小笠原諸島・母島ジャイアン ブログ  -GIAN'S HAPPY BLOG-小笠原諸島・母島で自然農&便利屋

小笠原諸島・母島で持続可能な暮らしを目指しています。

その中や暮らしで学んだことを紹介したいと思います♪

焔と天に想う ~母島のお正月を振り返る④

2020年01月30日 | 母島 日常 日記
前回の続きです。

■なんと母島の正月を振り返って4回目。
どんだけ詰まっていたんだ(笑)。
というわけで、最終回です(#^.^#)

正月に飾られた飾りを天に還す時がやって来ました。

今年は12日(日)に行いました、どんど焼きです。

これは青年会が15年くらい前に始め、地域の伝統行事になっているものです。
話によると、去年の秋に若くして亡くなった方が青年会の時に発案したとか。
大事にしていきたいですね。

■どんど焼きは日本各地で行われる小正月(1月15日)の火祭りです。

正月に使った門松やしめ縄、お守りや破魔矢、
だるまなどを持ち寄って焼き、その火にあたったり、
もちを焼いて食べて無病息災を願うものです。

お正月にお迎えした神様をお送りする
日本の伝統的な行事ですね。


僕はこの平和な光景が大好きなんです(#^.^#)

ドラム缶で正月飾りを焼きながら、
その炎でお餅を焼いて食べる。

私達、青年会が頑張って作った芋煮を振る舞います。
例年まで醤油ベースだったのですが、
東北出身の僕にとっての芋煮はやはり味噌なので、
今年から味噌ベースに変更しました。

みんなとても喜んでくれて、すごく嬉しかったです♪

今年は暖冬で、この日も例年ほどさほど寒くなかったのですが、
みんなで直火を眺めながら、
あったかい芋煮と餅を頬張りながら、
みんなが笑顔で過ごす様を眺めて、幸せを感じておりました(#^.^#)

青年会のみんなも本当に有難う☆
お疲れ様でした(*^_^*)

■ゆらゆらと揺れる炎を見ていると、全然飽きません。
なぜなのでしょう?

人間は太古の昔から火を扱う、唯一の動物として暮らしてきました。
きっと遠い祖先も同じように火を見て、色んな話をしていたでしょう。

石器時代に母島に住んでいた人も、
この前浜で同じように火を見ていたはずです。

どんなことを考えていたのか想像するだけで、
ワクワクしてきますヽ(^o^)丿

しかし、今はIHとかも普及し、
昔に比べて生活に火というものが目に見えて減ってきている気がします。

それは島の子ども達にとってもそうで、
当たり前にそこら中で焚火をしていた時代とは違うので、
そういう意味でもどんど焼きがあるのは意味がある気がします。

準備をしながら、
「人間は唯一、火を扱う生き物だからね~」
とか話していたら、友達が
「IHとかも人間だけじゃん(笑)」
と言っていて、大笑いしておりました♪

■12月に取付けた、がじゅまるのイリュミネーションもどんど焼きが終わって、翌日に撤去です。
1か月間、お疲れ様でした☆
21時位には消えてしまう設定ですが、夜間照明としても活躍してくれます♪

観光協会が用意し、青年会が取り付け、撤去を行います。
大人がみんなでああだこうだ言いながらワイワイ作業するのが、
またとってもいい感じなんです♡
今年は撤去に小学生もいっぱい手伝ってくれました♪

みんなみんな、ありがとうございます☆



■そして1月3日には母島の成人式が行われました。
僕は青年会の会長として、来賓で出席しました。

今年は3人の成人が祝われました(*^_^*)

毎年思うことですが、ここで成人した全員が一人一人スピーチするのですが、
本当に素晴らしい、感動を呼ぶ内容、堂々とした話し方なのです。

親への感謝、島の地域の人への感謝、
そしてこれからの夢や抱負、宣言など、
自分が20歳の頃はこんなことできなかったのではないか?と思うほど素晴らしいのです♪

自分の成人式は今でも覚えています。
仙台で超ドカ雪が降って、足元が悪い中、スーツを着て仙台市体育館に向かいました。

会場に着くと、振袖の可愛い女子やら、懐かしい顔やらで一気に盛り上がります。
ハッキリ言って、当時の僕にとってはその再会だけが大事で、
成人式の会場の中にも入らなかったし、
そのあと、みんなで飲みに行った記憶しかありません(笑)。

母島の成人したみんなの素晴らしい式を見て、
あの頃の自分が恥ずかしくなってしまいます(#^.^#)

