の良い子ではありません。
消費・経済・効率主義の現代社会では生きるのが辛いだろうなと今でも考えています。

しかし、溢れんばかりに慈愛に満ちて、
人や生き物、自然が大好きです♪

色々な経験を通じて
こうして己自身で力強く、様々な能力を発揮する姿を見ていると、
親としては心配ではありますが、
少し嬉しくて安心できるのです♪

今回のホームステイに当たっても沢山の方にお世話になりました!
本当にありがとうございました☆
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ハトとパンノキと長女

2016年08月08日 | 母島 暮らし 子供
■早朝畑に向かって走っていたら、
歩道に天然記念物のあかぽっぽ(アカガシラカラスバト)を発見!!

カメラを構えて撮ろうと思ったら、全速力でこっちに飛んできた!!


なんでやねん!
普通は人から離れる方に飛ぶっしょ!?

結構、ハトでも自分に向かって来ると怖いです(笑)。

さすが小笠原にしかいない固有のハトです。
普通のハトとは全然行動が違います。
近づいてもあまり逃げません。
お陰で人が持ち込んだネコの影響をもろに受けて絶滅に瀕するほど数を減らしていました。

でも近年、島のネコ対策が進んで、
山域の野ネコが減ってきたら、
集落のネコの適正飼養が進んだので、
「幻のハト」と言われるほど見れなかったハトが、
普通に暮らしていて見れるようになってきました。

そんな島の捕獲されたネコは内地の東京都獣医師会に送られ、
馴化(人に慣れさせる)し、ケアしてから飼い主を探してもらっています。

もし島のネコを飼って、島の自然をサポートしたい!という方は、
小笠原ネコプロジェクトのHPをぜひご覧ください♪


■あと先日は母島で珍しいものを発見しました♪

パンノキです。

その名の通り、パンが成る樹なんです(笑)。

父島では色んなところで見かけるのですが、
母島ではとても珍しく、沢山実っているのは初めて見ました!

環太平洋諸島では主食にもなっている重要な作物です。
味は蒸かしたじゃがいもみたいだとか?
それにしてもこのネーミングセンスが素晴らしい♡


■そして、先日長女が長い一人旅に出発しました。
行先は帰って来てからのお楽しみ♪

※ここからの写真は話の内容と関係のない母島の石次郎海岸の写真です☆

親からすると超心配の山ばかり(笑)。
でも人と関わるのが好きで、
英語が大好きな凪穂にとって、
きっとかけがえのない時間と出逢いになるでしょう。

多感な中1の目線でどんな新しい世界と出会えるのかとても楽しみです☆
妻がスカイプで動画で見送りの挨拶と
成田から飛び立つ飛行機を見せてくれました。

すごい緊張していると言っていました(笑)。
そうでしょう。
出発前の不安と高揚感。
言葉も文化も気候も違う異国の地。
彼女にとって人生をより深くしてくれる機会になると思います。

きっと多くの方にお世話になると思います。
お世話になった分、彼女がこれからの人生で沢山周りに感謝の気持ちを込めて人に接することができればいいかなと思ってます。

僕ももうすぐ船に乗り内地に行き、帰国する長女を迎えます。

どんな顔をして帰ってくるのかな~?
どうか無事に帰ってきますように☆

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海面から夕陽を望む~サンセットカヤック&アウトリガーカヌー

2016年08月02日 | 母島 日常 日記
■先日、僕の入港日の仕事でもあるの宅急便と郵便配達が早めの18時に終わりました。
家族が夏休みで上京してからは日没まで畑作業をしていて、
なかなか夕陽を見に行けなかったので、
今回はチャンス!!とばかりに急遽カヤックで夕日を見に行くことにしました。

なかなか綺麗な夕焼けの予感です♪

脇浜で支度をしてさあ海に出るぞ!というタイミングで友人にばったり出会い、
それなら友人のM君も一緒に沖にカヤックを出していこうという展開に(笑)。
この突発的な島らしい展開がとても素敵でした♪


友人のM君と最高の夕日を海面から楽しみました☆

サンセットカヤックはとても気持ちが良い反面、
すぐ日没を控えているために、怖さもあります。
はじめは急遽決めた事情もあり、
一人で行くつもりだったので、とても有難い出逢いでした♪


沖で眺めるには最高過ぎる夕日でした。
見事に筋の入る夕焼け。
他愛もない話をしながら、
「これ、ほんと贅沢だよね~」
まさにその通りです。

べた凪の海面から夕陽を望む。
夜の帳が迫る。
なんて圧倒的な太陽と世界が織り成す空気感なのでしょう。

そんな有難い夕暮れでした(*^。^*)


■その少し前は所属している母島カノークラブの8月に母島を引き上げる方のお別れサンセットカヌーにも参加しました。

これがまたすごい参加人数で、
こんなにも母島に海の乗り物があるのかと思うほどでした(笑)。

アウトリガーカヌー、SUP、シュノーケル、シーカヤック、
総勢30艇はあったんじゃないかと思うほどでした。

みんなでワイワイと沖に出ていきます☆
この人数で沖は母島に暮らして7年の僕でも初めてでした(*^。^*)


SUPもとても優雅で気持ち良さそうです♪


SUP(スタンド・アップ・パドルの略)は立って漕いでいると、海中が良く見えて楽しく、
漕ぐのが全身運動なので、すごく充実感があるそうです♪

う~ん、様になりますね~☆


普段は父島に行っている高校生も参加し、充分に楽しんでいたのがとても良かったです(*^。^*)