そんな母島の成人式。
これも母島の正月の風物詩として、とても重要なものです。



■お正月と言えば消防団の出初式、柔道剣道の武道初め、鏡開きです。
消防団も柔道も青年会やっている僕はオールコンプリートですね(笑)。

柔道剣道はいつも父島に行って武道初めを行います。
父島との交流試合ですね。

母島ではその後に鏡開きと題して、
柔道剣道が一緒に集まって、それぞれ試合をして、
各昇級試験の結果発表、表彰をして、
終わった後に保護者が用意してくれたお餅とお汁粉を食べます。

これがまた美味しいし、平和なんです♪
用意してくれた皆様、ありがとうございます(#^.^#)

柔道も剣道も普段、お互いなかなか見れない試合を見れて新鮮な気持ちになります。
やる方も凄く気合が入っていて、観ていてとても面白いです☆
負けて悔しくて泣いている中学生をみると、
こっちまでウルウルきちゃいます。

また1年間、頑張って稽古に指導に励んでいきましょう!!

■家族で大好きな母島の景色を見ながら、用意したパンでランチ。

島ではお金をかけなくても、ゆっくりくつろげる空間が沢山あります。

これってすごく有難いことなんだと思います。

母島での生活は、内地の生活に比べて不便と思われますが、
20年住んでいると、すごく有難いことに不便を感じなくなっています(笑)。

逆に内地に行くと、なんて不便なのだろうと思うことも多いです(#^.^#)

くつろぐ時もそうですが、
夜お酒を飲むときも、終電を気にする必要がないですからね(笑)。

羽根つき大会と次女の挑戦 ~母島のお正月を振り返る③

2020年01月27日 | 母島 日常 日記
■なんと複数記事となった母島の正月ブログ(笑)。前回の続きです。

前回に書いた、天国のような海開きで元旦は終了。
翌日は恒例の羽根つき大会が開催されました。

年末に島のレジェンドに習って作った、島の細竹で作る羽。
空高く飛ばすと、クルクルと回って落ちてくるのが、上手にできた証拠です♪
羽子板は島のタマナの木(テリハボク)で作ったオリジナルです。

ぽかぽかとした温かい陽気の正月に相応しいですね(#^.^#)
青空のもとで羽根つきをするのは楽しいものです♡


■正月に羽子板で羽を突くというのは鎌倉時代頃にはもうお遊戯として始まっていたようです。

羽子板は諸々の邪気をはね(羽根)除けて、
健やかに育つようにとの願いが込められているそうです。

今期は羽根つき大会を知らせる、
とても粋な防災無線の効果もあり、
多くの人が会場である学校グラウンドに集まりました。


みんなで輪になって羽を突く。
数を数えながら「10回はいきたいね!」「あ~~~落ちた!!」「すごい!!続いてる!!」
など、色んな歓声が入り混じっています♪

■我が家は何年もこの羽根つきの後は小剣先山に登って、
自分たちが住んでいる集落を見ながら、夕陽と跳ねるザトウクジラを眺めます。

今年は長女が留学で島を巣立っているので、
3人で登りました。

近年は毎年一緒に登るリピーターさんもいて、
そこの子どもの成長も見れて、とても楽しみです♪

これが450人が住む母島の集落です。

僕はこの「狭さ」が好きなんです(#^.^#)
みんなが通りすがりながら挨拶をする、人を信用できている平和な雰囲気をこよなく愛しています♪

■次女はこの小剣先にあるガジュマルに登るのが大好きです。
「頂上はいかなくていいから木登りしようよ」と言うほどです(笑)。

もはや母島のおサルさんです。

実は今、次女も妻も母島にはいないのです。
今、母島には僕一人。
気楽ですが、さすがに寂しくなってきました(#^.^#)

なんと次女は親元を離れて、新しいチャレンジに挑戦しています。
この木登りの頃は新しいチャレンジに向けて、ワクワクしてる最中です♡

人見知りと場所見知りの次女が、
明日の便から母島を離れ、
少しの期間だけど、
外の世界に飛び込み、
新しいことにチャレンジしています。

素直に応援したいです(*^_^*)
そして、そんな次女を受け入れてくれている地域、家族の皆さんに感謝です♪
頑張っているだろうなぁと思います。

昨日は母島小中学校の授業公開日で学校に行ったのですが、
次女が今お邪魔している学校から、
頑張っている様子の写真が届きました。

こうして様子がわかるのが嬉しいです。
伝えてくれてありがとうございます♪

学校の友達も先生も遠く離れてチャレンジしている次女の様子を知れて、
とても嬉しそうでした。
それが、僕は嬉しい♡

■自分が4年生の頃を思うとすごいなぁと素直に思います。
ホント当時は何も考えてなかったなと思うのです(笑)。
間違いなく高校生くらいまで宮城県の外に出る発想すらありませんでした!

長女も小学5年生の春に信州に山村留学をしました。
1か月ぶりに会った時の成長ぶりが忘れられません。

今回の次女のチャレンジもそうですが、
日々生きていて、つながるご縁にお世話になっています。

快く受け入れてくれて、本当に有難いです。

その機会で成長した子供たちがこれからの社会を作っていきます。
自分もその受け入れとしても、どんどん動いていきたいですね。


小剣先から美しい夕陽を眺めながら考えました。

私達は挑戦と学びを忘れてはいけないということを。
日々、本当に子ども達から学ばされています。

この景色が当たり前で興味のない次女はとっとと降りてしまいましたが(笑)。
美しい景色を見ながら、そんなことを想っていました。

その後は島の成人式が3日にあり、帰島して来た島っ子たちを祝福し、
飼っていたヤギが長寿を全うし亡くなる事が続きました。
正月も有難いことに忙しいもんです。

まだまだ母島の正月ネタが続きます(笑)。
ここまで読んでくれてありがとうございます!

書きたいことがいっぱいで全然追いつきません。
話もいっぱい前後するので、申し訳ありませんw

その④へつづく→

『私達はもう天国にいるんだね』 ~母島のお正月を振り返る②

2020年01月25日 | 母島 日常 日記
■さてさて、前回の続きです。

タイトルにした言葉、「私達はもう天国にいるんだね」は今年の元旦に島のレジェンドから聞いた言葉です。
すごくほっこりとした幸せな気持ちにさせてもらいました♪

みんなでワイワイとしている元旦のガジュ下に、樽酒を運んでいる時に聞いた一言でした。

「もうすぐ天国に行くであろう年になっちゃったけど、
気付けば大好きな母島の日常があって、とても幸せで、
ここがまさに天国みたいだよね!」と気付いたというのです♡

そして、見える景色はポカポカとしたいい陽気に、
わいわいと前浜やガジュマルの周辺に老若男女が集まり、
みんなが笑顔でお話している光景。

それを見て、なんかいいなぁと思っている矢先に聞けた言葉でした。
その言葉で僕まで天国にいる気分になってしまい、とっても幸せな気持ちでした♡
有難う(#^.^#)



■小笠原の海開きは毎年1月1日(笑)。
しかし、今年の元旦は例年にはなかなかない、記憶に残る海開きでした♪
この冬は暖冬で、元旦はとても温かい(むしろ暑い?)日でした。

しかし、前日からの強風の予想で例年の脇浜ではなく、学校グラウンドでの開催となりました。
海が見えない海開き(笑)。

そこで小笠原太鼓や南洋踊り、ギョサン飛ばしなどを行います。
8年前くらいまではカヌー大会も元旦だったのです。

僕たち青年会メンバーによる獅子舞が集落を練り歩いた後に「日本一早い海開き」です。

例年そうですが、南洋踊りにギョサン飛ばし運営で全然写真が撮れてません☆
次女チームが見事に1位となり、商品券をゲットしておりました(*^_^*)

■観光協会主催の海開きが学校グラウンドで終わった中、今年はとても温かい陽気だったので、
多くの島民はそのまま前浜へ移動しました。

いつもの脇浜ではその後はそれぞれ分散するのですが、
今年は学校グラウンドでやったせいか、その後の前浜の一体感が凄かったです(笑)。

最初は子ども達が海で泳いでいたのですが、
大人も次第に飛び込むようになり、
終いには大勢の大人が飛び込む事態に(笑)。

大人はジャンケンでその半数が飛び込もうぜ!と意気込み、みんなで円陣を組んでジャンケン。
勝った負けたで大騒ぎ(笑)。
これ、学生世代じゃない事もポイント。
ほぼ30代~40代の大人なんです(*^_^*)

まずは言いだしっぺが最後に負けたので(笑)、みんなで担いで落とします♪

そして、並んで飛ぶ様は圧巻でした(*^_^*)

みんな超笑顔!
超楽しかった♡

大人は大人でも青年だけじゃないところが重要なポイントです(笑)。




ご覧の様に(笑)。

そんな光景をガジュ下の皆さんが微笑ましく見ている図。

まさに天国にいる心地良さでした(*^_^*)

でもさすがに元旦で泳ぐと寒い(気温は25度くらい。水温は21度くらい)ので、
お日様で暖かくなったコンクリートで体を温めます。


■そうこうしていたら、元旦の便で帰って来た学校の先生が母島に雪を届けてくれました!!

これは新潟に近い長野からわざわざ冷凍で持ってきてくれたそうで、
子供達も、ついでに大人も大騒ぎ(笑)!