小笠原伝統アウトリガーカヌーは抜群の安定性を誇り、
みんなで漕ぐので、それもとても楽しい乗り物です。

9月のシルバーウイークに母島のカヌー大会があるので今から楽しみです☆


僕は自前のカヤックで沖にでました。
ほんと贅沢な時間でした♪


そして自然は様々なコントラストを織り成す美しい日没を魅せてくれました。
本当に美しくて、みんな静かに見入っていました。


家族が夏休みになり上京してからはずっと仕事の割合を増やしてきました。
8月には僕も行くのでその分働かねばと気合を入れています(笑)。

が、子どもがいるときは家族の時間や子供と遊ぶ時間が、
随分とリフレッシュさせてくれていたんだなぁと感じました。

これは意外だけど、有難い再発見でした♪
独り暮らしは自由気ままでそれはそれで楽しいのですが、
どうも根詰めてしまうし、
やっぱり淋しいです(笑)。

家族が無事に内地で過ごせますように♪




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硫黄島訪島記⑦ ~硫黄島の生き物たち

2016年07月30日 | 硫黄島
■もう長らく続いています硫黄島シリーズ(笑)。
一生に一度の事であろうと思うのと、
やはりそれ以上に圧倒的な戦争の爪痕と自然の美しさが今も忘れられません。

今回はようやく好きな分野の生物に行きたいと思います。

最後の突撃壕への道の上空を何度も飛び交う美しい白い鳥。

シロアジサシのペアでした。

最後の突撃の時期は島の春です。
その時はどんな渡り鳥が硫黄島の空を飛んでいたのでしょう。

亜種でもあるイオウトウメジロの他にはオガサワラヒヨドリも見かけました♪


すり鉢山の山頂にいた時はなんとアカオネッタイチョウが飛んでいました!

その名の通り、長くて赤い尾羽が特徴的な海鳥です。
日本では北硫黄島、南硫黄島、西ノ島、南鳥島、仲ノ神島で営巣が確認されています。
繁殖地でもある南硫黄島に向かっているように見えました。

ふと足元を見ると、立派なマメ科の植物がありました。


とても少ないですが、小笠原固有種で「村の木」にも指定されているタコノキもありました。

これは根っこの一部が地上に露出していて、タコの足のように見えるから付いた名前です♪
沖縄のアダンとは親戚関係みたいなものですね☆

■硫黄島には危険な生き物もいます。

硫黄島と言えばサソリというほど有名なマダラサソリ。

小さめで体長は5cmくらいでしょうか。
3回ほど遭遇しました。
意外とゲジゲジの様に足が速くてビックリしました(笑)。
毒はミツバチ程度とされていて、人を指すことは滅多にないそうです。

人を指すと言えば、このナンヨウチビアシナガバチ。

硫黄島で仕事をしていた友人に「すごく刺されると痛いから気を付けて!」と言われて、恐れていました。
この蜂は米軍の物資にまぎれて1980年代に入り込んだと言われています。
小笠原諸島に分布が拡大した場合、
在来種の昆虫に悪影響を与える恐れがあるめ、外来生物法によって要注意外来生物に指定されています。

もう一種人に影響を与えて、要注意なのがアカカミアリです。

これは別名火蟻(ヒアリ)とも呼ばれ、噛まれると腫れて大変らしく、
その為に僕はぎょさんではなく靴で行きました。
刺されると、アルカロイド系の毒によって非常に激しい痛みを覚え、水疱状に腫れるとか。
これも米軍の物資に紛れて移入し、硫黄島の優占種となっています。

そして大ムカデ。
体長は30cm位もありました。

森の中や壕の中で何度も遭遇しました。
壕の中で潜んでいて、噛まれた兵士さんもきっといたことと思います。

ヤスデも大きかったですが、特に人畜無害な感じがしました。



■米軍のお土産として今や硫黄島の多くの2次林を覆い尽くしているギンネム。

戦争中に島中が爆撃に遭い、無くなってしまった元の植生は戻ることはないでしょう。

ある鳥類学者さんが行ってましたが、
「戦争は究極の自然破壊である」と言っていました。

戦争は人の心のゆとりを無くし、
他の生き物に対して寛大な気持ちを無くし、
保護よりも自分たちの命が優先になるからだと。

そして、平和を維持し、目指すのであれば、
まずは己の周囲(友人や家庭)から平和を築きあげれば、
いずれみんな平和になれると信じていると語っていました。


硫黄島に来て、こんなに変わってしまった自然の中に儚く生きる命を見て、
戦争をしない世の中を作っていかなければと強く思いなおしました。


足元には小さな可憐な花。
きっと昔の島の子どもも花を摘んで遊んでいたことと思います。

■そして硫黄島を周っているとよく目についたのがリュウゼツランの花茎です。

ちょうど花期にあたり、見事な群生を見せてくれました。

リュウゼツランの花の蜜は鳥たちも大好きですが、
小笠原諸島唯一の在来哺乳類のオガサワラオオコウモリも大好物です。

自衛隊の方にオオコウモリを見るかと聞いてみると、
夕方によく見かけるとのことでした。

船から海を望めば、クロアジサシも飛んでいました。


硫黄島の到着の朝にはアカアシカツオドリの幼鳥も迎えてくれました。

船から見える海鳥の数がとても多い!ということは…
魚影がとても濃いことを指しています。
海が豊かな証拠です。

すり鉢山を背景になんて美しい所だなと心底思いました。

何度も言ってしまいますが、
こんなにも美しい島に暮らす人たちを強制疎開させ、
島の暮らしと自然を破壊した戦争という行為。

もう二度とこんな過ちを起こさぬようにしていかなければなりません。

本日は母島は東京知事選挙の投票日です。
(一般は明日の7/31が投票日です☆)

硫黄島の遺骨収集も国や都が大きく関わっています。

僕は三宅洋平さんほどガツンと支持したい候補者がいないのが現実ですが、
都政をこの人に託したいと思う人に投票したいと思います。

戦争も原発もいらない世界に一日でも早く近づけますよう、
東京のみなさんもぜひ投票に行って下さい!




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夏休み2016 子供には旅をさせよう♪

2016年07月23日 | 母島 暮らし 子供
■ついに夏休みがスタートしました!
なんと妻と子ども達は夏休み開始と同時に内地に上京…
というわけで、僕は8月中旬まで母島でひとりでお留守番です。

自由を満喫し、楽しむつもりですが、
家にひとりはやっぱり寂しいものです(笑)。
みんなが遊ぶ分、精一杯働かなくてはっ!!