みんなで母島で初めて見る雪に感動していました。


さっそく小さな雪だるまを作る子供もいて、とても可愛かったです♡
母島の陽気ではあっという間に溶けてしまいました)^o^(

こんな遠い母島まで大きくて重くて、大変な温度管理までして雪を届けてくれた先生に感謝です(*^_^*)


■なんか、最近母島のガジュ下がある前浜の存在、有難みに気付かされます。

集落の中心にあり、誰もが通るメインストリート。
そこに寄り添うように前浜は存在します。
少し離れた脇浜と違い、関係ない人でもふらっと立ち寄れる気軽さがあるのです。

海の透明度や色、広さは脇浜に負けてしまいますが、
このみんなにとって身近である前浜がとてもいいなと思いました。

今年のカヌー大会は昔の様に前浜でやるのはどうか?と話しも出ています。
ひょっとしたら、イベントとしての海開きも前浜でやる復活年があってもいいかもですね(*^_^*)

灯台のある堤防を作るまでは、前浜もサンゴがありとても綺麗だったと聞いています。
ははじま丸の就航率に大きく関わる堤防。
その下の海水を出入りできるようにすることで、沖港内の水質の改善はできないだろうか?と思っています。
いつか、そんな前浜に戻す事が出来たらいいなと夢見ています♪

母島の正月ネタ、まだ続きます(笑)その③へ→

小笠原、最後のドック期間 ~母島のお正月を振り返る①

2020年01月21日 | 母島 日常 日記
■小笠原も恒例のドック期間に入りました。
ここでいうドックとは定期船おがさわら丸が船舶検査の為に入院する期間の事を言います。
お蔭で島は3週間の間、内地とのアクセスが一切途絶えます。

内地の人からは物資が3週間も届かない事はあり得ないと思う様ですが、
僕はこの島野菜や魚を堪能しながら、とても静かでゆっくりできるドック期間中が大好きです♪

しかし、このドック期間も今年が最後とか。
来年からは先日潜水式を終えたばかりの新・さるびあ丸が代船として寄港すると聞いており、
今みたいなドック期間という形は終わりを告げるようです。

センター試験で長期内地にいなければいけない事情だったり、
色んな弊害を生んでいるドック期間中ですが、
個人的にはこの魔法のような期間が無くなるのはすこし寂しいです(*^_^*)


■そんな最後のドックに向かう最後の出港は大時化の状態でした。

1/6からははじま丸は内地にドック入りし、代船のゆり丸が来てくれていました。

もお、沖は白波が立っています。
本来は欠航するような海況ですが、これが欠航すると3週間内地に行けなくなるので、
ゆり丸は当日の父島からの便をなしにして、前日のうちに母島沖港に来て、
出港時間を早めて、朝9時に出港。

意地でも人と荷物を載せて運ぶという頑張りをしてくれました。

僕の妻子も載ったゆり丸はなんと大時化の為、
40分遅れの3時間で父島へ到着となりました。

見送った島民が心配して、みんなサンセットシアターやハスベイに集まっているのがなんだか微笑ましかったです♪

その後のおがさわら丸ももちろん大時化です。
父島のカメラマンさんがウェザーステーションから動画を撮ってくれていました。

船首が海に突っ込むほどの大時化です。
このおがさわら丸は3時間遅れで竹芝に着いたそうです。

漁師だけがレストランで宴会しているという、壮絶な船旅だったようです。
そんな中でも飲み食いして楽しめる島の漁師、恐るべし(笑)。


■さてさて、島のある意味正月とも言える、ゆったりとしたドック期間中。
慌ただしかった島のお正月を複数回で振り返りたいと思います。

まずは年が明けたので、子どもと月ヶ岡神社に初詣に行きました。
今年は去年の台風21号の被害で月ヶ岡神社の社が壊れてしまったので、
応急処置を施した状態でした。

あれだけの台風でも、社が壊れていても、
神社のご神体だけは奇跡的に残っていたのがさすがでした。

初詣を済まして、超素朴な除夜の鐘を鳴らします。


そのあとは少し一眠りして、僕は朝から畑に行ってからの年賀状の配達。
そして、獅子舞です。

■母島の獅子舞は青年会が手作りで作って、もう30年以上も続いている伝統的なものです。
この獅子舞は30年以上前の青年会の手作りなんです。
素材は発泡スチロールと木でできています。

大きな顔ですが、どこか愛嬌があり、決行好きなんです(笑)。

母島ならでは手作り獅子舞をこうして継承できて嬉しいです♪

もちろん次女さんも獅子舞に噛んでもらいました(*^_^*)

今年の獅子舞は民家の中にまで入り込み、なんと2階にまで上がる暴挙を厭わない、
攻めの獅子舞です(笑)。

そんな獅子舞を笑顔で受け入れてくれる島の皆さんに感謝です♡


今年はなんと船客待合所の皆さんを攻めまくり、
それには足らず、ははじま丸にも乗り込み、船員さんたちの頭を噛んで、縁起を振りまいてきました(笑)。

わざわざタラップを降ろして迎え入れてくれたははじま丸の皆さん、ありがとうございます♪


今年の青年会の獅子舞はパトカーですら攻めました(笑)。
お巡りさんも笑顔で対応してくれました。

いい年になりそうです♡

今回の青年会・獅子舞の最後の方のセリフは
「子どものニオイがする…」と言って走る、
「悪い子はいねぇがぁ~」と言って徘徊する、
すっかりナマハゲ状態でした(笑)。


今年の獅子舞は昨シーズンに離島した元青年会メンバーも参加してくれ、
みんなでワイワイ、とても楽しく集落を周る事が出来ました♪

みんなで島の子ども達などに縁起を振りまきながら、
こちらもおひねりを頂いたり(青年会の運営資金にさせて頂いています)、お神酒を頂いたり、
とてもいい気分になりながら集落を練り歩きました。

そのメンバーが「今年の獅子舞、すごく楽しかった!」と言ってくれて、
密かに青年会の改革を進めているつもりの僕にとってはとても嬉しい一言でした♡

返還当初に島の運営上の必要性から作られた母島青年会。

当時は何をするであっても青年会に話す、青年会がやる、
すごく島の政治的にも大事なボランティア団体だったそうです。

時代は流れ、今は主に島のイベントの運営、お手伝いを主に活動しています。
20歳から40歳までの島民の交流の場としても機能しています。

島に赴任した青年にとって、島の地域に関わる、大きな繋ぎになるのも青年会の役割です。

奇しくも、こんな僕が今年から会長をさせてもらっています。
時代の流れと共に変化している母島の青年会。
活動していく中で色んな課題が見えてきました。

参加するみんなにとって気持ち良く楽しい青年会になる様に努力していくつもりです!
どうぞ今後ともよろしくお願いします(*^_^*)

その②へ続く→

大きな転機 ~2019年を振り返って

2020年01月11日 | 母島 日常 日記
■改めまして、新年明けましておめとうございます。
こうして無事に新年を迎えることができたのも、
いつも支えてくれる家族、友人、島の皆さん、関わる皆さんのおかげです。
本当にありがとうございます。

※次女が大好きなテトラポットにて。

さて、本当に色々と会った2019年でした。
僕にとって、我が家にとって色々と転機となる1年でした。

ここで振り返らないと、どんどん忘れていく危険をはらんでいるので(笑)、
記録の意味を込めて、書いていこうと思います(僕のブログの大きな意味はソコですw)。

箇条書きにしてみると、
・長女の巣立ち~カナダ留学
・春のハワイ訪問
・東京宝島で他島の人と繋がる
・母島青年会の会長になる
・若い友人が亡くなった
・猛烈な台風の被害
等が挙げられます。
今思い出しただけでもこれだけあるので、まだまだあるのでしょうね(笑)。


※いつも1/2の羽根つきの後は家族で小剣先に登っています。小剣先から見える母島の集落はとても小さく、
大きな海原ではクジラが跳ねています。そんな景色を見ながら、1年を色々振り返ります。


■まずは長女の巣立ちでしょうか。
長女は今、高校1年生。
カナダのバンクーバー島最北端の人口2000人の小さな村、ポートハーディーの公立高校に留学しています。

中学に入ってから、彼女の性格もありますが、
帰国子女の英語の先生などにも恵まれ、どんどん英語を達者にしていきました。

親としても慈愛と愛嬌が取り柄の娘は、
この日本の社会の中でどう生きて行くのか心配であったので、
英語を身に付け、個人の個性を大事にする海外に意識が行くのはとても歓迎すべきことでした♪

うちは貧乏でお金もないのに(笑)、
小5に信州・高遠に山村留学、
中1にニュージーランドへホームステイ、
中2はインドネシア・バリ島のグリーンスクール主催のキャンプ参加
中3はカナダ訪問、
高1にハワイ訪問
と絶海の孤島に暮らしているからこそ、外から自分たちの島を見つめ直す目線も含めて、
沢山の動きをしてきました。(もう金銭的に厳しいので、しばらくなしですw)

お蔭さまで2019年の春からは父島の小笠原高校、秋からはカナダの高校に留学する事が出来ました。
これには現地でホームステイを受け入れてくれる義父の存在はとても大きいです。
精神的にも、金銭的にも本当に有難いことです。
どうもありがとうございます。