ローゼルもこんなに大きく育ってくれています。
頑張るぞ~!!
勿論、毎日海で泳ぐことはしていますが(*^。^*)


家族出発後、家に帰ってみると玄関の外に長女がイラストを描いてくれました♪
毎朝、仕事に行くときに嬉しくなります♡

長女はこの夏、すごい冒険が待っています。
今までも、山村留学や旅行、遠征はしていましたが、
この夏はとびっきりの大冒険を控えています♡


次女も小学生になり、乗船名簿も覚えたての字で自分で書きました。

次女は保育園の頃から「はやく字をよめるようになりたい。かけるようになりたい」
とずっと言っていました。

小学校に入学し、字を学べるのが本当に嬉しそうでした♪


■せっかくなので、家族が母島にいた頃を振り返ろうと思います(笑)。

1学期最後の日の午後は次女と脇浜に泳ぎに行きました。
これでしばらく美しい海ともお別れです☆


小さなカニを捕まえては、遊びます。

島は本土に比べて昆虫がとても少ないです。
子どもの頃昆虫で遊びまくった身としては、少し淋しい感があります。
しかし、海は生き物豊富です♡

カツオドリは優雅に舞います♪

泳ぎが日々進化する今年の次女の目標は潜って、海底に隠れているエイを驚かせること!

シュノーケルにも慣れ、すっかり島っ子魂ばく進中です!


もう2mは潜れるようになりました☆


夏の終わりの頃、またどこまで進化しているか楽しみです♪


夕日をバックに姉妹のシルエットを撮ってみました。
う~ん、シルエットでも結構分かるもんです(笑)。
さあ、どっちがどっちでしょうか?






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硫黄島訪島記⑥ ~硫黄島の暮らし

2016年07月15日 | 硫黄島
■たった1泊2日の滞在だったのにあまりに思うことが多過ぎた硫黄島。
今回は硫黄島の暮らしに標準を定めていきたいと思います。

硫黄島は行ってみて、その大地に立ってみると、
そこが戦争さえなければ楽園であったと容易に想像ができる場所でした。

美しい花。
平坦な地形。
温暖な気候。
夜露のみで作物は育つ風土。
火山灰質の扱いやすい土。
魚影の濃さ。

たった2日間の滞在でしたが、それを感じるには十分な島でした。
戦争というもっとも愚かな行為をこんなにも悲しく感じる場所もなかなかないと思いました。

あんなに楽園であったであろう硫黄島ですが、
その頃の面影はほとんど残っていないのです!!

道路やダートの周囲のほとんどはギンネムやシマグワの雑木林でした。

ですが、僅かに残っている作物(パイナップルやレモングラス等)が、
旧島民の集落跡に残っており、
訪れた遺族や旧島民の皆さんは、それらを収穫していました。

藪の中から嬉しそうにパイナップルを持って出てきた姿を見て、
まだ戦後が終わっていないことを痛感しました。

戦前は良質な硫黄の採掘はもちろん、
他には製糖、レモングラス栽培で油を摂ったり、
パイナップル等の熱帯果実や綿花も有名だったようです。

もちろん飲み水や生活用水に苦労することはあったようですが、
それ以外は本当に住みやすい島だったようです。


■そんなかすかな戦前の爪痕をお伝えして行ければと思います。

至る所に戦前に製糖が盛んな時期に栽培されたサトウキビが残っていました。


硫黄島トウガラシも発見しました!

小さいながらも旨味も辛味もある、妻が大好きなトウガラシが自生していました。

また、パッションフルーツの原種!?、仲間でもあるクサトケイソウが実っていました。


試しに実を割ってみると、白いパッション!

味はほんのり甘くないパッションでした♪


花もまさにパッションフルーツでした!


これは硫黄島神社です。

戦前に建てられましたが、戦争で破壊されたために、戦後に建て直されたそうです。


鳥居の奥には小さな祠がありました。

とある場所には貯水槽がありました。

船の中でお話しできた旧島民の方によると、
米軍や日本軍は水道管を引いて水道を作ろうとしたけど、
熱くて飲めず、
硫黄島では雨水を貯める貯水槽が大事なんだと言っていました。

コンクリートの貯水槽の水は冷たく、フタをすればボウフラもわかず、
有効利用できたと言っていました。

雨水を有効に貯める為に屋根はシュロ葺き屋根からみんなトタンに変わっていったそうです。
壕を掘っている兵士たちも、雨の時は作業を止めて、
全員で器を持って水を集めたというから、
水の切実さが伝わりますね。
(兵隊は2万人以上いたので、圧倒的に足りなかった様です)


■硫黄島の名の通り、至る所で硫黄の匂いがして、
噴煙を上げている箇所がありました。

今もなお蒸気が立ち上り、海上からも観察できます。


絶えずずっと蒸気を出しています。
この熱気で卵やイモを蒸して食べていたそうです。

ここは「硫黄ヶ丘」という、硫黄成分と熱で全く植物が生えていない荒野でした。



■硫黄島の玄関口のすぐそばにはガソリン給油施設がありました。

硫黄島は現在も隆起が続いていて、地殻変動が激しいので、
給油施設とタンクを結ぶパイプラインがよく破損してしまうそうです。

道のりが面白いように凸凹していたのも頷けます。


硫黄島からは南硫黄島が望めました。
東京島嶼最高峰の高さを誇る南硫黄島の山がそびえていました。

きっと戦前も戦闘中も変わらず見える風景の一つなのではないでしょうか。


一直線の道ばかりが島の周囲を走っています。
戦前の景色を一度は見てみたかったです。

ほとんど戦前の名残りが残っていないのがとても切ない硫黄島。
そのわずかな戦前の暮らしを垣間見ると、
それらを失わせた戦争の愚かさを感じずにはいられませんでした。
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硫黄島訪島記⑤ ~訪島事業を支える人々と自衛隊

2016年07月07日 | 硫黄島
■硫黄島訪島事業は多くの方に支えられていました。
おがさわら丸、食事を作る人、
自衛隊、通船の作業員、
その他多くの人が関わって初めて私たちが安全に硫黄島に上陸できました。

今回はそんなかけがえのない皆さんを紹介していきたいと思います。


■まずは通船作業を行う、小笠原建設の皆さんです。

隆起の激しい硫黄島はなかなか大きな船を着ける桟橋が作れません。
なので、おがさわら丸から小さな船に乗り換えて上陸をします。


硫黄島に着いたらまずその子船群が降ろされます。

まずはおがさわら丸のロープをブイに付けるところから活躍してくれていました。


半身海に浸かりながらも、懸命に係留ロープを繋いでくれていました。


その後は浮き島から小舟に乗り換えて行きます。


海況次第ですが、桟橋と砂浜上陸の2通りがある様です。

どちらも乗客が濡れないようにとても気を遣ってくれていました。


黒い砂浜に長く伸びる足場。
硫黄島ならではの光景ではないでしょうか。


何度も何度も往復します。


そして無事に上陸することができました!

年によっては悪天候で上陸できず、
洋上慰霊祭だったり、
2日間上陸のうち1日だけ上陸のことも過去にあったそうです。

小笠原建設の皆さん、どうもありがとうございました!


■次は自衛隊がマイクロバスを持って来てくれていて、
そちらに乗り込みます。

硫黄島にはこうした受け入れ用に5台以上のマイクロバスが準備されていました。


まず待ち受けていたのは自衛隊の歓迎の阿波踊りとエイサー集団でした!

これを通船している1時間以上ずっと炎天下の中踊ってくれていたのです!!!
本当にありがとうございます!

硫黄島に到着して2日目は自衛隊の施設を見学させて頂きました。

硫黄島は立派な滑走路があるので、色んな意味で重要です。
戦時中に、最前線基地として狙われたのもうなずけます。


見学中には大きな輸送機が着陸、離陸しました。

だいたい週3回来るそうです。


同じ島なのに地平線が見える硫黄島。
人が暮らすのに平らであることほど楽なものはないのではと思ってしまいます。


その他には父島の夜間や母島の緊急搬送用のヘリが待機していました。

島の島民の命を支える、とても有難い存在です。

コクピットに載せてもらい、少しハンドルを動かさせてもらいました♡


少し近くには管制塔があり、
離陸、着陸の際の状況やコースを制御する部屋がありました。


部屋を出てすぐのレーダーで島の周囲の状況をサーチし、
操縦の誘導やパイロットに指示を出すそうです。


飛行場で何らかの火事が発生しても、頼れる消防署はありません。
自前で何機も消防車が待機していました。
放水もみんなにさせてくれていました(*^。^*)


■「厚生館」という所には、硫黄島唯一の売店がありました。

硫黄島のお土産はここでしか買えません。

しかし、今回は数日前に米軍が来ていて、
ほとんどのお土産が買われてしまい、売り切れ続出でした(笑)。

土産物以外は一般雑貨が売られていました。


船に戻ってからのおつまみを買おうとした人は
「お土産以外は買わないで下さい」
と注意をうけていました(笑)。

結構色々置いていました。


入口に書かれた看板がなかなか特徴的でした。

やはり限りある品物なので注意書きが独特です。

服装や履物、飲み物の本数制限がありました。

基本的に普段は週に一度、金曜日の夕方1時間のみ営業しているそうです。


自販機は中身ゼロ!


値段はなんと…!!

懐かしの1コインの値段でした。


帰りにはまたエイサーと阿波踊りで見送ってくれました。


海岸では釣竿を使っての見送り凧揚げが行われていました。

大きな凧が硫黄島の美しい空を飛んでいます。

この美しい空も、かつては戦闘機が埋め尽くし、
空襲の嵐だったのです。


最後に丸1日島を案内してくれた自衛隊の隊員の方にお礼をして、島を後にしました。

島を離れる際には通船で使ったボートもおがさわら丸に載せます。


こうして硫黄島訪島事業は多くの人に支えられて、
今年も無事に終えることができました。

本当にありがとうございました!




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ははじま丸の交代式 2016.07.01

2016年07月02日 | 島のイベント
■7月1日は「ははじま丸」の交代式でした。

25年間という長い期間、
述べ47万人の人を運んだははじま丸。

新しいははじま丸と交替し、
父島~母島航路を引退しました。

左が旧ははじま丸、右が新ははじま丸です。

朝は雨が降り、心配した交代式でしたが、
いざ予定の時刻になってみれば素晴らしい天候に恵まれました!

小学生が船員さん達に花束を贈呈し、

中学生がレイを贈ります。


最後はみんなで記念撮影。


雨の日も風の日も安全に運航してくれました。
冬の海の悪い時期に乗り、下の2等船室は泣き叫びながらも吐く子供達の阿鼻叫喚の状態の時もありました。

14年前、母島のユースで働くために初めて乗ったのがこの船でした。

それから一体何度お世話になったか分からないほどです。

子供を上のデッキで抱きながら
海鳥を見たり、
イルカやクジラを見たり、
色んな思い出が詰まった船でもあります。


沢山のテープを切りながら離れていくははじま丸。

長い長い汽笛を鳴らすと、
それに応えるかのように新ははじま丸が長い汽笛を鳴らします。

その汽笛の音で「最後なんだな」と分かり、グッときてしまいました。

次女(小1)は淋しくて大号泣でした(笑)。
その後、夜まではは丸の絵葉書を見ては、
なんども泣く始末。

子供にとっても何度も見送りをした、
何度も乗った
思い出深い船だったのですね♪

旧ははじま丸はまずはそのまま静岡のドックに入り、
船員さんは休暇となるそうです。

その後はソロモン諸島で第二の人生を送るそうです。
25年間、本当にどうもありがとうございました!
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当たり前の日常の有難み

2016年06月30日 | 母島 農 日記
■玉砕の島、硫黄島から帰って来て早2週間が経ちました。
秋に出荷予定のローゼルもだいぶしっかりとした樹になってきました。