日本人が一人しかいない異文化、他国の地で目一杯十代の感性で吸収してほしいものです。

とても賑やかな長女が巣立って、みんなに「寂しいでしょ~」といつも言われるのですが、
家族全員、なぜかそう思っていません(笑)。

それはこの時代でSNSで様子もすぐに伝わるし、
信頼できる義父の元にいるし、
何より、本人がカナダ生活をエンジョイしているからかもしれませんね。

※ガジュマルを登る次女。1/2の見慣れた光景です☆

■そして春に行ったハワイ訪問
これも想像以上に大きな転機となりました。

東京の島の中高生をハワイに連れて行き、様々な事を体験し、学ぶコミュニケーションプログラム「SHIP」に家族で参加しました。
今回は八丈と小笠原の高校生が参加し、とても有意義な訪問となりました。

我が家にとっては元々次女の名付け親がハワイ人のシャーマンなので、
いつかはハワイに行こうと思っていた事、
フラにカヌーに歴史に小笠原ととても縁のあるハワイなので、
これは行かなければいけないと思っていたので、
とても意味のある訪問でした。

現地のネイティヴの高校生や、ファミリー、フラの先生、開墾、ハワイの伝統料理など、
様々な事を経験しました。

そして、ハワイ島に住むニック加藤さんに出会えたことは大きいです。
ホクレア号に関わり、写真を撮ってきた彼から頂いた1枚の地図。
OCEANと名打たれたその地図は太平洋の島々だけを書いた英語の地図です。

そこに日本で小笠原だけが載っていました

TVの天気予報でいつも欄外になる小笠原。
東京でも一番最果ての小笠原。

いつも端っこと思っていたのが、急に「太平洋の島々の仲間である」と意識できた瞬間でした。

ポリネシアでもミクロネシアでもなく、ヤポネシア(JAPONESIA)。

思えばグアムと東京の丁度間にある小笠原です。
アメリカ統治時代は島民はグアムの高校に行っていたし、
石器時代にはマリアナ諸島と類似した石器が見つかっており、
現代は今まで繋がっていたのが、南側のルート・目線だけ途切れたままであることに気付いたのです。

その目線に気付いたことがハワイにいって一番興味深いことでした♪




■そして東京宝島事業
これの母島の地域コーディネーターを推薦して引き受けたのですが、
とても大きなつながりになりました。

本来は東京の島がその島の魅力を再認識して、
独自のブランド化をして、活動して行こうという内容なのですが、
根源は東京都が東京の島の未来に抱いている危機感から始まったものとのことでした。

母島でもその都度、色んな立場の方に参加してもらい、
「みんなで島の現在と未来について話し合う場を作ろう!」という
ひとつのアクションプランを決定するのですが、
もう一つ得られた良さとして、母島とそれ以外の伊豆諸島の人々と対話し、
繋がれたことがとても意味のあるものになりました。

今まで、議会や観光部会、教育関係など各専門分野での対話はあったのですが、
それに囚われない、人同士のここまでの規模の交流はなかなか無かったと思うのです。

みんながそれぞれ自分の島の未来について、
他の島の方と語り合える貴重な機会となりました。

これはこの事業が終わってしまっても確実に残る、素晴らしい繋がりと思うのです。


※年末の餅つき風景。島のお母さん達のこの手がとても温かくて大事なものを伝えてくれます。

■そして、令和元年の母島青年会会長になったこと。
母島青年会は返還5年の母島入植時から活性され、
様々な活動をしてきた地域の任意団体です。

当時は何をするにしても青年会が中心となって、島の地域を動かしていたと聞きます。
現在は政治的カラーは影を潜め、主に島のイベントを運営、フォロー、主催をしています。

年末年始は海開きのギョサン飛ばし大会運営や、獅子舞に大活躍し、
明日はどんど焼きを主催します。

近年、母島青年会も色んな課題が見えて来て、
様々な改革を試みています。
まだまだ模索したり、悩んだりしていますが、
多くのメンバーに支えられながら、
みんなが気持ち良く、楽しくできる青年会を心掛けています♪

本当に僕自身が一人では全然できない事を、
みんなが島の為に、お互いの為に良く動いてくれていて、
本当に感謝の連続です♡

※これは元旦の光景です(笑)。海開き後の前浜にて。大人が子供に帰る瞬間です(*^_^*)

■あとは過去に記事にも書きましたが、2019年は若い40代の友人・知人が何人か亡くなり、
とても考えさせられました。

自分が何故、今生きているか。
そこにどんな意味があるのかを考えさせられました。

僕はもうすでに両親を亡くしています。
僕の両親は自分親よりも先に亡くなっているのです。

やはり親は自分より先に子供を亡くすのは、あまりに順番が違うので、
計り知れない悲しさがあると思います。
自分の愛する娘たちが、僕より先に亡くなってしまったらほんと悲しいです。