最近は雨が全然降らないので、
土壌の乾燥防止と生物多様性維持の為にしっかり青草でマルチをします。

今年はラニーニャの影響か、
まだ台風が発生しておらず、比較的穏やかです。
これからの台風が心配です。
今のところ、渇水の心配はしばらくは大丈夫なようです。

仕事ではガイドブックに載っていない海岸に行ったりしました。

谷間にそびえる1本のタコノキを超えて…

雄さん海岸です。

ここの地名の由来にもなった「雄さん」は実在の人物で、
父島でそのお孫さんにお会いしたことがあります。
なんでも最初は「雄ちゃん海岸」だったけど、年を取ってさん付けに変わったとか(笑)。

人があまり来ない海岸だからか、
オオイワガニもあまり逃げません。


美しい海中には逃げないお魚もいます。


南崎のはずれにある唐茄子海岸にも行きました。
沖ではハシナガイルカが大群で泳ぎ、時折見事なジャンプを魅せてくれました。


戦争の爪痕を肌で感じた後に、
この自然の美しさに触れていると、
人の行いの愚かさに切なくなってきてしまいます。

今度の7/10の参議院選挙は改憲かどうかの選挙でもあると言えます。
僕は三宅洋平さんを応援しています。
彼の演説はとてもカッコいいと感じます。
だれもが良く考えて一番いい人と思う人に投票してもらえればと思います。



■夕方には次女と秘密のテトラポット遊び☆


天気のお休みにはもちろん海に入ってばかりですヽ(^o^)丿


美しい島の景色を見ていると、
この世は実は夢なのではないかと思ってしまうほどです。


御幸之浜展望台で、
とても美しい満月を見ることができました♪

娘はそんな景色は当たり前らしく、
リュウゼツランの花にくるネズミを見たり、足元ばかり観察していました(笑)。

僕「きっと島を出て大人になったら、この景色の良さが分かるよ~」
次女「ふ~ん。あっそう!そうですね~w!!」
…どうなることやら…(笑)。

家族とこうして平和に暮らせる有難みをヒシヒシと感じます♪
返還祭もとっても楽しんだようです☆

長女たち中学生のダンスも凄かった!!
やっぱ島のお祭りは最高ですヽ(^o^)丿

明日は「ははじま丸」が新旧交代する日です。
この写真は試験航海で母島に来ていた新ははじま丸です。

新しいははじま丸は色々スペースも増えて、乗るのが楽しみです♪

でっかいのどち○こがチャームポイントですね☆
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硫黄島訪島記④ ~戦没者慰霊祭と慰霊碑

2016年06月21日 | 硫黄島
■激戦の地、硫黄島では太平洋戦争時に日米合わせて2万人を超える戦死者を出しています。
そして1万柱を超えるご遺骨が今も硫黄島で眠ったままだそうです。

年に一度、硫黄島訪島事業で戦没者慰霊祭が
「硫黄島旧島民平和記念墓地公園」で執り行われました。


まずは村長の式辞から始まります。


そして平和の鐘を鳴らし、全員で黙祷します。

微かな硫黄の匂いがする海風を感じながら、
戦闘時の心境を想い、
無念にも散った兵士の皆さんの魂に黙祷を捧げる。

爆撃で轟音が轟く戦場だった硫黄島も、
今は鳥がさえずる静かな島になっています。
黙祷を捧げながら、色んな感情が込みあげて来ました。

そして、
小笠原村村議会議長、
硫黄島旧島民代表
硫黄島戦没者遺族代表、
が追悼の言葉を述べました。

「硫黄島に帰ってくるまで、
最後のご遺骨を見付けるまで、
私達の戦後は終わらない」
そんな感情が伝わってくる言葉でした。

その後はその場にいる全員が献花を行いました。

少しでも安らかに眠ってくれることを祈り、
今平和に生きれることを感謝し、
これからの未来に平和を築くことを約束して、1本1本、花を添えました。


そして、
小笠原中学2年生、母島中学2年生が
これからの未来を生きる身として、「誓いの言葉」
を述べました。

硫黄島で亡くなった兵士、
島に帰れない旧島民に思いを馳せて、
その気持ちを忘れずに、
これからを生きていくという、
素晴らしいスピーチだったと思います。

手には子供達の手で折られたものでしょうか、美しい千羽鶴が供えられました。

私の子供達も中2になったらこの地で、
慰霊祭に参加するはずです。
どのような体験になり、
どんなおもいで過ごすのでしょうか…


最後に「故郷の廃家」を全員で献歌しました。

この歌は硫黄島でも少年兵たち(15~16歳)が壕の中から顔を出し、
夕陽を見ながら故郷を想い歌っていたそうです。
歌っていると本当に故郷を想う淋しい気持ちになってきます。

「故郷の廃家」
幾年ふるさと 来てみれば
咲く花 鳴く鳥 そよぐ風
門辺の小川の ささやきも
なれにし昔に 変らねど
あれたる我家に
住む人絶えてなく

昔を語るか そよぐ風
昔をうつすか 澄める水
朝夕かたみに 手をとりて
遊びし友人 いまいずこ
さびしき故郷や
さびしき我家や

作詞: 犬童球渓(いんどう・きゅうけい/1884 - 1943)
 ※1907年発表の日本の唱歌。
原曲:W.S.ヘイス作曲『My Dear Old Sunny Home』(1871年)


こうして、
硫黄島の旧島民の皆さん、
硫黄島で家族の命を失った遺族の皆さん、
私も含め、硫黄島訪島事業に参加した一般の村民の皆さん、
関係者の皆さんが追悼の意を表しました。



■この場所には硫黄島に住んでいて、
強制疎開で内地に渡らず、そのまま軍属(兵隊として戦うのではなく、軍の為に働く人の事)として島に残り、
そのまま亡くなった方全員の名前が祀られていました。

硫黄島で命を落とした82名の硫黄島島民軍属の島民の命を含む、
日本軍 20,129名
米軍 6,821名
という多くの方が硫黄島で命を落としました。

太平洋戦争の上陸戦でのアメリカ軍攻略部隊の損害(戦死者+戦傷者)が
日本軍を上回った稀有な戦いだったそうです。

硫黄島上陸後わずか3日間で
対ドイツ戦における「史上最大の上陸作戦」と言われるノルマンディー上陸作戦
における戦死傷者数を上回るなど、
フィリピン・沖縄戦とともに第二次世界大戦屈指の最激戦地の一つとして知られています。


天皇陛下も来島したことがあり、
真偽は不明ですが、天皇陛下が硫黄島に参ってからは、
無念に散った兵士たちの心霊現象が格段に減ったと言います。


平和を願い、大きな記念碑もありました。

母島でもなかなかお目にかかれないほどの生き生きとしたプルメリアが
墓参に訪れた人たちの心を癒してくれていました。



■島全体が激戦の地となった硫黄島は各所に慰霊碑や地蔵が置かれています。

古山部落のあった天山には
大きな硫黄島戦没者の碑が祀られています。


周囲には壕もあり、

地蔵や慰霊碑が沢山祀られています。

参拝した私たちは
水が不足した硫黄島なので、
水に飢えて亡くなったであろうと察して、
多くの水をかけて参拝しました。


ここは鎮魂の丘です。
米軍上陸の浜の近くの南部落付近にあります。
すり鉢山を望むは水と花をイメージして作られていました。
天山の慰霊碑もそうですが、
多くの兵士が飲み水に飢えて亡くなったことから、
水が絶えず注がれている慰霊碑が建てられています。


すり鉢山山頂にも慰霊碑があります。

本当に多くの命がここで失われたのです。


一方米軍の方は、星条旗を立てた場所に記念碑が建てられていました。

有名な硫黄島山頂に星条旗を立てるあの写真が掘られていました。


アメリカにとっても硫黄島はとても特別な場所らしく、
毎年10万人近くのアメリカのご遺族や兵士が島を訪れ、

太平洋戦争で最も多くの犠牲となった戦友に向けて、
こうして自分の軍証などを置いていくそうです。


■硫黄島訪島事業の最後の夕方、
硫黄島を離れるときに島を一周し、

最後に長い、本当に長い汽笛を流しながら
みんなで一斉に洋上献花を行いました。


すり鉢山山頂では、
村役場の職員が日の丸と村旗を振ってくれていました。


この最後に硫黄島を離れるときの雰囲気は言葉にできません。
何とも言えない感情が自分の心を揺さぶりました。

こんなにも美しい島の暮らしを破壊した戦争。
今も眠るご遺骨。
本土に帰れたご遺骨。
同じ船に乗っているご遺族と旧島民。

ただただ圧倒されるばかりでした。


あまりに美しい硫黄島の夕暮れは、
こうして夜の帳の中に消えていきました。



映画や写真、映像で知っていた硫黄島。
しかし、実際にその地に立って空気を吸い、
壕の暑さを体感し、亡くなったその場所で祈っていると、
こうして硫黄島に来れて、
本当にいい体験だったと思います。

決して忘れることはないと思います。

本当に多くの人に来島してもらい、
戦争と平和について感じ、考えてもらいたいです。

小笠原に住んでいれば、
旧島民でも遺族でなくても来れる可能性はあります。
ぜひ1度は硫黄島に足を運んでみることをお勧めします。

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硫黄島訪島記③ ~戦跡パートⅡ

2016年06月19日 | 硫黄島
戦跡パートⅠの続き

■哀しいことに島全体が要塞化しているので、至る所に壕や大砲跡があります。

7.すり鉢山
標高約150m。
活発な火山活動のお蔭で標高は1年の間に数メートルも変わるそうです。
平らな硫黄島で唯一の山です。

硫黄島と言えば摺鉢山(すりばちやま)と言えるほど、
象徴的な山です。

米軍が最初に上陸してきた二ッ根浜から見上げると、
上陸の時の凄惨な情景が頭の中でよぎります。


山頂から見るとこのような大きな浜であることが分かります。
上陸作戦の上で、一度に多量の舞台の上陸を可能にする浜ですので、
日米ともにここから来ると確信できるに値する場所だった様です。


少し離れた場所からもすり鉢山はよく見え、
日本にとっても米軍にとっても、
そして戦前暮らしていた島民にとっても大切な山であったと感じます。

山頂から眺めると、
艦砲射撃で山の形が変わったという場所がよく分かりました。

この凹んだ部分が爆撃でえぐれた場所です。

爆撃の凄まじさが伺えます。

太平洋戦争中、日本軍はグアムなど他の島々で「水際作戦」という、
敵の上陸を阻止すべく、海岸で攻防を繰り返してきたそうですが、
米軍の圧倒的な火力と物量の多さに一瞬の全滅を繰り返してきたそうです。

硫黄島の兵団を率いた栗林中将は
過去のせん滅を教訓に、
硫黄島では水際作戦ではなく、
相手をできる限り上陸させてから一気に攻撃し、
その後は地下に潜んで長期的に戦闘を続ける戦法を選んだそうです。

それは自分が生きて本土に帰れない事を分かりつつも、
家族や友人のいる本土上陸を1日でも遅らせる算段だったようです。

結果、広島と長崎に原爆が落とされ、
多くの一般市民が亡くなり、
太平洋戦争は終結します。
きっと名将・栗林中将でもそこまでは読めなかったのではと多くの方が語っていました。


8.兵団司令部壕(栗林壕)
有名な栗林中将がここから兵団を指揮していたとされる壕です。

硫黄島の至る所にこのように場所の名前を記された碑が設置されています。

入口には観音様が祭られていました。

凄まじい戦闘だったと想像ができます。

階段を下りてすぐに屈まないと入れない狭い通路になります。
敵の侵入や火炎放射を防ぐために、
様々な工夫がされていました。


狭い通路を抜けて進むと、
水と共に栗林中将の写真が祭られていました。

部屋の上部には排気口があり、神棚が祀られています。

ここが栗林中将が指揮をしていた居室だそうです。

当時はここに机があり、執務にあたっていた場所そのものとのこと。

そんなに広くはなく、一部屋が4畳半より広いくらいで、
高さは2mもないほどの狭い部屋が奥まで続いていました。

さらに奥には広くて作戦会議に使っていた部屋もあるそうです。

当時の状況を想像するには十分すぎるほどの場所でした。


硫黄島の戦闘の貴重な実際の映像です。

9.医務科壕

いわゆる野戦病院となった壕です。

ここは陸軍の穴掘りの専門部隊が建造したらしく、
通路も部屋も広く、空気の流れを考えて作られていました。
沢山の道具も遺されていました。


これは鍋でしょうか?