自分の父が亡くなった39歳に、今年僕はなります。

※今年の母島の成人式。3人の若者が輝かしい姿を魅せてくれました。

当時は分かりませんでしたが、
今思うとなんて若い死だったのだろうと思います。

今生きていれば、
お酒でも飲みながら、孫を見せれて、色んな話が出来たと思います。

今、長女は16歳。
僕が父を亡くしたのは13歳でした。

何も比べれるものではありませんが、
僕と父よりは自分の娘の成長を見れたことになるので、有難いことです。

先日、次女の太鼓の稽古を眺めながら、そんなことを考えていました。



■母島に甚大な被害を及ぼした台風21号ブアローイ。
今でもあの時のことは語り草になってます。

あの恐ろしい吹き返しの後、農業者が南進線や農道をチェインソーでどんどん車を通れるように復旧していきました。

台風が通過したその日の午後にはもう開通していた南進線。
意外にもそこにもの凄く感謝していた人たちがいました。

診療所の皆さんです。
緊急搬送するときの新へリポートは南進線のかなり南、
中ノ平農業団地の奥にあります。

あっと言う間に農業者が総出で道を通れるようにしてくれたことで、
緊急搬送時の救急車がヘリポートに通れるようになったのです。
みんなが集落の被害や停電、電話の不通でどうしようもない中、この活動もとても感謝されたものでした。

夜通し作業して、電気を復旧させてくれた電気屋さんもいました。
飛んだ屋根の場所にすぐにブルーシートをかけてくれた作業員の方、
飛び散った残骸をみんなで片付ける様、
行政に頼りっきりにならず、
人それぞれが出来る事をしていって、
台風通過後数日で暮らしを復旧させた母島の地域力だとおもいました。
あれだけの被害で人的被害がゼロだったことが、本当に幸いだったと思います。

先日の飲み会でもそんな話になってました(笑)。
本当に有難うございます!

※大好きなガジュ下の憩いの景色。色んな時間を通して、色んな分野の島民や観光客も交わる、母島自慢の場所です♪

■2019年の色んな場面に想いを馳せてみると、
本当に有難いことだらけでした。

ヨガの不久先生に気付かされたことですが、
「ありがたい」の反対は何か?と問われたことがあります。
僕は答えれませんでした。
すると先生は「それは、【当たり前】なんです。」と言われました。

有る事が難いから、有難い。

なるほど!
2019年を一言で表すなら、まさに感謝の1年でした。
本当に多くのご縁に恵まれて、我が家にとっても転機となることも多く、
沢山の大きな気付きを頂けた1年でした。

2020年の今年は、どうなるのか?
毎年、1年が過ぎる速度が増しています。

気が付くとあっという間に1年が過ぎ去ってしまうので(笑)、
毎日を丁寧に過ごすのを気を付けて、今年も楽しく過ごせればと思います。

どうぞ今年もよろしくお願いします。

いのちを終える~ヤギ・なつの弔い

2020年01月03日 | ヤギ
■新年明けましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いします。

年末年始にかけて、怒涛のように忙しく活動しながらも、楽しく過ごしておりました。

しかし、2週間前ほどから、
飼っている老衰で足腰の弱ったお婆ちゃんヤギの「なつ」の容体が悪くなり、
いつ最後の時を迎えるのか分からない状況になっていました。

そして昨日、1月2日の夜になつは静かに息を引き取りました。

ヤギの寿命は一般的に15年~18年と言われます。
なつは16歳まで生きてくれました。

最初はすぐ記事にすることを迷いましたが、
今の気持ちを記録する意味で記事にしました。

生きものを飼うことの深みは、
飼ったことがある人みんなが知っていることですが、
飼ったことのない人は
なかなか知る事の出来ない世界だと思います。

小笠原は生き物を飼いにくい貴重な自然の島だからなおさらと思います。
島に関わってくれる獣医さんたちも減っていく島のペットの現状を憂いている方がいました。
ペットが人に与えてくれるギフトはあまりに大きいと思います。
今、ペットと人と野生動物が共存する地域づくりを今検討しています。
ぜひ、島の子ども達にとってもベストなルール決めが出来ればと思います。

今回はこなつみたく突然ではなく、
この2週間ゆっくりと老衰で弱っていきました、
こちらの気持ちの準備もできて、
最後にきちんとお別れできて本当に良かったです。


■去年の12月中旬から前足が膝立ちになり、
クリスマスを過ぎた頃には立てなくなりました。
心配にはなりましたが、食欲は健在だったのです。
それでも元旦までは首はしっかりと動き、モリモリ餌を食べていました。

しかし、1月2日の朝には首すら起こせなくなり、
大好きな桑の葉を少し食べるくらいの容体になり、
妻や次女の声掛けに反応しながらも、
どこか遠くの世界に行ってしまっている雰囲気になっていました。