硫黄島では何より貴重であった水はドラム缶に蓄えられていたそうです。

しかし、その水も飲むと硫黄臭く、
余計に喉が渇いたといいます。
それでも飲まずにはいられないほどの状況だったそうです。

この壕の奥でミイラが2体見つかった場所というのを案内されました。
そこはカメラが曇り、
眼鏡が曇って何も見えないほどの灼熱地獄でした。

具合悪い体で、
飲み水もなく、
苦しんで亡くなっていったのだと思います。

「英雄なき島/久山忍 著」という、
大曲覚氏(元海軍中尉)の証言によると、
壕の中は熱さと遺体の腐敗臭、糞尿の匂いが充満していて、
他の人をかばう気力もなく、死体はそのままだったと書いています。

この場所もとても悲惨な状況だったと書いています。

壕の中には大きなムカデもいました。


大きなハナダカクモもいました。

こんな中で戦闘で傷ついた人たちが収容されていたのかと思うと、
とても切なくなります。


場所によっては上部に排気口が開いていて、
そこ付近はとても涼しくなっていました。

硫黄島の壕は深い所では30m以上あり、
そこの暑さはサウナ以上だったといいます。
私が体験した場所はせいぜい50度くらいだったのでまだまだ暑い壕が沢山あるのだと想像できます。

島の壕の全長はなんと約17kmにも及ぶそうです。
それもほとんどがつるはしとスコップによる手掘りだったそうです。
重機はなく、陸軍は少しダイナマイトを使って掘っていたとのこと。

すり鉢山と島中央部の元山地区を地下で繋ぐ予定をしていたそうですが、
米軍上陸までに完成せず、それがすり鉢山が上陸後4日で没落してしまった背景だそうです。

もし地下で繋がっていたら水や兵器の補充が可能で、
栗林中将は10日は持ちこたえる計算だったと言います。

いずれにせよ、空襲と艦砲射撃の最中、ここまでの規模の壕を昼夜休まずに掘り続けた兵隊の労働の辛さは図り知れません。
しかし、自分たちの身も守る壕でもあったので必死だったと思います。
中年以降の兵士は壕作りでどんどん倒れていったと言います。
戦争というものが引き起こす悲劇に他なりません。


10.最後の突撃壕
硫黄島の兵団を率いた栗林中将が最後の突撃を行う時に
最後まで使っていた壕です。

入口付近には沢山のヘルメットが置かれていました。

内部は迷路のようになっていて、
左右には小さな部屋が作られています。

5日で攻略されると米軍が考えていた硫黄島ですが、
最終的には1か月かかったとされています。

太平洋戦争で唯一、
日本軍の死傷者よりも米軍の死傷者が多く、
今も伝説の戦場となっています。

日本ではあまり知られていませんが、
今もご遺骨が日米合わせて1万以上も埋まったままです。

遺族にとってももちろん、
私たちにとっても
戦後は終わっていないと強く思い知らされました。


11.高射砲
青空を見上げる高射砲です。

こちらは最近車で来れるように整備されたばかりだそうです。

2基、近い距離で並んでいました。
美しい硫黄島の景色と空に突然現れる高射砲の圧倒的な存在感。
こんなものを何基も設置する戦争というものの愚かさを垣間見ました。


12.捕虜収容所(米軍)
これは捕虜となった日本兵を収容していた米軍の施設だそうです。


島と思えないほど地平線が続く、空港周辺。
かつての電信柱が等間隔で残っていました。

風景も地平線が見える場所もあり、
ここは小笠原の島なのかと我が目を疑いました。



13.壁画

米軍がすり鉢山を占領し、
星条旗を上げた有名な写真を描いた壁画がありました。

ここにも沢山の弾痕がありました。

自衛隊の案内の方の話によると、
「英雄はこの者たちだけではない」とこの壁画に銃を撃った方もいたそうです。


英語や日本語で沢山の書き込みがされていました。
遺族や兵隊のものなのか、
来島者の落書きかは不明ですが、
心ない落書きでない事を祈ります。

太平洋戦争の硫黄島の戦闘当時、
アメリカではこれ以上兵士の犠牲が増えない様に、
戦争反対の世論も多く、
多くの兵器で経済的にも苦しく、
アメリカの上層部は国債を市民に買わせようと躍起だったようです。

しかし、この硫黄島のすり鉢山の写真で、
市民は興奮し、一気に戦争を進めれる雰囲気になったそうです。

戦争というのは単なる経済行為なのでしょうか?
多くの親や子供、家族が泣き、
生き残ってもその後遺症に悩まされます。

机上で作戦を立てる役人。
現場で命を懸ける命令された通りに動く兵隊。

いかなる場合でもこんな理不尽な戦争というものはあってはならないものだと強く思いました。


参考までに人時通信の取材の映像も貼っておきますね。
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硫黄島訪島記② ~戦跡パートⅠ

2016年06月17日 | 硫黄島
■小笠原に住んで14年。
初めて行った硫黄島。
沢山の事を体験することができました。
言葉では語りつくせないほどの経験でした。

その中でやはり一番印象に残っているのは生々しい戦跡の数々です。

父島や母島も戦争当時は島が要塞化され、
各地に壕や大砲跡が残ります。

空襲や病死、餓死で人が亡くなったといいます。

しかし、硫黄島は違います。
激しい地上戦となり、日米合わせて2万人以上の人が亡くなりました。
そして、今も1万の人のご遺骨が発見されず、埋まったままになっています。