それでも、少しその場を離れると、小さな声で鳴くのです。

最後は日没後に訪れました。
そのままの姿勢で、静かに亡くなっていきました。

顔の周辺や体のあちこちに、長年生きてきた爪痕、
もうこの体は限界であることを示すサインは幾つもありました。

でも、寿命を迎えるということは、
とても厳かな状態になるのだなと感じました。

泣く次女にとっても、
カナダで泣いている長女にとっても、
妻にとっても、
僕にとってもとても大切な時間でした。

僕にとっては人生で一番一緒に過ごした動物だから、
島にいる限り、インフルでもぎっくり腰でも
毎日欠かさず世話した動物です。
なので、ほんと寂しいです。



■なつは我が家にとても縁のあるヤギでした。
最初の出逢いは2007年の春。

1年間のWWOOFによる日本の旅を終えて、
貨物船「共勝丸」で東京から父島へ向かう、その船の中で一緒のヤギが「なつ」でした。

当時、私達は父島に住んでおり、
なつは母島の今の畑の大家さんが内地から取り寄せていたのです。

小さな木のかごの中でメェメェ鳴いていて、
船員さんと一緒にキャベツをあげたのを今でも覚えています。

※2007年父島へ向かう共勝丸船上にて。若いですね~(笑)。抱っこしているのは当時3歳の長女です。

その後、2008年の暮れに母島に移住するのですが、
その時に畑を借りて、お世話することになったヤギがなつでした。

大家さんにあの共勝丸で一緒だったヤギだと聞いて、とてもビックリしたのを覚えています。

なつに生まれたから「なつ」と名付けたと聞いています。

こなつを生んだ2009年から1年半ほどは美味しいヤギ乳が搾れました。
長女も良く絞ってくれました。

全国で色んなヤギ乳を飲みました。
手前味噌ですが、なつのお乳は日本一美味しいと今でも思っています。


■当時は他に「さくら」という角のあるヤギがいました。

2009年にはなつは2頭の子どもを産んでいます。
我が家は次女の出産のために信州・安曇野に半年間お邪魔している時のことです。

生まれた1頭のオスヤギは生後1か月で死んでしまいました。
もう1頭のメスヤギが「こなつ」です。
身体が弱く4歳で亡くなってしまいました。

娘たちにとっては一番遊んだヤギこなつだったと思います。

今はもう1頭、「ゆり」というメスヤギがいます。
2006年生まれの14歳です。
母島には2010年にやって来ました。

なつにとってはいつも一緒のヤギ仲間です。
きっとゆりのおかげで寂しくない最期を迎える事が出来たと思います。

そして、動物と共に生きて、
最後の死というものを自分の娘たちにも学ばせてくれました。

なかなかペットの飼いにくい小笠原の生活において、
とても有難いことだと思うのです。

ほんとうにありがとう。



■今日は家族みんなでなつのお墓を作りました。
こなつのお墓のすぐ隣です。

朝からみんなで穴を掘り、
沢山の敷き藁と大好きな桑の葉、ママキ(ウラジロエノキ)の葉、
次女は素敵な花飾りを添えてくれました。


みんなで花葬をしている傍らで、もう1匹のヤギのゆりも見つめます。
なつが亡くなった日の夜はとても寂しい顔をしていて、
食欲も落ちて心配だったのですが、
次女の元気さに食欲を取り戻し、
すっかりお腹いっぱい食べていました♪


長くなつの首にかかっていた首輪。
お墓になつを降ろして、それからはずし、
お墓の近くの木にかけてみました。


花葬をしたあとは、みんなでお祈りをして、
沢山の敷き藁で包み、土をかぶせていきました。


お昼の温かい日差しの中、
魂の抜けたなつの体は、静かに畑の近くに眠っています。



■僕にとっても11年間の母島生活で共に過ごしたヤギです。
人生で一番長く付き合った動物になりました。

夫婦で仲が悪くなり、家を飛び出したときも、
いつも寄り添ってくれるヤギの存在はとても大事でした(笑)。

なつの名札だけが残るヤギ部屋。

寂しい気持ちはありますが、
2週間かけて、ゆっくりと命の最後を看取らせてもらえて、
なんだか本当に「お疲れ様」といった気持ちが強いです。

まさに天寿を全うする、
天から授かった寿命を生き尽くして死ぬ。
十分に長生きして死ぬ事が出来たと思います。

きっと今頃なつの魂は天国に行ってるのかな。
次生まれ変わるときは、どんないのちで生まれてくるのかな。


なつをお墓に埋めた日の夕陽はいつも以上に深く美しい夕陽でした。