そんな戦跡の数々をめぐる時、
彼らがどんな心境で戦争に駆り出されていたのか…
とても胸が苦しくなりました。

別名「パイプ山」と呼ばれるすり鉢山です。
この景色の広がる釜岩から訪島事業で上陸しました。

1.沈没船の跡

硫黄島訪島事業の玄関口、
釜岩でまず目に付くのは錆びた船体でした。

これは戦後、アメリカが港湾施設を建設しようと船を沈め、
そこにコンクリートで固めようとしたそうですが、
島の隆起が激しく、断念した後だそうです。

今も着実に隆起し続ける硫黄島を象徴するかのような景色です。


2.大阪山壕


ここは平らな硫黄島の中でも少し盛り上がった地形があるところです。
その為に壕や大砲が点在していました。

このアームストロング社製の大砲の横腹には
なんとアメリカの艦砲射撃の弾が刺さったままになっていました。

砲身から覗くと…

見事に貫通しています。
こんな弾が飛び交うのが戦争なのだと訴えている様に、
そのままでした。


近くにはコンクリート製の崩せかけた建物跡もありました。
爆撃でボロボロです。


美しい森を抜けると、


壕が点在しています。


中からは熱風が流れてきます。

硫黄島は火山活動の影響で、
常に地熱が高い所が多いのです。

そんな中、ずっと潜んでいたこと、
なによりこんな壕を沢山掘る労力を考えると言葉がでません…


平成24年度の遺骨収集で発見された遺品の数々です。


ここの壕の中はじっとり汗をかく程度の暑さでした。
その後に行く壕はあっという間に眼鏡が曇ってしまうほどでした。


壕を周る時、
慰霊碑を拝む時、
暑さに耐え、
水と空腹に飢えていった兵士の皆さんを弔い、
水とお米をお供えして周りました。


硫黄島は壁という壁すべてに弾痕があります。
悲しいことに弾痕がない岩はほとんどありません。

弾が刺さったままの箇所も多数ありました。
戦闘の激しさを物語っています。

3.釜場
兵士が食事を作っていた跡地です。

陸軍は基本的に材料を支給され、各自自炊。
海軍はまとめて作って、各自に配給する仕組みだったようです。
この玉名山部落にある釜場は海軍の204設営隊のものだったそうです。

煙は場所を敵に教えることになるので、
煙を出さない工夫がされていたそうです。

4.飛行機利用のトーチカ


これはなんと飛べなくなった飛行機を骨組みにしたトーチカです。
そのままコンクリートで固めて壕にしています。

中に入ると飛行機であることが分かりました。

近くには水平砲台もありました。
「摺鉢山14糎水平砲」と呼ばれています。摺鉢山の麓に設置されていました。

大きな弾が散乱していました。

米軍艦艇を砲撃したため、米軍の艦砲射撃と爆撃の標的にされ、
この砲を含め13門の火砲が破壊されたそうです。
砲台周辺には、およそ200名が埋葬されていることが判明し、その内152柱が収容されています。
また周辺の壕で有名な日本兵の遺した手紙が発見されたそうです。


5.米軍の戦跡
少し離れたところには米軍のシャーマン戦車が横たわっていました。

この圧倒的な存在感。

どんなに恐ろしいものだったのでしょう。
内部はぼろぼろでしたが、

戦後70年経った今も綺麗に形が残っていることから、
頑丈さが伝わってきます。


米軍の輸送機も羽と胴体が残されていました。
(船首部分は再利用の為に持って行かれたそうです)

内部も圧倒的な広さでした。
こんなものが多くの人と荷物を載せて空を飛ぶのが不思議でなりません。


これはB29のプロペラです。
人の身長より遥かに大きな代物でした。

6.その他
硫黄島のあちこちには今も弾が落ちていました。

地熱と硫黄成分で草木が育たない荒野の場所があり、
そこにただ弾が転がっている…

戦闘時、一体とんな情景だったのでしょうか…


ついこの間空港付近で掘り出されたばかりの機銃台。


上空を見上げたままの機銃台。


艦砲射撃の弾でしょうか?
とても大きな鉄の塊です。

そんな数々の戦跡を巡りました。
見れば見るほど気は重くなり、
戦争の凄まじさを肌で感じました。

亡くなった兵士の皆さんのご冥福を祈ります。


硫黄島の戦闘のドキュメント映像がありましたので、
良かったらご覧ください。

戦闘の凄まじさが伝わっていきます。

戦跡パートⅡに続きます。
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硫黄島訪島記① ~はじめての硫黄島

2016年06月15日 | 硫黄島
■6月11日~6月14日、硫黄島訪島墓参に参加してきました!!
小笠原にに住んで14年。
初めて訪れた硫黄島でした。

下の写真は米軍が初めて上陸したという二ツ根浜です。

奥にはすり鉢山がそびえます。

今回は、
本や映像で見てもなかなか伝わることができない島の佇まいや雰囲気、
きっと戦前は本当に豊かな楽園だったと思わせる名残り、
硫黄の匂い、
壕の中の灼熱の熱気、

生々しい戦争の爪痕、
等を肌で感じる事が出来ました。
行ってみて、本当に良かったと感じます。



■こんな戦後70年経っても残る戦争の爪痕…
下の写真は米軍のシャーマン戦車の写真です。


今、こうして平和に暮らせているのは、
多くの犠牲の上に成り立っていることを忘れてはならないと強く思ったと同時に、

これから二度とこのような
愚かで多くの哀しみを生み出す戦争と言うものをしない世界を築いていかなければと強く思わさせました。


すり鉢山を望む鎮魂の丘では献花を行い、
亡くなった兵士の皆さんに追悼のお祈りをします。



海岸の沈船の跡です。
これは米軍統治時代の遺物だそうです。


■父島と母島の中学二年生が学習に来ていました。
初めて訪れた硫黄島で何を感じたでしょうか?

旧島民、遺族の話を聞いて、これからの社会を担う彼らは何を感じれたでしょうか。

教科書では分からない多くのものを学べたのではないでしょうか?
本当に貴重な機会だったと思います。


慰霊祭にも参加して来ました。

■そして、無事3泊4日を経て、
多くの方々のお陰で無事に帰ってくることができました。
どうも有難うございました。


最後におがさわら丸は硫黄島を周って、献花を行いました。
最後の長い汽笛が脳裏から離れません。

無事に母島に帰って来て、
元気な家族の顔を見れて、
今こうして平和に暮らせていることの幸せを有難く感じました。

また少しずつ写真と
感じた事をアップしていきたいと思います!




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